PSYCHO-PASS1期考察 福田恆存『人間・この劇的なるもの』で読み解く第20話「正義の在処」

はじめに

『PSYCHO-PASS』1期は、シビュラ社会における管理と自由の対立を描いた作品であるだけでなく、人間が自らに与えられた宿命をいかに引き受け、自己の役割を発見していくかを描いた思想劇でもある。

本稿では、シビュラ、狡噛、槙島、常守の四者を比較する。シビュラは査定の一方向性に、狡噛は私刑の閉塞に、槙島は観念による裁きに閉じていく。これに対して常守だけが、他者との応答を通じて自らの使命を発見し、個としての輪郭を獲得していく。

その頂点が、第20話「正義の在処」における彼女の内的対話である。本稿では福田恆存『人間・この劇的なるもの』を補助線として、この場面に結晶する思想劇の中核を明らかにしたい。

人間・この劇的なるもの

福田恆存は、近代的な意味での「個の確立」を疑った思想家である。私たちはしばしば、家柄、才能、職業、環境、他者との関係といった制約を取り払った先に「本当の自分」があると考える。しかし福田にとって、それは錯覚である。具体的な条件をすべて取り除いたあとに残るのは、純粋な個性ではなく、むしろ手ごたえのない抽象的な存在にすぎない。

では、「私」はどこに現れるのか。福田にとってそれは、自分では選びきれない条件や出来事を引き受け、具体的な状況に応答していく運動の中に現れる。生まれ、立場、才能、出会い、喪失、他者から投げかけられた問い。そうした「ままならないもの」は私を縛るが、同時に私に輪郭を与える。

ただし、必然性を受動的に受け入れるだけでは個は成立しない。それを自分の判断として引き受け直さなければならない。この引き受け直しは、抽象的な決意ではなく、具体的な他者との応答、すなわち「劇」の中で生じる。以下ではこの観点から、『PSYCHO-PASS』1期を読み直す。

ここまでをまとめると、次の三点になる。第一に、個は無から立ち上がるのではなく、必然性、すなわち自分では選びきれない条件や出来事を足場としてしか立ち上がらない。第二に、その必然性をただ受動的に受け取るだけでは個にはならず、それを自分の判断として引き受け直す必要がある。第三に、その引き受け直しは抽象的な決意ではなく、具体的な他者との応答、すなわち「劇」の中で生じる。この三点が揃ったとき、はじめて福田のいう「劇的なるもの」が立ち現れ、個は輪郭を持つ。

シビュラシステム——与え、そして奪うもの

いうまでもなくシビュラシステムは人々に役割を与える存在であった。配属初日の事件で監視官としてやっていく自信を失っていた常守を励ますために、彼女の友人である船原ゆきが第二話で口にした標語を引用しよう。

「成しうる者が為すべきを為す。これこそシビュラが人類にもたらした恩寵である」

ここにはシビュラシステムの判断への素朴な信頼が現れている。すなわち、シビュラは人間に対して「あなたは何者であり、何をなすべきか」を告げてくれる存在である。進学、就職、適性、精神の健全性、犯罪の可能性までもが数値化され、その判定によって人間は自分の居場所を与えられる。そこでは、人間が自らの能力や欲望や不安を抱えて迷う必要はない。シビュラが、各人にもっともふさわしい道を示してくれるからである。

この点だけを見れば、シビュラは福田的な意味での「必然性」を人間に与える装置であるかのように見える。各人は偶然の不安から解放され、自分に適した場所に配置される。「成しうる者が為すべきを為す」という標語は、まさにそのような幸福の約束として語られている。

しかし、ここにこそシビュラの決定的な倒錯がある。福田において重要なのは、必然性が与えられることそれ自体ではない。与えられた必然性を、本人が具体的な他者との応答のなかで、自分の判断として引き受け直すことである。ところがシビュラは、その過程を省略する。人間は自分で迷い、自分で失敗し、自分で応答しながら役割を発見するのではない。最初から、外部のシステムによって「あなたはこれを為すべきである」と告げられるのである。

したがって、シビュラが奪っているものは単なる自由ではない。より根本的には、人間が自らの必然性を引き受け直し、個として輪郭を持つための劇そのものを奪っているのである。

この剥奪を端的に体現しているのが縢秀星である。彼は幼少期に潜在犯と認定され、通常の選択肢から排除された。そこで問われるのは、彼が何を望み、どのように自分の人生を引き受けるかではない。問われるのは、彼の犯罪係数が社会にとって許容可能かどうかだけである。シビュラは彼に「潜在犯」という役割を与えるが、それは宿命を使命へ変えるための役割ではなく、人生の可能性をあらかじめ閉ざす烙印である。ここに、シビュラが与える役割の本質がある。それは人間に居場所を与えるように見えて、実際には人間が自分の生を劇として生きる余地を奪うのである。

狡噛慎也の閉塞

シビュラシステム下の市民の多くは、与えられた役割を自ら問い直すことなく受け入れる。そのことによって、彼らは迷いから解放されると同時に、劇を奪われてもいる。一方で狡噛は自分にしかなしえないこと・自分がなすべきことを見定めて、シビュラの枠組みから逸脱する。すなわち、槙島を裁くことができるのは自分だけだと判断し、自分に残された最後の居場所すら捨てて、槙島を殺すという一点へ自らの生を狭めていく。我々はこれをどう理解すればよいのか。福田の枠組みで言う「主体的な引き受け」として見るべきであろうか。筆者はそうは考えない。

補助線として縢のセリフを引用する。

「俺なんて5歳でサイコパス検診に弾かれて以来、ずうっと潜在犯だぜ…治療更生の見込みゼロ、だから今俺はココに居る。一生隔離施設で過ごすより、公安局の猟犬になって殺し屋家業を引き受ける方が『マシ』だから…!」

あるいは第一話で狡噛を制止するために彼を撃ってしまった常守に対して狡噛が吐露した言葉。

「もう長いこと執行官をやっている」

「迷うことなく、疑うことなく、命じられたままに獲物を仕留める猟犬の習性が」

「俺の手には染みついちまってる」

「あの銃の言いなりになって、何人もの潜在犯を撃ってきた」

「それがこの社会のためになると小綺麗な理屈を鵜呑みにして」

「いつの間にか考えることさえなくなった」

「自分がやってることがなんなのか顧みることさえ忘れていた」

(中略)

「あのとき俺は迷わなかった」

「迷えば死ぬと思っていた」

「こんなところで終わりたくない、絶対に死ぬわけにはいかない」

「それだけで頭がいっぱいだった」

この二つの台詞が示しているのは、執行官という存在が、すでに大きく選択肢を奪われた者であるという事実である。縢にとって公安局は、自由な職業選択の結果ではない。それは、隔離施設で一生を終えるよりは「マシ」な選択肢にすぎなかった。つまり彼は選んでいるようでいて、実際には選ばされている。

狡噛もまた、この「猟犬」としてのあり方を自覚している。彼はドミネーターの判定に従い、命じられるまま潜在犯を撃ってきた。現場において彼に許されていたのは、考えることではなく、執行することである。迷えば死ぬ。撃たなければ撃たれる。彼の前にいる他者はもはや応答すべき相手ではなく、撃つか撃たれるかの対象に変質する。そこでは、自分が何を裁き、何に責任を負っているのかを問う余地はほとんど残されていない。判断はドミネーターに委ねられ、執行官の手元には、「撃つか撃たれるか」という切迫した二択だけが残る。ここでは、人間が自らの行為を引き受けるための劇は成立しない。

しかし、槙島との出会いによって、狡噛は別の形で再び二択に投げ込まれる。シビュラは槙島を裁かない。ドミネーターは彼を執行対象として認識できず、法の内側に留まる限り、狡噛は彼を裁くことができない。ここで狡噛に突きつけられるのは、シビュラの下で正義をあきらめるか、シビュラから脱して自分の手で正義を執行するか、という二択である。

つまり、狡噛は完全に「制御の外」へ出たのではない。彼はシビュラの猟犬であることをやめたかに見える。しかし実際には、シビュラが作り出した二択の、もう一方の極へ追いやられたにすぎない。かつて彼は「撃つか撃たれるか」という現場の二択に閉じ込められていた。そして槙島以後の彼は、「正義をあきらめるか、私刑に走るか」という倫理的二択に閉じ込められる。どちらの場合も、彼に欠けているのは、迷い、応答し、別の可能性を探るための劇的な余白である。

したがって、狡噛の判断を単純に福田的な「主体的な引き受け」と呼ぶことはできない。たしかに彼は、佐々山の死と槙島への怒りを自ら引き受けている。しかしその引き受けは、他者との応答へ開かれるのではなく、槙島を殺すという一点へ収束していく。彼は宿命を使命へ変えたというより、使命を復讐へと圧縮してしまったのである。彼はシビュラ社会から自由になった人物ではない。むしろ、シビュラが作り出した不自由な二択の中で、最後まで劇を奪われ続けた人物なのである。

槙島聖護の失敗

では、狡噛をこの二択へ追い込んだ槙島は、シビュラの外部に立つ真に自由な個であったのか。シビュラに裁かれず、人間の意志を問い続けた彼こそ、福田的な意味での劇的人間であったのか。そうではない。槙島もまた、別の一方向性に閉じている。彼はシビュラの査定を拒んだ代わりに、自らの観念によって人間を裁くのである。

彼を知るためには、はじめて感情をむき出しにして狡噛に語った最後の戦いのシーンでのセリフを思い出す必要がある。

「他者とのつながりが自我の基盤だった時代など、とうの昔に終わっている。誰もがシステムに見守られ、システムの規範に沿って生きる世界には、人の輪なんて必要ない。みんな小さな独房の中で、自分だけの安らぎに飼い慣らされているだけだ」

ここに彼がシビュラシステムを崩壊させようとした動機のすべてが込められている。管理社会での抑圧や不自然さを嫌ったチェ・グソンとは異なり、槙島はシビュラシステムが古典的な意味での人間を消失させてしまったことに怒り、そして絶望している。

ここで槙島が想定している「人間」とは、たとえばアリストテレスが『政治学』で述べたポリス的動物、すなわち共同体の中で他者と関わりながら自己を形成する存在に近い。少なくとも槙島にとって人間とは、システムに適性を告げられ、孤立した安らぎの中で飼い慣らされる存在ではない。他者と出会い、衝突し、欲望し、選び、傷つくことで自我を形づくる存在なのである。

彼はこの要件を満たさない者を人間とは考えない。すなわちシビュラに飼い慣らされた現代の人々の大半は、彼の眼から見れば人間ではないのである。例えば、船原ゆきを殺害する際、彼は剃刀をもって頸動脈を掻っ切った。これは血抜きを行う屠殺の工程を彷彿させる。あくまで象徴的に読めば、この殺害方法は、彼女を対等な他者としてではなく、処理される身体として扱う槙島の視線を示しているようにも見える。

もちろん、作中設定として槙島の免罪体質は単なる心理的無自覚に還元できるものではない。だが思想的に見れば、彼が自らの行為を罪として経験していないこと、あるいは現実の他者を良心の対象から除外していることは、彼の色相が濁らないという設定と象徴的に響き合っている。

彼にとって、シビュラに飼い慣らされた人々は、すでに彼のいう意味での人間ではない。だからこそ彼は、ゆきを殺すときにも、他者を殺める者としての良心の痛みを引き受けない。

ここで想起されるのは、小林秀雄が嘘発見器について述べた「この機械は、被疑者が、嘘をついているという自覚を持っている事を前提としなければ、意味をなさない」という指摘*1である。機械が捉えるのは良心そのものではなく、罪の自覚が身体に残す反応である。シビュラもまた、罪そのものではなく、罪が心理的反応として表れたものを測定しているにすぎない。したがって、その自覚が存在しない者、あるいは自らの行為を罪として経験していない者に対して、機械は無力である。

これはそのままシビュラシステムにも当てはまる。シビュラは犯罪係数を測定する。しかしそれは、良心や罪そのものを測定しているのではない。罪が心理的反応として表れたものを測定しているにすぎない。だからこそ、槙島のように自らの行為を罪として経験しない者は、シビュラの網をすり抜ける。

しかし問題は、単に槙島が特殊な体質を持っていたということではない。思想的に重要なのは、彼が自らの観念によって、他者を良心の対象から除外していたことである。彼は「人間」を求めていた。しかし、その「人間」とは、現実にシビュラ社会を生きている弱く、怯え、制度に依存する人々ではない。彼が認めるのは、自らの意志で選び、自らの欲望に従い、他者との関係の中で自我を賭けることのできる、そのような意味での人間だけである。

ゆえに、彼はシビュラ社会の人々を人間として扱わない。船原ゆきを殺す場面において、そのことは象徴的に現れる。彼は彼女を殺す。しかし彼は、その行為を「人間を殺すこと」として引き受けていない。ここに槙島の罪と罰がある。彼は人間を求めながら、現実の人間を人間として認めない。人間への渇望が、現実の他者への否認へと反転している。そして、それゆえに彼の渇望は満たされることがない。

槙島はシビュラと対立しながら、シビュラと同じ構造を反復している。シビュラが数値によって人間を裁くのだとすれば、槙島は観念によって人間を裁く。シビュラは犯罪係数という物差しで、槙島は古典的人間観という物差しで、人間に優劣をつける。両者は対立しているように見えて、現実の他者をそのまま受け取らないという点では同じである。

したがって、槙島は福田的な意味での劇的人間ではない。福田において劇とは、具体的な他者との応答の中で、自らの必然性を引き受け直すことであった。しかし槙島は、他者と応答しない。他者を試験し、裁き、選別するだけである。彼は他者とのつながりを求めながら、その他者を自らの観念によってあらかじめ排除している。ここに槙島聖護の失敗がある。

常守朱の劇的成熟

常守もまた、シビュラの測定に対して例外的な強さを持つ人物である。ただし彼女は槙島のような意味での免罪体質者ではない。槙島が他者を自らの「人間」の定義から排除することで罪の意識を免れるのだとすれば、常守は逆に、他者を最後まで人間として扱い、その声に応答し続けることで犯罪へ堕ちない。両者はともにシビュラの尺度を揺るがすが、その方向は正反対である。

では、常守朱とは何者であったのか。端的に言えば、彼女は「判断する機会を奪われなかった者」である。シビュラ社会において、多くの人間は判断を免除されている。適性はシビュラが示し、幸福の形もシビュラが告げ、犯罪の可能性もシビュラが測定する。そこでは、自分が何を欲し、何を選び、何を引き受けるべきかを深く問う必要はない。シビュラがその問いを代行してくれるからである。

しかし常守は、その代行に完全には身を委ねることをしなかった。第20話「正義の在処」における四つの回想は、まさにそのことを示している。これらの回想は、単なる過去の記憶ではない。常守がこれまでの人生で受け取ってきた問いが、シビュラの真実を前にして一つずつ呼び戻され、彼女自身の使命へと結び直されていく過程なのである。

第一の回想は、進路選択の場面である。常守は中央省庁のほとんどに適性を示され、友人たちから羨まれる。しかし彼女はそこで、こうつぶやく。

「こんなに何から何まで薦められても、じゃあ結局どれがいいのか、私どうやって決めたらいいんだろう」

ここに常守の特異性がすでに現れている。シビュラが与える豊富な選択肢は、彼女から判断を奪うものではなかった。むしろ、それは彼女に「選ぶとは何か」という問いを突きつけるものだった。シビュラ下の多くの人間が、選択肢をあらかじめ「奪われる」ことによって迷いから解放されるのだとすれば、常守は逆に、与えられることの中に迷いを見出したのである。

福田の言う個の確立は、まさにこの迷いから始まる。何をすべきかを外部から告げられ、それに従うだけなら、そこに劇はない。個は、自らの前に置かれた条件をどう引き受けるかという迷いの中で、はじめて輪郭を持ち始める。

第二の回想は、縢秀星との会話である。直前の常守の「私どうやって決めたらいいんだろう」を受けて、いらだちを込めた調子で答える。

「分かんねえよ。俺なんかに分かるわけねーじゃん。あんたは何にでもなれた。どんな人生を選ぶことだってできた。それで悩みさえしたんだろう?すげえよな、まるでシビュラができる前の爺婆みてえだ」

「うん、すごいよね。誰もが自分の人生を手探りで選んでた。それが当たり前の世界があったなんてね」

「今じゃシビュラシステムがそいつの才能を読み取って、一番幸せになれる生き方を教えてくれるってのに。本当の人生?生まれてきた意味?そんなもんで悩む奴がいるなんて、考えもしなかったよ」

「そうだね、重たくて辛い悩みだよ。でもね、今では思うんだ。それを悩むことができるって、本当はとても幸せなことじゃないかって」

この場面は、常守の特権性を残酷なほど明らかにする。だからこそ、常守の迷いは単なる優柔不断ではない。それは、シビュラ社会においてほとんど失われた自由の痕跡である。自分の人生をどう生きるかを悩むこと。それは重く、苦しく、時に人を不安にさせる。しかしその重さこそが、人間が自らの生を自分のものとして引き受けるための条件でもある。常守は縢との対話を通じて、そのことを知る。悩むことは不幸ではない。むしろ、悩むことができるということ自体が、シビュラ社会においては一つの幸福なのである。

第三の回想は、槙島との対話である。

「僕はね、人は自らの意思に基づいて行動した時のみ価値を持つと思っている。だから、様々な人間に秘めたる意志を問い正し、その行いを観察してきた」

「そうね。あなたの気持ち今なら少しだけ分かるかも」

「そもそも、何をもって犯罪と定義するんだ?君が手にしたその銃、ドミネーターを司るシビュラシステムが決めるのか?」

「違うよね。それがそもそもの間違いだった」

「サイマティックスキャンで読み取った生体力場を観察し、人の心の在り方を解き明かす。科学の叡智はついに魂の秘密を暴くに至り、この社会は激変した。だが、その判定には人の意思が介在しない。君達は一体、何を基準に善と悪を選り分けているんだろうね」

「きっと大切だったのは、善か悪かの結論じゃない。それを自分で抱えて、悩んで、引き受けることだったんだと思う」

「僕は、人の魂の輝きが見たい。それが本当に尊いものだと確かめたい。だが、己の意思を問うこともせず、ただシビュラの信託のままに生きる人間達に、果たして価値はあるんだろうか?」

「無いわけ無いでしょ!あなたが価値を決めるって言うの?誰かの家族を、友達を、あなたの知らなかった幸せを!」

槙島は、人間は自らの意志に基づいて行動したときのみ価値を持つと語る。そして、シビュラの信託のままに生きる人間たちに、本当に価値があるのかと問う。

常守はこの問いを退けない。むしろ彼女は、槙島の問いの核心を理解している。シビュラの問題は、単に誤った判定を下すことにあるのではない。善悪の判断から人間の意志を取り除き、人間が自分で悩み、抱え、引き受ける過程を奪ってしまうことにある。

だから常守は、善か悪かの結論そのものよりも、それを自分で抱え、悩み、引き受けることが大切だったのだと理解する。この言葉は、福田のいう劇的なるものを、常守自身の言葉で言い直したものに近い。必然性を前にして、それを自分で抱え、悩み、引き受ける。その過程においてのみ、人間は自分の生を自分のものにすることができる。

しかし常守は、槙島に同化しない。槙島は「人間」を求めながら、現実の人間を見なかった。常守は、槙島の問いを理解しながら、槙島が切り捨てた現実の人間を守ろうとする。この点で、常守は槙島の問いを最も深く引き受けた人物*2でありながら、槙島とは正反対の場所に立っている。槙島が理想化された人間観を持ち出すのに対し、常守は「誰かの家族、誰かの友人、あなたの知らなかった幸せ」という具体的な人間の生をもって対峙する。

第四の回想は、ゆきとの対話である。

「面白くって楽ちんで辛い事なんて何もなかった。全部誰かに任せっ放しで、何が大切な事なのかなんて考えもしなかった。ねえ朱、それでも私は幸せだったと思う?」

「幸せになれたよ それを探すことはいつだってできた 生きてさえいれば 誰だって」

ここで問われているのは、シビュラに任せて生きた人間の幸福にも価値があったのか、という問題である。ゆきは、自分は何も深く考えず、すべてを誰かに任せて生きていた。それでも自分は幸せだったのかと問う。この問いは、槙島の問いを死者の側から反転させたものだと言える。槙島の論理に従えば、ゆきのような生は価値の低いものになる。自らの意志を問い、選び、引き受けることをしなかった生だからである。

しかし常守は、そのようには考えない。ここで常守が肯定するのは、強い人間だけの尊厳ではない。自ら選び、自ら悩み、自ら意志することのできる人間だけが守られるのでもない。たとえシビュラに支えられ、誰かに任せ、深く考えないまま生きていたとしても、その生は誰かの友人であり、誰かにとってかけがえのないものだった。常守は、その弱さを含めて人間を守ろうとする。

以上の四つの回想は、それぞれ別々の記憶ではない。それらは、常守がこれまでの人生で受け取ってきた問いの連鎖である。

第一の回想は「選択肢を与えられるとはどういうことか」を問う。

第二の回想は「悩むことにはどのような意味があるのか」を問う。

第三の回想は「人間の価値を誰が決めるのか」を問う。

第四の回想は「シビュラに任せた人生にも幸福はあったのか」を問う。

これらの問いは、常守が自ら選んだものではない。彼女に降りかかってきた必然性である。しかし常守は、それらを外部からの負荷として処理せず、自分の中に残し、互いに響き合わせ、自分自身の判断として引き受け直す*3ここに福田のいう「劇」が成立する。彼女は、他者の声に呑み込まれるのでも、それを切り捨てるのでもなく、それらに応答することによって自分の立つ場所を見出していく。

この瞬間、シビュラによって与えられた監視官という役割は、常守自身の使命へと変わる。

召命とは、外部から一方的に役割を告げられることではない。それならば、シビュラの適性判定と変わらない。真の召命とは、自分では選びきれなかった出来事や出会いが、後から一本の線としてつながり、「これは自分が引き受けるべきものだった」と理解される瞬間である。

常守にとって、第20話の内的対話はまさにその瞬間だった。シビュラに与えられた監視官という役割は、縢の剥奪、狡噛の怒り、槙島の問い、ゆきの死、シビュラシステムの真実を経由することで、彼女自身の使命へと変わる。

ここで初めて、「成しうる者が為すべきを為す」というシビュラの標語は、シビュラ自身の手を離れて、本当の意味を持つ。シビュラがこの言葉を語るとき、それは外部からの査定でしかない。あなたにはこの適性がある、だからこの役割を果たせ、という命令である。しかし常守においては違う。彼女は、与えられた役割をそのまま受け入れたのではない。他者との応答の中で、それを自分の使命へと引き受け直したのである。

したがって、常守朱の成熟が「劇的」であるのは、単にそれが感動的だからではない。彼女の成熟は、福田の意味で劇的なのである。すなわち、逃れがたい必然性を前にして、それを他者との応答の中で自分の判断として引き受け直し、その結果として個が輪郭を持つ。第20話「正義の在処」は、その過程が最も鮮やかに結晶した場面なのである。

結論

『PSYCHO-PASS』1期の主題は、単なる管理と自由の対立ではない。それは、人間が自らに与えられた必然性を、いかに自分の判断として引き受け直すかという問題である。

シビュラは役割を与えるが、その役割を本人が悩み、応答しながら引き受け直す過程を奪う。狡噛はシビュラを離れるが、正義を私刑へと圧縮してしまう。槙島は人間の意志を問うが、現実の人間を自らの観念によって裁く。

これに対して常守朱だけが、他者の問いを切り捨てず、それらに応答することで自らの立つ場所を見出す。彼女において初めて、「成しうる者が為すべきを為す」という言葉は、外部からの査定ではなく、内面から引き受けられた召命となる。

シビュラが人間から奪った劇を、常守はシビュラの内部にいながら回復する。だからこそ『PSYCHO-PASS』1期は、管理社会批判であるだけでなく、人間がいかにして宿命を使命へ変えるかを描いた思想劇なのである。


