バトル漫画の本質について 暴力とその正当性

まとめ

10年代以降の作品群について

 ここまでで、80年代作品群の特徴、90年代模索期の特徴と成果、00年代に受け継がれた遺産を見てきた。10年代以降の作品群においても、基本的に同傾向の物語フォーマットが見られる。特に特筆すべきものとして、『約束のネバーランド』では統治秩序との闘争と知恵比べがあり、『僕のヒーローアカデミア』では正義のあり方それ自体をど真ん中に扱う物語であり、個性(これは当然に内面の掘り下げ、戦う動機を要請する)がなによりも大切とされる世界観である。また、『チェンソーマン』、『呪術廻戦』は、(1)頭脳戦、(2)統治機構及び所属組織の正義の正当性問題、(3)内面の掘り下げによる戦う動機の個人化・複雑化という要素がよく引き継がれている。他誌の大ヒット作品である『鋼の錬金術師』、『進撃の巨人』においても、(1)~(3)の諸要素が物語の必須要素として取り入れられていること、すなわち、作品の大ヒットを決定づける重要要素であると思われることについても言及しておこう。

 一方で、10年代以降になって、これらの要素を必ずしも含まれない作品が出たことについても言及しておかなければならない。すなわち、『ブラッククローバー』と『鬼滅の刃』である。両作品とも物語の構造が80年代への先祖返りのように単純である。この事態は、以前ブログで書いたように、物語構造の複雑化が進んだことに対する反動のように思われる。内容の高度化・複雑化は読者の間口を狭めてしまう。これらの作品は、ジャンプの読者が高齢化するのに伴い、高度化・複雑化して若年層や非マンガ読みを排除していったここ数十年の傾向に対する反省の結果であり、そこに意義があると思われる。

バトルものと競技ものについて

 ジャンプ作品におけるバトルマンガの立ち位置について、多少の相対化もしておこうと思う。思うに、ジャンプ漫画は大別して①バトルもの、②競技もの(※ここでの競技ものとは、「一定のルールに則って基本的に二者間で優劣を競うもの」程度の意味としておく。)、③ラブコメ、④ギャグ、⑤その他に分類できると思う。①バトルもの及び②競技もので連載作品の過半数を占めるだろう。この両者の比較を通じてバトルものの性質を明らかにしておきたい。前提として、ここで念頭に置いているジャンプの競技もの作品群は、『キャプテン翼』、『SLAM DUNK』、『ヒカルの碁』、『テニスの王子様』、『アイシールド21』、『黒子のバスケ』、『ハイキュー』である。

 両者は戦う点において共通点があり、特にトーナメント形式のバトル形態では①バトルものかつ②競技ものということがありえる。両者で異なるのは、競技という前提となるルールが存在するか否かである。ルールはルールだから守るべきであり、その根本的な正当性に立ち返ることはないし、その前提を破壊することも起こりえない。一方で、バトルものの場合、戦い方にルールはない。複数名で一人を叩いてもいいし、奇襲やだまし討ちも許される。また、命のやり取りがある。そして、「勝敗の基準が明確であるか」も異なる。競技ものにはルールの定義上「勝利条件」が明確に定められているが、バトルものにはそれがない。そのために、「勝利とは何か」が多様でありうることはすでに述べた。

 いわば、競技ものはルールの自明性に支えられる形で、90年代の戦う自明性の危機を予め回避していたのだ。模索期の財産の観点からみると、(1)頭脳戦と(3)内面の掘り下げの問題は作品内で十分に消化され展開されているけれども、(2)統治機構及び所属組織の正義の正当性問題はほぼ全くと言っていいほど問題とならない。あるいは、右肩上がりの成長物語が保持されている。成長物語が保持される理由は明確である。「強さ/弱さ」の基準がルール上明らかであり、競技であるかぎりにおいて、上達は絶対善であるからだ*1。そのため、強さの定義や強くなる必要性は問題にならない。

 では、(2)正義の正当性問題が欠落しているのはなぜか。バトルものと競技ものとの違いに着目すると、「命のやり取りがあるか」がまず目につく。命を懸ける場合、それをするだけの説得力のある理由が要請される。これまで見てきたように、その理由は「個人的なもの」か「正義の問題」かに大きく分けられる。このようにして、「正義の問題」に行き着く理路がまずある。次に、個別性と全体性の問題がある。競技ものはルールによって特定場面を設定し・切り出した状況下でのみ発生する事象(試合)である。だから、試合の結果は世界秩序に影響を与えない。極端な言い方をすれば、コップの中の嵐である。一方で、バトルものはその制約がない。影響範囲の切り出しがないから、戦いの原因も結果も、その世界秩序全体に係りうる。暴力には正当性問題がつきまとう、といってもよい。

 以上の理路から、競技ものは統治機構及び所属組織の正義の正当性問題にかかわらず、バトルものは左記に突き当たる。ここまでで筆者が言いたかったことは、バトルものの他のジャンルとの比較の上での本質は、正当性問題であること、そして、命や正義が問題となるため、根本問題に立ち返る契機があること、である。

最後の最後に

 本文章は、無意識のうちに昔読んだ宇野常寛の『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』におけるジャンプ漫画の内容の変遷を念頭に置いていた。そのため、宇野の枠組みや議論を前提としていたことを明言しておかなければならない。詳細にそれを検討することはしないが、大まかに言って、①90年代の発行部数低迷期に転換点があった点、②それまでの既存物語フォーマットが通用しなくなった点が低迷の原因であることは宇野の論をそのまま前提とした。

 一方で、宇野の論ではこの問題が③成熟の問題として回収されていく点に強い違和を感じていた。上述の通り、ジャンプにおいてバトルものと競技ものは保守本流であり、ジャンプの読者は戦うこと、勝つこと、そのために強くなることが好きなのであり、それは今後も中核的価値として変わることはないと思っていたからだ。「成長」という語は技能的発達と人格的成熟の二つの意味を含む。後者のモデルが失効したとして、前者を軸にした成長のテーマ*2)は依然としてなくならない。

 本文では、自分なりに物語フォーマットの変遷過程を整理してみた。キーワードは自明性の崩壊であり、強さの基準と戦う理由の自明性が崩壊したことを論じ、それがどのように再編されたかを見てきた。

