あだち充論 『H2』を中心とした作品における恋愛とスポーツの関係についての考察

はじめに

 あだち充作品の特徴は<恋愛とスポーツとの有機的連関>にある。➀恋愛とスポーツの両要素を十分に描きながら、➁同時に両者が物語の展開の中で密接に絡み合って進行する。➀に関してあだち作品において特筆すべき点は、両要素について一方がもう一方の主あるいは従とならないところにある。ほぼすべての他のマンガ作品は、恋愛とスポーツの要素が含まれている場合、一方が主となりもう一方が従となる。例えば『MAJOR』にせよ、『キャプテン翼』にせよ、『SLAM DUNK』にせよ、『はじめの一歩』にせよ、恋愛要素は添え物に過ぎない。恋愛がメインのマンガ作品に至っては、スポーツの要素が従としても出てくることはまれである*1

 この二つの要素が一つの作品に同時にメインとして描かれないのは、両要素がジャンルとして遠く両方を描ける作家が希少であることもあろうが、そもそも二つの要素を一つの作品に盛り込むこと自体が曲芸じみた難しさを伴うと考えるべきだろう。ある読者に一方の要素がウケても、もう一方の要素がその者にとって退屈に感じられれば、一つの要素に絞った他の数多くの作品に勝つことは困難であり、中途半端な作品にしかならないからだ*2

 本文では、あだち充作品の最高傑作である『H2』について、他のあだち作品と比較しつつ、その特異性と本作が<恋愛とスポーツとの有機的連関>というテーマの集大成であることを示したい。なお、本文においては『H2』にくわえて、『みゆき』、『タッチ』、『ラフ』、『クロスゲーム』の重要なネタバレを含むことをあらかじめ断っておく。

スポーツ漫画としての円熟

 さきほど筆者は、あだち作品について、恋愛とスポーツの両要素を両立させていると書いた。しかしながら、野球以外のスポーツをテーマとした作品や初期作品である『ナイン』や『タッチ』については、スポーツの要素は弱いと言わざるをえない。このことは『タッチ』と『H2』とを比較すると明らかになる。

 両者を比較すると、後続作品である『H2』の方が試合の具体的描写は質が向上したように筆者には思われるが、それは主観的な印象に過ぎず、また筆者に客観的にそれを論証するほどの野球理解はないことから、味方・ライバルとして登場するキャラクターの量・質の観点から比較する。

 まず味方となるキャラクターについて、『タッチ』では一応スタメンメンバーの名前は明らかになっているものの、孝太郎を除けばどのような選手としての特徴や見せ場の描写がほとんどない。一方で、『H2』では野田、柳、木根、佐川、大竹、島と、強い個性と見せ場がそれぞれに用意されている。特に木根が投手として登板する試合は『H2』における感動的な回として印象深い。

 また、ライバルとなるキャラクターについても、『タッチ』では吉田、西村、新田くらいしか登場しないが、『H2』では英雄、広田、三木雄、栗丸、月形、志水、三奈川と倍以上の有力選手が登場し、彼らの属するチームの特徴や背負った背景も試合を通してずっと詳細に描かれている。特筆に値するのはやはり広田の挫折と再生であろう。彼の親族や彼のチームの新旧監督まで描写する細やかさは、『タッチ』には見られなかった特徴である。

 以上から、『タッチ』完結以降はじめてあだち充が書いた野球マンガである『H2』は、『タッチ』では十分に描ききれなかった野球要素を強化したアップデート作品であるといえるだろう。このアップデートにより、先行していた恋愛要素に野球要素が追いつき、あだち作品で最もバランスのとれた作品となるのである。

恋愛面での特異性

 あだち作品において、恋愛面のストーリーには一つのパターンが存在する。すなわち、三角関係において、①幼馴染の関係にある、②恋敵より相対的に劣った、③主人公が勝つ。『タッチ』では和也の死の前から、彼に比して相対的に能力の劣る達也を南が選ぶであろうことが示唆されており、和也死後のライバルである新田が超高校生級のスターであろうが抜群の2枚目であろうが、達也と南の間に入り込む余地はない。『みゆき』では真人は同級生のみゆきではなく妹のみゆきと最終的には結ばれる。それも非の打ち所のない人物として描写される沢田から結婚式の土壇場で奪って、である。『クロスゲーム』では恋敵となる東らはほとんど問題とならず、コウとその幼馴染である若葉及び青葉との三人の関係に終止する。『ラフ』では恋敵である中西とヒロインである亜美とが幼馴染である点が異例であるが、水泳の実力において中西に劣る主人公の圭介を亜美が選ぶという点は既存のパターンをなぞるものである。

 『H2』においてはこれらの点について勝手が異なる。本作は比呂、あかり、英雄、春華の四人の恋愛模様が恋愛パートの主題となるが、作品のクライマックスで問題となるのは、比呂、あかり、英雄の三角関係である。そして、②´直接対決に勝利した主人公の比呂が①´幼馴染のあかりを③´諦めることで、物語は集結する。『H2』より前に発表された2作品、すなわち『ラフ』のように幼馴染と結ばれないことがあだち作品でありえ、かつ『みゆき』のようにすんでのところでの略奪がありえる中で、『H2』のラストへと向かうストーリーは、三角関係の決着の形を容易には予想させない点で、読者に緊張を強いるものであった。

恋愛とスポーツとの連関―『タッチ』、『ラフ』、『クロスゲーム

 上述のように、あだち作品は恋敵に相対的に能力面で劣る者が恋愛においては勝者になるパターンが反復されている。多くの場合ここでの能力とはスポーツの能力を指し、恋愛要素にスポーツの要素が有機的に連関してくることがあだち作品の特徴となる。もっとも、有機的連関といっても、あだち作品においてスポーツの勝者(または敗者)がそれ故に恋愛の勝者になることは一度たりともなかった。そうなってしまえばそれはあだち作品とは真逆の野暮の極みとなる。基本的にスポーツの勝敗と恋愛の勝敗とはなんの関係もない。スポーツは優劣の問題であり、恋愛は関係性の問題であるとはっきりと区別される。にもかかわらず、この二つが物語の中で絡み合うところにあだち作品の妙味がある。具体的に見ていこう。

 言うまでもなく、『タッチ』で達也が甲子園を目指す理由は和也の果たせなかった南の夢を叶えるためである。そして、個人の動機の水準から一段視座を高くした物語の水準では、甲子園の夢を叶えることは達也にかけられた和也の死の呪縛を解くことでもある。三角関係の決着がつく前に和也が無念の死を遂げたため、達也は南との恋愛関係について身動きが取れなくなってしまう。それが甲子園に出場することによって解呪される。それを示すのが達也による南への告白のシーンである。「上杉達也浅倉南を愛しています。世界中の誰よりも」という達也のセリフでの「誰よりも」とは、他の誰でもない和也を念頭に置いたものである。

 また、『ラフ』では主人公圭介は海で溺れた亜美を恋敵仲西よりも早くに救けることができなかったことを機縁に、物語のラストでは亜美をかけた勝負とすることになるが、勝敗は作中で明らかにされない。また、亜美がどちらを選ぶかは、その勝敗とは関係なく、それよりも前に決まっている。亜美をかけた二人の戦いとは、「どちらが彼女にふさわしいか」の二人にとっての気持ちの問題に過ぎない。

 そして、『クロスゲーム』では、コウは青葉に3つの「ウソ」をつく。すなわち、➀甲子園に行くこと、➁160kmの速球を投げること、➂月島青葉が一番好きなこと、である。これはもちろんレトリックだ。コウは➀及び➁を実現してみせることによって、➂もまた「ウソではない」ことを示してみせた。『クロスゲーム』は死者との三角関係という点で『タッチ』の変奏であり、野球を通じてその死者からの呪縛を乗り越える点が共通している。

 以上、ここまで恋愛とスポーツの両要素を扱うあだち作品をいくつか見てきたが、これらは『H2』と比較すると、恋愛要素とスポーツ要素との連関の度合いがまだ弱い。『タッチ』での両要素の関連付けは、甲子園を目指す動機であってそれ以上でない。恋愛と野球との関係づけが抽象的なものにとどまるから、甲子園予選での第一回戦が持つ意味と決勝戦が持つ意味は、甲子園への近さという量的な差はあれど質的な差はない。後述するように、『H2』での英雄との直接対決は他の試合とは質的に全く異なる意味を持っている。また、『ラフ』のついては前述の通り、水泳の勝負の結果と恋愛とは何の関係もない。むしろ、「勝負より先に亜美の気持ちが明かされていること」つまりは「両者は関係がないこと」、に重点が置かれ、強調されているともいえる。そして、『クロスゲーム』では両要素の関係はコウが人為的に作り出したものであり、その文脈においては対戦相手や試合の内容は重要ではなく、「勝って甲子園に行くこと」と「コウが160kmを出すこと」にのみ意味がある。