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*1:『考えるヒント』の『良心』の章参照。

*2:槙島の不幸は常守の変遷に人間性の発露を見なかったことにある。

*3:常守はこれら仮想的対話の相手に同調しつつも誰とも完全には意見を一致させなかったことにも注意したい。他人の意見に付和雷同することなくあくまで自身の軌跡に即した価値判断をし続けたからこそ、彼女の個はくっきりとした輪郭を持つ。先ほどの回想の直後の、「あなたたちの理論なんてどうでもいいわ」というセリフに代表される、シビュラに狡噛の条件付き助命を取り付けた交渉の場面は、システムに対する個の確立という意味で、ついに常守以外の誰も到達することのなかった輝きをひときわ放つものである。

キメラアント編考察➂ 少年マンガの解体・悲劇の形式として読む

1.はじめに

 筆者は以前、キメラアント編は現代少年マンガの最高到達点であると書いた。そして同時に、キメラアント編は少年マンガの形式をことごとく解体した作品としても理解されなければならない。今回はそのことについて書く。極端に単純化して書くならば、少年マンガの形式とは、「主人公が敵を努力と友情によって打ち倒し勝利に至る」というものだ。より詳細に記述すると、(善なる)主人公は彼*1の目指す目標の壁となる(悪たる)敵と対峙する。彼は努力を通じて実力を向上し、かつは仲間との友情を深めて精神的にも成熟し、敵に勝利することでついには目標に達し、同時に彼の信じる価値は変遷を経ながらも最終的に肯定される。

 また、結論の一部を先に示しておくと、本編の真の主人公はメルエムであった。ゴンは数ある登場人物の一人にすぎない。そして、主人公たるメルエムは、偉大な天才と対峙し、棋力という能力を急速に発展させてゆき、真の王あるいは神に限りなく近づく精神的発展を見せながら、ついには生きるに値する価値を見つけ・その望外の充足に至り、生そのものを肯定しつつ滅び去っていく。正しい行為が、正しい理由により、避けがたく破滅を招く。すなわち悲劇の形式をまとう。本編は敵が主人公であることにくわえて、主人公は悲劇の形式により滅び去っていく。つまり、二重の意味で少年マンガの形式を裏切る*2

2.少年マンガの形式

 本論を進めるために、まずは少年マンガの形式を検討しなければならない。少年マンガは多少のバリエーションはあれども、強固な骨格が常にその物語を貫いてきた。すなわち、➀主人公は目的を持って物語を前進させる存在であると同時に、読者が倫理的に身を預けるための装置である。そして、➁物語の要請から主人公の目的達成を阻む敵または試練が要請される。主人公はそれらを乗り越えるために、➂努力を通じて実力を向上し、あるいは➃精神的な成長をともないながら仲間を増やし・仲間と協働することを学ぶ。そしてついには敵または試練を乗り越え、つまりは➄勝利して目的を達成し、彼の信ずる価値は実力の向上・精神的成長によって変遷を経ながらも最終的に肯定される。以下ではより詳細にこれらの要素を検討する。

2-1.物語装置としての主人公

 主人公とはその定義上、物語世界の中心である。現実世界とは異なるもう一つの世界である物語世界において、視点を固定することは、なによりもまず物語世界への理解と没入を容易にするものとして要請される。また、主人公とは彼固有の動機に突き動かされる存在である。世界は事実を提示されるだけでは理解も没入も難しい。主人公(の動機)というレンズを通して世界を意味付けすることで、物語世界における存在や出来事は意味を持った連続として認識することが可能になる。要するに、動機があることによって「今どこにいて・どこへ向かっているのか」が明らかになる。以上、主人公という装置は、客観的には視点の固定、主観的には文脈の限定という機能を果たすことにより、物語への理解・没入を助けるものである。なお、主人公は物語を駆動する役割も担っている。主人公が行動することで視点は移動し、出来事が起こる。つまりは物語も動く。どのように行動するかは動機によるところが大きいのであるから、動機は主人公そして物語の、動力源・指針にもなるのである。

 ここまでは少年マンガに限らない、物語一般に広く妥当する主人公としての機能であった。以下では『荒木飛呂彦の漫画術』を参照し、少年マンガ固有の主人公としての機能を検討する*3

 荒木は漫画の「基本四大構造」にテーマ、キャラクター、ストーリー、世界観があるとし、その中でもキャラクターが超重要事項であるとしている。そして、キャラクター造形に最も大事なものは動機であるともしている。

「この時に一番大事なのは『動機』です。主人公は何をしたい人なのか、その行動の動機をはっきり描かないと、キャラクターというものは出来上がっていきません。「人がなぜ行動するのか」を描くのは非常に重要で、ここが曖昧だと、読者は主人公に感情移入できないのです。」

ここで見落としてはならないのは、主人公とは読み手が感情移入する対象であると当然に前提されている点である。読み手は主人公に共感し、彼と自己とを同一化し、彼に起きる出来事に一喜一憂する。

 また、主人公は読者が感情移入しやすいように、または安心して感情移入ができるように、倫理的であることが求められる。

「この時*4に気をつけなければならないのは、少年誌の場合、その動機が正義や友情といった、読者の自然な倫理観に照らして好ましいものでなければならない、ということです。『少年ジャンプ』の三大原則が「友情・努力・勝利」であるように、実際、少年漫画の読者はこうした「正しいこと」への共感力が強く、倫理的に好ましくないものには拒否反応を示します。」

つまりは、主人公は倫理的に信頼可能な存在でなくてはならない。主人公は未熟であり、過ちを犯すことはあっても、最終的には「正しい選択」をする。読者はその選択に同意し、自身の倫理判断を主人公に委ねることができる。この信頼関係が成立している限り、読者は物語世界に安心して身を預けることができる*5

 以上をまとめると、物語装置としての主人公には、➀視点の固定、➁目的の設定(=文脈の限定)、➂物語の駆動、➃感情移入先、➄倫理的指針といった機能が備わっていることがわかった。

2-2.物語の要請として召喚される敵または試練

 つづいて敵または試練については、先の荒木本の続編である『荒木飛呂彦の新・漫画術 悪役の作り方』を参照しながら検討する。荒木によると、主人公と敵とは対となる存在であり、主人公の善性を引き立てるために、敵の「悪性」はくっきりとした対照として現れることが必要であるとされる。

「主人公に対する悪役(敵)は必ずセットで考え、ほぼ同時に出来上がっていかないといけません。」

「闇が濃ければこいほど光がまぶしくなるように、敵キャラをどれだけ「悪」にできるかで、主人公の「善」が輝いていくことになります。」

ここで注意すべきは、主人公は善であると同時に、敵は悪役であることが自明のものとされている点である。主人公が上述の倫理的指針として「善」である前提から、その対である敵は「悪」であることが要請されるのである。

 また、敵は「悪」であるだけでなく、「強大」であることが物語上要請されると荒木は言う。

「相手が強ければ強いほど、主人公vs.悪役の戦いがおもしろくなりますし、主人公はその困難な戦いを通して大きく成長できます。」

「悪役とは主人公の行く手を阻む何かであり、主人公がなんとしても乗り越えていかなくてはいけないものです。その何かが大きければ大きいほど、漫画はおもしろくなっていきます。そのためにも、悪役は徹底的に「悪」で「強い」という設定にするのが基本です。」

つまり、敵が「強大」であることが必要なのは物語に緊張感(張り合い)を与えるためである。そして、主人公に立ちはだかる壁として強大であればあるほど、主人公を成長させる物語上の必要性・きっかけとしての機能も果たす。

 物語装置としての主人公のところでみてきた動機は、主人公の内発的なものであった。一方、敵として立ちはだかる壁を打ち倒す必要性とは外在的なものである。今の実力のままでは敵を倒せないとき、強くならなければならない・強くなりたいという、努力の前提となる動機が生じる。

2-3.努力を通じた実力の向上

 少年マンガにおいて、努力はそれ自体に価値があるわけではない。努力によって実力が向上していくことに価値がある。再び『荒木飛呂彦の漫画術』を引く。

「前章で「キャラクターは必ず成長するように描くことが大事だ」と書きましたが、特に少年漫画は、常にプラス、プラス、プラス……と、ひたすらプラスを積み重ねて、どんどん上がっていく、これがヒットするための絶対条件です。」

読者の快感原則に従って果てしなく主人公は上り詰めていくわけだが、その裏付けと手ごたえがなくてはならない。すなわち、実力の向上には努力という裏付けが必要とされる。主人公が壁にぶち当たり、あるいは更なる飛躍の準備として、特訓または修行のパートがさしはさまれるのは定石といってよい。

 実力向上の背後に必ず努力があることの意義は説得力を与えることのみにあるのではない。努力をすれば報われるという「神話」を肯定する役割も果たす。読者は努力が報われる手ごたえが欲しい。努力は報われなくてはならない。努力が、特に主人公の努力が報われないというプロットは少年マンガ史上ほとんどないことに思い当たると、事実上のタブーと言っていいほど強い物語上の要請が働いていることがわかるだろう。

 ここまでみたように、実力向上には努力の裏付けが必要であり、努力はかならず報われなくてはならない。いわば努力と実力向上は互いが互いを必要とする相補的な関係にあるといえる。しかし、努力を伴わない実力向上という例外が少年マンガの中で伝統的に認められてきたことについても言及しなければならない。海外のファンダムで「The Power of Friendship」と揶揄されるご都合主義的なパワーアップのことである。スーパーサイヤ人は怒りの力によって飛躍的に強くなり(「Rage Power-up」などと呼称される)、ナルトは「Friendship no Jutsu」の使い手とされ、ワンピースのキャラクターたちは「Nakama power」で敵を打ち倒す。冨樫作品である『幽遊白書』も例外ではない。相手方の汚いやり口によって満身創痍のまま敵方の大将である吏将に臨んだ桑原は、雪菜への「愛の力」によって一撃で吏将をぶっ飛ばし、仲間と袂を分かち武道のために魂を売った戸愚呂弟を幽助は友を思う力によって打ち倒す。

戸愚呂弟「他の誰かのために120%の力を出せる…… それがお前たちの強さだ……。」

以上みてきた努力と実力向上との間の例外規定の意味するところはこうだ。努力は大事であるが、より一層に大事であるのは勝つことである。少年マンガは説得力を犠牲にしても主人公を勝たせることを優先してきた蓄積があり、慣例として認知されるに至っているのである。

 これまで主人公・敵または試練・努力による向上の3つの要素をみてきたが、キメラアント編の前編であるグリードアイランド編はまさにこの三要素の調和という意味において、教科書的な作品であった。すなわち、ゴンたちは数多くのミッションを攻略してクリアのたびに報酬を得る。そうして少しずつステップアップしていく。大きな壁に直面すれば、師範役のビスケの適切な導き=修行によって大きく成長し、ついには本編のラスボスに当たるゲンスルーを打ち倒す。ゴンの成長過程に「適度な悪役」は打ち倒される。さらにはゴンにより治療が施されることによって、ゴンの強さにくわえて善性が示される。また、グリードアイランドではチームプレイが要求されたことにも注意したい。ゴンはキルア・ビスケ・ヒソカゴレイヌら共闘しながら目的を達成する。一人で達成できる目的はたかがしれている。主人公には味方が必要であり、それは友情の契機となる。

2-4.友情あるいは精神的な成長

 主人公一人の力では敵に勝つことができないというテーゼを最も素直に反映する少年マンガのジャンルはチームスポーツであろう。『H2』のようにまずは仲間集めから物語が始まることも多い。また、仲間集めに物語の焦点が当たらなくとも、様々な経緯から少しずつ有力なプレイヤーが主人公のもとに集まってチームが完成していく。『スラムダンク』、『キャプテン翼』、『アイシールド21』、『黒子のバスケ』、『ハイキュー‼』といったジャンプにおけるスポーツマンガの大ヒット作品は例外なくその原則に忠実である。ただし、一緒にプレイするだけでは烏合の衆にすぎない。仲間との信頼あってこそのチームスポーツである。仲間との信頼関係の構築には精神的な成長が欠かせない。

 筆者は以前『スラムダンク』でこの問題を扱った。物語のラストである山王戦において、湘北は相手チームとの圧倒的な実力差を前にプレイヤーたちは変化を迫られる。流川は個人としての勝利を一度棚上げにすること、つまりは個人技に走らずパスも積極的に出すことで事態を打開する。赤木は長らくワンマンチームであったために、自身の敗北がチームの敗北につながると思い込んでいる。そして河田に何度も抑え込まれて自分を見失う。しかし、ついには自身の敗北とチームの敗北とを切り分けて、中心選手であることを降りて「泥にまみれる」覚悟に至る。

赤木「おそらく現段階でオレは河田に負ける でも湘北は負けんぞ」

ここにあるのは「個の勝利」より「チームプレイ」を優先し、そのことにより「全体の勝利」に至るという論理構造である。そして、個人の技量の成長には相応の時間と準備が必要な一方、チームプレイヤーとしての精神的な成長はそれを必ずしも必要としない。よって、人はあるとき急速に大人にならざるを得なくなるように、立ちはだかる壁は精神的な成長を要求し、物語においては精神的な成長の理由となる。

 また、少年マンガは仲間のために戦うプロットが極めて多い。数え上げるときりがないが例えば『ONE PIECE』ではナミ、ロビン、エースのために、『NARUTO』ではサスケのために、『BLEACH』ではルキアのために、『鋼の錬金術師』ではアルのために、『ワールドトリガ―』では千佳の兄である麟児のために、『僕のヒーローアカデミア』では爆豪のために、『鬼滅の刃』では禰豆子のために、それぞれ命をはった戦いに飛び込んでいく。主人公たちは使命を帯びる。自分のためではなく誰かのために戦うとき、ルフィはライバルでもある海賊たちと共闘し、一護はさまざまな人々を同志に巻き込み、オサムは頭を垂れて先達に教えを乞い、炭治郎は数ある理不尽を乗り越えていき、エドは人との出会いを重ねて生命の重みを知る。

 ここまでみてきたように、友情は勝利をもたらすとともに、勝利は友のためにある。そして、精神的成長がより強い友情を可能にし、友情のためにつまりは他人のために戦うからこそ主人公らは精神的な成長を遂げる。つまり、友情と精神的成長においても互いに相補的な関係にある。

2-5.勝利による価値の肯定

 主人公は努力によって実力を向上し、精神的成長を伴いながら友情を深めて仲間と連携し、最終的には敵に勝利する。少年マンガにおける勝利のもっとも基本的な原則は、勝利の主体は主人公であることだ。主人公は読者の感情移入先であるために快楽原則に応える必要がある。そして、これまでみてきたように、主人公には内発的な動機や誰かを助けるといった外在的な戦う目的があり、勝利はそれらを満たすものでなくてはならない。したがって、必然的に勝利は肯定的なものとして扱われる。

 また、勝利は目的を達成するだけでなく主人公が信奉する・拠って立つ価値を肯定するものでもなければならない。ジョジョのシリーズや鬼滅の刃で善なる主人公が悪である敵を打ち倒し、ゴンがゲンスルーに勝利する場面においては、必ず主人公の信じる価値・拠って立つ倫理的正しさが高らかに賛美される。主人公と敵との戦いとはそれぞれが信奉する価値を賭けた「イデオロギー闘争」でもある。『ONE PIECE』の4巻SBS(読者の質問コーナー)での「何故ルフィは敵を殺さないのか?」の質問に対する作者の回答はそれをはっきりと示したものである。

「なぜ殺さないか。この時代、人々は自分の信念に命を懸け、戦っています。ルフィは戦闘において敵の信念をくだいているのです。敵にとって信念をくだかれる事、敗北する事は、死ぬ事に等しい痛みを受ける事となるわけです。殺す殺さないは二の次で、勝つ事、敗ける事とは彼ら海賊にとってそういう事なのだと僕は思います。」

 くわえて、主人公が信奉する価値や信念は勝利を求めて奮闘する中で変遷し深まっていくことが望ましいとされる。最初から揺るがず・それ以上深まらない価値や信念はストーリーテリング上魅力に欠けるからだ。『スラムダンク』における桜木の山王戦でのセリフ「大好きです 今度は嘘じゃないっす」やラストでの「天才ですから」の字義的な意味合いは、それまでにも彼の口から出た内容の反復にすぎないが、乗り越えてきた試練や彼の内面の変遷を経て全く異なった輝きをみせる。また、ジョジョ第五部『黄金の風』における「真実に向かおうとする意志」は、主人公たちの「ボス」であるディアボロの真意が明らかになってディアボロらとの戦いが激しさを増していくにつれ、ディアボロの「真実をもみ消した上に立つ永遠の絶頂」と対照性が際立っていく。あるいは『るろうに剣心』における剣心の「不殺」の信念は、戦いの中で斎藤一の「悪・即・斬」や志々雄真実の「弱肉強食」、雪代縁の「人誅」と激突することを通じて、刀を鍛錬するように何度も激しく打ち鍛えられて、その都度強度を増していく。『鋼の錬金術師』でのエドは、自分と弟の身体を取り戻すための旅を続けるなかで、等価交換と人間の尊厳についての思索を深めてついには「真理」に勝利する。『呪術廻戦』の虎杖は「正しい死」の命題に呪縛されながら、仲間を喪い・「罪」を背負って心身ともに傷だらけとなる苦闘の末、宿儺の「強者だけに価値ある」という信念に対する反対命題に到達する。

 以上、本節の内容をまとめると、少年マンガにおける勝利には以下の要素が含まれている。➀主人公が勝利する。➁勝利により目的が達成される。➂勝利は肯定的なものとして捉えられる。➃勝利により主人公の信奉する価値もまた肯定される。➄信奉される価値は実力の向上と精神的な成長の中で、変遷する。

3.キメラアント編における形式の逸脱

 前章まででキメラアント編が少年マンガを逸脱していることを示すための道具立てがそろった。以下ではゴンとメルエムとを比較しながらキメラアント編の具体的な検討に入る。まずはゴンとメルエムが主人公という装置としてどのように機能したかをそれぞれ検討し、次に形式の逸脱が友情・努力・勝利をどのように再編したかをみる。最後に、少年マンガの中核的な部分であるところの(読者の快感原則に即した)勝利とそれによる主人公の信奉する価値の肯定が、キメラアント編ではなぜ・どのように機能しないのかをみる。

3-1.ゴンの主人公性の検討

 キメラアント編に入るまでの『Hunter×Hunter』における主人公は間違いなくゴンであった。父にあこがれてハンター試験を受験し、そこで友達になったキルアを連れ戻すためにゾルディック家に訪問し、ヒソカに借りをかえすために天空闘技場に挑戦する。そして、グリードアイランドというゲームが父を探す手がかりになることを知ってヨークシンへ向かい、バッテラを介してグリードアイランド世界へ参入して最終的には完全クリアを果たす。ここまで物語は常にゴンを中心に動き、ゴンの意思が物語を駆動してきた*6

 しかし、キメラアント編に至っては全く勝手が異なってくる。登場人物は回を追うごとに増加し、様々なキャラクターの視点から物語が語られる群像劇の様相を呈してくる。さらに重要なことに、本編でのゴンの目標はカイトを取り戻す/治癒することであり、人類側にとっての喫緊の課題であるキメラアントの討伐ではない。したがって、ゴンがいなくともキメラアントの討伐は進展していく・せざるを得ないし、ゴンがいなくとも物語は駆動されていく。ゴンは本編でのラスボスであるメルエムと戦うことどころか、出会うこともなく物語は結末を迎えることになる。よくよく考えるとこれは異常なことだ。

 そして、この目標の齟齬は物語が進むにつれて致命的なものとして現れてくる。すなわち、ゴンがピトーと対する場面である。その少し前の王宮突入時にゴンはメレオロンがドラゴンダイブにより即死した可能性に直ちに思い当たり、一人ユピーに向かって走っていく献身をみせてシュートを激しく感動させた。そのゴンが、カイトの治療の可能性にすがってピトーとともに一時間を空費する。ゴンはキルアとともにその場で無防備なピトーを撃破、少なくとも無力化して、別の戦いの場へ加勢するべきだった。それをしなかったのはカイトを治療させるため*7であり、つまりは人類に対する責務及び討伐隊の仲間への信義よりも個人的な動機を優先したのだった。王宮突入以降は時間との勝負であり、モラウはプフの奇計により時間を浪費させられ、シュートらは命を削って時間を稼いでいる中で、ゴンの判断は裏切りに等しい。

 さらには仇敵を前にゴンは冷静さを失い、かつて「ゴンを殺す」とイルミに言われて身動きできず「お前に友達をつくる資格はない」との言葉で深く傷ついているキルアを、彼にとって最も残酷な言葉で刺す。くわえて、人間の優れた価値と善性の象徴であり、人類とキメラアントとの共生の・もう一つの可能性の希望でもあった、討伐隊によって本来守られるべき「人間」の「弱者」であるコムギを「殺す」と言い放つ。王宮突入時にメルエムがコムギにみせた「一個の生命に対する慈悲溢れる振る舞い」をしたこと、ネテロとゼノが「これを侵してはそもそもの大義を失い人ですらなくなる」として、その行為に敬意を払って手を出さなかったことを思い出そう。ゴンはキルアや討伐隊の仲間との「友情」を踏みにじっただけでなく、人間としての倫理をもかなぐり捨てようとしていた。読者はキルアの言い表せない悲しみに、ピトーの必死の懇願に感情移入し、もはやゴンに感情移入することはできない。

 ゴンの倫理的な指針は壊れてしまった。ゴンは怪物となった。怪物化が身体的に反映された・視覚的に表現されたものが、「ゴンさん」化である。これは荒木の定式化した「プラスを積み重ねて、どんどん上がっていく」基本原則を無視するものだ。未来を犠牲にして・先食いして現在を最大化する。そこに努力の裏付けはなく、一時の激烈な感情の発露に身をゆだねて命を削った結果だけが残る。ゴンの急速な成長は、ご都合主義的なパワーアップである「The Power of Friendship」の、合理的な理由づけを含んだ暗いパロディである。

 ゴンはすべてを犠牲にしてでも、つまりは仲間との「信義」、キルアとの「友情」、守るべき者を前にした「倫理」、裏付けとしての「努力」を犠牲にしてでも意志を貫徹させようとする。そして最後には仇敵に「勝利」する。その代償が怪物化である。しかし、ゴンの内面は怪物化以前以後で変わっていないことに注意しなければならない。ハンター試験でのハンゾウ戦で、ゴンはまったく彼にかなわないのに・次の対戦相手と戦う決断をすればいいだけなのに、頑なに「まいった」と言わなかった。あるいは、グリードアイランドでのゲンスルーとの戦いでは、両腕を犠牲にしてゲンスルーに迫り、自分がいかに「冷静でイカれてるか」を相手に理解させた。つまるところ、これまではたまたまゴンの異常さがポジティブな形でしか発現しなかったにすぎない。ゴンはそのキャラクター性を貫徹した結果、彼の輪郭を形作る主人公という器を内破するに至った、ということだ。

3-2.メルエムの主人公性の検討

 つぎに本来的には最大の敵であるメルエムの検討に入る。キメラアント編は視点が複数化する群像劇だとはすでに書いた。その中でメルエムに注目すると、彼の非人間的な怪物性を描写する序盤においては、客観的な・第三者視点から彼が描かれていることがわかる。そして、話が進むにつれメルエムの心情の吐露が増えていき、メルエムの眼を通して作品世界が描写される場面が増えていく。

 メルエムは生まれついての王ではあるが、生まれついての主人公ではない。そのため、彼には物語を駆動するための動機・目的がない。むしろ、それらの不在が物語を貫く軸となっている。生きる目的の不在に気づき、それを模索し獲得し最後には達成する。「余は一体、何の為に生まれて来た…?」という彼の独白は、彼が実存主義的な主題を抱え込んだ主体であることを示す。すなわち、あらかじめ定められた本質(運命・使命)を持つのではなく、まず現実に存在(実存)し、その後の選択や行動によって自らの本質を創り上げていく。

