スポーツ漫画とは何か 『SLAM DUNK』評論③ 三井と湘北

三井について

 最後は三井である。三井は『SLAM DUNK』において最もキャラクターの掘り下げに成功した人物である。そして、それ故に絶大な人気を誇るのだと思う*1。三井は一番かっこ悪い男であり、一番かっこいい男でもある。湘北バスケ部入部当時、三井は「ポジションはどこでもやれます」と言った。およそバスケット選手が望む実績とスキルのほとんどすべてを持っていた。

 しかし、ちょっとした不幸と自身の弱さの積み重ねで、その大半を失う。二年のブランクを経た今、彼はもうオールラウンドなプレイヤーではない。多くのものを失って数少ない手持ちで戦う中、山王戦という極限状態において、三井というプレイヤーの本質は一層研ぎ澄まされ、よりはっきりとした輪郭を帯びていく。

「オレはもうあの6番を止められねえ 走ることも…抜くことも…何もできねえ……」

「オレから3Pをとったら もう何も残らねえ…!!」

「もうオレには リングしか見えねえ―――」

 挫折により何もかもを失い、さらには極限の疲労状態にあって、最後の最後に残ったスリーポイント。しかし、走ることも抜くこともできないプレイヤーが、一人でスリーポイントを打つことはできない。

 湘北の主な得点源は、流川・赤木・三井である。流川は自分もチームも勝つためにパスをした。赤木はチームの勝利のために自らの勝利をあきらめてサポートに回った。流川・赤木が必要に迫られて自らのスタイルを変えるとき、三井だけはスタイルを変えるのではなく、むしろそのスタイルを深化・貫徹する。

 三井は誰よりも自分の弱さをさらけ出して、それに向き合ってきたプレイヤーである。あるときは「過去の自分を美化し今の自分を責め」「自分の重要性を今一つ信じきれない」でいる。またあるときは二年のブランクを悔やみ「なぜオレはあんなムダな時間を・・・」と一人涙する。三井は自分の弱さ・至らなさ、一人では何もできないことを痛いほど知っている。だから、自分を信じるよりも強く、チームメイトを信じている。

「限界ギリギリの三井を支えているのは――――自分のために赤木がスクリーンをかけてくれる…その一瞬を逃さず宮城がパスをくれるはず…落ちても桜木がリバウンドをとってくれるはず…という信頼―――」

「奴は今 赤んぼのように味方を信頼しきる事でなんとか支えられている………」

 スリーポイントという三井の本質的なスキルは、湘北というチームが完全なチームワークを果たしてはじめて機能する。三井のスリーは湘北のチームワークの結晶でもあるのだ。

 しかし、山王戦であらわになるのは三井・湘北プレイスタイルの本質だけではない。本戦を通じて、三井・湘北そのものの本質もまた浮き彫りになる。三井は現湘北メンバーのうち、一番早くに加入し、一番最後に加入した者である。三井は一度、自分の弱さのせいでバスケから逃げた。そして、復讐のために再度現れてケンカに敗北し、三年の今になってもう一度バスケがしたいと懇願した。その姿はあまりにみじめである。このときはじめて三井はバスケをしていた頃も、バスケをやめてからも、一貫してバスケを愛しており、その愛に規定されて行動してきたことを自覚する*2

 三井とは何者か。「諦められなかった男」である。極限状態において、彼のこの本質は繰り返し顔を出す。中学県大会決勝の土壇場で。安西先生との再会の場面で。そして、山王戦での奇跡的な追い上げの場面で。意識がもうろうとしながら、赤木が自分を取り戻して立ち直るのを横目に、うわごとのようにつぶやく。

三井「河田は河田… 赤木は赤木…そしてオレは……オレは誰だ?」

三井「オレは誰なんだよ…!? 言ってみろ!!」

三井「オレの名前を言ってみろ…!! オレは誰なんだよ」

松本「三井…!!」

三井「おう オレは三井 あきらめの悪い男…」

 赤木は「今は河田に勝てない。それでもいい」と折り合いをつけた。赤木は「勝つ必要はない」と「否定形」を飲み込んだだけで、自分が何者であるかを積極的な形で捉えられていない。一方で、赤木と違って自分を生み失うことのない三井は、上記のように積極的な形で自分を規定することができる。