恋愛とスポーツとの有機的連関――『H2』

 これらに対して、『H2』の比呂と英雄の物語ラストの戦いは、恋愛とスポーツとの要素が緊密に・有機的に絡み合っている。そして、野球の勝敗が恋愛の勝敗を決めるわけでもないにもかかわらず、野球の勝敗は恋愛関係に関係があるものとして、比呂・あかり・英雄の三角関係を決定的に変化させうるものとして描かれる。

 そこに至る道筋は周到である。比呂と英雄は甲子園の舞台で相まみえることを二人の夢として語りながら、3年生の最後の夏に至るまで様々な障害に阻まれてそれが成し遂げられなかった。県予選で比呂に立ちはだかる最大の敵である広田は、汚い手を使ってでも勝つことを優先する人物であり、野球を心から楽しむことを最優先する比呂にとって許しがたい人物であった。彼を倒してようやく英雄との対決に臨んだとき、比呂は彼が憎んだ広田を反復するように、手段を選ばず勝とうとする。「野球大好き少年」の比呂が野球を楽しんでいない。そのことは英雄との各打席にもっとも色濃く現れてくる。 

 第一打席、比呂はストレート一本の真っ向勝負を拒絶する。第二打席、時間稼ぎをしてまで比呂の万全を期した英雄の心遣いを嘲笑うような三球連続スローボール。第三打席、敢えてストレートコースを空振ることで真っ向勝負を要求してみせた英雄を無視した変化球中心の配球。最後の第四打席、はじめてストレートを含めた勝負に出る。しかし、最後のボールの比呂からのサインはやはり真っ向勝負を避けたスライダー。

 なぜようやく実現した親友との対決を台無しにしてまで比呂は勝つことに囚われてしまったのか。それは「負けることが許されない戦い」だったからだ。経緯は三角関係の起源にさかのぼる。ひかりを英雄に紹介したのは他でもない比呂だったが、比呂は人より遅れてきた思春期に至ってようやく取り返しのつかないことをしたと悟る。このわだかまりにひかりだけでなく英雄も気づいている。そして英雄は比呂とあかりの特別な関係性への感情の整理がつけ切れていないでいる。最後の夏を前にしてひかりの母が亡くなったことで三者の微妙なバランスに変化が生じる。母を亡くしたあかりを励まそうと比呂は無言でグローブを渡してキャッチボールをする。また、あかりは比呂を誘って二人で出かけ、その帰りの別れ際になってあかりは比呂に言う。

あかり「比呂と幼馴染でよかった。さよなら」

 「さよなら」に込められたあかりの意図は明白である。これまでの関係性を断ち切るものだ。なぜ断ち切るのか。英雄ではなく比呂に頼ってしまう自分をみつけたからだ。ではなぜ英雄ではなく比呂に頼ってしまうのか。それも作中ですでに明かされている。英雄は眼の怪我をして自分の野球人生が危機に瀕しているときでもひかりに弱みをみせない。だからひかりは英雄に自分の弱さをさらけ出すことができない。一方で長年寄り添ってきた、「弟」同然の比呂はその「弱さ」も見てきたし、だからこそ自分も弱さをさらけ出すことができる。なぜ英雄はひかりに弱みをみせることができないのか。それは彼の中でどこか「優れていること」と「愛されること」とが結びついているからだ。だから「自分が比呂に負ければ身を引く」という発想になる。

 こうして比呂は「負けられない戦い」に追い込まれていく。ひかりは確かに比呂に英雄を選ぶこと、これまでの比呂との関係を断ち切ることを示した。しかしそのときの涙から、再び会ったときの涙から、比呂はその分離の苦しみと難しさを知る。ひかりも、そして自分も、今の決意をどれくらい守り続けられるのか自信を持つことができない。英雄との対決でもし比呂が負けてしまえば、あかりを失いかつ敗北した比呂にあかりは同情してしまうかもしれない。また比呂の「弱さ」に基づく従来の関係性が反復されてしまうかもしれない。そして、前述の英雄が抱くわだかまりを解消するためにも、一点の疑いもなく決着したことを英雄に理解させなくてはならない。くわえて、比呂が負ける限りにおいて英雄はこの勝負が真正のものでないと終生疑い続けることになるかもしれない。比呂が英雄にわざと勝利を譲ったのではないかという疑いを少しも持たせてはならないのだ。

 さらに、英雄が勝ってしまった場合、英雄はひかりが自分を選んだことについて、「英雄が優れていたこと」によるのではなく「英雄を愛していた」ためであることに確信を持つことができなくなる。そして、英雄が比呂に勝つということは、前述のひかりと英雄との関係性の問題が解決されないことをも意味する。ひかりが想像できないという「負けたヒデちゃん」を実現しなければ、ひかりと英雄とは互いに支えあう関係に至ることはできない。つまり、「英雄が敗北した」「にもかかわらず」「英雄を選んだ」という事実が必要となる。この物語がどうしようもなく切ないのは、上記の事実の完成が、英雄やひかりではなく、比呂の手にかかっている点にある。英雄との戦いの前に比呂が言った「おれはひかりのことが大好きなんだぜ」というセリフはあまりに多義的であまりに切ない。

 話を第四打席の最後の一球に戻す。比呂の出したサインはスライダーだった。しかしその球は曲がらない。この意味一連の流れを理解するためには、比呂の持っていた選択肢を整理する必要がある。本件についてよくまとまったサイトがあったのでその記載を引用する。

最後の一球、比呂の選択肢は以下の3つ。
 ①ストレート → 真っ向勝負を継続、今度はいよいよホームラン。
 ②スライダー → 真っ向勝負から逃げる、打ち取れるかもしれない。
 ③他の変化球 → 第三打席で見切り済み、どうせホームラン。

 事実として投げられた球はストレートだった。タイミングの合っている英雄に投げると打たれることは見えていた。にもかかわらず、英雄のバットは空を切る。なぜか。真っ向勝負のストレートを信じ切ることができなかったからだ。「比呂を疑い、そんな自分を信じられなかった」からだ。つまり、ひかりをめぐる三角関係を背景にした一瞬の迷いが、最終的な決着に影響を与えてしまっている。野球と恋愛は関係がないわけでも、野球要素が恋愛に影響するのでもなく、恋愛要素が野球に影響を与える。そして、負けたこと、比呂を信じ続けることができなかったこと、によって英雄が比呂にも自分にも負けたと弱さを認めたとき、野球の結果は恋愛に影響を与えて、二人の関係性は完成する。物語としてはこれで「大団円」である。 

 しかし、「なぜ最後のボールが曲がらなかったのか」という謎は残る。作中において比呂はストレートを投げたのかスライダーを投げたのに曲がらなかったのか、明らかにされてない。比呂の心情も明らかにされていない。

 以下では筆者の解釈を書く。作中で明らかにされているのは、三打席までは比呂はなんとしてでも勝ちにいっていたということ、野田に「あまりおれを信用するなよ」と口走り、第四打席の大ファールで「ちくしょう・・・どうしても俺に勝てって・・・か」と独白し、自身の負けを望むような素振りもみせていたこと、である。

 最後の第四打席では比呂は真っ向勝負のストレートを投げており、この打席だけは正面から戦って勝ってみせようと当初はプランしていたものと思われる。しかし、そのプランは大ファールによって狂いが生じる。実質的に比呂はここで負けたのだ。にもかかわらず勝負は続く。当然英雄は自分が勝ったとは思っていない。そして、ツーストライクとなる。ここでの実質的にあり得る選択肢はストレートかスライダーの二択であるが、比呂は英雄の思考を読んだつもりになっているから、比呂視点では勝負は成立していない。