 やや唐突ではあるが、文学史の振り返りがここで必要となる。というのも、ゴンからメルエムへの主人公の交代は、近代文学における人間観の変容と驚くほど類似しているからである。ゴンは19世紀のリアリズム小説的(バルザックディケンズトルストイなど)な伝統的主人公であった。主人公たちはしばしば社会的な上昇志向を持ち、環境や運命と闘う「英雄的個人」として描かれた。彼らは明確な目的意識を持ち、物語を通じて成長や成功を達成する。20世紀に入ると、第一次・第二次世界大戦、産業化、全体主義の台頭といった歴史的激変によって人間の疎外と無力感が前景化する中で、主人公像も変化する。すなわち、疎外感、不安、自由の重み、そして存在の意味を探求する内省的な人物像へと移行していく。このいわば「外的な冒険」から「内的な探求」へのシフトは、ゴンの「カイトは生きてる!」と信じていた希望が、つまりは自分の力で運命を切り開くことができるという確信が打ち砕かれ、彼が倫理的指針含め主人公として自壊していくなかで、20世紀の実存主義的主人公(サルトルカミュカフカなど)として急速な精神的・倫理的成長を遂げるメルエムに主役が切り替わることと軌を一にする。

 実存主義において主人公は「思想の説明役・体現者」ではない。主人公の生そのものが「問い」として配置されることで、物語の中心装置となる。目的を達成するために揺るがなくなってしまったゴン(そしてネテロ)は、内面的な変遷を遂げる余地を失っており、主人公に適さない。ゴン(とネテロ)が目的達成のために人間性を失い怪物化していくのと対照的に、メルエムはさまざまな徳目を身につけて人間化していく。先述のようにコムギを前に「一個の生命に対する慈愛溢れる振る舞い」をみせ、自らを滅ぼしに来た刺客であるネテロに対して「共存を説く寛容さ」あるいは「全種族を導く責任感」と、彼の演武を眼にして「心からの敬意・賞賛」を示す。そして、直属護衛軍の三名を「余には過ぎた者達だ…」と述懐し、コムギには「感謝」の言葉を残してこの世を去っていく。ここにおいては、コムギらとの交流の中で様々な感情的揺らぎをみせて読者を引き込み、内面的な変遷・成長を遂げるメルエムこそが主人公にふさわしいのである。

3-3.友情・努力・勝利の再編

 キメラアント編では主人公とラスボスが再編されることにくわえて、少年マンガの根本原則たる友情・努力・勝利もまた再編される。キメラアントの主力である王及びその直属護衛軍三名に対して、撃破の戦果をあげたのはゴンとネテロであったが、そのどちらもが「怪物を倒すために自らも怪物となった」のであった。先述ようにゴンは「勝利」には「友情」も「努力」も紐づかない。また、ネテロは「己を高めんが為捧げ続けた長き時 その成果」によってはメルエムに手も足も出ず、自身の誇りとする武勇とは全く別の次元にある武力をもって「勝利」した。つまり、彼らは「勝利」が他の価値と両立不可能になったとき、他のすべてを犠牲にする判断をした。そして、その判断をした者だけが「勝利」を手にしたのだった。

 一方でメルエムの場合、「努力」は戦闘能力向上に向けられない。純粋に知的なゲームにのみ費やされる。彼はとうとう軍儀においてコムギに「勝利」することはなかったが、その「努力」は強さの放棄(支配欲の克服)と精神的成長へとつながっていく。あるいはコムギとの関係は、従来の垂直的な主従関係から水平的な個人間の関係へと道を開くものであり、メルエムはコムギとの「友情」または「愛情」を通じて孤独から解放され、精神的成熟を得る。また、メルエムは武勇としての「勝利」に強い関心を示さない。「努力」など要することなく当たり前のものとして手に入るものだからだ。対照的に軍儀での「勝利」には強い執着を示すけれども、先述の通りそれに到達することはない。にもかかわらず彼はコムギと軍儀を打つことそのものによって救われ、生の充足に至るのである。

 友情・努力・勝利の再編は、主人公であるゴンやメルエムだけを対象とするものではない。まずは「努力」について。人類の文武の代表者としてメルエムに相対したコムギとネテロは、すでに果てしなく「努力」をし切った者たちであった*8。しかし、超人的な研鑽がもたらしたのは「自らと並び立つ者がいない境地へと到達する孤独」である。コムギが「負けたら死ぬ」と自らに誓いを立て、ネテロが「敗けた相手が頭を下げながら、差し出してくる量の手に間を置かず、応えられる様になった」のは、「勝利」が自明のものとして無価値化されてしまったからだ。メルエムにとって軍儀での「敗北」が救いであったように、彼らにとっても「敗北」は絶望的な孤独を救う福音に他ならなかった。また、本編において「友情」は味方だけでの・人間の間だけでのものではない。人類を救うという使命を帯びた討伐隊の面々は、ほとんど初対面であろうとも強い信頼関係によって結ばれている。そこに互いが討伐隊の同志であること以上の理由はない。一方で、敵・味方または人間・キメラアントを越えて、それに値する十分な理由・エピソードを背景に、メルエム・コムギ、モラウ・コルト、キルア・イカルゴらの間で「友情」やそれに類した信頼関係が取り結ばれていく。

 そして、状況やそれに応じた戦略の複雑化する本編において、「勝利」条件は敵の撃破とはかぎらない。例えば、ナックルがユピーと対峙するにあたって、彼の勝利条件は天上不知唯我独損によりユピーを「破産」させて無力化することだった。すでに天上不知唯我独損の発動条件を満たしており、後は隠れていればよいという場面で、ナックルは侮辱されたシュートのために不要な殴り込みをかけて勝利条件を危険にさらす決断をする。

ナックル「ワリィついでだ もう少しここで我慢してくれや まだ面と向かって野郎の顔面に一発も入れてねーからよ 必ず…オメーの分も!! ぶち込んで来っからよ!!!」

シュートはここでナックルを止めるべき役割であることを自覚しているが、どうしてもそのための言葉を出すことができず、ついには感情を爆発させる。

シュート「頼む…ッ、ナックル!!! 畜生ッ!!!あの野郎… オレを…オレを…ゴミみたいに見やがった あの糞野郎にオレの分も…ッッ!!!」

ナックル「応っ 任せろ!!! 師匠すんません!!オレ達バカなんです、世界より大事なものがあるんです!!」

この後、ユピーもまたナックルらへの敬意の現れとして、王への危害が及びうるものはすべて駆除するべきところ、彼らを殺さず見逃す判断をする。

 あるいは生き返ってコムギを探すメルエムとパームが対したとき、彼女が取るべき行動はコムギを上手くダシにして生かさず殺さず時間を稼ぎ、メルエムが自滅する時間を稼ぐことだった。しかし、頭を垂れてただひたすらにコムギと会うことだけを望むメルエムを前にして、コムギを「絶対に蟻には渡さない」とのキルアとの約束を破ってしまう。ここにおける彼/彼女らには「勝利」以外にも大切なことがあった。人間性を捨てて「勝利」を取ったゴン・ネテロとは好対照であることは明らかである。

3-4.勝利の価値肯定の崩壊

 ゴンはすべてを犠牲にして勝利を得た。少年マンガの形式通りに「主人公」はたしかに勝利したのだが、その勝利はあまりに苦い。我々は「主人公」ゴンの勝利につき、意味するところを吟味しなくてはならない。ゴンの戦いの目的はカイトを取り戻し・治療させることであった。しかし、ゴンはその目的を叶えられなかった。すでにピトーは死んでおり、ゴンの目指した目標はそのはじめから実現不可能なものだったのだ。そして、ゴンの勝敗とは関係なく、カイトは生まれ変わって再度ゴンの前に現れる。これは皮肉というほかない。くわえて、ゴンがピトーを粉砕したとき、ネテロはすでに自爆を終えていた。ゴンはそれを知ることができる状況になかったが、結果として、ゴンの勝利は人類の運命そのものには影響を与えるものではなかったといえる。したがって、ゴンの勝利は支払った犠牲に比して得るところの乏しい空虚なものであった。勝利それ自体に肯定的な意味付けは与えられず、むしろそれに至る過程によって勝利は暗い色合いを帯びる。そして、ゴンの怪物化は「カイトは戻らない」と確定したことによる絶望に起因したものであるから、それによる勝利は何にもつながらず、勝利によって肯定される価値は何一つない。

 ネテロ=人類が得た勝利についても同様のことが言える。ゴンと違ってネテロは当初の目的を完遂した。全人類の命運を担う重責を果たした。しかし、彼の「貧者の薔薇」による自爆は人類の「自己保全のためには何でもやる」というむき出しのエゴイズムの象徴以外の何物でもない。ネテロはあらゆるものを踏みにじった。すなわち、キメラアントとの共生の可能性を、人類を超えた知的生命体の完成の可能性を、人類の新たなフェーズへの移行可能性を、限りなく神に近づいた聖王の賢慮を、そしてメルエムの人間としてのささやかな幸せを、これらすべてを踏みにじった。したがって、ネテロ=人類の勝利は汚れた勝利*9であり、勝利そのものが肯定的に扱われることはない。くわえて、勝利によって肯定される価値があったとも言い難い。ネテロの人生を捧げた「修練の末、届き得る限界」はメルエムに届かなかった。そして、ネテロは武人のプライドをかなぐり捨てて、個人としての武勇をあざ笑うかのような大量破壊兵器を使う*10 。つまりは、ネテロは物理的には相手を滅ぼし勝利したが、寛容の精神で対話を試みたメルエムを端から拒絶することで道義的に敗北し、人生を捧げた「武の極み」を目指した誇りも捨ててしまったのだ。

 こうして読者の快感原則に沿った勝利の歓喜は徹底的に禁欲される。ゴンやネテロは戦いに臨むに「勝てればなんでもいい」という境地にあった一方で、メルエムは勝利以外の価値をコムギやネテロとの戦いで次々に見出していった。ゴンやネテロはもう勝つこと以外に何も見えなくなっている。彼らは揺るがない自分であるために意図的にそうしている。自ら精神的に逼塞していく彼らに対してメルエムは人間のさまざまな美徳に触れ、図らずして心は揺れ動き、人格の完成の高みへと上り詰めていく。たしかにメルエムはコムギに何度も負けはした。しかしそのことがいかに彼の生を血の通ったものにしたことか。勝敗など全く無意味である。これがメルエムの最後に至った境地だ。

メルエム「最期を....コムギ、お主と打って過ごしたかった」

3-5.まとめ

 通常の少年マンガにおいて、主人公は倫理的に信頼できる存在であり、成長は肯定的で、勝利は正当化され、努力と友情は最終的に報われる。読者は主人公に自己を重ね、その選択に同意することで、物語的な安心とカタルシスを得てきた。キメラアント編の前編にあたるグリードアイランド編はまさにそのような物語であった。まるでグリードアイランド編はその落差を演出するための布石であったかのように、続くキメラアント編はゴンを失敗させ、挫折させ、無力さを思い知らせ続けた。そして、民間人を巻き込んだ異種間の絶滅戦争という凄惨さをみせた。

 絶滅戦争においては平常時の倫理は簡単に吹き飛んでしまう。人類は自らの自己保存のために手段を選ばない。かつて筆者は『幽遊白書』を考察する中で、「冨樫は異種族を敵=悪とすることができなくなったのではないか?」という仮説を立てた。戸愚呂弟は元人間であり、仙水は人間であり、人間を陵辱する妖怪という図式はすでになく、魔界編において守るべき人間は不在であるからだ。そして、「妖怪は悪である」という図式は霊界のプロパガンダであったと暴かれて物語が終わるからだ。以降、キメラアント編に至るまで、冨樫は異種族を敵とした物語を描いてこなかった。キメラアント編は『幽遊白書』では手を付けることのできなかったテーマを回収しているとみることができる。すなわち、『幽遊白書』において、異種族である妖怪を「虐げた」責任主体は霊界であり、汚れ仕事を彼らに押し付けることによって人類は無答責であった。一方で、『Hunter×Hunter』の世界に霊界はない。手を汚す責任を他人に押し付けることはできない。どうしても自分で引き金を引いてブロウーダを始末できず一人嗚咽したイカルゴを思い出そう。そして、彼がどのようにして引き金を引く覚悟を持つに至ったかも。

イカルゴ「自分の命と引き換えのつもりなら… 何て楽に引き金を引ける事か…!!」

「異種族であるから」、「生存のために仕方がなかったから」、といった理由で殺害の責任を等閑視するようなことを冨樫はしない。キメラアント編は人類のむき出しのエゴイズムを抉り出して正面から人類に十字架を負わせる物語であった。人類の勝利は祝福されるべきものであるか。どうすればよかったのか。何が正しかったのか。読者はゴンやネテロを素直に賞賛することはできず、といって蟻を完全に肯定することもできない。メルエムはキメラアントでありながら人であるという矛盾を止揚して、個人として王として救済者として完全な完成に至ることができたのか、もうわかる手段はない。価値判断は宙づりにされて物語は沈黙する。

 少年マンガにとって異様なこの結末は主人公・物語・作家性それぞれの水準で、ある種の必然性を持ったものであった。すでに述べたように、ゴンの自身で設定した目的遂行への異常なこだわりは、カイトを生き返らせるという原理的な不可能に遭着したとき、彼自身の崩壊を引き起こす。また、少年マンガにおいて敵は強大であるほど良く、(人間にとって)共存が不可能なほど強烈な「悪」であることが望ましい。しかし一方で、主人公たちにとって勝利は絶対である*11。友情や努力との有機的な連関をともなった尋常の方法では勝つことができないとき、少年マンガはなりふり構わず主人公らを勝たせてきた。本編の戦いの顛末もその伝統をなぞったものにすぎない。そして、以前書いたように冨樫は旧式の少年マンガのフォーマット(=キャラクターの強弱が量的に表現され、敵味方の善悪や戦う理由が自明なもの)が爛熟した90年代前半に本格的に誌面に現れ、その形式の行き詰まりにいち早く到達した作家であった。「原稿に向かうとハキ気がする位漫画を描きたくなくなった」と当時を振り返る言葉を残している冨樫は、作中で仙水の相棒樹をして「オレ達はもう飽きたんだ。お前らはまた別の敵を見つけ戦い続けるがいい」と語らしめた。先述のようにキメラアント編は『幽遊白書』で扱えなかったテーマのやり直しであり、『幽遊白書』の頃から戦う理由や背景にある構造に疑義を呈し続けた彼にとっての最終的な結論であった。

4.悲劇の形式

 キメラアント編はさきほど述べたような必然性に導かれて結末に至るものであった。したがって、真の主人公であるメルエムもまた必然性によって物語の結末、つまり彼にとっては破滅に至る。必然性に導かれて破滅に至る物語とは悲劇である。キメラアント編はギリシア悲劇及び日本古典の心中ものの形式を踏襲すると筆者は考える。よって、まずはギリシア悲劇との比較を行い、その次に心中ものとの比較を行う。

4-1.ギリシア悲劇

 まずはギリシア悲劇の定義を確認しよう。悲劇を理論化したアリストテレス詩学』が参考になる。

「悲劇は、重大で完結した一定の大きさをもつ行為の模倣であり、叙述(物語る)ではなく行為として(上演として)提示され、憐れみと恐れを喚起し、それらの感情の浄化(カタルシス)をもたらす。」

「重大で完結した一定の大きさをもつ行為の模倣」とは、「人生の大事な局面を、最初から最後まで筋の通った一つの出来事として、舞台上の行動で見せること」であり、物語世界を舞台とするならば、メルエムの特異な生誕から劇的な死に至るまでを描き切ったキメラアント編はその要件を満たす。また、ギリシア悲劇の主人公は一般に神話・叙事詩の英雄たちであり、神話上の人物に匹敵する卓越した能力の持ち主であるメルエムはその主人公たるにふさわしい。

 つぎに、「憐れみ」とは「本来そのような不幸に遭うべきでない人が、不幸に陥るのを見て感じる感情」を指す。メルエムは悪意や卑劣さから破滅に至るのではない。むしろさまざまな徳目を身につけて人格的な完成の高みへ上り詰めていく途上で、ほとんど神に等しいような聖王へ至ろうとする途上で、無残にその生を中絶されるのである。そして、「恐れ」とは「それが自分自身にも起こりうると感じるときの感情」を指す。メルエムに感情移入する者はこのように思う。もし自分が彼の立場でも同じように行動したのではないか?むしろメルエムの方がずっとまっとうに・立派に行動したのではないか?メルエムに過誤があったとすれば、「人間は<蟻>を人間同等に扱わないこと」や「人間という種のエゴイズムの醜悪さ」について無知であったことだ。しかし、「生まれたてのガキ」である彼にこのような人間理解を求めることはあまりに酷なことだ。

 人類という異種族に配慮し、彼らをすら導き・救おうとした「お目目キラキラ」の「虫ケラ」は、「駆除すべき危険生物」として「迅速に対応」されて消えていく。「ネテロの壮絶な自己犠牲」や「メルエム・コムギの奇跡的な魂の相互救済としての心中」に間を置かずして展開される、選挙編での興醒めするような・事務的でドライな政治喜劇は、キメラアントの「駆除」は人類にとって日常的な秩序維持活動の一環にすぎないことや、ネテロですら替えがきくことを印象づける。種の保全のために必要があれば個の命など虫ケラのように扱う人類に、王というアキレス腱を持ったキメラアントがかなうことはない。また、「駆除」という意思決定の主体とその実行者は役割分化されており、ネテロは所定の手続きの基づき「執行」を担当しているにすぎないのだから、メルエムが人類の意思決定過程に入り込む余地もない。

 全種族を統べる運命を背負って生を受けたメルエムは「聖王」にふさわしい成長をみせて、自らを滅ぼそうとする人類に対しても対話の申し出という「正しい行為」をする。しかし人類にとって人類種の「確実な」未来は、メルエム個人やキメラアント種の未来よりもはるかに優先度の高い事柄であり、その「正しい理由」によってメルエムは「確実に」滅ぼされねばならない*12。高度に発達/複雑化した人類社会の「構造的必然性」によりメルエムは拒絶され・敗北し・破滅する。メルエムの敵はネテロ個人ではなく人類種の生存戦略/秩序維持システムそのものであった。人類という種及びその生存戦略/秩序維持システムが個人としてのメルエムを押しつぶす点は、まさにギリシア悲劇的といえる。

 最後に、「浄化(カタルシス)」とは「憐れみと恐れを、秩序ある形で最後まで経験しきることで感情が放出されて整うこと」を指す。くわえて、教訓でも娯楽でもなく、人生の不条理や恐ろしさを直視したうえで、人間にとって耐えがたい感情を「耐えられる形」にして理解可能な形に受け止め直すものでもある。ポイントは➀感情が放出されることと、➁感情が一般的なフレームによって意味付けられ整理されることである。ここで注意しなければならないのは、本編においてメルエムの破滅それ自体には感情の放出はないことである。我々がメルエムの最期に深く感動するのは、コムギとの関係の中で彼が変わっていき、ついには救われるところにある。また、我々はメルエムに感情移入し、人類の種としての論理により切り捨てられる運命に恐れや憐れみを覚えながらも、超越的な存在であり異種族でもある彼を切り捨てた人類の側でも同時にあることから逃れられない。

 つまるところ、読者である我々に完全なカタルシスは与えられない。メルエムは破滅するとともに救済される。人類はメルエムによる征服から逃れることで彼による救済の機会を失う。あるいは人類は道義的に敗北しながら絶滅戦争に勝利する。物語は理解可能な形に落とし込まれない。ただ一つ確実なことは、メルエムはコムギとともに救済されたということだ。これはギリシア悲劇との明らかな差分であり、本編が心中ものでもあることの中核的な理由である。

4-2.日本古典における心中もの

 心中ものの劇的構成の定義は『ブリタニカ国際大百科事典』の記述が参考になる。

「情死にいたるまでの経過、すなわち、いわゆる義理と人情の板ばさみによって主人公が情死に追込まれるありさまを描き、最後に男女2人が情死に向う場面「道行場 (みちゆきば) 」で終るのが普通である。道行の結果としての心中そのものは必ずしも描かれない。」

心中もののポイントは3点である。➀義理(社会的義務・身分・家)と人情(私的情愛・恋)が両立不可能になる。➁その結果、恋愛関係にある男女が死によって想いを成就させる。➂物語のクライマックスとして、情死に向かう場面が美的に描写される。

 人であるコムギとキメラアントの王が対等に相対することはキメラアントが許さない。そして、人間の王としての義務も果たそうと彼らに対する寛容を示したとき、まさにそれ故に破滅を招く。死の運命が決した後になっても、ただ軍儀を打ちたいだけの二人が再び出会うことを、人間もキメラアントも許さない。それを許したのは人間でありキメラアントでもあるパームであった。メルエムにはわずかな時間しか残されていない。にもかかわらず、最期の時間をともに過ごすことがコムギの死を招くために、その旨を彼女に告白して最後の望みを断念する。しかしその願いは望外の回答によって叶えられる。すなわちコムギも一緒に死ぬという心中の完成によって。

 言うまでもなく、本編で最も感動的な二人の人生が完成する対局のシーン、そして静かに二人で死を待つシーンは「道行場」に対応する。勝利以外の価値を捨てて種の存続を保った人類と、王の君臨つまりは種の繁栄のみにすべてを捧げて敗れ去っていった直属護衛軍たちから遠く離れて、二人は死と引き換えに再現性のない・極私的な救済に至る*13。人類とキメラアントとの相克に関する価値判断は宙づりのまま物語を終えたのに対し、彼らの極私的な救済に対しては完全な回答が提示されている。彼らにとって救済とは何であるのか。いかにして彼らは救済に至ったのか。なぜそれが彼らにとって救済であるのか。キメラアント編の真の主人公たるメルエムは、彼固有の動機によって行動して物語を駆動し、その充足によって役割を終えて物語から退場する。

4-3.まとめ

 すでにみたように、本来の主人公ゴンらには空虚な勝利しか与えられない。筆者はここに主人公の崩壊を見た。さらに、真の主人公であるメルエムは破滅する。これは悲劇である。しかし破滅によるカタルシスは与えられず、救済による感動が残る。感動が残るのはこれが心中ものであるためだ。筆者が本章で行ったのは悲劇という物語形式の分節である。ギリシア悲劇も心中ものも、「個人(あるいは少数者)の切実さ」と「集団・規範」の衝突を、逃げられない形で舞台に上げる点では同一である。ギリシア悲劇的にみるならば、高貴な英雄が構造的必然性(種の生存競争)によって破滅する。心中ものとしてみるならば、個人的情愛(コムギとの関係)が、社会的規範(王としての使命)と両立不可能となり、死によってのみ成就する。

 キメラアント編を汲みつくすためには、この二つを正確に区別しなければならない。すなわち、ギリシア悲劇の主人公は王=英雄という公的存在であるのに対して、心中ものの主人公は力を持たない市井の人々=私的存在であった。メルエムは公的存在として破滅し、私的存在として救済された。また、ギリシア悲劇においては主人公が破滅に至る過程に焦点があるのに対して、心中ものにおいては最期に至る道行場の美にこそ焦点がある。メルエムは武装集団の長として人類と交渉するも人類の醜悪さに対する無知という過誤によって破滅する一方で、様々な徳目を身につけることにより最後にはコムギとの愛を得て一個人として救済される。

5.おわりに

 筆者は長らくキメラアント編についての正当な読解が世の中に皆無であることにつきいらだちを覚えてきた。正当な読解が難しいのは、少年マンガを読み解くための概念枠組みが貧弱であることと、広く文学や社会科学と呼ばれる既存枠組みの漫画読解への適用の無さによる。キメラアント編とは限界事例であり、分析枠組みの用意がまったく追いついていない。この批判は筆者も対象とするものであり、キメラアント編に関する批評を何度も書きながらそれを捉え損ねてきた。そして、今回も十全にそれが果たされたとは言えない。