*1:これに関係して、近年のヒット作『ブルーロック』は、特に「体制順応的」な作品である。

*2:技能の発達とともに成熟には至らずとも人格的にもキャラクターは成長していく。

『ONE PIECE』、『NARUTO』、『BLEACH』、『銀魂』、『DEATH NOTE』の考察 ――90年代後半の遺産の相続人たち

遺産の相続人たち

 90年代後半の低迷期から、00年代に入ることになると、ジャンプはヒット作を連発して息を吹き返す。具体的には、『ONE PIECE』、『NARUTO』、『BLEACH』、『銀魂』、『DEATH NOTE』といった作品群だ。これらは『DEATH NOTE』を除いて長大化し、物語の骨格において80年代の作品群とは似ても似つかぬ複雑性を持つに至った。いわばこれらの作品群は模索期の財産相続人たちである。本節では、どのように遺産は引き継がれたのか、①駆け引き・相性の導入、②内面の掘り下げ、③正義の正当性の観点から確認する。

駆け引き・相性の導入について

 まず①駆け引き・相性の導入について、80年代作品群では存在しなかった頭脳派キャラクターが複数登場していることに目がつく。代表的なものだけを挙げる。純粋な戦闘力が劣るので「頭を使わないと勝てない」キャラクターとして、『ONE PIECE』のウソップとナミ*1。「頭も使える」キャラクターとして、『NARUTO』のシカマルと『BLEACH』の浦原喜助。『DEATH NOTE』は全キャラクターが「頭脳戦」しか行わないのは言わずもがなだ。また、『ONE PIECE』での悪魔の実の能力者にははっきりとして強みと弱みがある。能力者全体の特徴として、海と海楼石という弱点がある。そして、ゴム人間は雷と打撃に強く、斬撃に弱く、バラバラ人間は斬撃に強く、スナの実の能力者は水に弱い。『NARUTO』においても「五大性質変化」という概念で、はっきりと相性関係を定義している。これらに対して、『BLEACH』は相性概念の描写は希薄だが、少なくとも「斬拳走鬼」という概念によって、霊圧という単一数直線上に全キャラクターが置かれて強さが判定される事態を回避している。

内面の掘り下げについて

 次に、②内面の掘り下げについて、『ONE PIECE』は極めて特徴的な性格を有する。ともすると敵キャラの内面描写にばかり比重があった『幽遊白書』とは対照的に、『ONE PIECE』は敵よりも仲間の掘り下げを重視する。特に仲間集めの段階にある物語の前半部では、各章のボスとその章で仲間になるキャラクターは一対であり、章ボスを倒しボスとの因縁を解消する過程の中でその仲間の背景・内面が明らかになり、最終的に仲間となる。ここにおける物語の二大要素は、問題状況を発生させた章ボス一味との闘争と、その章での仲間の背景・内面の掘り下げである。仲間となる各キャラクターはそれぞれ異なった背景を持ち、それに対応する形でのそれぞれ異なった仲間に加わる動機を有する。つまり、ここにも動機の個人化・複数化が見られる。キャラクターの魅力が作品の価値の大きな部分を占める『BLEACH』においても、戦う理由や人間性の掘り下げが重点的になされる。すなわち、一護という名前の由来であり、一護と恋次の「魂にだ!」という共鳴であり、茶渡のアブウェロとの約束があり、白哉の背負う重責がある。また、マユリ、剣八砕蜂、ギン、狛村と、戦う理由は個人化している。そして戦う理由が個人に求められるから、雨竜やギンのように相手側に行くかのような表現がありえる。『銀魂』でも銀時の戦う理由は「俺の武士道(ルール)」を守るためと個人化され、万事屋一派、桂一派、高杉一派、真選組と、戦う理由につき異なる正義・目的が同時に存在する。上記に比べると『NARUTO』は当てはまる要素が薄いように思われるが、「逆だったかもしれねェ…」のセリフに象徴されるナルトとサスケの内面の掘り下げ、互いの立場の相対化は言及に値する。

正義の正当性について

 そして、③正義の正当性について、『ONE PIECE』は主人公たちがアウトローであることから必然的に正義は相対化され、統治権力たる海軍、ドラム王国、ひいては世界政府のそのものの不正義が抉り出される。『銀魂』において複数の正義が同時に存在していることはすでに述べた。また、『DEATH NOTE』が正義の問題を一つの主題としていることは特段の説明を要しない。特筆すべきは、主人公が悪側であることだけでなく、正義の側と悪の側が相互浸潤している点にある。すなわち、月の行為は手続と正当性を欠いたある意味での正義の行いであり、Lはキラ逮捕という大目標のために非道ともいえる超法規的手段を取る。そのような意味で、善悪は揺蕩い・相対化している。『NARUTO』、『BLEACH』両作品についても、陰謀が次第に明らかになり戦いの前提が掘り崩され、統治権力の正当性が揺らぐ物語構造が共通する。敵は明確な目的意識・ビジョンを持った現行の体制への挑戦者である。

藍染「勝者とは常に世界がどういう物かではなく、どうあるべきかを語らなければならない」

あるいは、マダラの「月の眼計画」は、恒久平和実現のためのものであった。

 主人公は「現行体制への挑戦者」か「現行体制の守護者」かで、上記作品群を色分けすることも可能である。重要なのは、現行体制の是非が焦点化されている点である。体制の是非が焦点化され、戦う動機の個人化が前提となった状況下において、正当性問題への取り組みの深度は作品の深みに直結する。これは80年代作品群にはなかった視点である。

 

つづき

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*1:彼らは以前の作品では非戦闘員として扱われたのではないだろうか。

ジャンプ90年代後半の模索が遺したもの 友情・努力・勝利の再編

ここまでのまとめ

 これまで、80年代作品群と比して、物語構造の骨格に大きな変化があったことを記述してきた。ここでその変容をまとめてみようと思う。そのためには、ジャンプのスローガンである「友情・努力・勝利」の観点で整理するのがよい。

「努力」の再編

 まず、本文では②戦闘力のインフレ化という問題を見てきた。これは「努力」と対応する。今は勝てない敵も、修行によってパワーアップすることで量的に対象を凌駕し、勝利に至ることができるという筋書きがかつてあった。右肩上がりの発想である。この量的表現に対して、新しい物語の枠組みでは質的表現が用いられる。要するに、駆け引きと相性だ。別の言い方をするならば、「努力」の内実が再編されたとも言える。強くなるために努力するだけでなく、勝つために知恵を絞って策を練ることもまた、「努力」に組み入れられたのだ。