「勝手に信じ切った目だな……100%ストレートしかないってか。

――それだよ英雄。忘れるな。

その融通の利かねえバカ正直さに

――雨宮ひかりはホレたんだ」

 「三角関係の解決に向けた選択肢の内容(=比呂・あかりの微温的関係が解消されるか否か)」及び「その結果の決定者」が比呂であることが、この最後の一球においても反復されていることに注意したい。少なくとも比呂視点では、ストレートを投げると英雄が勝ち、スライダーを投げると比呂が勝つということを、実際に投げる前からわかっていた。そう考えると、二つの可能性があることになる。➀比呂は勝ちに徹してスライダーを投げた。にもかかわらず曲がらなかった。その原因は、野球の神様か、ひかりの母のような誰かか、比呂の無意識によるものかはわからない。もう一つの可能性は、➁英雄の「ストレートを最後まで信じるバカ正直さ」にひかりがホレたことに直前に思い当たり、比呂の中で最後の最後でずっと持ち続けてきた決意が揺らぎ、自分もひかりに愛されたいこと、愛されなくともこれまでの関係性を維持したいことを否定しきることができず、打たれるとわかっていながらストレートを投げてしまった。この場合、その真意を誰にも話すことができないから、野田にも「(曲がらないスライダーを)誰かに投げさせられたのさ」と言って自分の胸にしまっておくことになる。もし以上二択の選択肢しかないのであるならば、後者の方が個人的にはあだち作品に似つかわしく思われる。

まとめ

 まとめよう。以上見たように、『H2』は主人公が恋愛において「敗者」となり、「幼馴染」のひかりとの関係を断念するというあだち作品には異例のストーリーであった。それにくわえて、恋愛とスポーツは別問題であり、関係するとして一方がもう一方の結果に影響を与えないというこれまでのあだち作品の不文律を破るものであった。そして、そこで描写された恋愛とスポーツとの有機的連関は、あだち作品の最高傑作と言ってよいような、緊密で精密なものであった。

 そして最後にもう一点だけ指摘して終わりにしよう。『みゆき』がもっとも典型的なように、あだち作品は互いに弱さをさらけ出し支えあうような親密な関係にある者同士が最終的には結ばれる。この点についても、本作はねじれをみせていた。すなわち、比呂に頼らないことを決めたひかりはやはり比呂を頼る弱さを見せ、自分の弱さをさらけ出せない弱さを英雄は認め、二人の弱さをすべて受け止める強さを示したかつての「弱い弟」は、自分が最後に漏らした弱さを誰にも出さずにそっとしまって、その青春時代に別れを告げたのであった。

*1:現在連載中の『アオのハコ』は例外的に恋愛だけでなくスポーツの要素が極めて大きい作品であり、特筆に値する。ただし、作者三浦糀の過去作である『青空ラバー』は、卓球に熱中する双子の兄弟が幼馴染の女の子に恋をする物語であり、あだち作品のフォロワーであることは明らかである。

*2:この曲芸をやりきった稀有な作品に『銀魂』がある。すなわち、一話完結型のギャグ要素とストーリー漫画としてのシリアス要素を両立させてみせた。

ヒカルの碁の考察 佐為あるいは棋譜の中にだけ存在する真実

 『ヒカルの碁』の最も重要なモチーフは<棋譜の中にだけ存在する真実>である。ここでの棋譜とは白と黒の石が交互に置かれていった記録に過ぎない。にもかかわらずそこに作中の棋士たちは後述のようにあまりに多くのものを読み取っていく。それが可能なのは囲碁の体系が自然言語とは違ったまた一つの言語体系であるからだ。素人にとっては全く意味をなさない白と黒の配置が、その体系内部にある人間にとっては豊かな意味世界として現れる。

 本作は主人公ヒカルが囲碁の言語体系に習熟して一人の棋士となっていくストーリーである。門外漢の主人公があるジャンルに次第に魅せられ・引き込まれていき、そのジャンル世界の内部の人間になっていくプロットは、『あしたのジョー』や『SLAM DUNK』、『ガラスの仮面』といったマンガ作品の傑作に限らず、あらゆる物語における王道といえる。『ヒカルの碁』における特筆すべき特徴とは、<棋譜の中にだけ存在する真実>、すなわち囲碁の持つ言語体系によって表現される意味内容の妙味を十全に表現したことにある。それをこれから見ていく。

囲碁という言語を介したコミュニケーション

 本作における棋士たちは二つの言語を使ってコミュニケーションをする。自然言語囲碁という言語(以下では「囲碁言語」と呼ぶ。)とである。ときに囲碁言語は自然言語よりはるかに雄弁に真実を物語る。本件について特に印象的なシーンはアキラとの初対局の場面であろう。対局までの挙動から、ヒカルは見るからに初心者である。しかし、石を扱う手つきのあやしい明らかな初心者であろうと、彼の打つ手が彼の実力なのである。ヒカルの手を見てアキラは戦慄する。

「これは最善の一手ではない 最強の一手でもない・・・・・・・・・・・ボクがどう打ってくるかためしている一手だ!僕の力量を計っている!!はるかな高みから―――――――――」

 多少の解説が必要かもしれない。筆者の解釈では、「最善の一手」とは相手の力量・棋風に関係なくその場面において最も良い結果につながる手のことを指し、「最強の一手」とは相手の力量・棋風を考慮すると最も良い結果につながる手のことを指すと思われる。アキラはこの手がそのどちらでもなく、「ボクを試す手」だと言った。すなわち、アキラの次の手について、選択肢が多くかつアキラの力量によって打つ内容に差が出る局面を佐為は作りだしたということだ。そして、この手をもってアキラは対局相手が自身よりもはるかに格上であることに気づく。たしかにヒカルは対局前に自身の棋力について、「ちっとは強いぜ」と言っていた。しかしアキラはその言葉を信じなかったし、信じていたとして「どの程度強いか」はその言葉からは計りようがない。棋力は実際に打ってみることでしか、本当のところはわからない。

 そして、それによって生み出された棋譜は、その者の棋力だけでなくその者自身をも照らし出す。例えば、saiのネット対局を見た緒方のセリフ。

「JPN(日本人)とあるがどこまでホントかな とにかくインターネットは闇の中だから・・・・・・ しかし子供ではない 子供の打ち方は荒い どんなに素質のある子でもミスが出る だがsaiの打ち方はどうだ その練達さは長久の歳月を思わせる!」

囲碁言語は時間と空間を超える

 すでに様々なところで指摘のある通り、「ネット碁だけで現れる謎の棋士sai」というプロットは、ネット対局が普及し、かつ人工知能が人間の棋力を上回らないほんの十数年の期間でのみ可能であった。サイバー空間は囲碁が白と黒と配置と順序の組み合わせに過ぎないという特性をより引き伸ばし、物理的身体を持たない幽霊も対等な形で対局に参加することを可能にする。また、サイバー空間は場所の制約を軽々と飛び越える。saiは世界中と対局を繰り返し、実力のみをもってじわじわとその名を知らしめていく。世界中の実力者たちがさまざまな経緯から、ルートから、saiの存在を知っていく過程にはわくわくさせられる。

 本作のクライマックスの一つであるsai対toya koyoの対局シーンでは、世界中が固唾をのんでその趨勢を見守っている。言葉がわからず/言葉をかわさずとも、その一手、またその次の一手が言葉よりもずっと大きな意味を持っている。

 さらに、囲碁言語は時間をも超えていく。消えた佐為を探してヒカルは何もかもを投げ出して、思い当たるすべての場所を探して回る。しかし、佐為は物理的空間の中にはもうどこにもいない。途方に暮れていたとき、ふと虎次郎(秀策)にとりついていたころの棋譜をヒカルは読む。ここではじめてヒカルは、佐為が天才であることに気がつく。そして、虎次郎は佐為の真価を知っていたから彼に全部打たせたことと、自分が犯した「過ち」にも。

「ここの佐為の一手 上下左右・・・八方にらんだすげェ手だ・・・・・・・・・ こんな手打たれたら力の差に相手も戦う気なくしちゃうぜ ・・・・・・・・・佐為 アイツ・・・天才だ ・・・・・・もっとアイツに打たせてやればよかった・・・・・・」

「オレは碁なんか全部知らなくて佐為の強さなんかちっともわかんなかった!オレ 自分が打ちたいって! やっと佐為のすごさがわかってきてもオマエなんかって後回しにして バカだオレ バカだっ!」

「佐為に打たせてやればよかったんだ はじめっから・・・・・・ 誰だってそう言う オレなんかが打つより佐為に打たせた方がよかった! 全部!全部!全部!! オレなんかいらねェ! もう打ちたいって言わねェよ! だから神さま!お願いだ! はじめにもどして! アイツと会った一番はじめに時間をもどして!!」

 佐為と一緒にいたときにはわからなかった彼の天才性に、はるか昔の棋譜を読むことで、彼を失くしてから気づく。言語によって記された内容が時間・場所を超えて届くのは、囲碁に限らず言語一般の特性である。そして、リテラシーの向上によって昔わからなかった意味内容が今になってわかるようになるというのも言語一般の特性である。