 マルクスアダム・スミスらの経済学や先行する社会主義ヘーゲルフォイエルバッハの哲学を総合して資本論を生み出したように、キメラアント編もまた既存の作品・思考枠組みの総合として見なければならない。それは本編の中核的なプロットが『寄生獣』、『ヒカルの碁』、『幼年期の終わり』、漫画版『風の谷のナウシカ』、『Dragon Ball』の魔人ブウと盲目の少年のエピソードやセルのキャラクター設定といった先行するサブカル作品から来ていることを認識するだけでは足りない。キリスト教的徴表と思考枠組み、個人主義と部族主義、弁証法実存主義と不条理、ギリシア悲劇と心中ものといった人文・社会科学の概念を動員する必要がある。

 これらを駆使することで今回は、既存少年マンガとの分節、主人公の分節、ギリシア悲劇と心中ものとの分節をみてきた。しかしまだまだ語るべきことは残されている。サブカル作品との比較においては、同様のテーマと匹敵するだけの質を兼ね備えたものに『ナウシカ』と『進撃の巨人』がある。特に『進撃』との比較においてはいわゆる「進撃以前以後」の前史として、あるいは真の震源地として、キメラアント編が位置づけられるべきでないかといった指摘が可能であるだけでなく、この二つの物語の結末がどのような理由でどのようにバージョン分岐したのかについても立ち入って分析するべきである*14。くわえて、理論的な観点からは、キメラアント編は究極的価値を担保する神が不在な中での救済や価値判断が問題とされていることについても考えなければならない。それは20世紀後半に現れたポストモダン小説との対応も考慮するべきであろうが、今のところ筆者の手に余るものである。

*1:あるいは彼女

*2:原初的な少年マンガ手塚治虫的なSF・ファンタジー的想像力を中心としたもので、現代ほど勝負事を中核には据えていなかった。おそらく中心的な主題が切り替わったのは梶原一騎以降であろうが、本文では梶原一騎以降の現代少年マンガの形式を主題とするので、手塚的なものやその切り替わりについては扱わない。さらに、梶原一騎作品である『巨人の星』や『あしたのジョー』において、主人公たちがその最後には破滅に至る点、つまりは成長物語が破綻する点が、現代少年マンガと大きく異なることにも留意が必要である。ここにおいても結末の「破綻」から「栄光」という転換があるが、両者の差分や切り替わりの経緯は本文での対象ではない。

*3:荒木飛呂彦の漫画術』においては、「漫画」のハウツー本であるとは明言されているが、「少年マンガ」のハウツー本であるとはしていない。しかしながら、本文中での例示の大半は少年マンガであるので、少年マンガ論「でも」あるものとして扱う。

*4:読者の共感や興味を得るために主人公の動機を用意する際に

*5:DEATH NOTE』のように主人公が悪人である場合は、悪人であるという設定が固定されることにより、読者は物語と主人公と自身との距離を掴み、倫理的な混乱から安全でいることができる。

*6:キメラアント編の後、ゴンは父との邂逅を果たしてそのキャラクターとしての中核的動機を充足する。そのため以降彼は物語から退場する。同様に、ゴンとの友情(=家族のくびきからの脱却)を中核的動機とするキルアもまた退場する。彼にとっての真の課題であった家族のくびきから解放され、ゴンへの依存も脱却したからだ。したがって、以降の物語ではいまだ動機の充足・解消に至っていないクラピカが中心人物となる。

*7:そしておそらくは自分の力で真正面からピトーを打ち倒したかったから。

*8:にもかかわらずネテロはメルエムに全くかなわない点も、「努力」が「勝利」に結びつかない従来のセオリーを逸脱するものである。

*9:キメラアントだけでなく人類もまた「薔薇」の毒に侵されていた、ということだ。

*10:ネテロが「個」としての武の極みを捨てて、「種(人類)」としての武器(薔薇)を使ったのに対し、メルエムは「種(王)」としての役割を超えて、「個(コムギとの対局)」としての喜びに殉じた。

*11:ジャンプ誌面におけるアンケート至上主義に基づいた競争のように。

*12:メルエムは変わりうるが人類は「変わりうる存在」を待てない。それは単なる悪意ではなく恐怖と合理性に基づくものであり、自己保存原理に組み込まれた理性の限界である。

*13:岡田斗司夫が彼のYoutubeチャンネルにて、メルエムもコムギも愛されたことがない者たちであるため「愛している」という言葉を知らず、それゆえに彼らの最期の言葉は「ありがとう」であったという指摘は大変示唆的である。

*14:例えば、『進撃』においてはホッブスのいうところの自己保存が敵/味方をつらぬく価値である一方、キメラアント編ではそれ以外の価値の存在及びその発見が物語に大きく関わってくる。

ガンスリンガーガール考察 トリエラとヒルシャーあるいは条件付けと「世の中捨てたもんじゃない」というセリフについて

はじめに

 『ガンスリンガーガール』は長らく解けない謎であった。明らかに優れた作品であるが、その中核的な部分を掴むことができなかった。先日、妻の本作における解釈を聞くことで、視界が開けた心地となった。今回書こうとしているのは、①トリエラとヒルシャーの関係の変遷であり、②それが物語の最重要装置であるところの条件付けとどのように結びつくのかであり、③その結びつきにはどのような含意があるのかである。「クローチェ兄弟の物語がメインストーリーになっている」と作者がインタビューで明言している*1にもかかわらず、物語の結びにはトリエラの娘であるスペランツァによる「世界には今も確かに希望がありますよ」というセリフが配置されている。そして、このセリフはトリエラを救うために命を落としたラシェル・ベローのセリフ「世の中捨てたもんじゃないわ‼」及び「私はあの子に希望を託したわ…」を受けたものである。この一連の「たった1つの想い」または「果たしたい約束」が、本作を貫くテーマとなる。

トリエラの特殊性――嫌悪・反発・困惑、そしてすれ違い

 本作の第三話『THE SNOW WHITE』は、トリエラが初めて主役となる回であるとともに、彼女の主題系を提示する重要なエピソードでもある。第一話ではヘンリエッタが、第二話ではリコが、それぞれ主役となって彼女たちに与えられた「大きな銃と小さな幸せ」が提示されるのに対し、トリエラの場合はやや込み入っている。ヘンリエッタやリコは、担当官に対して不信を抱くことはない。100%の好意あるいは忠誠があるだけである。一方でトリエラは、彼女の中にあるヒルシャーへの一抹の嫌悪を認めている。

トリエラ「私は別にヒルシャーが特別嫌いってわけじゃないんだからね 私が嫌いなのはあなたたちのような身勝手な大人全般なのさ」

 あるいはトリエラは、ヒルシャーの命令を一部無視して暴走するだけでなく、その指摘に対して口ごたえすらする。

ヒルシャー「トリエラっ!! 話を聞くだけだと言ったはずだ!」

トリエラ「………あなたが危険だと判断したからです」

ヒルシャー「君ならもっと穏便にできるだろう!? いいか 私の許可なく発砲するんじゃない!」

トリエラ「だったら…さっさと私を薬漬けにしたらどうですか?」

トリエラは、ヘンリエッタやリコたちが条件付けによる恍惚の中にいることを横に見ながら、その祝福を与えられることはなく、人間として扱われることもないまま、宙づりに置かれている現状を正しく理解し、深い絶望と困惑とを抱えて生きている。

トリエラ「ヘンリエッタはジョゼの妹そのものだし リコはジャンの仕事の道具 それじゃあ私には何を演じて欲しいのだろう 全て条件付けで決めてくれたら楽なのに…」

ヒルシャーのトリエラに対するこの曖昧な態度が解消されない限り、あるいはそこにある謎が解かれない限り、第三話ラストの描写が象徴する二人のすれ違いはいつまでも繰り返されることになる。

トリエラをトリエラたらしめるもの

 トリエラは彼女の置かれた特殊な状況から、そしてその優れた知性から、「私は何者であるのか」という問題に直面せざるをえない。

トリエラ「条件付けと愛情は似てるの 私にもどこまでが自分の感情だかわからない」

しかしながら、これだけは間違いなく「自分の感情」だと言えるものがある。それは、洗脳者にとって都合の悪い感情である。すなわち、ヒルシャー及び公社に対する嫌悪と反発と困惑であり、これらの感情こそがトリエラをトリエラたらしめるものとして彼女を支えている*2ヒルシャーはこれらの感情を幾度となくぶつけられながらも、決してトリエラからそれらを取り除くことはしなかった。トリエラもそのことをよくよく理解している。他の義体たちと比較して強い自意識を与えられた/奪われなかったトリエラは、さらにはその事実を強く意識するトリエラは、自らの意思をもって役割(さらに進んで生まれてきた意味)を見つけ、それを果たそうとする。あるいはそうせざるをえない。下記はピノッキオとの戦いに敗れた直後のトリエラのセリフである。

トリエラ「私は義体です!それが素手の男に倒されるなんて!!望むなら警官に化けますがそれでは何の為に命を削りリスクを背負っているのか…まるっきり無意味です…」

あるいは、ピノッキオとの再戦の場面でのセリフ。

ピノッキオ「どうしてそこまで頑張る!?」

トリエラ「お前なんかに分かるものか!私は戦わなくちゃいけないんだ!!」

人は意味のない生に耐えられない。上記のトリエラの叫びはほとんど血を吐くような絶叫である。そして、以下のケガを心配された場面での彼女の内言は、自らに対する定義を明らかにするものだ。

トリエラ「だって義体はそういうものでしょう? 戦うために存在するんだから」

解けない難問と謎

 残酷な運命の中でトリエラが自らの意思でもって選択したその道は、皮肉なことにヒルシャーの望むものではない。

ヒルシャー「悩みを聞いてもらっていいかな」

ロベルタ「ええ」

ヒルシャー「例えばロウソク いずれ尽きるならば激しく燃えることこそ本望と死に急ぐ彼に 周りは何を言うべきなんだろう」

ロベルタ「同僚にそんな人が?」

ヒルシャー「ああ 彼は戦いに身を投じる他に 自分の存在を確認できない 燃えるなといさめてもそれは存在を否定するだけで これまでかえって傷つけてきた」

これがヒルシャーにとっての解くことのできない数年来の難問であった。トリエラにとっての解くことのできない謎は、上述の通り、ヒルシャーのトリエラに対する曖昧な態度の理由である。アンジェリカの死を契機にその曖昧さは変質し、担当官には不相応なほどの義体への献身として露骨に現れてくるようになる。それはこれまでの関係が壊れて・更新されていく連鎖反応のはじまりでもあった。

トリエラ「……ヒルシャーさんはドイツに帰らないんですか?クリスマスは家族と過ごすものなのに」

ヒルシャー「そしたら トリエラが1人になるじゃないか」

トリエラ「分かりません どうしてそんなに真面目なんですか! どうして私を…」

ヒルシャー「生き方を縛られるのは義体だけじゃない みんな何かに追われて生きるんだ …僕は過去に縛られたんだよ」

この会話の直後のトリエラの独白は、謎を解くための決定的な足がかりを彼女が掴んだことを意味する。

トリエラ「過去に縛られるってどういうこと?昔 彼に何があったの?」

深まるすれ違い

 ヒルシャーは担当官としてあるまじき決定的な異常行動に出る。トリエラの消耗を恐れるあまりに、危険をともなう暗殺任務を自身のみで遂行したのである。ヒルシャーは腹部に傷を負い、その試みはほどなくトリエラに露見する。

トリエラ「どうして私を連れていかないんですか!?戦いは私の役目なのに!?」

ヒルシャー「違う!!お前の役目は生きる事…戦ってそしてできるだけ長生きする事だ!!」

トリエラの信じる存在意義を決定的に否定する発言を受けて、衝動的にトリエラはホテルを飛び出す。ミミの家に匿われ、偶然居合わせたマリオ・ボッシからトリエラは「ヒルシャーの過去」を聞くこととなる。すなわち、①自身はスナッフフィルムの犠牲者であったこと、②そこから助け出すためにヒルシャーは「人生を台無し」にしたこと、③ヒルシャーと行動をともにしたラシェルはその救出で命を落とし、死の間際にトリエラのことをヒルシャーに託したこと、である。

 トリエラが真実を知ってもなお、二人のすれ違いは解消しない。むしろ酷くなる。

トリエラ「私が存在する限り…あなたは過去に呪縛され続ける…そんなの…嫌です…」

何故すれ違いは解消されないのか。まだトリエラに伝わっていない事柄があるからだ。上述のようにヒルシャーは「僕は過去に縛られた」と言った。そして、先程のトリエラの発話に至るまでの会話では、その「過去」とはラシェルの願いであることを彼は明言している。

トリエラ「どうしてあなたがそこまでこだわるのか 理解できません」

ヒルシャー「それがラシェル・ベローの願いだからだ」

トリエラ「殺人機械になることがですか?」

ヒルシャー「君はラシェルの善意を体現している… それを少しでも永らえるのが僕の使命だ」

これでは「ラシェルからバトンを受け取ってしまい、それに呪縛されているためにトリエラを守っている」とトリエラに解釈されても仕方がない。しかし、ヒルシャーの意思は、ラシェルからの委託ベースによるものではなく、ヒルシャー自身の切実な動機に基づくものである。そして、先程の発話が示唆するように、ヒルシャー自身ですらそのことに気づいていない。

ヒルシャーの傷つき

 ヒルシャー自身の動機を理解するためには、彼の過去の出来事が手がかりとなる。ヒルシャーは前職時代に現場に出ることを志願し、「ならば現場を知ることだ」とスナッフフィルムを観るように指示を受け、激しいショックを受ける。

ヒルシャーの上司「このチームの人の出入りが何故激しいのか分かっただろ? あまりの凄惨さに耐えきれなくなるからだ ハルトマン(※ヒルシャーのこと)お前はこの現場には不向きだよ こんな物を見て喜ぶ人間を こんな事が何件も行われている事を想像できないだろ? お前は幸せに育ち過ぎている 世の中と人間を善いものと信じている だから現場にはやれんのだ」

ヒルシャーは「現実」を突き付けられて、逃げることも割り切ることもできない。割り切る者と割り切れない者の対比は、第三十五話でのアレッサンドロとヒルシャーの描写で示されている。

アレッサンドロ「法律家1人の命で要人暗殺が減れば良い取引だ それが政治ってもんでしょ」

ヒルシャー「なかなか割り切れないな」

アレッサンドロは「自身は手足であって頭ではない」として、最終的な結果やその善悪に思い悩むことはないが、ヒルシャーはまともにそれらと向きあってしまう。彼のそのあり方は、自らを「もともと器用に世の中を渡るタイプじゃなかった」と言う所以であるし、彼の何物にも代えがたい徳目でもあるのだが、ヒルシャーは「現実」を目の当たりにして、深く傷ついてしまう。この「傷つき」に注視せねばならない。

傷つくこととは何か?

 「傷つく」とは多義的な言葉である。本文脈での意味するところは、世界への信頼と自己への信頼を失ってしまうこと、自分と世界あるいは自分自身との関係が失調してしまうことを指す。たとえば、性犯罪において、その侵害が重大とされるのは、刑法上の通説である性的自由を侵害するから*3だけでは説明しきることができない。「減るもんじゃない」自由への侵害がもたらす被害が何故甚大であるのかは、その被害によって世界への信頼と自己への信頼が毀損されてしまうことにある。痴漢被害者は被害以前と同じ気持ちで・安心して電車に乗ることができなくなる。見知った他人から性被害を受けた者は、ともすると自分を責め、また自身を「汚れた」ものと観念して苦しむ。そして、この「傷つき」は直接の被害者だけに生じるものではない。

ヒルシャー「僕は世の中の事を何も分かっていませんでした 子供がどんなひどい目に遭っていたのか 人はどれほどの悪事を行うのか」

ラシェル「私も信じられないわ ここに来るまであんな惨たらしい遺体に出会った事なかった ……そしてそれにだんだん慣れてくる自分が恐い…」

ヒルシャーとラシェルは、「現実」を目の当たりにして、世界すなわち人間一般への信頼が揺らぐ。その人間の中にはもちろん、自分たちもまた含まれている。自身らの無力さに起因して自己への信頼(=自己効力感)が揺らぐだけでなく、このような現実を次第に受け入れていく自分に恐怖するのだ。

 だからこそ、ラシェルは自らの命を賭けてでも、トリエラを救おうとした。そうでなければ、自分が救われないから。

ラシェル「私も…信じたくなかったの 現実がこんなに醜いものだなんて 今までの大人達は大勢の子供を救えなかったけど… でもこの子だけでも救えたら… 世の中まだまだ捨てたものじゃないって 信じられる気がして―――」

公社での日々はヒルシャーをさらに傷つけていった。そこは憎悪と復讐が果てしなく連鎖する現場であり、人間性を蹂躙する人体実験の現場でもある。そして、そのような「苦界」にトリエラを落としてしまったこと、そんな組織にすがらなければ「たった1つの想い」も守り通すことができない自身の無力さ、そのすべてが彼をさいなむのである。

謎が解けるとき

マリオ「ヒルシャーから逃げるのはよせ あいつにはお前しかいないんだ」

 マリオ・ボッシがヒルシャーの過去を話した後にトリエラに言ったこのセリフは、先ほどのヒルシャーが置かれている状況、彼が傷ついてきたその過程を念頭に理解されるべきものだ。ヒルシャーはラシェルから託されたからトリエラと生きているのではない。トリエラなしにはもはや生きていく理由も気力も失うほどに、世界にも自分にも絶望しきっており、トリエラだけが生きる理由であり希望であるのだ。

 マリオの言葉があるにもかかわらず、ヒルシャーの切実な生きる動機はトリエラには伝わらない。

トリエラ「さようなら ヒルシャーさん もう私のせいで 危ない目にあわないでくださいね…」

上記シーンの次のカットでは、回想シーンが挟まれる。

トリエラ「条件付けと愛情は似てるの どこまで自分の感情かわからない」

ここでトリエラにあった選択肢は二つであった。①ヒルシャーを大事に思うからこそ関係を断つか、②ヒルシャーを大事に思うためにここにとどまるか、である。どちらもヒルシャーへの思いが理由となるために、一見すると「どちらが自分の感情によるものなのか」わからない。したがって、トリエラはこれまでも使ってきたであろう「公式」を用いることになる。すなわち、「ヒルシャーや公社の意に沿わない選択はどちらであるか」である。これにより①が選択される。しかし、その選択はすぐにくつがえされる。条件付けに屈したのか?あるいは自分自身の感情を析出する・自分を守るための絶え間ない営みを放棄して考えるのをやめたのか?違う。さきほどの「どこまで自分の感情かわからない」という言葉の宛先を自分ではなくヒルシャーにすることに思い至ったのだ。

 ヒルシャーもまた、トリエラを守るという決意が、ラシェルの願いであるのかヒルシャー自身の願いであるのか、わかっていない。さらに進んで、トリエラを守るという決意は、ラシェルの願いであるだけでなく、ヒルシャー自身の強い願いでもあることを、わかっていない。トリエラはその事実にこのときはじめて思い至る。それはヒルシャーよりもヒルシャーを理解した瞬間であり、「私があなたなしでは生きられないように、あなたもまた私なしでは生きられないこと」に思い至った瞬間でもある。

トリエラの傷つき

 トリエラとヒルシャーの間の難問は解かれた。しかし、読者には「なぜトリエラはヒルシャーよりも先に真実に至ったのか」という謎が残っている。傷ついた人はその傷が深ければ深いほど、「自身が傷ついていること」それ自体を認識することができない。その原因や傷あとを直視することに耐えられないからだ。自分がこれ以上破壊されないように無意識に守っているからだ。それゆえに、ヒルシャーは自身を突き動かす動機を正確に理解することができず、トリエラにそれを説明することができない。そして、トリエラもまた傷ついているために、土壇場になるまで、ヒルシャーもまた「どこまでが自分の感情かわからない」でいることに思い至ることができなかった。

 なぜトリエラはそれができなかったか?端的に言って、トリエラは自らを人間扱いしていなかったからである。自身を「殺人機械」と呼び、何度も殊更に自分は義体であると言及するのは自傷的な行為である。あるいは、「私にもどこまでが自分の感情だかわからない」という発話*4は、自傷行為であるとともに、そのこと自体がいかに自分を傷つけてきたかを示唆するものである。トリエラは人間と義体とを差別している。義体は人間よりも劣った・優先度の低いものだと思っている。だから、自分の「私にもどこまでが自分の感情だかわからない」という状況・苦しみが、人間であるヒルシャーにもあてはまると気づくことがなかなかできないでいた*5

 それができるようになったのは、ヒルシャーが一貫してトリエラを人間扱いしてきたことによる。ヒルシャーにとって、トリエラは替えがきく捨て駒ではないために、彼は彼女の代わりに戦った。そして、「お前の役目は生きる事…戦ってそしてできるだけ長生きする事だ!!」と明言してみせた。これらの積み重ねによってはじめて、トリエラは義体の論理を人間にあてはめることが可能になった。それだけではない。「私が存在する限り…あなたは過去に呪縛され続ける…そんなの…嫌です…」とトリエラが言って、ヒルシャーのもとから去ろうとしたときの彼女の内言に注目したい。

トリエラ「私なんか死ねばいいんだ」

トリエラは自分自身を大事に思うことができなくなっている。自らを差別するゆえに。深く傷ついてきたゆえに。ヒルシャーがトリエラを人間として扱ってきたことは、トリエラが「自身もまた一人の人間であること」に思い至る足がかりとなった。そして、そのことはトリエラが彼女自身を救い出すとともに、ヒルシャーをも救うことになったのだった。

まとめ

 トリエラとヒルシャーは最終決戦で命を落とす。しかし、同様に命を落としたヘンリエッタとジョゼの「心中」と同視・混同されるべきでない*6。ここでの四者全員はそれぞれ全く異なる理由によって死に向かっていった。また、トリエラとヒルシャーの結末について、「大切に想い合った者同士がすれ違いながらも最後には通じ合い結ばれ死んでいく物語」と捉えることは間違ってはいないが、質的な違いをもたらす重要な点を見落としている。すなわち、これは「傷ついて他に生きるすべを失った二人が、互いのために生きようとすること・互いを希望とすることで、自己信頼と世界への信頼を取り戻す物語」でもある。

 筆者はこれまで『最強伝説黒沢』に関する考察で、自己信頼を失った中年男性である主人公がどのようにしてそれを取り戻し、周囲と信頼関係を築いていくかを取り扱った。また、『ルックバック』の考察では、不幸な事件によって傷つけられた創作する人々の贈与の連鎖を修復する営みとして本作をみた。『まどマギ』及び『PSYCHO-PASS』の考察では、我々の生の条件ですらある・すべてを覆ったシステムがもたらす不条理やそれによる無力感に対して、人間の意思・希望・人間性をいかにして守り・回復させるか、をテーマとした。さらには『キッズリターン』の考察では、本作は日常的に自己信頼を傷つけられていた二人がそれを取り戻すためにもがき苦しみ、一瞬の・ちょっとした栄光を手にして、自己信頼のなさゆえに舞い上がり・自分を見失って失墜する哀しみ、それでも再び立ち上がることを諦めない人間の尊厳を描いた作品であるとした。あるいは『THE FIRST SLAM DUNK』に言及した評論では、本作は家族を失った痛みや悲しみ、または怖さを否認し続ける宮城が、それらと向き合うことができるようになるまでの物語と書いた。