「友情」の再編

 次に、③戦う理由の自明性の動揺を見てきた。かつては確固として存在した「お約束としての役割」が失われていったことを見た*1。敵が悪の側であるとは一概に言えなくなってくる(「敵」概念と「悪」概念の分離)。主人公が敵と戦うのは相手が「悪」だからではなくなる。敵が主人公らに立ちはだかる理由・事情が強く要請される。

 主人公側も、戦う自明性が失われたにもかかわらず、「命や人生を懸けてなぜ戦うのか」という動機付け・説得力の問題が生じてくる*2。結果、「各キャラクターの内面の掘り下げ」または「正義の正当性問題」が重要になっていく。

 味方の戦う理由を掘り下げる場合、ほかの者とその理由が同じならば書く必要はなく、内面の個性もなくなる。つまり、他の味方との戦う理由の差分が重要になる。したがって、同一の理由で敵に立ち向かうという状況が掘り崩される。かつての作品群は、味方が共に戦うのは「味方だから」以上の理由が基本的にはなかった。戦う理由の相違や温度差は問題とならなかった。いわば、「ホモソーシャル的な連帯」が前提とされていた*3。それが解体される。各人は、各人の理由に基づいた各人の目的を目指して戦う。仲間の皆が全く同じ方向を向いているという状態が前提・当たり前であることはなくなった。

 しかし、必ずしも同じ方向を向いていないということは、連帯の弱体化を意味するのではない。その必然性がないにもかかわらず、各人の動機から自らの意志で同じ方向を向くとき、その連帯はより強固なものとなる。『ジョジョ』のブチャラティが組織に対する裏切りを宣言して、自分についてくるか部下に決断を迫るとき、彼はなんと言ったか?

ブチャラティ「だめだ…こればかりは「命令」できない!おまえが決めるんだ………自分の「歩く道」は…………自分が 決めるんだ……」

 「戦う」から「理由⇒戦う」への分節は、理由へのダイレクトな対処による「戦い」の解消の可能性をもたらし、一方で理由の齟齬から「仲間が味方にならない事態」をも招来しうる(「仲間」と「味方」の分離)。つまり、「敵/味方」の線引きは相対化する。これは「友情」のあり方が「ホモソーシャルの解体」を通じて再編されたことを意味する。

 ここまでで②戦闘力のインフレ化、③戦う理由の自明性の動揺を見てきた。この両方に共通する特徴は、単一のものが多様化したことにある。②強さは単一の基準ではもはや計れず多様化する。そして、③絶対だった善悪は相対化し、単純単一だった戦う動機(「誰かや何かを守るため」程度の解像度の理由)は、複雑化・複数化した。要するに、少年バトルマンガの共通財産としての概念・語彙セットが、豊かになったということである。

「勝利」の再編

 上記に対応して、「勝利」の描き方も再編された。勝つことは「必須」のものでも「絶対善」でもなくなった。『シャーマンキング』において、葉は勝つことを必須条件と考えない。『封神演義』において、目先の戦いに勝利することは何の意味ももたらさない。太公望妲己も聞仲も、戦闘狂の趙公明すらも、勝つことは二の次であり、それよりも優先される大きな目的がある。そして、「勝ち方」も重要になった。『幽白』屈指の名勝負である飛影VS時雨戦では、飛影は勝ち方にこだわった*4

「以前は生きるために戦い、勝つために手段を選ばなかった。目的があったからだ。だが、今はない。別にいつ死んでも構わなかった。だから勝ち方にもこだわることができた」

あるいは、汚いやり口でチームを窮地に陥れた相手に対して、トーナメントルールなど無視して暴れようとする幽助や飛影を諭した桑原の言葉。

桑原「ムカつくまんま暴れるだけなら、奴らと変わんねーぜ。キタネェ奴らにも筋通して勝つからかっこいいんじゃねーか?大将」

また、『るろうに剣心』の剣心は、言うまでもなく、「勝つこと」よりも「戦い方」にこだわっていた。そして、「結果」に対しての「過程」というテーマを正面から扱ったのは、『ジョジョ』の第五部『黄金の風』である。すなわち、ラスボスの「過程を吹き飛ばし結果だけを残すスタンド『キング・クリムゾン』」に対し、「真実に向かおうとする意志」が対置される。

*5

 以上、すべてに共通するのは、「戦いの文脈・意味」が多様化・複雑化した点である。80年代作品群では、お約束によりお膳立てされた戦いの場があり、戦いそのものがどういった文脈の上にあるのか、どのような意味を持っているのか、深く掘り下げてこなかった。上述の戦う動機であるところの内面・正当性の掘り下げが進むと、必然的に「戦いの文脈・意味」もまた深化する。そのような意味で、『勝利』の描き方の再編は、③戦う自明性の動揺への対応の結果の一つであった。

 「友情・努力・勝利」はそれぞれ再編され、戦う理由は内面及び正義の正当性問題の掘り下げを要請し、強さの定義の変更は多様なバトル描写を可能にした。また、戦いの結果から過程・内容への関心のシフトは「戦い」や「勝利」の定義を大きく拡張した。

 ここにおいては、①視覚的刺激の重要性は相対的に低下する。つまりは即物的な水準から、意味内容の水準へ作劇の求められるものは大きくシフトしていく。丸めて言えば、極端に全体のレベルが上がったために、構図を含めた画力だけでヒットすることが難しくなる。ある程度の画力は前提となり、その上で意味内容の水準でどこまで点を稼げるかがより重要になったということだ*6

 

つづき

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*1:これを「大きな物語の終焉」と呼びたければ呼んでもよいと思う。

*2:再帰的近代のアイデンティティ論との対応が想起される。

*3:一方で、『シャーマンキング』のリゼルグは、戦う動機の温度差を感じて、主人公の元を離れて別の組織に属する。そして、主人公は出来事を「ありうること」と受け入れて、リゼルグを責めなかった。

*4:『HUNTER』のゴンとヒソカはレイザー戦で、勝利が確定しているにもかかわらず、リスクを冒して「完璧に勝つ」ことを望んだ。

*5:

詳細は下記サイトを参照。

https://dic.pixiv.net/a/%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%81%AB%E5%90%91%E3%81%8B%E3%81%8A%E3%81%86%E3%81%A8%E3%81%99%E3%82%8B%E6%84%8F%E5%BF%97

*6:最近の作品群に慣れたマンガ読みが、80年代の作品等の古い作品を読むと、その単純・退屈さに辟易するのはそのためだ。ただし、対象としている読者層が昔と変化していることにも注意したい。近年の少年マンガの読み手は高齢化している。したがって、その分だけ複雑な内容が求められる。余談だが、90年代全盛期は団塊ジュニア世代の読者とともにあったのではないかという気もしている。

『幽遊白書』の考察 ――90年代の先駆者たち②

戦う理由の自明性の問題について

「敵と出会い戦い勝利する」営みの繰り返しへの倦厭

 次に、③戦う理由の自明性の問題を検討する。『幽白』の作者冨樫義博は、本作が後半に進むにつれ、「戦うこと」それ自体についてのさまざまな疑念に取りつかれるようになった。それは既存フォーマットに対する疑念でもある。まず彼は、バトルものにつきものの「敵と出会い戦い勝利する」営みの繰り返しへの倦厭を明言した。仙水編での最終決戦が決着した場面である。仙水忍のパートナーである樹は、仙水の亡骸とともに亜空間へと姿を消す。その時の捨て台詞が下記だ。

「「死んでも霊界には行きたくない」、忍の遺言だ。お前らの物差しで忍を裁かせはしない。忍の魂は渡さない。これからは二人で静かに時を過ごす。オレ達はもう飽きたんだ。お前らは、また、別の敵を見つけ戦い続けるがいい」

後に冨樫本人が明らかにするように、この台詞は「当時の原作者の血の叫びが入ってた」。それを裏付けるように、仙水と幽助の戦闘あたりにおいて、作者は「原稿に向かうとハキ気がする位漫画を描きたくなくなった」、「この時位にはじめてもう“幽遊”はやめようと編集に頼み込んだ」と語っている。くわえて、別の場所(冨樫の同人誌)では「残念ですが幽遊白書のキャラクターで出来ることは、商業誌ベースではやりつくしてしまいました。あとは出来上がったキャラクターを壊していくか、読者があきるまで同じことを繰り返すしか残っていませんでした。この本でやったようにキャラを壊す試みはジャンプでは当然没になりました。同じことをくり返すに耐え得る体力ももうありません。」とも言っている。以上の内容は、冨樫が「敵と出会い戦い勝利する」フォーマットはもう限界であるという結論に至っていたことを表す。

善悪の基準に対しての疑義

 くわえて、作中における善悪の疑義もまた作品が終わりに近づくにつれ、色濃く表れてくるようになる。まず仙水というキャラクターが提出した疑義がある。仙水は人間が妖怪を食い物にするショッキングでおぞましい場面に偶然立ち合い、「人間は生きるべき価値があるのだろうか…守るべき価値があるのだろうか…」とつぶやいて、妖怪から人類を守護する霊界探偵の仕事を放棄し、行方をくらましてしまう。

 彼が死の間際に語った自身の来歴は、そのまま既存物語フォーマットへの痛烈な否定である。

「小さいとき ずっと不思議だった 『どうしてボクだけ見える生き物がいるんだろう』『どうしてそいつらはボクを嫌っているんだろう』『殺そうとするんだろう』答えがわからないまま戦い方だけうまくなった*1『きっとボクは選ばれた正義の戦士で』『あいつらは人間に害を及ぼす悪者なんだな』安易な二元論に疑問も持たなかった 他の人間には見えない返り血にも次第に慣れていった」
「世の中に善と悪があると信じていたんだ 戦争もいい国と悪い国が戦ってると思ってた 可愛いだろ?」

 それまで自明であった「人間を守る」営みへの疑義は、幽助やコエンマに対して、大きな波紋を投げかけた。後に魔界へ行った幽助は「人間しか食えねェってならオレが二・三人かっさらってきてやるよ」とまで言い放つ。また、コエンマは自身の父であり上司であるエンマ大王を告発し、無謬と思われた霊界に不正があることを明らかにした。

「妖怪に関する報告書や資料を膨大な量で偽造してたそうです 大部分が人間界で妖怪がやったとされる悪事の水増しです とらえたD級妖怪を洗脳しわざと人間界で悪事を起こさせて犯罪件数を増やしていたふしもあるらしいです」

「魔界をずっと悪役にしておけば霊界には人間界を守る大義名分が立つ 堂々と結界を張って領土維持をはかれるわけです 人間がまだ利用していないエネルギーの中に霊界にとっては重要なものがあったりしますから」

 また、物語終盤において、霊界で過激派によるクーデターが起こり、霊界の一部勢力の独善が明らかになった。すなわち、霊界もまた人間界同様一枚岩でなく、独善と自作自演がはびこり、人類の守護者=正義の代理人などではなく、ポジションゲームをしていた人間界・魔界に対応するただのアクターの一つに過ぎないと示される。ここにおいて、戦う必要性と正当性は完全に無に帰した。そうしてこの物語は終わったのである。

戦う理由の相対化

 善悪の疑義とは、戦う理由の相対化でもある。幻海*2は正義のために戦っているわけでないと明言する。

幻海「あんたはあたしを正義といったが、そんなつもりは全くないよ。たまたま嫌いな奴に悪党が多いだけの話さ」

 また、魔界編において、幽助たちはもはや戦う必然性がない。だから桑原は戦いに行かなかったし、だから桑原は「それでも幽助が魔界へ戦いに行く」と言ったのに激怒したのだった。

桑原「ふざけんじゃねえ!魔族になって脳ミソのバカもパワーアップしたのかてめーは…行く理由が強い奴がいるからだと!?ゲームの宣伝じゃねーんだぞ」

 魔界編での戦う理由は、自明でも利他的(公共的)でもない。相対的・個人的なものとして描かれる。魔界へは幽助、飛影、蔵馬がそれぞれ向かうのだが、それぞれ目的も異なるし、そのため共闘もしない。それどころか敵対する別陣営にそれぞれ所属することとなる。幾度も死闘を潜り抜けた戦友が今度はめいめい全く別の方向を向いているのだ。「信頼しあう仲間たちと共通の目標・敵に向かっていく」という、動機の統一性は失われた*3