 言語は模倣によって獲得される。ヒカルは囲碁言語を佐為の打ち手の模倣によって獲得していった。だからヒカルの打ち手の中には避けようもなく佐為の打ち手が刻印される。佐為を失い、佐為の断片を渇望して方々を探した末に、ヒカルは自分の打ち手の中に佐為がいることに気づく。

「・・・・・・・・・この打ち方 アイツが打ってたんだ・・・・・・こんな風に」

「いた・・・・・・・・・どこをさがしてもいなかった佐為が・・・・・・こんな所にいた―――――」

「佐為がいた どこにもいなかった佐為が オレが向かう盤の上に オレが打つその碁の中に こっそり隠れてた」

「おまえに会うただひとつの方法は 打つことだったんだ」

 ここにおいては、囲碁言語は時間と空間という隔たりを超えて「届く」ものではない。佐為の打ってきた囲碁はヒカルを構成する要素の一部であるのだから。

棋譜の中にだけ存在する真実

 佐為とは<棋譜の中にだけ存在する真実>のメタファーである。佐為が消滅して以降はその要素が一層強まる。ヒカルが打つのをやめれば、佐為の存在はなかったことになる。そしてヒカルが打つこと自体が、佐為がこの世界に生きた証となるのだ。

 <棋譜の中にだけ存在する真実>を象徴する一つのシーンを引用しよう。越智にアキラが「アナタが進藤にイレ込む理由」を問われて、アキラは2年前の一局の再現をはじめる。

「なんだか打ち方が古いような印象を受けるけどこの黒の人相当打てる 白の甘い所に切り込む鋭い手!この強さは!?黒は誰!?まさか――――」

「彼だよ」

「ボクは知ってる!彼が院生になった時も見たし研修手合も打った!」

「ここでボクが投了!」

「バカな!ありえないよ 2年前!?」

「完敗だった」

「誰も信じないよ この黒が2年前の進藤だなんて!」

「そう だから誰にもこの一局は見せてない キミに初めて見せた」

「ボクだって信じない!」

「だろうね ―――だが確かに この一局は存在したんだ」

 佐為が物理的身体を持たず、他のあらゆる事実が彼の実在を否定しようとも、棋譜だけは動かしがたい真実を明らかにする。すなわち、彼がそこにいたことを明らかにする。塔矢行洋が佐為について語った「彼もまたその強さだけが存在の証」という言葉は全く正しい。

 そして、おそらくは本来の物語の結末であったろう「2年4か月ぶり」のヒカルとアキラとの対局の最中で、これまでヒカル(と佐為)が残してきた棋譜とヒカルとの直接対決とを通じて、アキラは一つの真実にたどりつく*1

「もう1人いるんだ キミが 出会った頃の進藤ヒカル 彼がsaiだ」

「碁会所で二度ボクと打った 彼がsaiだ」

「キミを一番知っているボクだからわかる ボクだけがわかる キミの中に・・・・・・・・・・・・もう1人いる」

 ヒカルは佐為を失って二重の孤独の中にあった。それは佐為を失ったことであり、佐為が存在した事実を共有する者がいないことである。ヒカルは失われた佐為が自分の中にいること気づく。そして、アキラがヒカルの中に佐為が存在した/していることを見出し、もう一つの孤独から救い出すのである。

「今までオレしか知らなかった佐為を 佐為 塔矢がおまえを見つけた」

 ヒカルは自身が経験した佐為との出来事を誰にも説明してこなかった。言葉では伝わらない・誰も信じないと思っていたからだ。もちろんアキラにも佐為との出来事は語っていない。にもかかわらず、アキラはその真実に到達してみせた。自然言語では決して示しえなかった真実を、囲碁言語が照らし出す。このやり取りの直後にアキラが口にする「キミの打つ碁がキミのすべてだ」という言葉もまた、全くもって正しい。

すべての営みの中へ

 佐為は自らの天命を悟って消えていく。かつては自らが「神の一手」を極める存在であり、そのために三度現世に遣わされたのだと信じていた。しかしヒカルの光り輝く才能を前に、自分は特別な存在などではなく、「神の一手」に至るまでの大河の一滴に過ぎないと知る。

「虎次郎が私のために存在したというならば 私はヒカルのために存在した ならばヒカルもまた誰かのために存在するだろう その誰かもまた別の誰かのために 千年が二千年が そうやって積み重なってゆく」

 ヒカルは自分が打つことが佐為の生きた証になると知った。物語最後の戦いにあたる高永夏戦で、ヒカルは自分が碁を打つ理由を口にする。

「なぜ碁を打つのか 答えははっきりオレの中にある」

「遠い過去と遠い未来をつなげるために そのためにオレはいるんだ」

 ここでヒカルの中で念頭にあるのは佐為とヒカルとの二者関係である。その言葉を受けて永夏はこう返す。

「遠い過去と遠い未来をつなげるためにオマエがいる? オレ達は皆そうだろう」

永夏はすべての棋士は過去の先人たちの財産の相続人であり、自分たちもまた後世に財産を残していく使命を持った主体であると言った。それを受けて楊海はさらに言う。

「青臭いガキのセリフさ 遠い過去と遠い未来をつなげる? そんなの今生きてるヤツ誰だってそうだろ 棋士囲碁も関係ナシ 国も何もかも関係ナシ なぜ碁を打つのかもなぜ生きてるのかも一緒じゃないか」

 こうしてヒカルの持つ二重の特権性は解除される。すなわち、佐為とヒカルの特殊な関係性に限らず、棋士という特権的な地位に限らず、すべての人々は時間を超えて・国を超えて、人々のあらゆる営みの網目の中に生きている。

 『ヒカルの碁』が描こうとしたものは、超常的な経験をした天才少年の成長譚ではない。本作で描かれているのは、主人公ヒカルが囲碁の言語体系を獲得していって一人の棋士になること、すなわち囲碁という文化共同体の一員になっていくことだけではない。囲碁を含めたすべての日々の営みが人類という共同体のなす営みの中にあること、自分もまたその網目の中にありその共同体の一員であること、大人になるとはその事実を知り・その担い手になることであること、本作はそれらを明らかにしたものだ。本作がヒカル個人の物語ではなく、ヒカルを通して人類すべてについて描いたものであるから、本作の最終話のタイトルは「あなたに呼びかけている」となるのである。

*1:この帰結は『めぞん一刻』における最終的な三角関係の解消によく似ており、影響を受けた可能性がある。

キメラアント編の軍儀における定石についての考察

 キメラアント編におけるメルエムとコムギの交流について、軍儀の定石に着目して考察を行う。メルエムは当初、定石を乱した力戦に持ち込む指し手に終始した。それが次第に定石をなぞるようになり、新しい定石をコムギとともに生み出すに至る。この変遷は、メルエムが軍儀という文化の共同体に組み込まれ、その一員となっていく様とパラレルである。そしてそれらは、メルエムが人間になっていく様でもあった。それをこれから見ていく。

コムギとの対局以前 あるいは力戦形

 コムギと対局する前のメルエムは、盤上のゲームについて「骨を掴んだ」と言った。

「チェス・囲碁・将棋・・・ルールは違えど一級の打ち手にはその打ち筋に独特の呼吸がある ゆえに“相手の呼吸を乱すこと”が肝要・・・! 定石を知ると相手の呼吸が見えてくる そこからは相手が呼吸しにくい手を生み出すだけだ」

ここでの「骨」とは、定石ではないことに注意したい。メルエムは定石を確かに学んだ。しかし、メルエムが定石を学ぶのは対局相手の呼吸を知るためである。定石という基準点を知ることで、その基準点との差分から相手方の「独特の呼吸」を見出す。そして、定石と相手固有の呼吸を掴むことで、そこを乱す打ち手をする。すなわち、力戦に持ち込む。力戦とは、定石から外れた戦いのことを指す。

 つまりメルエムは、定石を指さない/指させないために定石を学んでいるのである。①定石から外れることで、過去の棋士たちの棋譜と研究の結晶である定石という知識への参照が遮断され、純粋な知的能力のみによる戦いに引きずり込む。くわえて、②相手の呼吸を乱すこと=相手が嫌がる手を打つことによって、さらに自分のペースに持っていく。

 この①及び②をメルエムは「骨」と呼んだ。そして、先のメルエムのセリフを受けて、プフはこのように言ったのだった。

「全ての勝負に通じる真理かと・・・・・・そこに到達してはこの先の室内遊戯も大同小異・・・退屈されるだけかと思われますが・・・・・・」

このとき、メルエムは、盤上のゲームすべて(そして勝負事のすべて)に妥当する「普遍的」な「骨」を掴んで、知るべきすべてを知ったと思っていた。各盤上ゲームにおける「個別具体」の定石は、あくまで手段であって、それ自体が価値を持つものではなかった。要するに、人類の文化的産物たる盤上ゲームをナメていた。メルエムはまだ人類の文化共同体の一員ではない。