 物語の力の少なくともその一つとは、世界解釈の再編成ができることにある。別の言い方をすると、自己及び世界との結びつきの編み直しができることにある。自分を見つめなおすだけでは、その編み直し(シニフィアンシニフィエとの結びつきの編み直し)は困難である。だから、我々は他人や物語を必要とする。優れた物語作品とは、その世界へ没入させ・感情移入させることによって、我々を新しく作り変えることができるものである。『ガンスリンガーガール』もまた、読者をそのように新しく作り変える物語であった。

*1:https://natalie.mu/comic/pp/gunslingergirl/page/2

*2:同様に、エルザ・デ・シーカ及びヘンリエッタの抱いている、洗脳者にとって不都合となるほどの愛情、その過剰な部分こそが、彼女たちを彼女たちたらしめている。

*3:山口厚『刑法』第3版 有斐閣 P.243

*4:義体たちは夢の中でのみ涙を流す。それは抑圧されてきた感情の表出である。トリエラは物語が進行する中で、目覚めながら涙を流すようになる。

*5:ヒルシャーの「生き方を縛られるのは義体だけじゃない みんな何かに追われて生きるんだ」という発話は、「人間もまた何かに縛られている」ということにくわえて、「この点において義体は人間と同様の人間性を持つ」ことを念頭に置いていたものであった。

*6:義体1期生の主要キャラクターであるヘンリエッタは愛情、リコは忠誠が、それぞれ条件付けとの関係でテーマとなる。その点、トリエラは信頼(の回復)がテーマとなる。

冨樫義博論➁――善悪の相対化の先にあるものあるいは部族主義の克服について

はじめに

 以前の記事で筆者は➀「人間と妖怪という二項対立が冨樫作品を貫くテーマである」と書いた。また、その中で➁「人間の持つ善悪の基準、より大きくは価値体系そのものが相対化され、揺さぶられていく点が冨樫作品の特徴である」とも書いた。これらは間違いではないが、今回はより精確にこの問題を捉えてみたい。すなわち、➀’「(人間と妖怪に限らない)身内と他者という二項対立」が冨樫作品を貫くテーマであり、➁’「身内の価値観を相対化し、身内と他者をまたいだ共通の価値によって線引きを乗り越えること」に物語は重点を置いており、そこに読者は心打たれる。

 上記のことを示すために、今回は冨樫作品を<部族主義の克服>という観点から見てみたい。ここでいう部族主義とは、簡単に言うと身内の利害を優先する態度であり、さらには身内が道徳的に優れているという確信を指す。善悪の曖昧さが特徴である冨樫作品において、かろうじて定立可能な善悪の基準とは、「どの集団(=部族)に属するか」ではなく「部族主義的思考様式に対抗するか否か」である。言い換えれば、冨樫作品における「悪」とは、部族主義的振る舞いに基づいて外部の者(=他者)を蔑ろにする者である。

部族主義の定義

 まずは本文でキー概念として扱う部族主義について、筆者なりの定義を行う。

1.内外に対する好意と偏見

自身の集団のメンバーに対しては、「信頼できる」「優れている」「正しい」と考え、外部の集団のメンバーに対しては、「信用できない」「劣っている」「間違っている」とみなす態度。

2.内部への忠誠と外部への敵意

自身の集団への自己犠牲も辞さない絶対的な忠誠と外部の集団に対する排他的かつ敵対的な思考・行動様式。

3.内外に対する差別的取り扱い

自身の集団の利益を最優先し、そのためには外部の集団の利害を顧みず、場合によっては彼らへの抑圧・彼らからの収奪すらも問題視しない態度。

4.内部の価値体系(と内外の線引き)を最上位の規範とするあり方

内部の価値体系を外部の価値体系よりも上位に置くだけでなく、内部・外部にまたがった共通の価値体系の存在を認めず、内部のそれを絶対視する態度。

以下では、それぞれの定義に沿って冨樫作品を検討していく。

内外に対する好意と偏見

 当該観点での冨樫作品のあり方を理解するには、『幽遊白書』19巻の170話「宴のあと」が適当である。ここでは、➀妖怪の悪事は霊界の都合で統計上水増しされていたこと、➁さらに霊界は妖怪を洗脳し悪事を起こさせていたらしいこと、➂妖怪が自発的に人に害を及ぼすことは極めて少ないこと、よって➃霊界が結界を張る正当性はないこと、以上の結果として➄結界が解かれたこと、が明らかになる。

 これらの事実は本作の意味内容を根本的に揺るがすものであり、幽助もまたその事実を知って「オレがつかまえたヤツの中にも・・・・・・いたのかなァ」とつぶやく。ここで提示されているのは、➀妖怪は人間に害なす存在であり、➁妖怪は本性として邪悪な存在であるという認識枠組みは偏見であったということである*1。そして、人間界の後見的立場として、自明の善と考えられた霊界の腐敗もまた示された。すなわち、物語当初の前提であった味方である霊界の善性と敵である妖怪の悪性の両方が、無根拠なものとして掘り崩されている。

 くわえて、同話の中で描かれた妖怪である雪菜が桑原宅にホームステイすることになったエピソードは、前述の思い込みが崩れた後の世界を占う試金石としての意味を持つ。

桑原父「どんなに麗らかに存在をアピールしても必ず摩擦は生じるだろう いわれのない差別を受けるかも知れねェ そんなとき誰かがタテになってやらなきゃな」

さらには、上記セリフの直前に言った桑原父のセリフは、冨樫の「無知こそが敵である」という問題意識を明らかにする。

桑原父「異文化コミュニケーションは底辺の理解と努力が肝心だからな」

 『レベルE』においても、「他者に対する正確な理解」というテーマは反復される。異星人であるバカ王子は繁殖の相手方を食して繁殖する異星人について、その生物学的背景、歴史的な経緯、知的生命体としての苦悩を、マンガ表現を通じて人間に伝えようとする。しかし、その試みは失敗する。

王子「どうですか?」

編集者「うーーーん・・・・・・うちは少年誌だしさ これじゃテーマ暗いよねェ」

(中略)

編集者「もっと明るくまとめてさ 設定はもっと単純でいいと思うよ 例えば悪い宇宙人と戦う地球人とか」

王子「でもそれじゃ地球人に本当の異星人の姿が伝わりませんよ いちがいに地球の善悪だけじゃくくれないっていう事実が」

編集者「うんうん(あ・・・・・・やべぇこいつ頭いってる)」

ここでも「自らに害なす他者に対する正確な理解」という試みが、「善良な身内と邪悪な他者という図式」と対置されていることに注意すべきだ。「善良な身内と邪悪な他者という図式」は、最も単純で、それであるが故に読者が飲み込みやすい安易な表現であることを皮肉ったような描写である。

 また、『Hunter×Hunter』における主人公ゴンとその父ジンを特徴づける善悪への頓着のなさもまた本文脈の中に位置づけられる。ゼパイルの有名なゴン評を引用する。

ゼパイル「なんでこいつに興味がでたかやっとわかったぜ こいつは善悪に頓着がない 俺が贋作をやっていたと告白した時も、商売人が難癖つけているときもこいつの顔には非難の色も悪事への憧れも浮かばなかった あるのはただ一つ 単純な好奇心 すごいと思ったものには善悪の区別なく賞賛し心を開く いうなればこいつは危ないんだ 言うなれば目利きが全く通用しない五分の品 」

この頓着のなさが暗殺一家で育ったキルアとの友情の前提となったのであり、その父であるジンもまた死刑囚であったレイザーを自分の作るゲームに引き込んでおり、この性格はジンから継いだものであることが明らかになる。無論、これらの事実は彼らの倫理観の欠如を指すというよりは、偏見のなさとして肯定的に、少なくともこれらの場面では描写される。レイザーはジンによって救われたといい、キルアもまたゴンと出会えて本当に良かったと心の中で言う。

レイザー「世界中にたった1人、1人だけでも、自分を信じてくれる人間がいれば救われる」

キルア「逆だよ、ゴン、オレなんだ ゴン、オレ、お前にあえて、本当によかった」

レイザーにせよキルアにせよ、ジン及びゴンは極悪人というレッテルを彼らに貼ることなく、その実力を正当に評価し、人間的にも信頼のおける対象として扱うことで、彼らを救った。偏見を持って見られる属性を持った者たちに対しても開かれていることが、ジン及びゴンの徳目である。

内部への忠誠と外部への敵意

 「内外に対する好意と偏見」は、さらに進んで「内部への忠誠と外部への敵意」に変化する傾向を持つ。ここでの内部への忠誠は、自身よりも所属集団を優先するものとして現れる。『幽遊白書』の暗黒武術会における魔性使いチームの画魔は、自らの命と引き換えに蔵馬に呪術を施す。

画魔「これが忍よ・・・・・・先の勝利の為に死を選ぶ」

画魔の最期に蔵馬は心を痛め、次の対戦相手の凍矢に戦う動機を問う。

蔵馬「ひとつ教えてくれなぜ最強の忍とよばれるキミ達がこの戦いに参加したんだ?」
凍矢「・・・・・・・・・光さ闇の世界のさらに影を生きるオレ達には一片の光もない(中略)オレ達ののぞみはだれの手にもそまっていないナワバリこの島さ」

(中略)

覆面戦士「忍の反乱か」

飛影「フン奴等魔忍は命をかけた戦いの前に一番弟子に自分の奥義をたくし部隊を維持するそれをくり返せばあんな奴らも出てくるさ」

ここで明らかになるのは、組織維持のために個が犠牲になる忍の構造から脱することそれ自体が彼らの戦う動機であったことだ。にもかかわらず、そのために忍の習いがこの戦いの中で反復されている皮肉がある。

さらに、流星街の人々*2や不可持民の私設兵たちもまた、自らの命を犠牲にして所属する集団の利益を優先する思考・行動様式を持っている。これらの者たちに共通するのは、彼らが所属する集団へのすさまじい抑圧であり、その抑圧からの解放のために彼らは自らの身をも犠牲にする。

 彼らは奪われているものを取り返すために我が身を投げ出すのだが、ゾルディック家における自己犠牲的忠誠は「イエの存続・繁栄」のために行われる点で、上記のものとは性質が異なる。その象徴的存在がイルミである。イルミはキルアを「熱をもたない闇人形」として扱うだけでなく、自らもまたゾルディック家の存続よりも価値が低いものとして扱う。

イルミ「オレが死んで遺る家族がセーフならそれでもいいさ」

ゾルディック家の利益にとって最良の判断が出来ることが、イルミの行動の正当性をキルアに対して担保する。ナニカの処遇でキルアに対抗するとき、イルミは以下のように言う。

イルミ「率直に言うよ ナニカの能力をゾルディック家のために 安全かつ効率よく使えるのはオレだ」

キルアにまつわるエピソードは常にゾルディック家による支配からの解放を目指すものであった。下記の洗脳じみたキルアに対するむごい「教育」は、所属集団への忠誠が自発的なものではなく、押し付けられるものとなりうること、そしてその強制がキルア個人を限りなく追い詰めていくことを示している。

イルミ「聞いたかい?キル オレと戦って勝たないとゴンを助けられない 友達のためにオレと戦えるかい?できないね なぜならお前は友達なんかより今この場でオレを倒せるか倒せないかの方が大事だから」

イルミ「そしてもうお前の中で答えは出ている“オレの力では兄貴を倒せない”“勝ち目のない敵とは戦うな”オレが口をすっぱくして教えたよね?」

(中略)

イルミ「お前がオレと戦わなければ大事なゴンが死ぬことになるよ」

(中略)

イルミ「ウソだよキル ゴンを殺すなんてウソさ お前をちょっと試してみたのだよ でもこれではっきりした」

イルミ「お前に友達をつくる資格はない 必要もない」

イルミ「今まで通り親父やオレの言うことを聞いてただ仕事をこなしていればそれでいい ハンター試験も必要な時期がくればオレが指示する 今は必要ない」

イルミの言葉はキルアの個人としての意志を奪うだけでなく、ゾルディック家の外へつながるゴンという回路をも奪う。忠誠の強制は内部の価値体系を乱しうる外部の排斥とセットなのである。

 また、ゾルディック家は個人を家に従属させるが故に、アルカをめぐってのインナーミッションにおいて、キルアは執事たちを信用することができない。

アマネ「ツボネ(祖母)も私もキルア様の敵ではございません」

キルア「今の時点ではな でもそんなのオヤジのサジ加減だろ?」

アマネ「シルバ様もゼノ様もキルア様の敵ではございません 私共の任務にはキルア様を無事にお連れする事も含まれております」

キルア「そこにアルカの名前がない限り お前等は敵なんだよ!」

キルアは執事たちが最終的に誰に従うかを見抜いている。人間的な心情よりも雇用主の命令が優先されることを知り尽くしている。ここで示される命令が生み出す敵/味方の線引きは、キメラアント編においても現れている。すなわち、キメラアントたちと通じ合うことを諦めないナックルたちに対してのノヴのセリフである。

ノヴ「王だよ・・!兵士がどうこうの話じゃない王が指揮棒(タクト)を振れば奴等は悪魔にでもなるさ・・・!!」

ここで表現されているのは、所属集団への忠誠が、一度生まれかけていた所属集団とは異なる他者との信頼関係を破壊し排斥することである。

 さらに、『幽遊白書』における氷河の国のエピソードは、閉鎖的・排他的な集団に対する作中での価値判断がはっきりと明示されている点で特筆に値する。飛影の母の氷菜は禁忌である異種族との交配を果たし、飛影と雪菜を産んで死ぬ。そして、忌み子飛影は産まれた直後に捨てられる。

長老「女児は同胞じゃ しかし男児は忌み子必ず禍をもたらし氷河を蝕む」

ナレーション「氷女が外界との交流をさけ厚い雲に覆われた流浪の城(氷河の国)で漂流の生活を強いられるのには理由がある氷女が異種族と交わった場合、その子供はすべて雄性側の性質のみを受けつぐ男児のみが生まれること しかも凶悪で残忍な性格を有する例が極めて多いこと そして男児を産んだ氷女は例外なくその直後死に至ること これら全てが氷女の種の保存を危ぶませるためである」

赤子の飛影を捨てる直前、氷菜の友人であった泪は涙を流しながら飛影にこうささやく。

泪「生きて戻ってきて・・・・・・最初に私を殺してちょうだいね それが氷菜へのせめてもの償いになる」

国を維持するために産まれたばかりの子を殺す、すなわち所属集団の維持のために人間的な感情を捨て去ることを強制し、イレギュラーな存在を切り捨てる。このあり方に激しい憤りを雪菜は見せる。

雪菜「心まで凍てつかせてなければ長らえない国ならいっそ滅んでしまえばいい そう思います」

内外に対する差別的取り扱い

 これまでに見てきた「内外に対する好意と偏見」は認知・感情レベルのものであり、「内部への忠誠と外部への敵意」は組織が存続するために半ば制度化されたものである。これらの結果として、ほとんど必然的に、「内外に対する差別的取り扱い」が現れてくる。転向前の仙水は「妖怪であるために」殺し、「人間であるために」救ってきた。そして、価値の反転を経た仙水は、人間のみを優先することを自明視する幽助の言動に激高する。

仙水「おや・・・こんなに力を抑えているのに・・・・もう大地に影響を与えてしまった オレの唯一の弱点だ・・・ふふ人間界では五分の力すら出せない ストレスだよこれは・・・ふふふふ」

浦飯「関係ねーんじゃねーのか?人間界ぶっつぶしたいんだろならぶっこわせばいいじゃねェか 全力で暴れてみろよ」

仙水「馬鹿者めがそれが傲慢だというのだ!!!失礼 オレは花も木も虫も動物も好きなんだよ 嫌いなのは人間だけだ」

 ここでは人間とそれ以外のあらゆる生物とが対置されているが、先述のように内外の線引きは人間の内部においても現れる。例えばゾルディック家の行動様式である。彼らは金で他人を殺すことを業としているだけでなく、イルミが代表するように、自らの利益のためには無関係の者を殺すことを厭わない(一方で家族内での殺しはご法度としている)。彼らにとって、執事含めてゾルディック家以外の者は基本的に無価値な存在なのである。あるいは、幻影旅団もまた自らの目的のためには殺しを厭わない集団である(一方で団員同士のマジ切れはご法度としている)。サラサへの復讐と流星街の保護のために、彼らはそれ以外の者への加害を自らの意志で選んだ。

クロロ「僕は残りの人生を悪党として生きる 世界中の人間が恐れ慄くほどの、小悪人どもが震え上がり決して流星街に近づかない様、この街と自分をデザインする」

また、クリードアイランド編におけるラスボスにあたるゲンスルーもまた、仲間の二人を除いた人間の命は虫けら程度にしか思っておらず、同盟関係にあった仲間たちを次々に裏切り殺戮を行った。一方で、「ヤバい橋を渡る時は三人一緒」といって身内ではリスクを分かち合い、土壇場ではこれまでの努力を無に帰してでも身内のバラを救うことを優先している。

 ここで筆者が言いたいのは、冨樫作品における「悪」とは、内部の論理や価値観、都合を外部に押し付ける者だということである。そして、内部の都合を優先するために、身内への忠誠や慈悲は当然のものとして描かれる。つまり、身内への忠誠や慈悲は善性を裏付けるものではない。「悪」は身内に優しく・身内を大事にするからこそ手強く、そしてタチが悪いのだ。したがって、この基準に沿うならば、対話を拒絶して・人間側の利害のみを押し付けてメルエムを滅殺したネテロは「悪」であり、主人公であるゴンもまた、ピトーのコムギに関する命乞いを無視していたならば、「悪」となりえたことになる。

 一方で、キメラアント編ではその当初から上記の基準でいうところの「善」なる振る舞いを目指した者がいる。ナックルである。彼は何故討伐隊に志願するのかについて、以下のように言う。

ナックル「簡単に言うと、討伐させないためだな ハグれ者を切るってやり方が気に入らねえ 師匠にゃ甘いって言われるがな 実際にそいつを見もしねえでわかる道理はねーだろ?まずはそいつと真剣にぶつからなきゃよ」

ナックルの師匠にあたるモラウもまた、キメラアントの女王が死の間際に産んだ最後の子を、コルトが必死になって取り上げて涙ながらに守ることを誓う様を見て、コルトの側に立つことを約束する。

モラウ「あんたとその子『人は食わない』って誓えるかい?もし・・・誓えないなら・・・どこかオレの目の届かない場所へ消えてくれ だがもし誓うなら何人たりともあんた達には指一本触れされねェ!!オレの目が黒いうちはな」

ナックルにせよモラウにせよ、彼らの徳目は頭から共存不可能と決めつけて他者なる存在を切り捨てることを良しとしないところにある。これは前述の忌み子飛影を捨て去った氷河の国に対して見せた雪菜の憤りと軌を一にする。

 また、ゾルディック家とキルアとの問題が一つの決着を見せる、アルカに関するインナーミッションの件もまた「切り捨てるか否か」を巡ったエピソードであった。イルミを中心としたゾルディック家は一族に対する重大なリスクとして、アルカを家族とは認めず、葬り去ろうとする。切り捨てようとする。それに対してキルアは、アルカを守るためただ一人戦うことになる。しかし、キルアもまたアルカを守るために、アルカのもう一つの人格であるナニカに対して、もう二度と出てこないように命令する。つまりはアルカのためにナニカを切り捨てようとする。それに対してアルカは激怒する。

アルカ「お兄ちゃんが泣かしたの?ナニカを!今もうずくまって泣いてるよ!ナニカに謝って!謝るの!アルカに優しいお兄ちゃんは!ナニカにも優しくなきゃダメ!アルカを守ってくれるなら!ナニカも守らなきゃダメ!ナニカをいじめるお兄ちゃんなんかっ大キライ!!!」

眼が醒めたかのように、自らの頬を強くたたくキルア。

キルア「アルカ、ありがとうな オレ…まだ、イル兄に縛られてたらしいや もう…これでホントに大丈夫…!!ナニカを… 呼んでもいいか?」

キルア「ナニカごめんな… オレが間違ってた ごめん!!オレずっとイル兄が怖くて、逆らえなくて言いなりになってて、それがすごい嫌で。オレだけじゃなく今度はナニカに、無理矢理嫌な事命令させられたらって考えたら、すごく怖くなって アルカのためって自分に嘘ついて、お前に非道いこと言っちゃった 本当に、ごめん!!」

キルア「ナニカお前はオレが守る ずっと一緒だ!!他のヤツの『お願い』なんか、もう聞くな!オレがいつでも、お前をいいコいいコしてやる!! だから… もう一度出て… きてくれるか…?」

ナニカ「あい」

キルア「ナニカ…こんな、ダメなお兄ちゃんでも、許してくれるか?」

ナニカ「あい キルア、スキ」

抑圧から解放されるために取る行動それ自体が、抑圧者のそれを反復するという皮肉は、魔性使いチームの画魔の件で見た通りである。今回はすんでのところでキルアはその過ちに気が付き、その過ちから脱することで真にイルミによる呪縛から脱することができた。このエピソードは、排斥の論理にさらされた者が我が身かわいさに気づかずして同様の排斥の論理を振りかざしうる過程を描写している。くわえてそれは内部/外部の構図は何層にも入り組んでいるということでもある。

内部の価値体系(と内外の線引き)を最上位の規範とするあり方

 これまで見てきた三つの要素は、結局のところ自身が依拠する価値体系を至上のものとし、外部の価値体系や内外にまたがる高次の価値体系を認めないために帰結したものであった。例えば、前述の通り『幽遊白書』のラスト近辺で、霊界の論理は魔界側の言い分を全く無視した一方的なものであったことが暴かれる。さらには正聖神党によるテロ事件によって、霊界の非主流派は一方的どころか独善的であること、霊界は人間界や魔界同様に一枚岩ではないことが明らかになる。

舜潤「今も一部に自分達を神の使いと信じている者達がいます 霊界は天国じゃありませんよ 単に肉体と霊魂が離れたときに行きつく場所の一つです 彼らにとって魔界の住民はただの異種族ではなく悪魔の使いなんです 彼らは人間界を浄化することが神から与えられた使命だと考えています」

かつて霊界を支配したエンマ大王は自らの非を知りながら霊界の利益のためにマッチポンプをしていたと思われるが、正聖神党にあっては自身を神の使い、魔界の住民を悪魔の使いと信じていることから、自身らの価値体系の外部と折り合う余地は極めて薄い。

 また、これまで見てきたように、ゲンスルー一味は一味の利益を、ゾルディック家は家の存続と繁栄を、幻影旅団は故郷の防衛と復讐の大義を、それぞれ「人を殺してはならない」という全人類共通の規範よりも優先した者たちであった。彼らすべてに対して当てはまる批判は、幻影旅団に対してゴンが言ったこのセリフである。

ゴン「仲間のために泣けるんだね 血も涙もない連中だと思ってた だったらなんでその気持ちを少し…ほんの少しでいいからお前らが殺した人たちに、何で分けてやれなかったんだ!!!」

言うまでもなく、ゴンが激怒しているのは仲間には適用される死を悲しむ感情がその外部には全く向けられない点である。そして、この批判は幻影旅団に対して特にクリティカルなものとして響くことになる。というのも、幻影旅団のそもそもの目的が復讐にあり、理不尽に殺される痛みを知りながら復讐に無関係な人間の殺しに手を染めているからである。この点が幻影旅団に対する復讐を目的としているクラピカとの決定的な違いとなる。クラピカは自身の復讐に無関係な人間を理不尽に殺すことはしない。言い換えれば、自身の復讐という大義と「人を殺してはならない」という普遍的規範とを両立させようと努力している。幻影旅団が実際にクルタ族に対して手を下したのであれ、手を下していなかったのであれ、自身らの規範より高次の普遍的規範を尊重しないという点において、彼らは「悪党」なのである。

 本章の最後に、メルエムとネテロの対比を扱いたい。というのも、最も本章の問題を表していると思われるからである。メルエムは再三にわたりネテロに対して、対話を促してきた。彼は力でねじ伏せて一方的に自らの価値体系に他者を従わせることをもはや良しとしない。