正義の絶対性は、敵である仙水において現れることにも触れておこう。

仙水「オレは花も木も虫も動物も好きなんだよ。嫌いなのは人間だけだ」

人間を守るという正義が完全に反転する形として仙水には現れている。それに対して、幽助はこう返答する。

幽助「俺はてめーが嫌いだ」

ここにも明らかな、絶対性の否定と相対化・個人化が読み取れる。

 魔界編に至るまで、主人公側の戦いの動機は特に描写されず、人間界や自身の身を守るために、いわば受け身の形で彼らは戦ってきた。一方で、主人公以外の存在、主に各章のボスについては戦う動機の書き込みが詳細に行われた*4。戸愚呂弟はかつての自己を許せず、自らへの罰を求めて戦い続けてきた。そして、それと同時に幻海との因縁が語られる*5。衝撃的なシーンがある。幻海は過去の清算のため、単身戸愚呂弟と勝ち目のない決闘に臨み、殺されてしまう。そのことについて、酷く落ち込む幽助をコエンマが励ましに来るのだが、その会話が非常に印象的だった。

幽「俺がもう少し早く着いてりゃばあさんは戸愚呂に…」

コ「間の抜けたことを言うな」

幽「何? 誰がマヌケだ!てめー!」

コ「マヌケでなきゃ的外れの大バカ者だ 仮にお前が早く着いたとしても幻海と戸愚呂の命を懸けた戦いの邪魔ができたのか?お互いが命を懸けて我の張り合いをやってるときにどの面下げて横やり入れる気だったんだお前は 」

二人の戦いは善悪や正義の問題ではなかった。互いの尊厳を懸けた、個人的な、それ故に何よりも大事な戦いだったのだ。

戦わなくて済むようにする物語

 魔界編では、黄泉と蔵馬の因縁が黄泉の戦う動機である。また、躯と飛影の共通した欠落が、互いに惹かれあう理由であり、戦いに身を投じる理由である。そして、雷禅と幽助の因縁が、幽助が魔界に旅立つ理由であり、そもそもの魔界三すくみの原因である。魔界の三人の王の行動原理は、それぞれきわめて個人的事情に基づく。魔界で善悪や正義の観念などあろうはずもない。すべては相対化され、個人化される。*6

 黄泉の強くなること、天下を取ろうとすることの動機は、蔵馬への執着にある。これが作中では解きほぐされる。また、躯が戦い続ける理由は、自身の中にある激しい感情にある。それは飛影と出会うことで解きほぐされる。

 魔界編とはもう戦わなくて済むようになる過程を描いたものだ。幽助は戦争ではなくトーナメントで決着をつけようと提案する*7。戦いを否定するためのトーナメントである。

 黄泉はその提案を受けるも、天下への野心を失わない。策略をめぐらして優勝しようと、つまりは幽助の望んだフェアで気持ちのいいゲームとしてのトーナメントではなく、策謀渦巻く戦争をトーナメントでも行おうとした。しかし、それは撤回される。なぜか。そのきっかけに雷禅の旧友たちの出現がある。雷禅を弔って霊力の放出を一斉になされたとき、はじめて黄泉は彼らの存在を知る。彼らが自分と同等かそれ以上の実力を持ちながら、何の野心も持たずひっそり暮らしてきたことを知り、すでに蔵馬への執着の問題が解決していた黄泉にとっての、最後のピースがそろうことになる。

黄泉「妖駄」

妖駄「はい」

黄泉「お前はもう自由だ 好きにしろ」

妖駄「え?」

黄泉「誰が勝つかもう俺にもわからん」

妖駄「ま…まさか本気で国を捨ててトーナメントを戦うと?」

黄泉「やはり俺もバカのままだ」

 なぜ雷禅の旧友たちはすさまじい実力を持ちながら魔界統一の野心を持たなかったのか。必要性を感じなかったからである。黄泉は強い欠落感・飢餓感から、野望に邁進し続けた。あるいは、躯はその生い立ちの呪いから、そのどうにもならない憎しみから、戦い続け殺し続け、強くなってきた。魔界編は、この二人が癒され、「もう頑張らなくていいよ」、「もう苦しまなくてもいいよ」と救われるまでの物語である。魔界三すくみの原因は、王の個人的な動機に基づく。そうであるならば、個人的動機を解消することで、三すくみもまた解消される。争いはもう起こらない。牧歌的なトーナメントだけが残る*8

 以上、『幽白』は、徹底して戦いの前提を掘り崩し続けた作品だった。戦い続ける構造に疑問を持ち、善悪を規定する構造を疑い、正義の単一性を否定し、最後に戦う必然性を問うた。戦いが生じる構造自体への関心は『封神演義』、善悪を規定する構造への疑いは『るろうに剣心』、戦う必然性を問い、戦いの相手を救うことで問題を解消する手つきは『シャーマンキング』の、それぞれ先駆的内容を含むといってよいだろう。

 

つづき

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*1:少年マンガにおいて「成長」という語で混同されがちな「(戦闘)技能の成長」と「精神の成長」とがはっきりと弁別されていることに注意したい。

*2:本筋とは異なるが、『幽白』はジャンプ漫画において幻海、流石、棗、孤光、躯といった女性戦士が複数登場する点で、先駆的な作品であった。『ドラゴンボール』でも女性戦士は登場するが、主人公の師匠として幻海が、最高実力者の一人として躯が、それぞれ登場する点が特徴的であった。

*3:HUNTER×HUNTER』でも初期メンバー4人は早々に散会する。信頼しあっているからこそ、べたべたなんてしないのだ。

*4:鴉の「好きな者を殺すとき自分は一体何のために生まれてきたのかを考えるときのように気持ちが沈むだがそれが何とも言えず快感だ」や左京の「大~~~~きな穴がいい...魔界と人間界をつなぐトンネルです(中略)不公平でしょ?より強大で邪悪な妖気を持つものほど通れないなんて」、仙水の「あと半時間もすれば君達も歴史的な目撃者になれるのだよ 誰もが知っていて誰もが見たことのない伝説上の生き物を見れるかもしれない 外タレや運動屋などメじゃない 真のアイドルだ」というセリフなども印象的である。

*5:仙水編では仙水とコエンマの因縁が語られる。

*6:

ジョジョ』も、遅くとも第五部『黄金の風』において、戦う理由は個人化・相対化される。『幽白』の魔界編同様、犯罪行為を生業とするマフィア世界での抗争がテーマということもあって、善悪というフレームワークではなく、個人的倫理問題に還元される。

ブチャラティ「ボスは自らの手で、自分の娘を始末するために、オレたちに彼女を『護衛』させた……トリッシュには、血のつながるボスの「正体」がわかるからだ。許す事ができなかった。そんな事を見ぬふりをして、帰ってくる事はできなかった。だから「裏切っ」た!(中略)オレは『正しい』と思ったからやったんだ。後悔はない…こんな世界とはいえオレは自分の『信じられる道』を歩いていたい!」

*7:トーナメント優勝者が魔界の支配権を得るが、永続はしない。トーナメントは周期的に開催され、支配者は入れ替わる。

*8:前述のように、霊界が演出した魔界と人間界との対立構造も解消したため、霊界探偵として妖怪という「悪」と戦う必要も消失している。

『ジョジョの奇妙な冒険』と『幽遊白書』の考察 ――90年代の先駆者たち①

90年代の先駆作品としての『ジョジョの奇妙な冒険』と『幽遊白書

戦闘力のインフレについて

 『ジョジョ』の先見性を語るときには、ほとんど通説となった感のある②戦闘力のインフレ化に対する対応について書かねばならない。すなわち、②’頭脳戦(あるいは能力の相性)という手法の導入である。80年代の作品群において、強さとは単一の量的な概念で示されるものだった。「戦闘力80万の者が戦闘力500万に勝つケース」を描写するためには、なんらかの理由(怒りや気合とかなんとかによる爆発的な戦闘力の向上や修行)により、戦闘力が相手より上回る必要があった。「敵に勝つには敵より強くならなければならない」という一つのパラダイムがあった。『ダイの大冒険』において、主人公たちのレベルが時折明示され、物語が進むにつれ強くなっていったことが一番わかりやすい例となる*1。しかし、量的な表現方法は前述のように戦闘力のインフレ化という問題をもたらす。

 この問題に対処したものが、頭脳戦(駆け引き)という手法であり、能力の相性という考え方だった。たとえ自分より強い相手でも、裏をかいて勝つ。あるいは、相手の弱点をついて勝つ。これらは戦いを質的な表現方法によって描く。ここには一直線上に序列化された強さはない。単一の強さという要素が複数の要素に多様化した、ということもできる。『ジョジョ』におけるキャラクターの解説で、スタンドパラメータが用いられたこと、これが象徴的であろう。

 『幽白』もまた『ジョジョ』に追随する形で、頭脳戦の手法を取り入れていく。「スピードで敵わない飛影に対し、鏡の反射を利用して背後から攻撃をしかけて倒す」といった頭を使った戦い方は、『幽白』において序盤から散見されるが、「仙水編」でそれは全面化する。そもそも本編での「テリトリー」という概念が、完全な「スタンド能力」のオマージュである。そして、直近の作品である『HUNTER×HUNTER』においては、作品の当初から当該手法が多用され、もはや前提となっている。モラウのセリフ「ボウズ等、念使い同士闘いに『勝ち目』なんて言ってる時点でお前らはズレてるんだよ。相手の能力がどんなものかわからないのが普通。ほんの一瞬の緩み・怯みが一発逆転の致命傷になる。一見したオーラの総量が多い少ないなんて気休めにもならねェ。勝敗なんて揺蕩ってて当たり前。それが念での戦闘…!」は、現代バトルマンガの基本思想についての簡潔な要約といってよいだろう。

 以上、『ジョジョ』を嚆矢とする新手法の性格を確認した。それが後発作品群にどのように影響を与えたか、あるいは前提となっているかについて、自明であろうからここでは論証しない。

 

つづき

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*1:右肩上がりの世界観であり、高度成長期的想像力との対応が想起される。

『シャーマンキング』の考察 ――ジャンプ90年代後期作品群について②

シャーマンキングについて

 本節の最後に、『シャーマンキング』を扱う。本作のラスボスである麻倉ハオは、物語の早い段階で、その圧倒的な強さから、絶対に倒すことができない存在として描かれる。そのため、<「力で敵をねじ伏せる」以外の方法で、いかにラスボスたるハオがもたらす破局を回避するか>に物語の主題が設定されることとなる。ここにあるのは「力ずく」の徹底した否定である。主人公が何度も口にするセリフは「やったらやり返される」だ。

「やったらやり返されるなんて当たり前の事だしオイラだって怒る時は怒る。でもそればっかだとキリがねえからな。誰か出来る奴でいいからガマンしたりどっかで止めてやらなきゃならねえ」

「だから殺すなつってんだろ 邪魔だからって殺してんじゃハオとなんもかわんねえだろ」

「正義だろうが悪だろうが選択すんのは人の自由だ でも殺して選択する事さえ出来なくさせちまうのはだめだ」

 なぜ「力ずく」はダメなのか。それは決して問題を解決しないからだ、と作中では語られる。

「怒るなと言っているのがわからんのか怒りでは何も救えぬそれはお前が一番身にしみてわかっとるはずじゃろう」

 では、どうすればいいのだろうか。主人公の麻倉葉が一つの可能性を指し示す。

「憎しみは憎しみしか生まない 孤独なお前にとっての真の救いとは他人を信じ他人に身をゆだねる事 だから葉殿はまずその身をもって・・・お前を信じる事でお前の”信じる心”を呼びおこさせたのでござるよ」

 怒りや憎しみや悲しみでこわばった心は、さらなる負の感情・事態を呼び起こす。だから、その心のこわばりを和らげる必要がある。それにはどうすればよいのか。

「どんな奴だって行動には必ず理由がある 霊の見える奴に悪い奴はいねぇと思ってんのは今だって変わんねえからな オイラだってハオのした事は許せねえ でもハオだってどっかに理由はあるはずだ──悪いのはきっとそれなんだろうな」

 相手を対話不可能*1な絶対悪として見るのではなく、自分と同じ大切な何かのために戦っている、切実な思いを持った存在であると思うこと。それを前提に相手の大切なものを理解しようとすること。