コムギとの対局 あるいは運命の一手

 コムギとの対局が始まる。当初のメルエムはコムギの偉大さがまだわからない。

「古典的な高矢倉だ・・・差し筋にも何ら変わったところはない 初期陣形も入門書レベル・・・余の方がまだ本気で戦うに値せぬということか」

「選択肢は多いが本質は他の遊戯と等しい あと4・5局指せば奴の本気を引き出せよう さすれば奴の呼吸も見えてくる」

しかし、次第に当初の見積もりが誤っていたこと、コムギの恐るべき才能をメルエムは理解し始める。上達すればするほど逆に、「意の掴めぬ手が増えてきた」のである*1

「馬鹿な‼置き駒から詰みまで144手 余の打ち筋を全て読まねばこの手には至らぬ・・・‼ 絶対にあり得ぬ‼」

そこからしばらくして、とうとうメルエムは、コムギに付け入るスキを見つける。すなわち、呼吸を乱す一手を。

「乱してやる 其方の呼吸」

「盤中央からの攻防は無限!! 正着はない こちらの対応次第でいくらでも長引く一局 さぁ聞かせてみよ 其方の喘ぎ・・・!!」

 メルエムはこの一手をもって力戦形に持ち込めると確信していた。コムギのしっぽを掴めるところまで来たと思っていた。しかし、それは全くの間違いだった。コムギが初めて手を止めた後に打った一手を見て、メルエムは自身の詰みを宣言する。この時点においてメルエムは、①コムギが初めて手を止めたことは困惑を意味しないこと、②自身の手は死路であったこと、③コムギはそれを知っていたことを、言葉を交わすことなく悟る。軍儀もまた一つの言語であり、すでにメルエムは左記を理解する程度に高度なリテラシーを身につけている。だからメルエムは問わずにはいられない。

「何故手を止めて考える必要があった? ノータイムで打てる一手であろうが⁉」

コムギは語る。「離隠」正しくは「狐狐狸固」くわえて「中中将」は自身が生み出した手であることを。そして、自らの手によって死路として葬り去ったことを。

 それだけではない。それだけでは、手が止まった理由にはならない。

「総帥様がワダすと全く同ず戦法を考え出したことはすごく・・・光栄で感動で心が震えますた まるで・・・一度死んだわが子*2が生き還ったような・・・そんな気がすたんです だから もう一度この子の・・・命を消すのが忍びなくて」

メルエムはこのコムギの言葉を、プフ曰く人生で一番長く黙って人の話として聞いた。ともすると、異常な強さを見せるコムギがふとした拍子に見せた人間性に興味を持った・絆されたようにも見えるが、少なくともそれだけではないと思う。

 彼が驚き・興味を持ったのは、自身が仕掛けた乾坤一擲の力戦への一手が、定石の一部であったこと。そして、それを生み・殺し*3たのが目の前の対局者であるコムギであったこと。それらにこそ彼は瞠目しているのではないか。それまでのメルエムにとって、一方の極にすでに検討されつくした定石があり、もう一方の極に全く定石から外れた力戦の形があるはずだった。「盤中央からの攻防は無限」で「正着はない」と見積もったはずが、その力戦形の混沌は、たった一手で収束するのである。そして、その手を生み出したのは目の前に座っている10年前の彼女なのであった。このことは何を意味するか。定石に関する知識だけでなく、純粋な知的能力においても、彼女には敵わないかもしれないという可能性である。この瞬間において、メルエムは本当の意味でコムギの才能を認めたと思われる。そして同時に、コムギもまたメルエムの才能を認めたと思われる。猛烈な速度で上達し、遂には自身の生んだ定石すらもメルエムが再発見したことに、コムギは深く深く感動している。

 メルエムが定石を生み出す過程の追体験をしたこの出来事は、さらなる意味を持っている。メルエムは定石の破壊者であった。メルエムの定石を逸脱・破壊するはずの一手は、卓越した打ち手による応答によって、定石の一部としてその秩序の中に引き戻される。メルエムの「破壊」は、彼を包み込む彼女の実力によって、「創造」に成り代わった。その質的転換の瞬間に、彼は瞠目したのだ。彼は軍儀という文化共同体の言語を習得する段階を脱しつつある。誰も知らない新たな作品たる棋譜を生み出していく段階へと移行しつつある。つまりは軍儀という文化共同体の一員として本格的に組み込まれようとしているのである。

 そして同時に、この定石の再発見という出来事は、コムギにとってもこの上ない幸福な出来事であった。コムギはかつてこの定石を「創造」するとともに「破壊」した。メルエムの「破壊」にコムギが応答することで「創造」が成ったように、コムギの「創造」あるいは「破壊」は、誰かがそれに応えない限り先に進めない。この定石について「創造」と「破壊」の両方をコムギが担ったことは、コムギに対する者が誰もいなかったことを意味する。軍儀周りの元ネタであろう『ヒカルの碁』の一節を引用する。

「知っとるか?碁は2人で打つものなんじゃよ。碁は1人では打てんのじゃ。 2人いるんじゃよ。1人の天才だけでは名局は生まれんのじゃ。等しく才たけた者が2人要るんじゃよ、2人。 2人揃ってはじめて…神の一手に一歩近付く」

 コムギにとってこの定石の再発見とは、自身に匹敵しうる才能の登場を意味する。メルエムとは、死ぬまで続くかに思われた孤独な一人芝居を終わらせてくれる救い主に他ならない。

盤外戦 あるいは二人が賭けていたもの

 メルエムは確かにコムギの才能を認めた。しかし、だからといってコムギの全てを認めたわけではない。メルエムは少なくとも近いうちにコムギに正攻法で勝てないことを理解した。それでも勝つことまで諦めたわけではない。次の一手とは盤外戦である。

「其方が勝てば其方が望むもの なんでも与えよう」「ただし 其方が負けたら左腕をもらう」

この提案はメルエムの人間観に基づくものである。

「ヒトの呼吸を乱すもの・・・欲望と恐怖 欲は目を濁らせ畏(おそれ)は足を竦ませる」

 これはいわば人間を支配する「骨」である。欲望に向かって、あるいは恐怖から逃れようと、人間は行動する。この人間理解は、勝負の「骨」と同様、かなりいい線をいっていると言えよう。何故なら、自身の利得のみに拘泥する人間だけでなく、わが身を犠牲にして人類を守ろうとするネテロの献身すらも、人類を守りたいという「欲望」や人類を滅ぼしたくないという「恐怖」に基づくものだからだ*4

 しかし、勝負の「骨」とこれまた同様に、コムギにはそれらが通用しない。まず「恐怖」について。

「ワダすはプロの棋士を目指した日から軍儀で負けたらば自ら死ぬと決めております」

「欲望」についても、欲しいものが思いつかないと言う。

軍儀のこと以外あまり考えたことがありませんので・・・」

この言葉を受けてメルエムは激しく動揺する。

「どうやら覚悟が足りなかったのは余の方だ 其方が勝った時望むものに余の命を想定していなかった」「これは余自身の問題だ」「賭けはやめだ 下らぬマネをした これで許せ」

メルエムは自身の手によって左腕をちぎってみせたのだった。

 メルエムは「覚悟が足りなかった」「下らぬマネをした」と恥じ入ってみせた。身体の欠損への恐怖をちらつかせれば呼吸を乱すと思ったコムギは、棋士を志した最初から死の恐怖とともにあったのである。翻ってメルエム自身は、何の恐怖とも向き合わず・打ち勝つこともなかったことに気づいてしまった。ここにおいてはじめて、メルエムは軍儀が、コムギにとって単なる「盤上遊戯」なのではなく、全存在を賭けた戦いであることを知る。極めつけは腕を治すまでは打たないとコムギが宣言する場面である。

「打ちません ワダすを殺すならばどうか軍儀で・・・・・・・・・‼」

軍儀にすべてを捧げた人間を「恐怖」や「欲望」で支配することはできない。コムギが軍儀で一貫して賭けていたものとは、財産・身体どころか生命ですらなく、自身の軍儀における栄誉であること、したがってメルエムがこの戦いで賭けていたものもまた栄誉であることを、ここにおいてようやく気付くのだ。そして、軍儀の栄誉は(正々堂々の)軍儀でしか奪うことが出来ないことも。