メルエム「其の方が余と交わすことが叶うのは言葉だけだ」

そして、メルエムはあるべき人類の未来像をネテロに対して提示する。

メルエム「理解できぬな・・・人類という種のためか?ならば余の行為はむしろ『協力』だと言っておく 例えばお前たちの社会には国境と言う縄張りに似た仕切りがあるだろう 右の境では子供が飢えて死に左では何もしないクズが全てを持っている 狂気の沙汰だ」

メルエム「余が壊してやる そして与えよう 平等とはいえぬまでも理不尽な差の無い世界を!!始めのうちは『力』と『恐怖』を利用することを否定しない だがあくまでそれは秩序維持のためと限定する」

メルエム「弱く・・・しかし生かすべきものを守るためだ 敗者を虐げるためでは決してない」

ここでメルエムはキメラアントだけでなく、人類を含めて全種族の頂点に立つものとしての責任を果たすべく、キメラアントにも人類にも妥当するより高次の価値体系に基づく未来を提示している。もちろんそれが「生まれたての餓鬼」による青臭いものであったとしても*3、キメラアントという種を超えて、本来は捕食対象でしかないはずの人類までをも考慮したそのあり方にこそ道義的な力が宿るのである。対してネテロは最初から最後に至るまで、メルエムに耳を傾けることも、メルエムのそれを凌駕するようなキメラアントや人類などの未来像を提示することもなかった。彼の関心事は終始如何にしてメルエムと戦うかであり、「虫」と蔑むキメラアントと共通の価値体系を模索するつもりなど毛頭もなかったのだ*4。人間及びネテロ側の都合はどうあれ、どこまで相手のことを慮っていたかというこの一点をもって、人間及びネテロの道義的な敗北が読者に印象付けられることとなる。

内外に共通する価値による線引きの乗り越え:『幽遊白書』の場合

 以上ここまで、冨樫作品における善悪のコードとしての部族主義がどのようにして現れるかを見てきた。部族主義は内外を分断し、内部の構成員に対して自己犠牲を強い、外部の者を排斥するだけでなく虐げるものであった。冨樫作品では部族主義が作動する場面が幾度も描かれる一方で、それがもたらす線引きを超える瞬間もまた幾度も描かれてきた。

 『幽遊白書』において、その越境の萌芽とも言える場面が、暗黒武術会での六遊怪チームの酎及び魔性使いチームの陣と幽助が通じ合う場面である。三者ともに戦いそのものに喜びを見出し、フェアプレイでもって戦いを楽しむ。酎との戦いにおいて幽助は酎もまた「バトルマニア」であることを認めると、霊丸という奥の手を戦う前に実演し、その性能と限界まで説明する。そのバカ正直さに酎は呵呵大笑する。

酎「ガハハハハハ 本当にバカだな 気に入ったぜこんちくしょーーー」

死闘の末に酎を倒した幽助は、気を失っている酎を前にした鈴駒に対して、親指を立てて微笑みながらこのように言う。

幽助「目ェ覚ましたら言っとけや またやろうぜってな」

また、陣との戦いの直前においての会話では、陣が幽助との戦いを楽しもうとしていることがわかる。

陣「ホレホレこれ見てけろ 耳がピーンととんがってるべ?オレなコーフンしたりワクワクすっとこうなるんだ」

陣「いや~~~~こんなビンビンになっての久々だわさ あ それがらオメが爆のヤロぶっとばした時スカッとしたんだオレ」

陣「正直言ってあいつの不実さにはほとほとあいそがつきてたからよ」

幽助「ぷっ―――ちっすっとんきょうな野郎だなオメー 怒りにまかせてぶっとばしてやろーと思ってたのに毒気ぬかれちまった」

陣「あいつはあいつオレはオレだ ギスギスした気持ちのまんまやりあっても楽しくねーべ?」

前述の通り、陣が属する魔性使いチームは、画魔が実践して見せたように個を犠牲にしてチームとしての勝利をつかもうとしていた。それに対して陣は、「オメが爆のヤロぶっとばした時スカッとした」と、同じチームの爆拳の敗北を喜んでみせ、「あいつはあいつオレはオレだギスギスした気持ちのまんまやりあっても楽しくねーべ?」と同じチームの同胞であることよりも、個人として戦いを楽しむことを大切にする。酎と陣のエピソードで、幽助は、妖怪とも党派心を捨てて勝ち負けよりも戦いそのものを楽しむことができること、妖怪もまた自分と同じように楽しむ心を持っていることを知る。暗黒武術会でのこの成功体験が、おそらくは魔界での黄泉に対する突拍子もない提案につながっている。

 幽助・飛影・蔵馬が魔界で三つの陣営に別れることになる魔界編では、魔界は三人の妖怪が支配する三つの国によって三分されており、500年にわたり三者がにらみ合い続けてきたことが明らかになる。その三つの国の内の一つの国王であり、幽助の遺伝上の父でもある雷禅が死ぬことでこの均衡は崩れる。雷禅の後を継いで幽助が国王になると、直ちに幽助は敵対国の国王である黄泉と会談を申し込む。先ほどの突拍子もない提案とは、その会談の場面での幽助の下記発言を指す。

幽助「ただのケンカしようぜ 国なんかぬきでよ 一度みんなただの一人に戻ってよくじで組み合わせ決めてトーナメントやろうぜ 最後に残った奴が大将だ 負けた奴は全員そいつに従う 何があろうとな」

幽助のこの提案は紆余曲折ありながらも最終的には魔界全体を飲み込んだ秩序の再編成へとつながっていく。もう一人の国王である軀は幽助の提案を直ちに飲み、国家の解散を宣言する。

軀「皆に伝えてくれ 今日から軀はただの妖怪だとな」

そして、(トーナメントの開催を飲みつつも)最後まで国家としてトーナメントを勝ち上がるための策略を捨てなかった黄泉もまた、雷禅の旧友たちが自身に匹敵する力を持ちながら野心も持たずに隠れていた事実に衝撃を受け、にもかかわらずその事実に高揚感を覚える自身に戸惑いを感じながら、ついには策略と国家を捨てる決断をする。

黄泉「計算外だ こんな奴らが野心も持たず隠れていたとは・・・・・・なのに何だこの高揚感は!?昔の血が騒ぐとでもいうのか黄泉よ」

黄泉「つまらぬ策略を捨て一個として力を試したいとでも言うのか!?」

(中略)

黄泉「妖駄お前も自由だ好きにしろ 誰が勝つかもうオレにもわからん」

妖駄「ま・・・・・・まさか本気で本気で国を捨てトーナメントを戦うと!?」

黄泉「やはりオレもバカのままだ」

そして、トーナメントの抽選会場で幽助と黄泉が言葉を交わすシーンで、黄泉は幽助に自身が心変わりしたことを伝える。

黄泉「信じてもらえなくても構わないが オレは何も望まずこの大会を全力で戦う」

以上のエピソードから、酎及び陣との通じ合いがここでも反復されていることがわかる。そして、この通じ合いを貫徹するために今度は、幽助は身内の党派性を解体しなくてはならない。トーナメントの抽選で黄泉とその子どもである修羅が同じブロックとなったシーンである。

雷禅の元部下「これでかなり有利になりましたね」

黄泉との会話で見せた穏やかな表情から一転、胸倉をつかみ激怒しながらこう言う。

幽助「二度とつまらねェこと言うんじゃねェ」

 以上のような経緯を経ての、本選開始前の主催者を代表しての幽助による開戦のあいさつは、幽助の思想を率直に表したものである。

幽助「できれば何年か毎にこうやってバカ集めて大統領選挙みてーに大将決められたらいいんじゃねーかと思ってる」

幽助「予感なんて信じるガラじゃねーけど誰が勝ってもスッキリできる気がするんだ」

メルエムが「暴力こそこの世で最も強い能力(チカラ)!!」と言ったように、魔界においては暴力が共通の言語であった。であるならば、徒党を組み・策略をめぐらすのではなく、衆人環視の中での個人対個人かつフェアな条件下での戦いによる結果ならば、「スッキリ」できること、わだかまりなく誰もがその勝者に従う気になること、これが幽助の提案であり確信であった。異なるポリシーを持った国王たち*5が支配する三国に分断された魔界において、「手前好みの秩序を押しつける」*6のではなく、すべての妖怪に通じる規範である「強いやつが正しい」*7を誰もが納得する形で貫徹させること、本文の文脈に即すならば、内外に共通する価値を基盤とした新たな枠組みを立ち上げること、これが幽助の部族主義を乗り越えるための知恵であった。

 このような幽助の立ち振る舞いについて、黄泉は「あえて仲間をつくらぬことで同志を増やすとはな」との感想を持った。ここで使われる「仲間」と「同志」という意味合いの違いには注意しなければならない。ここでいう「仲間」とは本文の定義でいうところの部族であることは明らかだろう。では、「同志」とは何か。幽助によるトーナメントの開催の提案について、蔵馬とその一味が乗り、軀一派もまたそれに乗ることで、黄泉は孤立に追い込まれた。蔵馬たちとはともかく、軀とは必ずしも幽助は利害を共有しない。にもかかわらず軀がそれに乗ったのは、同じ志を持ったから、幽助の掲げる理念に賛同したからに他ならない。「仲間」や組織に対する無条件の忠誠ではなく、掲げた理念に忠誠を誓うという、個々人の意思に基づいた水平的な連帯の構成員が「同志」なのである。

内外に共通する価値による線引きの乗り越え:『レベルE』、『Hunter×Hunter』の場合

 『幽遊白書』においては、「内外に共通する価値による線引きの乗り越え」は暴力という普遍的なコミュニケーションツールを基盤としたものであった。暴力を共通の言語・価値とした通じ合いは、『Hunter×Hunter』でも反復される。その一つが、ビスケの「極限をも超えた鍛錬の結晶」としての肉体に感動し、「武闘家として手合わせ願いたい」と言って戦いを挑んだ猟奇殺人犯のピノールトである。また、ネテロと対するメルエムもまた、ネテロの「演武」に対して深い感動を覚え、単なる滅すべき敵以上のものとして相手を扱おうとする。

ナレーション「王は、極限まで時が圧縮され意識のみがかろうじて捉えるネテロの残像を追いながら、ある感情に支配されていた 敵への惜しみ無き賞賛」

メルエムは自分の心が感動で打ち震えたことを、自らの言葉でしっかりとネテロに伝えようとする。

メルエム「其の方が己を高めんが為捧げ続けた永き時その成果しかと受け取った 一個が修練の末届き得る限界 それを卓越した稀有な事例といえよう 天晴だ 誉めて遣わす」

上記2つのエピソードは、『幽遊白書』における「戦うことの楽しさの共有」という切り口から、「武道における求道者の限りなく磨き抜かれた修練の先にある到達点に価値を見出す姿勢」という切り口に変化していることに注意したい。

 また、『レベルE』以降の冨樫作品では、「内外に共通する価値」が暴力・武道に限らない点も特筆に値する。具体的には、『レベルE』でのディスクン星人のエピソードである。ディスクン星人は地球に暮らす大変好戦的な宇宙人である。当該エピソードの序盤で、生態学者でもある別の宇宙人がディスクン星人を評してこう言う。

「(宇宙有数の戦闘種族である)彼らが地球に限っておとなしく暮らしているのは何故なのか?」

「彼らに攻撃されて絶滅してしまった種族は軽く3ケタを越えます なのに地球でのみ彼らは先住民のしきたりにならい他の星では考えられない程行儀良く静かに生活している」

「しかもこの星には彼らの仇敵であるエラル星人までが棲みついているんです この両種族が混在する星なんて宇宙広しといえど地球だけですよ」

この謎はエピソードの終わりに解明される。

「実はオレ達ディスクン星人種族そろって大の野球狂でして高校に大学ノンプロプロ野球かかさずチェック入れてるんスよ」

「オレら確かに切れたら星壊すまで暴れますけど地球ではやりません 野球見られなくなるっスもん」

「未来の大選手生むかもしれないって考えたら地球人殺すなんてとてもとてもとても」

「悔しいのは憎っくきエラル星人も野球好きで一足先に高校野球の激戦区やプロ野球球団の本拠地は全部縄張りでとられてしまいましてなんとかオレらの縄張りから大選手が出ないものかとずっと夢見てたんスよ」

「オレらこの星に来て戦い以外の楽しみ初めて知りました 感謝してるんス」

ギャグテイストで明かされるディスクン星人の真実は、それにもかかわらず「他者と通じ合う共通の価値」という冨樫作品の中核的なテーマを表すものである。そして、このエピソードは、メルエムとコムギとの交流の物語を予告するものでもある。

 メルエムとコムギとの交流は、以前に十分に書いたため、繰り返し詳細に書くことはしない。メルエムはネテロとコムギという人類の文武の代表者と対し、文武の精華としての成果物を味わい尽くして死んだ。そして、メルエムは彼らに対しての賛辞を惜しまなかった。本文の文脈に関係して重要なことは、すべての生命にとって共通のコミュニケーションツールである物理的な力の行使、つまりは暴力で人類とキメラアントが通じ合っただけでなく、人間による文化的産物である軍儀を通じて両者が通じ合ったことである。それはメルエムが軍儀を打つ者たちの文化共同体に組み込まれていく過程の中での出来事であった。当初メルエムは定石を相手に指させない力戦形を目指し、その無意味を悟るとコムギと感想戦を行って定石を学び、コムギの生んだ定石を生み直し、最後にはコムギとともに新たな定石を生みだした。軍儀はその性質から個人対個人で戦うことを余儀なくされる。その結果、コムギが総帥という肩書ではなく個人として、メルエムに関心を持つことになる。これがメルエムの個人としての目覚めのはじまりであった。そして最後には種の未来を背負った統治者としてではなく、メルエムという一個人として、あるいは一棋士として、コムギに相対し・対局し、死んでいった。これはピノールトが「武闘家として」ビスケに相対した先述のエピソードを反復するものである。どちらのエピソードも、本来は何の縁もゆかりもなく、まったく異なる背景を持った主体同士が、武闘という共通の価値を認める者として、あるいは軍儀という共通の価値を認める者として、それぞれの背景と属性を脱ぎ捨てて相対している。そしてメルエムとコムギのエピソードは、メルエムが元々所属していた集団から個人として精神的に自立し、新たな特定の価値を信奉する共同体に組み込まれていく過程を表したものであり、先述の『幽遊白書』における魔界統一トーナメントでのエピソードを反復したものである。

 キメラアント編における「元々所属していた集団」と「特定の価値を信奉する共同体」が性質的に異なることにも注意したい。前者への帰属は意思によらず自明の前提として観念される。一方で、後者への帰属は個人の意思に基づいたものである。個人の意思に基づいた共通の価値や目的を紐帯とする共同体*8は、ジンが設立した特定非営利活動法人やキメラアント討伐隊、ビヨンド=ネテロが総責任者をつとめる暗黒大陸探検隊等々と、『Hunter×Hunter』において繰り返し登場する。これらは、人は「仲間」でなくとも同じ志を持つことで連帯することが出来るという人間観・世界観の表現である。

 最後に、連帯の最小単位が個人であることにも言及しておく。冨樫作品の特徴は、「仲間」だからといって常に一緒に行動するわけではないという点だ*9。『幽遊白書』における主要キャラである幽助、飛影、蔵馬、桑原は魔界編では散り散りになるし、『Hunter×Hunter』における『幽遊白書』の主要キャラたちの後継にあたるゴン、キルア、クラピカ、レオリオもまた、ハンター試験の後は別々になって行動する。「ニコイチ」であったゴンとキルアでさえ、キメラアント編の後は行く先を違えて、個人が最小単位であるという原則を貫徹する。彼らは「仲間」の重大事には再度集まり行動するとともに、平常時は別のグループやチームに属してそこの人々と協力し合う。冨樫作品は同じメンバーでずっといることを好まない。それは集団に縛られていることになるからだ。幽助と分かり合えた酎や陣のように、所属集団から自由であることが連帯、あるいは新しい価値共同体の立ち上げの条件となる。そして、『レベルE』における(小学生五人組の中で一番頭の悪そうな)横田によるギャグテイストでのツッコミ「個人の自由が尊重されてこその平和だろーが」は、冨樫作品を貫徹する原理なのである。

終わりに

 少年マンガは、あるいはより広く物語一般は、主人公たちとは異なった存在である他者を物語の深みをもたらすために必要としてきた。特にバトル漫画は価値体系や利害を異にする他者との衝突・調整・交流が物語の駆動原理となる。そのようなジャンルとしての性質の中で、冨樫作品の特色は善悪だけでなく内外の境界が何度も再編成されていく点にある。対立する二者の間に新たな共通の価値を戴く共同体が立ち上がり、「あいつら」が「我々」になるときに深い感動、カタルシスが生じる。この感動の条件を最後に明示しておかなくてはならない。それは感情が揺らぐことであり、ぶれることである。

 最後の決戦において仙水は、魔界で幽助たちの人間・妖怪という種を超えた強い結びつきを目にして、かつての盟友であったコエンマを見つめながら「決心がにぶりそうだよ」と言った。ここでの決心とは、魔界で死ぬことであり、死後魂を霊界には委ねないことであろう。そこには人間を憎んで魔族にあこがれる気持ちやコエンマとの関係を修復させないという意思も含まれる。あるいは、ネテロはメルエムとの対話の中で、「お互い大変だな」とこぼしながらも「結論は変わらない」のだから「心がぶれる前に」闘おうとした。一方で、メルエムは「蟻と人とで揺れて」いたのであった。自らの信念や所属する集団への忠誠が揺らぐとき、その気持ちを押し殺すか否かの二値コードは、冨樫作品において何度も現れる。ナックルとシュートは任務の確実な遂行よりも自身らの誇りを優先し、パームは蟻の王のコムギへの純粋な想いを前にして、コムギを決してキメラアントたちに渡さないというキルアとの約束を破る。ユピーもまたモラウを確実に討つよりも敵との信義を優先した。先述の通り、黄泉もまた雷禅の旧友たちの妖気の放出に衝撃を受け、自身の手による魔界統一への意思を捨てた。雷禅も食脱薬師の女の生き様を前にして、その後の生き方を変え、同時に幽助が生まれる原因ともなった*10

 これらに一貫しているのは、揺らぎを受け入れる姿勢は人間的な美徳や相互理解につながるのに対し、それを受け入れない姿勢は悲劇や永遠の断絶をもたらす点である。仙水やネテロが揺らぎを覚えながらも、当初の結論を変えなかった姿勢は、コエンマや幻海による再三の説得にもかかわらず、極限の苦痛の後に無に帰る地獄へ行くことを選択した戸愚呂弟の頑なさと同一のものである。冨樫作品はこの頑なさを雄々しいものとしてではなく愚かしいものあるいは哀しいものとして描く。そして、揺らぐこと、その弱さこそが人間的な徳目であり、人間性の条件であること、自身の集団の外部にいる他者とつながるかけがえのない要素であることを描く。

*1:転向前の仙水のセリフ「こいつら妖怪は存在そのものが悪です全て無に還すべきですよ」が最も端的にその偏見を表わしている。

*2:下記は流星街の人々の行動・思考様式を表すエピソード。

「流星街出身の浮浪者が殺人の容疑で捕まったが、3年後に冤罪が証明された。警察官、陪審員などの冤罪にかかわった人間、合計31名はその直後に爆死。スイッチ式の爆弾を懐に入れて笑顔で対象者に握手したと同時に起爆。流星街から派遣された同胞31人は平気で命を投げ出し、31人の命を奪った。彼らの絆は他人より細く家族より強い。」

*3:メルエムは産まれてから間もない存在であり、これからも急速な成長を遂げるであろうことから、これ以降も思想的に成長し、上記発言とは全く異なる統治思想になるだろうことが予想される。したがって、このタイミングでの発言をもってメルエムの統治者としての力量を計ることは適切ではない。

*4:人類の未来を一身に負ったネテロは、ナックルとは異なり、もはや相手と直接向き合い、自らの頭で物事の是非を判断しようとしない。是非の判断をするのは後方にいて現場を知らない権力者たちであり、彼らにとってキメラアントは人間同様の理性と感情を持った存在ではなく、「危険生物」でしかない。

*5:雷禅「軀と黄泉とも最初は感情だけで争っていたが今は違うそれぞれなりに考え意見が対立してるんだ」

*6:言玉での軀による黄泉評である。

*7:魔界で蔵馬が仙水に追い詰められたときのセリフ「今はお前の力が上だったそれだけのことだそして魔界ではそれが全てだ」が参考になる。

*8:アソシエーション

*9:この点は「部族」であるゾルディック家や幻影旅団にすら当てはまる。

*10:幽遊白書』は魔族と人間との越境によって生まれた主人公が魔界・霊界・人間界を再編する物語である。

呪術廻戦考察➁――天上天下唯我独尊あるいは権利のための闘争

はじめに

 本記事は前回の補論に近い位置づけとなる。前回は『呪術廻戦』と他のバトルマンガとを比べたときの特異な点を摘示した。すなわち、➀善悪の相対化が極端に進んでいる点、にもかかわらず➁「応答責任」という形で「善」がはっきりと輪郭を持っている点、➂この「応答責任」を引き受けることが、青年が大人となる契機でもあった点、である。

 今回は、他のバトルマンガでは描写されることの稀であった要素の指摘をしたい。それはおそらくは作者のフェティッシュによるものであり、本作全体を貫く価値体系に根差したものでもある。その要素とは、「若者のありえないほどの傲慢さ・思い上がり」であり、くわえて、それをナイーブな*1または中二病的なものとして軽く扱うのではなく、「共感を持ってそれを肯定的に描く手つき」である。具体的には、五条と東堂が体現する傲岸不遜な態度のことである。前回に続いてこれもまた、本作を特徴づける特異な点である。

少年マンガのキャラクター類型とは区別されるべき「不遜さ」について

 「ありえないほどの傲慢さ・思い上がり」という言い回しによって筆者が伝えたいニュアンスを適切に表現する日本語の語彙は見当たらないので、以降では簡潔に「不遜さ」と呼称する。この「不遜さ」を、少年マンガの主人公によくある性格類型と混同してはならない。すなわち、「ややアウトロー寄りだが根はまっすぐで、少し生意気ではあるが元気で可愛げのある後輩」といったキャラクター造形とは区別する必要がある。姉妹校交流会における東堂を見てみよう。

 東京校と京都校との戦いがはじまる前、京都校の生徒と教員たちは虎杖を殺す謀議している。打合せの途中で東堂は下記のように言い放ち、襖を蹴破り退席する。

東堂「下らん 勝手にやってろ」

加茂「戻れ東堂 学長の話の途中だ」

東堂「11時から散歩番組に高田ちゃんがゲスト出演する これ以上説明いるか?」

加茂「録画すればいい 戻れ」

東堂「リアタイと録画 両方観んだよ ナメてんのか?」

(中略)

東堂「いいかオマエら 爺さんもよく聞け 女の趣味の悪いオマエらには 疾うの昔に失望している 謀略 策略 勝手にやれよ 但し次俺に指図してみろ 殺すぞ」

 ここにおける東堂はもはや「活きのいい若者」として回収するのが困難なほどに無軌道で破壊的であり、はるかに年上で目上の楽巌寺学長の権威も一切認めていない。

 あるいは、天内理子を守ることを決めたときの五条と夏油の会話を見てみよう。

五条「星漿体のガキが同化を拒んだ時!?」

五条「......」

五条「その時は同化はなし!!」

夏油「クックッ それでいいのかい?