「何かをしようとすると必ず賛成する人と反対する人がいる。それはみんな大切にしているものが違うから」

ここには感情に身をゆだねることを拒絶する、ひどく理性的な態度がある。

「人ってやつはすぐ感情に支配されるからな 友達同士にしたってよ みんな大して変わりはねえはずなのにふとした事で仲良くなったりケンカしたりするだろう 感情一つで人は敵も味方も作っちまうんだだから 本当は敵も味方もこの世には存在しねえ 全部はてめえの正義感が生みだした苦しみなんだ」

 「悪・害をなす敵を倒す」物語フォーマットは、ここに完全に消失する。絶対的な悪がいないだけでなく、敵すらももはや存在しない。『シャーマンキング』は、ある意味で、行き着くところまでいってしまった。

「たとえいくら裏切られようと信じる限りこちらから敵対する事などなくむしろ疑いを持たずにいられる事こそが何より自身の幸せである事 それが愛なのだという事 あのお方が正しいかどうかなど問題ではなかった 信じる事をやめた小生の行いこそ人の闇そのものだったのです」

戦いとは敵を倒すことではない。

「ボクはやっと気づいたんだ 戦いに勝つというのは相手を倒す事じゃない それで自分が笑顔でいられるという事に」

強さとは、物理的に相手を屈服させる能力のことではない。

「自信・・・」「それは精神の強さ」「けっして巫力ではなく」「最後に戦いを決めるのはただ一つ それはゆるぎない心なのか」

 ハオはもはや敵ではない。ハオを理解しようとする営みの先に、彼の中に巣食う深いさみしさと悲しみと憎しみが明らかになる*2

「みんなはハオを助けようとしている 死んでも死なない 倒したくても倒せないハオを止める唯ひとつの魔法は ハオの心を倒すこと さびしんぼの彼に通用するたったひとつの武器は 心だ」

 アニメ版『シャーマンキング』のOP曲『Northern light』の歌い出しは「君に届け Northern light」であった。また、作中の盛り上がりの場面で何度も流れた劇中歌『brave heart』のサビ部分の歌詞「風より速く 君の心へ すべり込んで根こそぎ包みたい」であった。ここでの「君」とはハオである。『シャーマンキング』とは、ハオの強すぎる負の感情を大いなる愛で包み込もうとする物語なのだ*3。その試みは、ハオよりも優越することを意味しない。それはハオを完成させるためのものである。

「勘違いしてるのは君だよハオ オレ達はおめーを全うな王にするために来たんだぜ?わかるかハオ」

 ここにもう一つの物語の質的転換がある。敵であるはずのハオは救うべき存在となった。そして、さらに進んでハオは、完成させるべき対象となったのだ。物語の終局において、世界を滅ぼそうとするラスボスの「王性」を、主人公たち皆が完成させようと命を懸ける物語を、他に僕は知らない。

 最後に、本作が既存物語フォーマットに強い反発を持っていたことを示しておこう。

「あたしは「オレが世界を救う」なんて奴は信用しないし「やってやるぜ」ってガツガツした熱血マンが大キライ だってそんな奴らに限って己の欲望むき出しでしかも口先ばっかり オレがオレがって普段調子のいい事言ってる割には困難にぶつかるとすぐへこたれる なぜかわかる?奴らは結局自意識と己の欲でしか目的を持たないからよ」

「出来るも、出来ねェも全ては「思い」一つなのに、数字ってやつはつい人にそのどっちかを決定づける魔物なんだ 学校の通知表会社の成績──給料バストウエストヒップ そのクソみてェな数字を見せつけられた日にゃア どんなに自信のある奴だろうが現実の前にねじふせられちまう」

 前者のセリフについては、特に解説は必要ないだろうが、後者のセリフは戦闘力を数値化して序列化するバトルマンガの伝統との関係で読み解く必要があろう。本作においても「巫力」という戦闘力を数値化する概念が存在し、しかもその大小は覆しがたい戦闘能力の差として表現されている*4。どうしようもない力の差に、人は勝つことをあきらめてしまう。一方で、本作はそもそもの前提を問う。「勝つ必要があるのか?」「『勝つ』とはどういうことか?」そういった思索の先に何があるのかはすでに述べた。本作のこの態度は一貫していることを再度強調して終わりたい。シャーマンキングになるという物語の最終目標であるはずの、シャーマンファイトでの優勝を主人公は断念した。つまり葉は、物語の必須要素と思われていたトーナメントを棄権するという選択すらとったのだった。

 以上、本節でとりあげた三作品は、徹底して既存物語フォーマットを問い直し、新しい物語の構築に取り組んだ作品だった。ともするとこれらの作品は、問い直しそれ自体が作品のテーマとなり前面化し、テーマの未消化から、その複雑さから、娯楽性・大衆性を本来のポテンシャルに比して減殺してしまったきらいがある。しかし、後述するように、その遺産は2000年代の後継作に受け継がれ、提示されたテーマは消化され、00年代の作品群は80年代のそれらに比して、まったく異なった物語の骨格を獲得するに至った。そして、娯楽性・大衆性との両立、つまるところ大ヒット作の連発という結果につながった。

 本節の三作品の記述は、既存フォーマットがもはや通用しなくなった状況下において、どのような模索がなされたかの確認であった。次節では、ジャンプ絶頂期である90年代前半から半ばに連載されていながら、つまりはまだ既存フォーマットの限界が明らかになっていなかった状況下にありながら、いち早くその限界に到達した二作品――『ジョジョの奇妙な冒険』と『幽遊白書』――を取り扱う。

 

つづき

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*1:祭司シルバと葉との「ラストテスト」での戦いについて、蓮は「あの二人の対話を邪魔してやるな」と言う。本作において、戦いもまた互いの生き方や価値観のすべてをぶつけ合う、相互理解のための対話であるのだ。あるいは、劇中曲の『brave heart』の歌詞「力の全てぶつかりあって生まれる愛もあると信じたい」とあるように、理解の先に愛があることが暗示される。決して戦いとは敵を滅ぼすためのものではない。

*2:「てめェがこの1000年抱き続けた徹底的な怒りと悲しみは絶対揺るがねえ最強の力をお前ェに与えた だがそれと引き替えに失ったのが てめェの母ちゃんの持つ波長愛の波長だ」

*3:「あんた(筆者注:ハオ)はもう怒りと悲しみから解放されちゃったのよ 葉と出会って力をなくしたあたしと同じにね あんたの心はみんなの魂を前にして すでに折れてしまっていたのよ」