 アテネオリンピックにおいてハンマー投げ室伏広治が、一位だった者のドーピングの発覚によって金メダルに繰り上がった際に、記者会見で紹介して見せた金メダルの裏に刻印された古代ギリシャ詩人ピンダロスの詩が思い起こされる。

「真実の母オリンピアよ。あなたの子供達が競技で勝利を勝ち得た時、永遠の栄誉(黄金)を与えよ。それを証明できるのは真実の母オリンピア

人間観の変化 あるいは二人の覚醒

 メルエムの軍儀への姿勢に話を戻すと、盤外戦の一件以降、二人は感想戦をはじめたことが読み取れる。感想戦とは、対局の直後に両者がその対局を振り返り、対局中の手筋やそれ以外のより良い手を検討するものである。感想戦は共同作業である。互いにより良い手を次の対局では指せるように、生まれた棋譜から最大限の教訓をくみ取ろうとするものだ。その様子を見てプフは言う。

「王は確かにすさまじい早さで上達している しかし彼女も進化している・・・・・・!」

続いて対局の場面。

「全く間をおかず急所急所を攻めてくる 鋭さは増すばかりだ しかし息苦しくはないむしろ楽しくすらある そういう局面に手が導かれている*5からだ それは此奴が余よりもまだ数段高みから打っている証・・・!」

 ここにおいてもはやメルエムが呼吸を乱すような打ち手をすることはもうない。対局の大きな流れの中に抱かれ、その流れにしたがうことに楽しみすら感じている。徒らに力戦に持ち込むことの無意味を悟り、盤外戦の不毛さを知り、誇りを持った棋士として対局相手を認め、謙虚な心持ちで盤面に向かうとき、メルエムは加速度的に成長する。そして、対局相手をも開花させる。

「総帥様 ワダす・・・変です 止まらないんです 素晴らすい手が次々と洪水みたいに頭に傾れ込んで来て ワダすもっともっと強くなれる・・・!」

「これからだったのだ・・・‼ 強くなるのは・・・!」

 すなわち、コムギの覚醒である。この直後、メルエムはコムギに名前を聞く。コムギは自らの名を答えるともに、メルエムにその名を聞く。メルエムがコムギのその才能の発露から彼女個人に興味を持ったように、コムギもまた総帥としての地位ではなく卓越した打ち手という個人として、メルエムに興味を抱く。

 しかし、メルエムは答える言葉を持っていない。この言葉をきっかけに、メルエムはキメラアントという種のまどろみの中から、個人を切り出していく*6

 「欲望」や「恐怖」ではない動機に基づいて生きるコムギのような人間がいること。コムギとの出会いは、メルエムの人間観を変えた。苦痛や死への「生物的」恐怖ではなく、金や権力のような「世俗的」欲望でもなく、人生の全てを「文化的」価値のために捧げる。そんな生き方があることをメルエムははじめて知る。キメラアントは人間という種の写し鏡である。メルエムの人間観の変化とは、彼の人生観・世界観の変化を同時に意味する。キメラアントの「本能」としてではなく、キメラアントの種の頂点として「家臣」たちに望まれる「世俗・社会的」な任務としてでもなく、自分にも真に生きるに値する「自分だけ」の意味があるのではないか。その渇望に気づくのである。

「余は何者だ・・・?名もなき王 借り物の城 眼下に集うは意志持たぬ人形 これが余に与えられた天命ならば 退屈と断ずるに些かの躊躇も持たぬ‼」

メルエムもまた、自らの意思によって文化的共同体へ帰属する、個人として覚醒していくのである。

ネテロとの「対局」 あるいは二つの盤外戦

 メルエムとコムギとの奇跡的な交流は、ネテロ一派の襲撃によって中断される。ここでは、圧倒的に優位なコムギとメルエムという関係が、圧倒的に優位なメルエムとネテロという図式に成り代わって反復されていることに注意したい。メルエムはコムギから学び、勝つことだけを目的に問答無用でねじ伏せることをしなかった。それどころか当初は「其の方が余と交すことが叶うのは言葉だけだ」と言って戦うこと自体を拒否した。

 今度はメルエムが盤外戦を仕掛けられる番である。それも戦いを有利に進めるためではなく、戦いの場に引きずり出すために。すなわち、ネテロは「ワシに負けを認めさすことができれば教えてやらんでもないぞ?」と言った。しぶしぶメルエムは戦うことにする。

 しかし、メルエムにとってネテロとの戦いは「遊び」であった*7。メルエムはその高い審美眼をもって、ネテロの練り上げられた技の数々を味わい尽くした。そして驚くべきことに、圧倒的劣勢にあるネテロもまた、メルエムとの戦いは勝敗などどうでもよい・するの必要ない「遊び」に過ぎなかったのだ。

 さらにややこしいことに、ネテロの仕掛けた戦いはにただの「遊び」であると同時に、必ず勝たねばならない人類の存亡を背負った・公的使命を帯びたものでもある。ただの「遊び」に過ぎないのならば、コムギにメルエムがして見せたように、時間をかけて力の差を見せつけて負けを認めさせることもできた。事実、メルエムはそうして戦いをおさめようとした。

 しかしそれは叶わない。個人としての負けは認めても、人類として屈服することはネテロにとってあり得ないからだ。ネテロはもう一つの盤外戦を準備していた。演武の舞台そのものから破壊すること。すなわち、貧者の薔薇。こうしてメルエムは滅ぼされたのだった。

 盤面そのものを破壊する貧者の薔薇の使用について、メルエムがコムギに対したとき、当初を除いては盤面上での戦いに終始し、彼女自身を攻撃しなかったこととの対比に注目したい。メルエムはネテロらの襲撃の意図を直ちに察し、周囲に被害をもたらさないために、自発的に戦う場所を変えたのだった。すなわち、戦うための盤面を整えさえした。

 また、メルエムは王宮突入直前のゴンらのプロファイルされている場面を思い起こそう。メルエムが「自分で自分を傷つけた」のは自分を許せない時であり、「自尊心を守るために痛みを避けない型(タイプ)」であり、「意に沿わぬ説得には決して応じない」と評されている。メルエムはその自尊心から、コムギに対してもネテロに対しても、どこまでも公正に振る舞った。すでに引用した通り、「余自身の問題」であるからだ。

 一方で、ネテロは人類全てを背負って立っている。すでに「キメラアントは人間という種の写し鏡」と書いた通り、人間もまた「意に沿わぬ説得には決して応じない」。そして、その自尊心は人類の屈服を拒否するために盤面そのものを破壊するのである。

新手・逆新手・逆新手返し あるいは収穫の季節

 メルエムとネテロとの戦いが終わると、いよいよ軍儀をめぐる物語もクライマックスを迎える。自分に残された時間が残り少ないとメルエムが知ったとき、メルエムは最期の時間とコムギと過ごすことを決める。ここの件を読むとき、僕はいつも吉田松陰が死の直前に書き遺した『留魂録』の一節*8が思い起こされる。すなわち、すべての人間には人生の長短に関係なく春夏秋冬があり、その終わりには集大成としての収穫とそれを楽しむ季節があること。メルエムにとってもコムギとの最期の対局はこれまで撒いた種の収穫にあたる、最も実り豊かな瞬間であった。

 メルエムは以前答えられなかった自身の名を伝える。このことは蟻の王という役割から離れた軍儀を愛する一人の個人として、コムギに相対していることを意味する。だからメルエム勝利の暁には、コムギに「様抜き」で自身の名を呼ぶことを求める。平等で対等な個人と個人として、ともに軍儀に取り組みたいと望んであるからだ。ここにおいてはもはや、戦いの勝敗は栄誉を賭けたものでもなくなる。どちらが勝っても、負けても、もうどうでもいいことだ。だからコムギは「勝ったら何が欲しい?」と聞かれて、間髪入れず「もう一局お願いいたすます!!」と応える。それを受けてメルエムも先の質問を「愚問だった」と思う。恐怖や欲望や栄誉のためでなく、軍儀を指すこと、ただひたすらにそれ自身の悦びのために。

 二人のこの通じ合いになれ合いはあってはならない。再度狐狐狸固を指すコムギにメルエムは「余を愚弄するか」と怒気を見せる。「ワダす軍儀でふざけたことないです」と平然と返すコムギ。そして放たれる新手。それは突然の中断によってメルエムに届けることができなかった贈り物である。メルエムは狐狐狸固を生き返らせる新手の価値をたちどころに理解する。それどころか、新しい定石を即座につぶす新しい一手=逆新手で応じて見せる。歓喜の涙を流すコムギ。かつて狐狐狸固について、コムギは「創造」と「破壊」の両方を自らでなした。つぎにメルエムの力戦を目指した「破壊」の一手は意図せずして昔の「創造」の再発見となり、コムギはためらいながら再度の「破壊」を行った。そしてとうとう今回はコムギの「創造」に対してメルエムが「破壊」で応えてみせたのだった。