五条「あぁ?」

夏油「天元様と戦うことになるかもしれないよ?」

五条「ビビってんの? 大丈夫 なんとかなるって」

 ここでの五条(と夏油)の言動は東堂に比して一層ラディカルであり、一層危うい。この世界の秩序そのものを支える存在を敵に回しかねないことを、誰に相談するわけでもなく、たった二人で決めてしまう。

 東堂にせよ五条らにせよ、彼らの振る舞いはもはや「生意気だけれどもかわいい後輩」のものとは到底言うことができない。自分よりも目上の対象の喉元に刃を突きつけ、いつ喉笛を掻っ切るかわからない存在である。また、当然のことながら無力な不良少年の粋がりとも異なる。彼らは十分に裏付けとなるだけの力を持っており、それを背景に、東堂は楽巖寺に「指図するな」と「命令」しているのであり、五条に至っては断りを入れることすらなく「決定」してしまう。

 ここまでで、本作の「不遜さ」は少年マンガにおける先行作品群と一線を画することを示すことができたと思う*2。以下では、「不遜さ」とはどのような意味内容を含むのかについて、本作及び別作品の引用を適宜交えつつ「不遜さ」に含まれる下位概念を見ていくことで明らかにする。

その1:強烈な自尊心

東堂「小3のときに俺にナマこいた高校生をボコッた 年上だろうと生意気は生意気

相手が俺をナメてて俺がナメられてると感じる その瞬間ゴングは鳴ってんのさ」

 東堂の尋常ならざる人間性を示す上記エピソードは、前掲の楽巖寺学長に聞いた口同様、価値の反転が見られる。すなわち、「評価するのも指図するのもオマエ(学長)ではなくオレ」であり、「ナマこいた態度を許すかを決めるのもオマエ(高校生)ではなくオレ」であるということだ。相手がはるかに年上だろうが怯むことはなく、「目上に対しては恭しく振舞うべきだ」といった通俗道徳を突き飛ばすような、尊大なまでの自尊心がある。

 また、京都校との交流会で、先輩にあたる西宮から顔を攻撃されたときに釘崎が怒り心頭で放った言葉「よくも私の御尊顔を…」も本作の特徴である強烈な自尊心をよく表している。

その2:自負心(と裏付けとしての実力)

 自負心は自尊心とはやや異なることに注意したい。自負心は自分の能力や業績に対する自信や誇りである。一方で、自尊心は能力や業績と必ずしも紐づかない。したがって、自尊心は条件付きでない点で自負心よりも純粋で強固なものであると言えるが、自分の意に沿わない外界と対峙するときには、裏付けを欠くものとして、自負心よりも脆いものになりかねない。

 フランスの詩人、アルチュール・ランボーの『地獄の季節』の最終章である『別れ』の一節を引きたい。彼は早熟の天才であるとともに、「反抗の詩人」として、あらゆる権威を否定し、新しい諸価値を構築しようと努めた。

俺はありとある祭を、勝利を、劇を創った。新しい花を、新しい星を、新しい肉を、新しい言葉を発明しようとも努めた。この世を絶した力も得たと信じた。さて今、俺の数々の想像と追憶とを葬らねばならない。芸術家の、話し手の、美しい栄光が消えて無くなるのだ。

この俺、かつてはみずから全道徳を免除された道士とも天使とも思った俺が、今、務めを捜そうと、この粗々しい現実を抱きしめようと、土に還る。百姓だ。

 ランボーのこの詩において、「この世を絶した力も得たと信じた」とまで言うすさまじい自負心は、「この俺、かつてはみずから全道徳を免除された道士とも天使とも思った俺」という異常な思い上がりという形で結実する。

 十二分な実力を持ち、それに見合った自負心を持つ五条と東堂もまた、ランボーのように自らを「全道徳を免除された」存在と自認していたからこそ、上述のような傍若無人な振る舞いができたのだと、筆者には思われる。彼らは責任や義務を自らの意志で引き受けることはあっても、道徳を押し付けられることはない。

その3:独立不羈の精神

 彼らの自尊心と自負心は、自らが誰かの風下に立つことを許さない。その精神に響き合うものとして、『スクールランブル』の主人公である播磨拳児の独白を引きたい。

播磨「ほんの少し前まで俺はクソ生意気な中学生で どうしようもないバカで そして神だった 誰にも俺を縛らせやしねえ 俺は俺だけのモンだ」

 上記はラブコメである『スクールランブル』の作品全体の雰囲気からは浮いた、要するにギャグとしての描写であるけれども、自らを神と比定し、誰からの介入も拒絶するあり方*3は、ある種の美学として、好ましいものとして、作中では描かれているように思われる。

 あるいは、『月の爆撃機』の歌いだしが指し示す領域であると例えると通りが良い人もいるかもしれない。以下は、その歌いだしの歌詞である。

ここから一歩も通さない

理屈も法律も通さない

誰の声も届かない

友達も恋人も入れない

 五条と東堂もまた、一切の他者からの介入を拒絶する領域を認めている。

東堂「羽化を始めた者に何人も触れることは許されない」

五条「若人から青春を取り上げるなんて許されていないんだよ、何人たりともね」

 注意しなければならないのは、ともすると強烈なエゴイストに見える五条と東堂が上記のセリフで守ろうとしているのは、他人の領域であるということだ。ここで東堂の言う「羽化」とは、虎杖の「羽化」であり、五条の言う「青春」とは、かつての自分たちの「青春」だけを指すのではなく、今このときを生きる少年少女、要するに教え子たちの「青春」なのである。

 したがって、自らの上に立ち自らに介入する者を決して彼らは許さないが、他者を必ずしも自らの下に位置づけ、介入・操作しようとするわけではない。むしろ積極的に、その独立を介入してくる者から守ろうとしている。ここに、独立不羈な者たちの連帯の契機がある。

その4:友情あるいは水平的な連帯意識

 十代前半から神童の誉れ高く、戦前の治安維持法下で反戦共産党運動にのめりこみ、26歳で拷問死したプロレタリア詩人である槇村浩の詩『青春 献じる詞(牢獄にて)』の一節を引く。

空疎な独白から眼をあげ

肩をそびやかして一切の倦怠を笑い飛ばした時

僕らはお互いの若い眼の中に

未来のコンミュニズムの輝きの発止と飛ぶ火花を

おぼろげに認めたのだ

僕らは十三だった!

さようなら! と僕は言った

それは不遜な少年たちが次々に放校される順番が

僕に廻って来た時だった

 ここで描かれている「不遜な少年たち」の甘美な友情は、東堂が希求した、あるいは五条が一生を捧げた、「あの友情」に他ならない。すなわち、➀他のすべてを敵に回しても壊れることのない結びつき*4であり、➁上下関係のない対等な*5、つまりは水平的な結びつきである。

その5:宿命的な挫折

 これまでに見てきた「若者の思い上がり」が折れずにいつまでも続くことは極端に少ない。その挫折がほとんど運命づけられていると言ってもいい。

 播磨は高校生活の中で、少しずつ「孤高のツッパリ」であることを辞めていく。ランボーは詩に失望し、若くして詩作を放棄し、二度と戻らなかった。槇村浩は上述の通り、戦後日本を見ることすらなく、1938年に26歳の若さで拷問死する。そして、五条と夏油の何者をも恐れぬ思い上がりもまた、天内の死とそれに続く友情の崩壊という最悪の結末を迎えることになる。

 それでは、若者が思い上がることは間違いだったのだろうか?本作はそう考えない。この物語をハッピーエンドに導いたのは誰だったか?他でもない大人になっても「クソガキ」であり続けた五条ではなかったか?五条は最初の決定的な反抗、すなわち「若人の青春を犠牲にして世界の秩序を守ることに何の痛みも感じないこの世界のあり方」をクソだと蹴とばして、世界のすべてを敵に回そうとした。そして、その最初の衝動、言い換えればたった一人の親友である夏油と共に目指した理想を守り続け、それに殉じ、その意思を貫徹した。

その6:反抗の思想あるいは美学

 本作には「権利のための闘争」とも言うべき、反抗の思想あるいは美学が埋め込まれている。本文序盤で言及した東堂の反抗及び五条らの反抗は何を目的としたものだったか?前者は高田ちゃんの出演する番組をリアタイするためであり、後者は天内の生きる意思を尊重するためである。一見すると彼らは自らのエゴを他人に押し付けているように見えるが、その方法を度外視して目的だけに着目するならば、自らの/他人の大切なものを守るために命令/抑圧をはねのけているに過ぎない。

 自らや誰かの、権利や自由の実現を阻む存在*6との戦いは止むことがない。そして、その存在とは往々にして自らよりはるかに強大なものである。本作での「若者の思い上がり」は、あらん限りの共感を持って抱きしめられるものであるとともに、人間存在の果てしない理想へ向かっていく勇気と活力として表象されている。

 たとえ挫折が必然であったとしても、挫折を織り込んだ思い上がりなど本物ではない。東堂のあの言葉を思い起こそう。

東堂「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理を表す ただし!! 俺達を除いてな」

 この信じがたいほどの思い上がりをどうか読者も噛みしめてほしい。

 すなわち、➀鐘の音が次第に消えていくようにすべては変化していくこと、➁咲き乱れる花々もいずれは衰え散っていくように盛者も必ず衰えゆくこと、➂短い春の夜の夢のようにその勢威を誇った人も長くは続かないこと、➃風が軽々とちりを吹き飛ばしてしまうように勢いの盛んな人も最後には滅びてしまうこと、と自然物、人工物、人間社会を観察した結果としての様々な例証をもって、あるいは『平家物語』という物語そのものでもって、世界における普遍・不変の法則としての諸行無常・盛者必衰の理が説かれている。それらに言及したうえで・それらすべてをわかったうえで、「ただし、俺達を除いてな」と啖呵を切っているのである。

 人間存在の奥底から湧き上がってくるマグマのようなエネルギーを持ったこのセリフは、へし折られた虎杖を鼓舞するものであり、思いあがった人間の愚かさを力強く肯定する。全知全能ではない自分をあるいは人間を、それでも信じることを肯定する。

補論:作中における「天上天下唯我独尊」の解釈について

 東堂が平家物語冒頭の引用をあえて捻ってみせたように、覚醒した五条が口にした「天上天下唯我独尊」もまた、すべての存在の尊さを語る本来的な意味ではなく、「宇宙の中でただ私が唯一尊い存在である」という、字義通りの意味であえて使用されている。これは言うまでもなく<宇宙的な思い上がり>であるのだが、さらにもう一捻りがある。五条がこの言葉を口にしたときの戦いの相手である甚爾が敗北したときにモノローグを見てみよう。

甚爾「自尊心(それ)は捨てたろ 自分も他人も尊ぶことのない そういう生き方を選んだんだろうが」

 ここにおいて、自身を尊ぶことと他人を尊ぶことはつながっている。このモノローグの背景で描かれているのは甚爾の妻と子、すなわち「他人」である。自身を尊ぶ者が他人を尊ぶ回路とは、つながりと共通点である。甚爾が自分を大切にしていれば、その延長線上にある家族である彼女らを大切にしただろう。対して、自分(と夏油)が世界の中心であった五条は、おそらくは境遇の類似性から、天内を救おうとしたのだった。

 したがって、自らを尊ぶことが他人をも尊ぶことにもなるという作中で示された筋道は、本来の「天上天下唯我独尊」の意味合いに帰ってくる。本来の意味合いについて、その理路をもう少し丁寧になぞってみよう。CoPilotに「天上天下唯我独尊」について解説してもらった内容の一部をそのまま下記に引用する*7

1.普遍的な尊さ: 釈迦が言った「唯我独尊」は、すべての生命が尊い存在であることを示しています。つまり、誰もが唯一無二の尊い存在であり、その価値を認識することが重要です。

2.自己の尊重: 自分自身を尊重し、他者も同様に尊重することの重要性を説いています。自己の価値を認識することで、他者の価値も理解し、尊重することができるという教えです。

3.悟りの象徴: 釈迦がこの言葉を発したのは、悟りを開くための第一歩として、自分自身の存在の尊さを認識することが必要であることを示しています。

 以上からわかるように、「天上天下唯我独尊」の本来的な意味とは、➀悟りを開く第一歩が自分の存在の尊さを認識することであり、➁自分の価値を認識することが他者の価値を理解することとなり、➂すべての生命が尊い存在であることに至るというものであった。よって、五条「悟」の「宇宙の中でただ私が唯一尊い存在である」という捻った「天上天下唯我独尊」の用法もまた、本来の枠組みの一部なのであった。

まとめ

 本作での「不遜さ」とは、➀自尊心と➁自負心に基づいた、➂独立不羈の精神によるものであり、その精神は上下関係ではなく➃水平的な連帯を希求する。そして、若者の「不遜さ」には➄挫折が運命づけられている。にもかかわらず、それは儚いゆえにこそ尊いものであると同時に、⑥「権利のための闘争」の源となる勇気と活力として表現される。さらには、⑦自尊心とはすべての存在を尊ぶ契機となるものであった。

 以上、本作における「不遜さ」とはそれ自体尊ぶべき「若者の」徳目であった。この徳目に付随する形で、大人たちが持つべきとされる徳目もまた本作においてあることを明らかにしなければならない。すなわち、とんでもない聞かん坊である若者たちをつぶすのではなく、彼らに振り回されながらも決して見捨てず、時には尻拭いをし、時には盛り立てていく大人の度量である。

 その典型は夜蛾学長であった。五条がまだ学生であった頃から数少ない理解者として支え続け、保守派にとって仇敵である五条側につき続けたことから、五条の封印時には無実の罪を着せられて殺されてしまった。

 本作は同時期に連載されたジャンプ三本柱とも評される『僕のヒーローアカデミア』や『鬼滅の刃』と異なり、作中における絶対的な価値観が存在しない。『ヒロアカ』ではオールマイトの体現する正義が目指すべき絶対であり、『鬼滅』では無惨を滅することが絶対の善である。いわば、『ヒロアカ』の世界観はオールマイトの善に寄りかかり、『鬼滅』の世界観は無惨の悪に寄りかかっている。

 寄りかかるべき価値観が存在しない世界で、「2人で1つだった」片割れの夏油が迷いと苦悩の果てに歩むべき道を違えたことを五条に報告したときの、頭を抱え込みながらの夜蛾のセリフは、本作品世界の混沌をまさに表している。

夜蛾「俺も…何が何だかわからんのだ」

 そのような世界の中で、正解の見つからない苦しみを五条ともに味わいながら歩んできた夜蛾のそのあり様が、自分なりの答えを押し付けることもなくただ五条に寄り添って支えてきたそのあり様が、本作におけるもう一つの、大人のあるべき姿なのであった。

*1:世間知らずで未熟な

*2:「不遜な」主人公類型として『DEATH NOTE』の夜神月が挙げられようが、彼は間違った・極端な・カルトとして、つまりはアンチヒーローとして描かれているため、「共感を持って肯定的に」描かれているとは言えない。

*3:主権概念を想起させる。

*4:東堂が存在しない記憶を思い出した直後につぶやいた修二と彰による『青春アミーゴ』の一節地元じゃ負け知らずの直前の歌詞は、「Si 俺達はいつでも2人で1つだった」であり、歌詞中の二人は故郷を捨て去りアウトロー組織に飛び込んでいたのだった。

*5:五条と夏油の友情は力関係の均衡が崩れたことで壊れ、東堂の虎杖との友情は互いがそれに値することを常に目指し・その水準を満たすことによってのみ成り立つ。

*6:作中における呪いとは人間界における矛盾の表現であるが、自然現象や野生生物など、権利や自由の実現を阻む存在が人間(及び人間たちの営みの集積としての社会構造)であるとは限らない。花御とはそのことを象徴する存在である。

*7:取り扱う内容が基本的ものであるから、大きく外したものではないと思われる。

呪術廻戦考察➀――「呪い」とは何か? 善悪の彼岸における応答責任としての呪いについて

はじめに

 「呪い」が『呪術廻戦』の重要なキー概念であることは、衆目の一致するところであろう。そして、作中における「呪い」という言葉の持つ多義的なニュアンスについても、多くの人は感づいているものと思われる。「呪い」とは誰かから誰かへ向けられた負の感情であるだけでなく、愛情や友情あるいは約束や願いもまた「呪い」となりえる。

 ここまでで語られた「呪い」は、誰かが誰かを「縛る」ものであった。しかし、本作における「呪い」は、自ら「引き受ける」ものでもある。この自発的な側面こそが、読者を深く感動させる、本作の中核的な要素をなすと筆者は考える。今回はこのことについて考えてみたい。

本作における悪とは何か?

 本作で登場する「敵」たちは必ずしも「悪」ではない。花御が戦うのは森や空や海を守るためであり、漏瑚は呪いこそが真の人間であるという信念から戦い、夏油は呪術師がすり減っていく現状への怒りと悲しみからこの世界を変えようとする。彼らが掲げる正義が、呪術師たちにとっての正義よりも劣っている根拠はどこにもない。虎杖が最後には「俺はお前だ」と真人に対して認めたように、人間と呪いとは徹底して相対化される。善悪は相対化される。

 にもかかわらず、本作において揺るがない「悪」は存在する。呪術界の負の部分を代表する、保守派グループがそれである。旧態依然とした価値観に固執し、自身らの利権にのみ腐心する醜悪な姿が強調される*1。本作で登場した多くの「味方」及び「敵」たちと異なり、彼らには守るべき信念がない。

 しかし、信念がないことが「悪」たる理由ではない。本作においては、「身近に起こった苦しみや悲しみに応答しないこと」が「悪」なのである。例えば、禪院家当主の禪院直毘人は、一般人が次々に殺戮される渋谷事変において、まともに働こうとする様子を見せない。一般人たちがどれほど死のうが、彼は痛みを感じない。リスクを負いながらその場に居合わせたすべての人を救おうとした五条の戦いっぷりと対照的である。あるいは、シン・陰流当主の老婆は、自らの利権を守るがために技術を独占し、助かったかもしれない命を見殺しにしてきた。そして最期にはその報いを受ける。

「善」と「悪」とを分かつもの

 上記の「応答する/しない」の二値コードが、「善」と「悪」とを分かつものとして本作では機能している。例えば、最強の一級術師として名前があがる宇佐美と日下部の対比が、このことを明らかにする。宇佐美は「上(総監部)の命令しか聞かないし、言われたことしかやらない」人物であり、五条や冥冥から忌み嫌われている。一方で、五条や冥冥らから「優しい」と慕われる日下部は、「応答せずにはいられない人」である。元々の彼は自らの保身を第一とする小心翼々とした人物であった。しかし、渋谷事変では向かっていくことなど考えもしなかった宿儺相手に、今度は単騎で向かっていく。

「ガキどもが命かけて戦った!! 大人の俺が必死こかなくてどうするよ!!」

 日下部の命をかけた応答は、「ガキども」だけに向けられたものではない。今は亡き恩人夜蛾学長にも向けたものである。

「らしくねぇ。なーんでこんな頑張ってるんだっけ。夜蛾さんのせいだよな、夜蛾さんには恩があるから。その夜蛾さんはもういないっちゅーの。でも、いないからこそってのもあんだよな。死人に口無しとはよく言ったもんで、こっちは死んだ人間が生きてたら言いそうなことを考えるしかない。別に俺が命をかけて戦わなくたって、夜蛾さんは責めやしないし、妹とタケルを会わせないなんてことはしないさ。でも、少し悲しそうな顔をするかもな。俺が命をかけないことにじゃない、一緒に戦えないことに対してだ。」

 夜蛾がいなければ、日下部が宿儺との戦いの現場にはいなかったかもしれない。そうであるならば、「ガキども」の戦いっぷりを見ることもなかった。そういう意味で、夜蛾は日下部を変えたキーマンであった。

 もう一人夜蛾によって変えられた人物がいる。保守派筆頭の楽巌寺学長である。当初の彼は五条から軽蔑される「マニュアル人間」であった。彼が変わったきっかけは、夜蛾による「呪い」である。我が身と引き換えに守り抜いた完全自立型呪骸の作り方を、夜蛾は死の間際に楽巌寺に伝えてこと切れる。

楽巌寺「何故… 今更話した 何故もっと早く 何故生き延びなんだ…!!」

夜蛾「呪い…ですよ 楽巌寺学長 私から アナタへの呪いです」

 後に楽巌寺が完全自立型呪骸の作り方を上層部に報告しなかったことが明らかになる。これは明らかな任務違反であり、五条が驚いた通り、「マニュアル人間」には決して起こしえない事態であった。楽巌寺は善悪を自身で判断し、自らリスクを負った判断をすることで、夜蛾の「呪い」に「応答」して、「マニュアル人間」をやめたのだった。

祖父から虎杖への「呪い」

 本作の主人公虎杖もまた、「呪い」を引き受けた者である。宿儺の器として呪いを我が身に受け入れ続けただけではなく、人生の指針もまた「呪い」によるものであった。その発端は祖父からの遺言であった。

祖父「オマエは強いから 人を助けろ 手の届く範囲でいい 救える奴は救っとけ 迷っても感謝されなくても とにかく助けてやれ オマエは大勢に囲まれて死ね 俺みたいにはなるなよ」

 上記の遺言を受け、虎杖はこのように言う。

虎杖「こっちはこっちでめんどくせえ呪いがかかってるんだわ」

 この時点において、虎杖は祖父の遺言は主体的に引き受けたものではない。はじめて夜蛾学長と面会した際、虎杖はそこを突かれる。

夜蛾「君は自分が呪いに殺された時も、そうやって祖父のせいにするのか?呪術師に悔いのない死などない。いまのままだと大好きな祖父を呪うことになるかもしれんぞ」

 ここではじめて虎杖は自らの意思でもって祖父からの「呪い」を引き受ける覚悟を持つことになる。

七海と釘崎から託された新しい「呪い」

 しかし、この覚悟は宿儺によって粉砕される。虎杖が生きていたことそれ自体によって、宿儺が虎杖の身体を借りることによって、数えきれないほどの人々が虐殺されてしまう。さらには七海と釘崎の最期を目の当たりにして、虎杖は完全に心を折られてしまう。このとき、虎杖を立ち直らせたのは、東堂の言葉だった。

東堂「虎杖…オマエ程の漢が小さくまとまるなよ。俺達は呪術師だ。俺とオマエと!!釘崎!!Mr.七海!!あらゆる仲間、俺達全員で呪術師なんだ!!俺達が生きている限り、死んでいった仲間達が真に敗北することはない!!罪と罰の話ではないんだ。呪術師という道を選んだ時点で、俺達の人生がその因果の内に収まりきることはない。散りばめられた死に、意味や理由を見出すことは時に死者への冒涜となる!!それでも!!オマエは何を託された?今すぐ答えを出す必要はない。だが…答えが出るまで決して足を止めるな。それが呪術師として生きる者達へのせめてもの罰だ。」

 虎杖は七海から何を託されたか。「後は頼みます」という言葉である。その言葉を発する直前、七海が躊躇したように、これは虎杖への呪いとなりうる言葉だった。虎杖へその言葉を発するよう七海に促した灰原の幻影は――七海は決して正面から認めることはなかったが――灰原から七海へ「呪い」がかけられていたことを暗示する。虎杖は七海からのその言葉を確かに受け取り、「俺 ナナミンの分までちゃんと苦しむよ」と誓う。

 果てしない苦悩と苦闘の果てに非業の死が待っていたとしても、その営みをまだ10代の若者に託すことが大人のあるべき姿からあるまじきものだとしても、虎杖の置かれたあの特殊状況において、「後は頼みます」という言葉は、灰原から受けた「呪い」を、つまりは自身(と灰原)の人生を肯定し、虎杖を生かす、唯一の応答であった。

 釘崎もまた虎杖に「皆に伝えて 『悪くなかった』!!」と言い残して倒れる。彼女は死の間際に自身の人生を「強い個人」として力強く肯定してみせた。この結末のすべては自分が納得ずくで引き受けたリスクであり、後悔はないこと、だから虎杖が気に病むことはないことを伝えたのだった。そして、虎杖が生きてこの言葉を持ち帰ることによってはじめて、釘崎の死は哀れむべきものではなくなる。そのような意味での「皆に伝えて」なのである*2

 呪いとなることを知りながら敢えて最期の言葉を口にした七海と、呪いとなることを避けるため言葉を選んだ釘崎は、全くの好対照でありながら、どちらも虎杖を生かす新しい「呪い」となった。