*4:ハオは圧倒的な巫力を持つことが示され、そのために決して戦闘では敵わないことが示されている。

『るろうに剣心』、『封神演義』の考察 ――ジャンプ90年代後期作品群について①

90年代後期の低迷期・転換期の作品群の特徴

 少年ジャンプは94年末に史上最大の発行部数に到達する*1。その後、次第に部数は下落し、一時はマガジンに発行部数を抜かれるまでに低迷する。この時期を支えたバトルものとして、『るろうに剣心』、『封神演義』が挙げられる。また、これから述べる同種の特徴を持つ作品として、数年遅れて『シャーマンキング』がある。これらの作品の特徴は、「戦う理由」や「戦いが繰り返される構造」それ自体を前景化・主題化した点にある。

るろうに剣心について

 『るろうに剣心』では、戦って相手を傷つけ死に至らしめる行為そのものへの主人公の葛藤が物語の中心に据えられる。そして、当時のサブカルチャーでは画期的なことに、一般に肯定的に書かれることの多かった明治政府*2の正義について疑義が呈される。すなわち、当時一般にはほとんど知られていなかった赤報隊の一件とそれを背景にした相楽左之助の「悪一文字」の描写であり、明治政府が掲げた富国強兵がいずれ搾取と侵略に行き着くことを暗示するかのように、明治政府の内在的論理を先取りして貫徹する存在である「弱肉強食」を掲げる志々雄一派の存在である。また、剣心自体は明治政府の掲げる「大文字の正義」からはっきりと距離を置いていることも特筆に値する。旧知の山形有朋が、剣心に再び国のために力を貸してほしいと頼むシーンがある。

山形「時代は変わった。明治の世に剣一本ではもはや何も出来ん」

それに対し、剣心は申し出を断って、下記のように答える。

剣心「剣一本でもこの瞳に止まる人々くらいならなんとか守れるでござるよ」*3

 ここで明言された剣心の立場は、長年の倫理的葛藤の末に剣心が行き着いた、個人的結論である。一般には、正義のために国家に与することが必要かもしれないことを、剣心は否定していないことに注意すべきだ。あるいは、殺人がどのような場合であれ「すべての人がすべきでない」と剣心が考えているわけでもない。「自分はもうそういうことはしたくない/できない」という心情に至ったに過ぎない。ここには「大文字の正義」から「動機の相対化・個人化」への変化が見られる。

封神演義について

 次に、『封神演義』においては、「戦いが生じる構造」そのものに対する合理的説明への作者の執着が見られる。①なぜ敵を封神する必要があるのか?②なぜ太公望は速攻で敵の親玉を叩きに行かないのか?③なぜ敵は直ちに太公望の抹殺に全力をあげず、戦力の逐次投入を繰り返すのか?これまではバトルもののお約束としてスルーされてきた不自然な筋書きについて、作者は大まじめに答えようとする。それらの説明負荷を解消するものが、封神計画の真相である*4。すべては仕組まれたものであり、不合理な事態の変遷は、より高次の計画のために必要なものであった。くわえて、敵役の何某が太公望の「シャドウ・セルフ」であったことが途中で明かされる。すなわち、太公望と彼は共犯であり、皆の信頼を得る必要のある太公望には決してできないが、計画進行のためには必要・効率的な、非道な行動を彼が代行していたことが明かされる。これにより、「主人公に都合よくあまりに事が運び過ぎること」の合理的説明もまた果たしたのである。

 本作においては「敵」はいても「悪」は存在しないこともまた特筆すべきだろう。本作は中国史上最初の、放伐による易姓革命の時期を封神演義は舞台としている。暴君かつ最後の王である紂王の息子の殷郊は、わが身の安全のため殷王朝から離脱するが、その際申公豹から民を見捨てたことにつき厳しく責められる。このことが理由となって、一時は所属していた主人公たちの陣営から離脱し、王族としての責任を果たすために太公望の敵となることを決意する。ここには主人公とは別の正義がある。

 あるいは、周の軍師たる太公望に立ちふさがる最大のライバルといってもいい存在である殷の軍師聞仲。彼はなぜ統治の正当性がすでに失われていることを知りながら、分がないことを知りながら、殷王朝の再建にこだわるのか。ここでも申公豹が問い詰める。

申公豹「殷という器が失くなっても民にはさほど関係のない事です。いえ!むしろ太公望の言うように民は殷に代わる新たな器を望んでいますよ」

聞仲「言うな申公豹! 殷は私にとって子供のようなものなのだ。子供を亡くして喜ぶ親はいないだろう?」

ここで聞仲の回想がなされる。かつて愛した女性に彼女の死の間際に殷と息子の未来を託され、彼女の息子は王となった。そして、聞仲は代々その後の王たちの教育係となったのであった*5

聞仲「良い王もいれば、悪い王もいた。だが出来の良し悪しに関わらず、みな私を恐れ、慕ってくれた……」

申公豹「そして皆あなたより先に死んでいったのですね?」

聞仲「……くだらん話をした」

申公豹「いいえ、確かにあなたは殷の親ですよ聞仲」

 ここにもまた、太公望とは決して相いれないもう一つの「正当な立場」がある。こうして、戦いの正当性は相対化され、複数化する。

 戦いの正当性ではなく動機の水準で言えば、趙公明は戦う理由などナンセンスであると断じ、戦うこと自体が目的であると言い切った。また、妲己ははるか遠くを見つめながら、見えない戦いを戦っていたことが明らかになる。それぞれ全く個人的な動機である。単一の誰もが当てはまる戦う動機、あるいは絶対的な正義など本作にはありえない。

 

つづき

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*1:そのときの三本柱となった作品が、『ドラゴンボール』、『幽遊白書』、『SLAM DUNK』である。『ドラゴンボール』はすでに述べた通り当該フォーマットに則った作品であり、『幽遊白書』については後述する。『SLAM DUNK』はバトルものではない。本文では「競技もの」として分類し、バトルものと比較した特徴につき後述する。

*2:例えば、司馬史観における「明るい明治と暗い昭和」という図式。

*3:後述するように、『銀魂』の主人公坂田銀時は明らかにこのあり方を継承する存在である。

*4:この点、『エヴァンゲリオン』の影響を感じる。

*5:詳細はhttp://3m4bai.blog.fc2.com/blog-entry-848.htmlを参照。