 その後メルエムの「告白」に対し、「再-創造」たる逆新手返しで応じた。コムギもまた今この瞬間が、自分の人生最高の瞬間であり、同時に収穫期であることを悟る*9

まとめ

 以上のようにして、当初は定石の破壊者として軍儀に臨んでいたメルエムは、次第に軍儀に魅かれ・定石に従い、最後は軍儀のために人生を捧げ・全く革新的な定石をコムギと二人で生み出して死んでいった。定石を学び・操り・創ることで、彼は軍儀の文化共同体に組み込まれ、その一員となっていった。

 この過程は少年マンガの成長物語と軌を一にする。たとえば、『ヒカルの碁』において主人公進藤ヒカルは、またはスポーツ漫画の金字塔である『あしたのジョー』の矢吹ジョーは、あるいは『SLAM DUNK』の桜木花道は、その各々の世界に次第にのめり込み、その世界の秩序を学習し、一人の棋士・ボクサー・バスケットマンとなっていく。メルエムにとってその過程は、多くの成長物語同様、人格の完成へと至る道でもあった。

 前述のとおり、軍儀もまた一つの言語である。物理的身体を持つすべての存在にとっての共通言語である「暴力」とは違って、軍儀の持つその文化的価値はその世界の中に入ってその言語に習熟しなければ、理解することができない。

 ①コムギの生む棋譜が「論理の究極とでも表現すべき美しい棋譜」であることや②定石が過去の天才たちの知性の結晶であることや③その一端にメルエムも加わり新しい定石を生み出したことの価値を彼が理解できるのは、その言語に対する高いリテラシーによる。人がほんの数ミリの眼鼻の位置の違いに美醜を感じる*10ように、微細な差分に意味を見出す営みこそが文化である。

 文化とは、すべての勝負事に妥当する「骨」の水準、言い換えれば普遍的な構造の水準では決してその意味・価値に至ることができないものである。勝利に対して目的合理的な盤外のあらゆる手段を禁欲してあくまで盤上にとどまってみせたとき、あるいは、「欲望」や「恐怖」や「栄誉」といった目的に奉仕する手段としてではなく、それ自体を目的として遊んでみせたとき、メルエムは人間=ホモ・ルーデンスとなったのである*11

 

軍儀の元ネタと思われる『ヒカルの碁』についての考察

killminstions.hatenablog.com

*1:冨樫作品の読者としては、飛影のセリフ「強くなる程貴様が遠くなっていく気がするぜ化物め」が思い起こされる。

*2:キメラアント編において「一度死んだ子」は様々な場面で何度も、何度も甦る。

*3:メルエムはコムギによって「人間として生まれ直し」、ネテロによって殺される運命にある。物理的に生き返るのはその後の話であり、また別の話である。

*4:あるいは蟻の女王のメルエムへの無償の愛すらも

*5:要するに指導対局である。『ヒカルの碁』において、「碁の神様は対等の相手がいないから孤独だ。だから神様は人間に碁を教えて自分の相手ができる存在を育て上げているのかもしれない」という趣旨の会話がある。コムギ・メルエムの関係はここを念頭に読まれるべきだろう。

*6:この過程については以前書いたので繰り返さない。

*7:コムギとの対局を通じて、戦いの進め方が「コムギとの対局が予知のごとき先見を可能にした・・・・・!!」とあることについては自明であるからここで言及するにとどめる。

*8:たとえば、このサイトを参照。

*9:余談であるが、本文を書いてどうもコムギのあり方がメルエムの心を動かしていく過程の検討にあたって、吉田松陰の行動原理であった「至誠」がちらついた。そして、今この時が死に時とコムギが見定めた瞬間は、松陰が愛弟子に死に際して送った手紙の有名な一文「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」を想起させる。以下に前後の内容も記載しておく。

「死は好むべきにも非ず、また悪むべきにも非ず。道尽き心安んずる、すなわちこれ死所。世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心死すれば生くるも益なし。魂存すれば亡ぶるも損なきなり。死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」

*10:これもまた、有意味情報として人間が質・量ともに十分に人間の顔を認識・処理してきた蓄積・訓練がもたらした高いリテラシーによる。

*11:キメラアント編の大筋の元ネタである『寄生獣』では、人間とは「心にヒマ(余裕)がある生物」と定義して見せた。その共通点と相違点を噛みしめてみたい。

『君たちはどう生きるか』の考察 二人の父あるいは説教の内実について

はじめに

 昨日、本作を観た。今となってはずいぶん前のタイトル発表の時点では、「パヤオがとうとうもうろくして盛大なオナニー*1を見せつけた次は、説教はじめやがった」といった声を聞いた。しかし、今度は内容につき、「どうやらタイトルは借りるだけで中身は冒険ファンタジーらしい」と噂になり、「やっぱり説教はしないのか」と思っていた。そして、本作を観て「ガチ説教だった」との感想を持った*2

 本作は宮崎駿の来歴を語るものであるとともに、ジブリあるいはアニメというジャンルそのものの来歴を語るものである。そしてさらには、これまでの日本とこれからの日本を見据えたものであり、宮崎駿という一人の人間、アニメという一つのジャンル、日本という国が、栄えて滅びていくはじまりと終わりを提示することで、これまで「これらのものたちがどう生き、どう在ったか」を描き、「君たちはどう生きるか」をこれからの人々に問うたものである。それをこれから見ていく*3

現実と虚構の二つの世界

 本作では二つの世界を眞人らが行き来する。すなわち、現実の世界と虚構の世界である。作中において、現実は不快なものがはびこる世界として描かれる。露悪的なほどに貧富の格差がある。老いた女中らは父のみやげものにあさましく群がる。眞人は「あるとこにはあるもんだねえ」との言葉をそのとき耳にする。母を喪って気持ちの整理もつかないうちに、父は再婚*4して子どもをもうけている。眞人は新しい母を受け入れられない。権威と金を振りかざして彼を守ろうとする父もまた、彼に望んだものをくれる存在ではない。端的に言って、眞人は現実を憎んでいる。

 そして、現実を憎む者だけが、あの塔の中へと行くことができる。父のような現実に満足する者は塔に入ることはない。塔が象徴するものは、現実に対抗する虚構のすべてである。「象牙の塔にこもる」という言い回しが象徴するように、醜い現実世界を、あるいは俗世の汚辱を拒絶して、自分の理想を築き上げる営みすべてが、ここでは象徴されている。ここでの虚構とはアニメーションに限らない。あらゆるイデオロギー、学問的理想、芸術的創作そのすべてが塔の中の世界である。虚構世界とは、現実に不満を抱く者たちの理想世界である。したがって、作中における虚構世界とは大叔父の創り出した世界であるが、虚構世界は単数ではない。ほかにも虚構世界があるだろうことが推察される*5

 本作での虚構世界とは、ジブリそのものであり、同時にアニメというジャンルそのものである。言うまでもなく、大叔父とは宮崎駿である。とうとう後継者を見つけられず、ジブリという理想世界は崩壊した。そして、アニメというジャンルも滅びに瀕している、と宮崎駿は考えている。これには注釈が必要だろう。宮崎駿はアニメというジャンルが危機に瀕していると以前から警鐘を鳴らしてきた。いわゆる「どん詰まり発言」である。

「僕の本心は、日本のアニメはどん詰まりまで きていると思います。僕よりも20歳も若い庵野(秀明)という監督が、「自分達はコピー世代の最初だ。その後の世代は全部コピーのコピーだ。 そしていまや、コピーのコピーのコピーになっている。それがどれほど 歪んで薄くなるか分かるでしょう。自分で観てきたものをそのまま描いて いるんじゃない」という言い方をしていますけど、それは、 自分の周りの若い人たちと付き合って、僕自身も痛切に感じていることです。それをどうしていくのかは、僕らではなくて、その人達に課せられた課題だと思うんですよ。」

 ここで大叔父の虚構世界は何故滅びたかを思い起こしてほしい。インコたちがいつの間にか増えることで、世界はおかしくなっていった。彼らの中で序列を決めて王を作り、彼らが増長して、慎重に取り扱うべき積み木を粗雑に扱った結果、虚構世界は滅びたのだった。インコとは何者か。何故インコなのか。インコは人間の言葉を話す。ただし、意味を理解することはない。インコはインコの言葉はさらにマネする。そうしてコピーのコピーのそのまたコピーが広がり、急速に劣化は進んでいく。宮崎はアニメのジャンルをこのように見ていると思われる。