 本戦において、プレイ内容としてもメンタル的にも、湘北を引っ張り逆転勝利へと盛り立てたのは、一番未熟な桜木と一番経験がある*3三井である。桜木は何も持たないから恐れない。三井はすべてをかつて失ったからもう揺るがない。桜木は自分を素人と規定し、「おめーらバスケかぶれの常識はオレには通用しねえ!! シロートだからよ!!」とハッパをかける。これは桜木個人にしか当てはまらない自己規定であり、経験を積む中でいずれ失われていく特性である。一方で、三井の「諦めの悪い」態度は、安西先生が口にした「断固たる決意」と響きあう。

安西「全国制覇を成し遂げたいのなら、もはや何が起きようと揺らぐことのない『断固たる決意』が必要なんだ!!」

 三井は「自分が何者であるか」に最も迫った人物である。山王戦よりも前に三井は、劣勢でこそ「オレは燃える奴だったはず」と言い、「オレは最後まであきらめない男三井だ」と言った。今回の自己規定「あきらめの悪い男」はほんの少しだけニュアンスが異なる。「あきらめない」から「あきらめの悪い」へ。ここにおいて、もはや「あきらめること」は自分の意志にすらかからない。彼がバスケをあきらめられなかったように。赤木が通常時における湘北の精神的支柱であるならば、三井は非常時における精神的支柱であり、何があっても決してあきらめず何度でも立ち上がる湘北の象徴である。

三井「静かにしろい この音が・・・ オレを蘇らせる 何度でもよ」

そのプレイから、生き様から、三井は湘北を不屈のチームに引き上げる。

 ここで三井自身を規定し、暗黙のうちに湘北自身をも規定した、先程のセリフのシーンを再度作画つきでみてみたい。

 僕はこのワンカットが『SLAM DUNK』における内面表現としての画力の絶頂だと思う。通常の精神状態でこのカットが描けたとは思えない。作者もまた試合状況及び三井の内面とシンクロして描いているように思われる*4

 本作は後半になるにつれ、マンガ的表現から写実的表現へシフトしていき、人物画も実写にどんどん近づいて行ったが、このカットはその中でも異様である。角ばったエラ。穴まではっきりと描かれたわし鼻ぎみの顔立ち。整った顔立ちからは程遠く、不気味さと不思議な色気をたたえている。

 このカットは写実的な人間の顔の描写を超えている。生身の人間は人に見られることを意識して「顔を作る」。人は作った顔を人に見せている。鏡の前に立つときですらも、無意識のうちに人は顔を作るから、自分すらなかなか「自分の顔」を見ることはない。

 一方で、ここで描かれているものは、顔の表面の、意識によって制御可能な表層の奥底があらわになっている。締まりのない口とうつろな目、土気色の顔色は極度の疲労を示す。そして同時に、その顔は恍惚の表情に似て、彼が尋常ならざる精神状態にあることを雄弁に物語っている。すなわち、自分が何者であるのかを知る、安心立命の境地である*5

本当の最後の一人について

 三井は山王戦より前にいち早く挫折し、誰よりも自分の弱さ・至らなさを知り、一番成熟したプレイヤーとなった。しかし、彼よりも早く挫折を経験した人物が湘北に入る。安西監督である。

 『SLAM DUMK』は少年マンガには珍しく、試合における監督の役割が大きく、彼らの内面的な掘り下げも少なくない。安西監督の挫折とは言うまでもなく、谷沢の蹉跌である。谷沢の精神的未熟さは、原作中では掘り下げの少なかった宮城を除くスタメン4人のそれぞれと対応する。

 すなわち、桜木のようにスタンドプレーに走って基礎をおろそかにし、流川のように足元を固めず生き急ぎ、赤木のように突出した実力とその自負から安西監督の「お前の為にチームがあるんじゃねぇ。チームの為にお前がいるんだ!!」の言葉の意味を真に理解しなかった。そして、チームを裏切る形での渡米からみんなにあわす顔がないと言って、三井のように頭を下げてチームに戻ることなく、悲劇の死を迎えてしまう。

 この経験から安西監督もまた、自分の至らなさを思い知る。彼は谷沢指導時には名将の名声を得ていた。実績・地位を背景とした権威・権力にものを言わすような指導にあたっていたことが最悪の形で跳ね返ってきた。この経験と反省があるからこそ、精神的に未熟できかん坊の一年生コンビ桜木・流川に対して言葉を尽くして目的・理由を説明し、あるいはなだめすかして、導くことができたのだ。本作において、バスケに関わる人々は誰も無傷ではない。