 ここにおいて、虎杖が生きる理由は功利的な計算によるものではない。すなわち、彼が生きることでもたらされた/もたらされる生と死を差引きして判断されるものではなくなった。七海が灰原からの「呪い」に応えて生きたように、虎杖もまた七海と釘崎からの「呪い」に応えて生きようとする。自身が生きるべきか死ぬべきかは、もはや自分で判断する事柄ではない。自分の一存で死ぬことすらも「許されない」。そのような意味で、虎杖は自身を「部品」と自認する。

世俗的な責任から遠く離れて

 虎杖の先達として彼を導いてきた七海や東堂は、呪術師と非呪術師との境目について自覚的な人々であった。

 七海は呪術師の世界が世俗に比して異常なまでに苛烈であることをよくわかっていた。

七海「呪術師はクソだ 他人のために命を投げ出す覚悟を 時に仲間に強要しなければならない だから辞めた というより逃げた」

 東堂は世俗の論理で呪術師を裁くことは不可能であることをよくわかっていた。

東堂「罪と罰の話ではないんだ。呪術師という道を選んだ時点で、俺達の人生がその因果の内に収まりきることはない。」

 虎杖はこの境目に自覚的ではない。世俗的な責任や道理を十分に理解することなくあまりに多くを背負い込んでしまった虎杖を、救う主体が現れなくてはならない。その存在こそが日車である。彼もまた見過ごすことがどうしてもできない人であった。

日車「私は弱者救済など掲げてはいません 昔から自分がおかしいと感じたことを放っておけない性分でした それが治ってないだけです」

日車「正義の女神は 法の下の平等のために目を塞ぎ 人々は保身のためならあらゆることに目を瞑る そんな中 縋りついてきた手を振り払わない様に 私だけは目を開けていたい」

 日車もまた「折れてしまった人」である。

日車「人の心に寄り添う それは人の弱さを理解するということだ 被害者の弱さ 加害者の弱さ 毎日毎日毎日毎日 ずっと食傷だった 醜い。他人に歩み寄る度そう思うようになってしまった」

日車「君もだ……虎杖!!人は皆!!弱く醜い!!オマエがどんなに高潔な魂を望もうとも!!その先には何もない!!目の前の闇は ただの闇だ!!灯を灯した所で!!また眩しい虚無が広がっている!!」

 日車が最後の一線を越えてしまったきっかけは、ある冤罪事件でのことだった。冤罪事件とは、法が機能しない極限状況である。その事件の判決直後に行われた日車による殺人もまた、法では裁くことのできない「呪術による向こう側での出来事」である。

 その日車が今度はジャッジマンをもって虎杖を裁こうとする。

「虎杖悠仁は2018年10月31日、渋谷にて大量殺人を犯した疑いがある」

 間髪入れず、まっすぐ目を見据えて、虎杖は言う。

虎杖「あぁ、俺が殺した。これは嘘でも否定でもない」

 言うまでもなく、宿儺による渋谷での大量殺人は法で裁ける領分ではない。しかし、ジャッジマンはそれを虎杖の罪として取り上げ、虎杖本人もまた自身の罪であると認める。今この瞬間の裁判もまた、法が正常に機能しない極限の状況なのである。

 かつて自身が弁護した被告人たちの、判決の瞬間の行き場のない感情を表した眼を日車が見過ごすことができなかったように、虎杖の哀しく澄んだ眼差しを日車は見過ごすことができない。言い換えれば、極限の状況下で責任を引き受けて見せた虎杖の振る舞いに、日車は応答せずにはいられなかった。

日車「刑法39条1項だ。渋谷での君は宿儺に肉体を乗っ取られていた。制御能力がなかった。つまり無罪だ、君に罪はない。」

 こうして、虎杖は世俗の道理によって救われ、日車は世俗を超えた極限状態での「一つの倫理的立場」を虎杖によって示され、それに応えることで「心神喪失」状態から自らを救い出すことができた。

日車「自分の意思で人を殺したことはあるか?……そうか 最悪の気分だったろう」

日車「俺は法を見限り また見限られた人間だ 最期に自分を罰するのは自分でありたい」

 法の判断が正義に反するときも、問題が呪術の領分であるときも、世俗の合意によって形成されてきた物差しに寄りかかることはもはやできない。半ば以上外部から押し付けられたこの極限状態にあって、自発的に責任を引き受けること、すなわち自分に向けられた呼びかけに応答する倫理を高らかに示すことは、人に過度に倫理的であることを強いることになりかねず危うい。このことはたとえこれがフィクションであっても、明確にしておかなくてはならないことだと筆者には思われる。

 しかしながら同時に、現実世界では「はっきり責任分担を切り出すことができない事柄」や「誰のせいでもない事柄」があまりに多い。そのような場面において、「応答せずにはいられない」虎杖や日車のあり方は、深く人の心に突き刺さる、何ものにも代えがたい徳目であると思う。

五条と夏油の蹉跌

 本作は五条が意思を貫徹し、その理想を達成する物語でもあった。したがって、虎杖にくわえて五条の変遷もまた重要な物語の軸となる。全てのはじまりは五条と夏油との青春であり、その無残な結末からであった*3

 二人は星漿体となる使命を帯びた少女、天内理子をその運命から救い出すことを決意する。二人は夜蛾から自らで判断するよう示唆を受け、おそらくは、五条は自らの境遇と重なるところから、夏油はあらゆる弱者を無視できないその性分から、彼女の強がりの中から微弱に発せられる「もっと生きたい」という意思を拾って応えようとした。彼女に課せられた理不尽に抗おうとした。

 しかし、若い二人の怖いものなしの自信は未熟さゆえに打ち砕かれる*4。この敗北が二人を分かつきっかけとなる。五条は一人で「最強」となり、もはや「二人は最強」ではなくなる。

 そして、盤星教の信者が少女の死体を前に満面の笑みで拍手するとき、五条が「コイツら殺すか?」と夏油に言ったとき、五条が善悪の判断を夏油に寄りかかり、まかせていることに夏油は気づいてしまった。だからこそ、夏油は自身の苦悩の最も暗い部分を五条に明かすことができなかった。そしてそのことがおそらくは夏油をより暗い方向へ導くこととなった。

 夏油が最後の一線を越えるとき、何一つ五条に相談することもなく、五条を誘うこともなかったのは、自分で善悪を判断しない五条を巻き込むことを避けたからだ。それは夏油が呼びかければ、五条は応える蓋然性が高かったということである。

 そしてそのことは、呪術師だけでなくあらゆる弱者の苦しみを受け取り、それに応えようとして潰れていった夏油に対し、五条はたった一人の親友である夏油の苦悩にすら応える以前に読み取ることもできなかったことを意味する。何も告げず変わっていった夏油を前に、五条もまた置いて行かれたと感じている。

青春の蹉跌がもたらした「呪い」

 「夏油の苦悩に応えられなかったこと」は五条を終生縛る「呪い」となった。夏油のとどめを五条自ら刺したことは、「現在の夏油」に対する五条なりの応答であった。このことについて、順を追って見ていこう。

 盤星教の信者を夏油は「意味がない」と言って殺さなかった。そのとき五条は意味の必要性を理解していない。また、夏油は両親を自らの手で殺害した。非術師である限り両親も例外でないこと、自らの手で殺さねばならなかったこと、これらは「意味のあること」である。だから自らの手で殺した。そして、街中で夏油と再会したとき、五条は彼を殺せなかった。その行為には「意味がある」と夏油が言ったとき、それに見合う意味を五条は見つけられていなかったからだ。しかし、夏油の最期のとき、五条は迷いなく自らの手で彼を殺した。夏油を殺すほどの意味ができたからだ。すなわち、自分たちのような青春(の無残な断絶)を二度と繰り返させないために、呪術界を変える志を持ったのだ。

五条「若人から青春を取り上げるなんて 許されていないんだよ 何人たりともね」

 五条が自ら夏油を殺したことは、夏油が両親を自ら殺したことに対応する。五条は親友が通った苦渋に満ちた通過儀礼追体験することで、善悪の判断を夏油に寄りかかる自分ではもはやないことを見せて、再び対等に関係に戻ったことを夏油に示したのだった。そしてそれは永遠の別れでもあった。

 夏油を殺害したことは、現在の夏油に応答するものである。そして、夏油を殺してでも実現したい目標は、過去の夏油(と五条自身)に応答しようとするものである。青春の中にいた五条はあまりに若すぎた。生育環境からしても応えられなかったことに罪はない。だからといって、当時の呪術界を形作ってきた保守派を皆殺しにしても「意味がない」。だから五条はこの問題をほかでもない自分の責任として引き受けるしかなかった。

 夏油は全ての呪術師たちの苦しみに対して応答しようとした。これに対し五条は過去の夏油(と自分自身)のみに対して応答しようとしている。すなわち、そのときにいてほしかった――しかしいなかった――大人の役割を引き受けることにした。それはあまりにも遅すぎた応答であった。無論、五条もそれをしたところで自分が一番望んでいるものがかえってこないことを知っている。それでも彼には、過去の自分たちに報いてやれる方法が他にないのだ。

 非呪術師のせいでもなく、保守派のせいでもなく、眼前の問題は自己に課せられた責任であると引き受けるときに、青年は大人のいない世界で「大人」となる。

 この五条の立場を言い表すにふさわしい三島由紀夫の言葉を引用したい。

「ここまで青年を荒廃させたのは、大人の罪、大人の責任だ、というのが、今通りのいい議論だが、私はそう考えない。青年の荒廃は青年自身の責任であって、それを自らの責任として引き受ける青年の態度だけが、道義性の源泉になるのである」

 いつ始まったかもわからない保守派の腐敗(=苦しみに応えないこと)があらゆる悪と悲劇の源泉であったように、五条が「大人」となったこの瞬間が、この物語のあらゆる道義性の源泉となっている。多くの心ある呪術師たちが、彼の献身に応えて共鳴していくことで、物語は駆動する。

 起源がわからないほど昔から続く腐敗の連鎖(=本来的な意味での呪いの連鎖)を、言い表せない悲劇と悲しみを負った英雄たる五条が――もはや自分が本当に望んでいるものは戻らないにもかかわらず――責任を負う主体となることで、「呪い」を引き受けることで、終わらせようとする物語が『呪術廻戦』なのである。

まとめ

 本作は優れて倫理を問題とした作品であった。上述の通り、本作は社会システムに対する関心が薄い。既存のシステムそのものの出来不出来を描写し、点検する意欲に乏しい。ここでの問題関心はシステムを運用する人間のあり方にあり、他者からの呼びかけに「応える/応えない」の二値コードが最も重要な善悪を弁別する基準となっている*5

 ただし、夏油の例のように応答することそれ自体は、必ずしもよい結果を招くとは限らない。しかし、応答しない者は本作において間違いなく「悪」であり、それと同時に悪い結果を招くのである。

 また、ここで求められている「応答すること」は、「特定の行動をする/しない」ことに照準が定まっていないことに注意すべきだ。もとより罪と罰との因果の外に「放逐」された呪術師たちは、固定された行動規範に寄りかかることはできない。

 くわえて、当初虎杖が基準としていた、功利的な計算に基づく結果主義も採用されない。それは呪術師と非呪術師を同じ物差しで測れないからであり、もはや世俗の枠組みで結果を予測することが不可能だからであり、そして何より命を張って戦場に立つ呪術師にとって、命を賭けるに値するものは一人一人違うものだからだ。

 徹底して善悪は相対化され、拠って立つ価値観は個人化されたうえで、ギリギリに削ぎ落として最後に残された倫理が「自身に対する呼びかけに自らの意思で応えること」である。このような意味で、呪術師は善悪の彼岸に立つとともに、人一倍の応答責任を負うことになる。

虎杖「『宿儺を喰う』 それは俺にしかできないんだって。死刑から逃げられたとして、この使命からも逃げたらさ、飯食って風呂入って漫画読んで、ふと気持ちが途切れた時、『ああ今宿儺のせいで人が死んでるかもな』って凹んで、『俺には関係ねえ』『俺のせいじゃねえ』って自分に言い聞かせるのか? そんなのゴメンだね。自分が死ぬ時のことは分からんけど、生き様で後悔はしたくない。」

 あるいは、七海が虎杖にかけたこの言葉。

七海「今日君がいなければ私が死んでいたように、君を必要とする人がこれから大勢現れる。虎杖君はもう、呪術師なんですから」

 作中では語られなかったが、この台詞が暗示しているのは、上記の虎杖同様の気持ちを抱えながら、それを押し殺して・見ないふりをして、一般企業に勤めていたころの七海である。彼は自分を必要とする人が大勢いることを知っていた。そして、それに応え続けた先に、高い確率で灰原のような最期が待っていることを知っていた。それでも彼は戻らずにはいられなかった。

 英雄的に、そして無惨に、戦いの果てに死んでいった七海や五条たちのために『世界の歴史<4> ギリシア(河出文庫)』の一節を引用して終わりたい。

 人間である英雄は、神意を十分に知ることはできない。しかしかれらは厭世的になることなく、自分の能力のかぎりをつくして、倒れ、あるいは敗れる。彼らの努力は、自己に課せられた義務をあくまでつくすことにむけられる。それは、自主的に決意し、自己に忠実になろうとする努力だ。それはまた、神意にかかわりなく、人間としての存在の主張である。だから、たとえ事は成らず敗者となっても、この努力、この自己主張によって、高貴な人間となる。愛情にしろ憎悪にしろ、その純粋なものは、もとより人間の美しさであるがそれにこの自主的な義務感がともなってこそ、人間の美しさはいっそう高められる。

 このような行為や感情を、知性が制御しているばあいは、いっそう尊い。どの勇士も武力や腕力だけの持ち主ではなく、知性がその行動を制約し感情さえも克己によって規制される。一種の知性主義の流れが認められるのだ。そのため、単なる勇士の物語や冒険談でなくて、深く人びとの心をとらえる。ホメロスの詩が、人間の、あるいはあるべき人間をあらわす人間性の賛歌にほかならないのはそのためだ。

 ホメロスの世界には怠惰なものや邪悪なものはいない。敵も味方もよき人間である。だから事件を起こす原因や、勝敗を決する要因に神意をもってきたのではあるまいか。苦闘し苦悩するなかに、死すべき人間の限界にたいして、その極限にまで迫っていく壮烈な人間の姿がこの詩の中に展開する。この点においてホメロスの詩は、ギリシア人ばかりではなく、すべての人間を人間性の尊厳へ導く書となることができたのだ。死すべきものとしての人間は、この努力――肉体的にも精神的にも――による救いを信じて、明るく楽天的に生きていく。このような人間観は、のちのギリシア文学や美術ばかりか、すべての基本である。

 

続編

killminstions.hatenablog.com

*1:筆者はこれらの保守派の描写はアンフェアだと思う。作中において保守派は何一つ責任を果たしたり呪術師の良心を代表したりすることなく、すべての負の因果の源流として位置づけられ、最終的には彼らの壊滅と新世代の台頭で終わる。あまりに図式的な善玉・悪玉の位置づけであった。渋谷事変による東京壊滅後の政治・行政・経済に関する描写の貧弱さも考慮すると、保守派の善なる部分やこれまで果たしてきた役割といったより詳細な書き込みは、作者の能力を超えるものであったのか、作者の書きたい内容ではなかったのであろう。

*2:虎杖-釘崎間のこの種のコミュニケーションははじめてではない。壊相・血塗戦で虎杖は自分が殺したときに相手の涙した瞬間が頭から離れない。

虎杖「俺は自分が、釘崎が助かって生きてて嬉しい、ホッとしてる それでも俺が殺した命の中に、涙はあったんだなって、それだけ」

釘崎「そっか、じゃあ共犯ね、私達」

 肯定も否定もせず虎杖の強い感受性に寄り添ってみせた釘崎の細やかな心遣いは、最期の瞬間にも確かに現れていた。

*3:以下では、「【呪術廻戦】五条悟から夏油傑への最後の言葉は「寂しいよ」」という記事をかなりの部分参考にした。

*4:彼らの希望を打ち砕いたのは、禪院家の忌み子甚爾であった。禪院家が甚爾に応えないことで、甚爾もまた天内から発せられた切実な想いに応えない・何も感じない大人となった。そして、禪院家はそのあり方によって真希を鬼人とし、皆殺しの憂き目に遭う。その前後での躯倶留隊の炳レビューは、禪院の人間も悪人ばかりでないことを印象付けるものであり、実の母親まで手にかけた真希に対して、彼らによる命乞いの言葉がなかったとは考えにくい。しかし彼女はそれに応えることはなく、真衣の「一つだけ約束して。全部壊して。全部だからね、お姉ちゃん」にのみ応えたのだった。

*5:したがって、呼びかけの宛先でない呪いたちは応えようがないため、善悪の外側にいることになる。

らんま1/2エンディング曲『ひなげし』の歌詞の解釈について

はじめに

 この曲を「連絡なく待ち合わせをブッチ*1して感傷にひたるヤバい女の歌」で終わらせることは簡単である。しかし、曲調や歌詞の端々から、それだけでは終わらせられない胸を締め付けるような「切なさ」が「なんとなく」感じられる。それが何かを明らかにしたい。

ものうさと甘さが胸から離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しくも美しい名前をつけるのを、わたしはためらう。 その感情はあまりに完全、あまりにエゴイスティックで、恥じたくなるほどだが、悲しみというのは、わたしには敬うべきものに思われるからだ。――フランソワーズ・サガン悲しみよこんにちは*2

第一節

 本曲の歌詞は5つの節に分けて読むのが便宜である。まずは第一節から見ていく。

今日 雨が降り出したのだから

約束破って家に居たの Mm...

ごめん 嫌いになったのじゃなくて

なんとなくそうしたかった

 歌いだしは明らかな「つかみ」であり、聴く側はその無軌道さに面食らう。一応謝って「嫌いになったわけではない」とは言うものの、そこで提示された「なんとなくそうしたかった」という説明は、「雨が降り出したから」同様に到底理解可能な理由にはなっていない。また、「なんとなく」という言葉から自分でも本当の理由はわからないようにも読める。 そして、大局的に見るならば、この第一節は「何故約束を破って家に居たのか?」、「そのような結論に至らせた心境とはどのようなものであるのか?」という問題提示として見ることもできる。

第二節

花を一輪 飾ってみたの

ポタリと滴 涙みたいに

ひなげしの花で なくて良かった

無邪気に咲く気には なれない

名も無いその花は 私みたいね

ひっそり一人 祈るの

 第二節では一見すると唐突に、語り手が花を一輪飾る場面へと飛ぶ。しかし、脈絡なく話題が転換されているわけではない。花を飾ったのはふさいだ気分を慰めるためであろうし、飾った花に仮託して語られる語り手の心情は、第一節で提示された「家に居た理由」である。すなわち、ここで語られたのは「わたしはひなげしの花のように無邪気に咲くことはできない」ということである。

 「無邪気に咲く」とはどういうことか。それを明らかにするためには、本曲で多く用いられている対比表現に注意しなければならない。たとえば、第二節の「無邪気に咲くこと」と「ポタリと涙みたいに滴がたれること」は対になっている。そして、第一節の「約束通り会いに行くべきだった」けれども「実際に雨が降ったため家に居た」こともまた対である。二つの対のうち、「涙のような滴」と「雨が降ったため家に居たこと」が結びつくことは明らかである。したがって、残された「無邪気に咲くこと」は「約束通り会いに行くこと」に結びつくものと考えられる。すなわち、約束を破って家に居たのは、笑顔であなたと会うことができないからである。

第三節

ねえ 両手合わせた時にだけ

神様思うのわがままよね Mm...

でも このせつなさの理由ぐらい

教えてくれてもいいでしょ

 第二節において、「家に居た理由」は明らかになった。ただし、より踏み込んだ「何故笑顔であなたと会うことができないのか?」は明らかになっていない。「笑顔になれない」その心情が、第三節では「せつなさ」という言葉で表現されている。しかし、「せつなさの理由」はわからない。わからないからこそ、語り手は両手を合わせて祈っている。

 ここにも重要な対比表現がある。語り手は「両手を合わせた時(=何か神様にお願いごとをする時)にだけ神様のことを思っている」のであるが、本来は「(もしお願いをするならば)お願いをする時でなくとも神様のことを思う」のがあるべき姿と考えている。つまり語り手は、「自分にはその資格がない」と自嘲しているのである。

第四節

生まれ変わって 花になるなら

カナリヤ色の 花びらがいい

ひなげしになって 丘の上から

風を眺め おしゃべりするの

その日のため息も 星にまかせて

子供の様に 咲きたい  

 第二節で自分を「名も無い花」になぞらえた語り手は、「生まれ変わって花になるならひなげしがいい」と言う。そして、「気鬱に飲み込まれる」のではなく、「その日のため息も星にまかせて子供の様に咲きたい」と語る。ここで「自分にはその資格がない」と自嘲した、神様に祈っていた本当の願いが明らかになる。「ひなげしのように子どものように、咲きたい」ということである*3

 ひなげしになりたいという結論に至るまでの間に、「生まれ変わって」という仮定があることを見落とさないようにしたい。ここでの含意は、「生まれ変わらなければ私はひなげし(のよう)になれない」ということであり、ひなげしのようになれるだけの、それに見合った資格(=資質)を持たないということである。

 第三節で語り手が願いに対して日ごろのその裏付けを求めたように、語り手にとって「ひなげしになること」は、「そのように見えること」では足りず、「本当にそうであること」が必要である。語り手はちょっとした憂鬱(=その日のため息)を「星にまかせる」ことができない。「星にまかせる」ことができず、「ひなげしのように」咲けないことそれ自体が、さらに自身を憂鬱にする。

第五節

ひなげしの花で なくて良かった

無邪気に咲く気には なれない

名も無いその花は 私みたいね

ひっそり一人 祈るの

 第五節は第二節の一部の繰り返しであるが、ここでの「ひなげしの花でなくて良かった」のニュアンスが第二節のときと変化していることに注意したい。第二節では「私はひなげしではない(=ひなげしのようには振舞えない)」ことに重点があるが、第五節では「私はひなげしになる資格がない」ことに重点がある。すでに明らかになっているように、私は「本当はひなげしのようになりたい」のであり、「その資格がない」ことを痛感しているからこそ憂鬱は深いのである。

まとめ

 本曲は、錯綜した感情と思考が、行きつ戻りつをしながら徐々に整理されていく過程を高い解像度でそのまま写し取ったものである。それにくわえて、作詞者は語り手の見落としている箇所についても自覚的であったように思われる。それは「子どもの無邪気さを失った語り手の幼さ」である。

 具体的には、➀語り手は自身を「ひなげしとなる資格がない」としているが、「本当にひなげしであること」とは別に、「誰かにとってひなげしであること」もまた大事なことである。それは役割を引き受けることである。語り手は本曲において終始自己完結的であった。

 そして、➁語り手は「名も無いその花」になぞらえて、自身と自身が抱える心情を、自分だけの・理解されることも共感されることもない・固有のものと気負っているようであるが、「名も無いその花」に名前があるように、それらは若者にとってありふれたものであり、だからこそ聴き手から理解・共感されるものである。

 最後に、➂本曲において語り手はひなげしを無邪気に咲く自分にはまぶしい存在として理想化したが、ひなげしの別名は「虞美人草」であり、悲運に見舞われ死んでいったヒロインの墓に咲いた由来を持つ花である。すなわち、ひなげしもまた「にもかかわらず」咲く花なのである。

*1:本曲がリリースされたのは、外出中に遠隔で連絡を取り合う手段が普及していない1991年であり、2024年現在に比してより「ギルティ」な振る舞いである。

*2:当該引用「悲しみ」と本曲の「切なさ」は精確には向いているところが違う。しかし重なり合うところも大きいため引用した。

*3:子どものように咲く無邪気さを失ってしまったことも示唆される。