まとめ

 ここまで、湘北メンバーがいかにして弱さと向き合って強くなったか(=変化したか)を見てきた。本作において、強さとは弱さの対立概念ではない。どんなに強い人間にも弱い部分があり、「それをどのように受け止めるか」が重要であることを、本作は複数のキャラクターの内面描写によって描いてきた。

 そして、それを可能にしてきたのがスポーツという装置であった。スポーツにはルールがあり、そのため勝ち負けがはっきり定まる。ルールは形式的に双方の戦闘条件を対等にするから、言い訳が不可能なほどに実力差を明らかにする。

 また、チームスポーツにおいて一人の力には限界がある。全国制覇への道は果てしなく、上には上がいる。だから、どこかで壁にぶつかる。低いレベルでは両立可能だった、これまでの自分のスタイルと個人の勝利とチームの勝利は、どこかで両立が不可能になる。否応なく何を捨てるかの決断に迫られる。勝つためには変化を迫られる。

 捨てるものを持たない素人桜木とほとんどすべてをすでに失った経験豊富な三井が、チームの勝利が一番大事であることをいち早く指し示し、流川はこれまでのスタイルを捨て、赤木は自分の勝利を捨てた。「負けたくない」という思いが、彼らの強烈なエゴを説得する。相手がそこを狙ってくるから、自分の弱さと向き合う必要が生じる。相手を出し抜くために、仲間を理解して協力する必要が生じる。

 スポーツとは筋書きのないドラマであると言われる。それは双方が総力を挙げて勝利を目指すからだ。総力を挙げた戦いは、対象を限定しない。そのために純技術的な事柄だけに勝敗の要素は限定されず、内面的な課題までもが問題となる。

 死力を尽くすからこそ、一方にとってもう一方は巨大な壁として立ちふさがる。それが巨大であればあるほど、現在の自分・チームの限界を超えることが要請される。両チームは自身らの勝利という相対立する結果を追い求める。相手の予想を裏切り、超えていこうとする。これにより「筋書き」がなくなる。

 しかし同時に、試合での勝利を目指すことは必然的に「いかにこれまでの個人・チームの限界を超えられるか」を要求してくる。相手だけでなく自分の予想もまた超えられたとき、それは「いい試合」になる。「ドラマ」になる。すなわち、勝利という相いれないものを奪い合いながら、同時に「いい試合をする」という同一の目標を、より高次の次元において協力して目指している。これがスポーツの持つ弁証法的物語展開機能である*6

 スポーツでの試合は現実世界において、とてつもない回数試行されている。この世界に存在する物語の数をはるかに上回るだろう。試行回数の多い分だけ、素晴らしいドラマが生まれる可能性も高まる。ただし、弱点もある。第一にプレイヤーしかそのゲームにおけるプレイ一つ一つの意味内容がわからないかもしれないこと、そして第二にプレイヤーでも他のプレイヤーの思惑や内面をうかがい知れないことである*7

 ここにマンガという表現媒体の活躍の余地がある。プレイヤーの主観的な見え方を表現するために、誇張された映像表現を用いるだけでなく、意図・心情の独白によりプレイヤーそれぞれの意識の流れあるいは変遷を描き、表情の一枚絵をもって、絵だけをもってプレイヤーの内面を雄弁に語らしめる。『SLAM DUNK』は「スポーツ」と「漫画」双方の機能をフルに引き出したという点において、傑作なのである。

*1:例えば、2023年のシネマトゥディの人気投票では断トツの一位である。

https://www.cinematoday.jp/news/N0135461

*2:その直前において、宮城は「一番過去にこだわってんのはアンタだろ…」と三井に言い放った。

*3:上述の人生経験のみならず、中学時代に大一番で逆転勝利を果たしていることを思い出したい。

*4:だから湘北はウソように次の試合で負け、本作はウソのように終わる。

*5:このカットは『バガボンド』の連載を事実上予告するものである、と言うと言い過ぎだろうか。

*6:スポーツはルールによる規制によって、この弁証法的物語展開機能が上手く作動するよう調整することが可能である。これがこの世界のありとあらゆるスポーツ以外の闘争との異なる点である。なお、将棋やカードゲームもマインドスポーツという、広義のスポーツである。

*7:例えば、山王戦における赤木の涙のわけを、木暮以外は味方でも知らない。