 ただし、そのような不本意な世界を作ったのもまた、大叔父=宮崎であることを宮崎はよく理解している。作中では理想通りには世界を構築できなかったことが示されている。彼の理想とは何か。虚構世界と現実世界との良好な関係である。それはワラワラを見ればわかる。ワラワラとは厳しく汚れた現実世界に放たれる前の子どもたちである。子どもたちは虚構世界での理想に育まれ、腹を満たして飛び立っていく。虚構世界とは大人にとって、現実から逃れるためのものであるが、子どもにとっては自らを育むものなのだ。だから、本作において虚構世界に行った子どもたちは自らの意志で現実世界に帰ろうとするが、大人たちは現実世界に帰ってこようとしない。

 しかし、虚構世界と現実世界との、あるいは虚構世界と子どもとの良好な関係は破綻している。ペリカンの存在である。ペリカンたちは生きるためにワラワラを食べる。ペリカンに罪はない。彼らは意図せずしてここに連れてこられたのであり、ワラワラを食べねば生きていけないのだから。ペリカンとはアニメを作る人々である。アニメの魔力に魅せられて(=丸呑みし)、この世界に連れてこられた人々である。彼らはもうこの世界でしか生きていけない。そして、生きていくためには文字通り、子どもたちを食い物にしなくてはならないのだ。先ほどの引用の続きの一部をまた引用する。

「僕は確かにビデオを売らざるを得ないと言うか、情けないんですけれども、ビデオを売っています。 事あるごとに、「あまり観せないで下さい」と言っているつもりなんですが、「うちの子は1日に3度は必ず『トトロ』を観ます」という母親の方などに 会うわけです。『トトロ』を一日に3回観るということは、4時間から5時間くらいはテレビの前に座っているということです。で、その5時間の間に、この子は本当ならどれだけの体験ができたのかってね。トトロに抱きついて、ブラウン管にキスしたって、 なにも生れることはないんですよ。 『トトロ』のパッケージに「誕生日にだけ観せて下さい」と書けば良いのかもしれませんけども(笑)。 そんなことをやってて、まともな子供が育ったことはないんでね。」

 ここに宮崎自身が生み出した負の側面に対する痛切な自己認識がある。

眞人をスポイルする二人の父

 では、宮崎は自身の試みは失敗であったと総括して、まだ見ぬ後継者に事業を引き継いで、果たせなかった夢に取り組んでもらうことを期待しているのか。そうとは思えない。そのような考え自体が、エゴであり、後発世代をスポイルしてきたと考えているようだ。本作では、二人の父(=創始者・支配者)が登場する*6。宮崎アニメにおいて、父が物語中大きな役割を占めることは異例だが、さらに彼らは眞人をスポイルする存在として描かれていることが一層興味深い。

 現実において眞人の世界を創造・支配する父(正一)が、眞人を甘やかしスポイルする存在であることはほとんど自明である。彼は眞人を深く愛している。眞人のためを思って、何不自由ない学校生活を送れるよう、先回りして学校に便宜を図っている。金と権威を振りかざしたその愚劣さが、眞人に良い影響を与えないであろうことは、論ずるまでもない。

 虚構世界における大叔父の場合はどうか。彼は眞人を必ずしも愛しているわけではない。彼が愛しているのは彼の理想であり、彼が創ろうとしてきた理想世界である。彼がいなくなった後も、彼の理想が続くことを願うのは一つのエゴである。さらには、そこには深刻なジレンマがある。すなわち、「創始者の理想を実現できるほどの器をもつ人間が、何故創始者ではなく自身の理想を実現しようとしないと言えるのか」という問題である。創始者と同格またはそれ以上の者は、自分で世界を創っていく。同格以下の者のみが彼の下で働き、劣化コピーとなっていく。

 このジレンマは才能を育てることができるのならば、回避することが可能であった。しかし、大叔父=宮崎は育てることができなかった。「ジブリで宮崎と一緒に働いていては、彼の後継者は育たない」と押井守庵野秀明が指摘しているように、宮崎は才能をつぶしてしまう。

 作中において大叔父の姿勢にそのことが現れているのは、積み木を継承させるシーンである。大叔父は積み木を用意し、その使い方までも説明した。これは苦労して虚構世界を構築した彼なりの親切である。しかし、そのこと自体が後継者を狭い枠組みの中に閉じ込めてしまう。後継者にとって創造者の説明する方法は、所与のルールとなる。創造者のようにゼロから試行錯誤して世界を構築する必要がないとともに、世界をゼロから構築することが許されていないのだ。そのことを端的に示すものが、十三個ある積み木に対して、「後継者は一つだけ積み木を足すことができる」ルールである。

世界の崩壊と再生

 後継者を得られないまま、おかしくなっていった大叔父の虚構世界はとうとう崩壊する。崩壊の未来には絶望だけでなく希望がある。このことを見ていくため、物語の全体の構造をここで整理しておく。すでに現実世界と虚構世界の対比があることに触れたが、実は現実世界と虚構世界は下記にまとめたようにそれぞれ二つずつあると思われる。すなわち、現代の虚構及び現実と、過去*7の虚構及び現実である。ここがねじれていてわかりにくいところだが、本作は、過去を舞台に世界の崩壊を描写すると同時に、このことを通じて、現代の崩壊を描いている。

・現代における現実:9条・安保体制

・現代における虚構:ジブリ及びアニメというジャンル

・過去における現実:大日本帝国

・過去における虚構:大叔父の世界(=先行世代が築いた何らかの虚構)

 作中の舞台は、現実及び虚構の二つの世界が同時に崩壊しようとする、時代の岐路である。この激動の時代に後発の世代に向けて描かれた本が原作『君たちはどう生きるか』である。大日本帝国が崩壊し、9条・安保体制の今がある。また、アニメ(ジブリ)もまた、戦前からの娯楽、例えば少年少女向け小説(=児童文学)といった文字媒体を片隅に追いやって発展してきたジャンルである。そして、現在は9条・安保体制及びアニメ(ジブリ)が崩壊しようとしている。本作『君たちはどう生きるか』は、この時代の岐路にこれからの世代に向けて、描かれた作品である。

 現代における現実を何故「9条・安保体制」としたかについて、説明が必要だろう。押井が『パトレイバー2』で描いたように、あるいは庵野が『シンゴジラ』で描いたように、9条・安保体制とは虚妄である。そのことを宮崎は当然知っている。丸山真男の言うように、宮崎らは「大日本帝国の「実在」よりも戦後民主主義の「虚妄」の方に賭け」てきたのだった。我々日本人は、虚妄の膜に守られて戦後体制を生きてきた。いわば、我々は現実世界を生きながら、虚構世界を生きていたのだ。だから、その崩壊は作中において、虚構世界がどのようにして崩壊したかを見る必要がある。

 少なくとも宮崎の視点では、<インコのバカども>が時を経るにつれて増えていく。彼らが武装しているのは偶然ではない*8。インコたちは徒党を組み、増長する。そして、インコ大王が取り扱い注意の積み木を手荒に積んで、虚構世界は崩壊する。ここでの積み木とは日本国憲法(及び安保体制)のことだろう。憲法とは国家という危険な暴力装置を制御する精密機械のようなものである。だから、その取り扱いには専門家の知見が必要であり、素人が粗雑に扱うと予測不可能な結果を招く。そして、インコ大王とは専門家の反対を無視して、閣議決定による憲法解釈の変更を行った、安倍晋三であると思われる。かつて、宮崎は憲法問題に関連して、安倍元首相を名指しではっきりと批判している。

「安倍首相は自分が『憲法の解釈を変えた偉大な男』として歴史に名を残したいと思っているのでしょうが、愚劣なことだと僕は思っています」

 注意しなければならないのは、ここで崩壊したのは<9条・安保体制という虚妄>であって、大日本帝国のように現行の日本国が崩壊したわけではないことだ。少なくとも宮崎にとって、虚妄によって弱肉強食の国際政治のパワーゲームから距離を置くことができてきたことは望ましいことであり、それを自らの意志でかなぐり捨てたことは愚行であった。それは戦後民主主義(あるいは9条・安保体制)という虚妄の中で、アニメという虚構のジャンルに身を置き、ジブリという塔を築いて、荒々しい現実から幾重にも守られて生きてきた宮崎にとっては。ここに宮崎のやましさと迷いがあり、自分を生み育ててきた現行の体制の崩壊が、即日本という国の崩壊であると断言できない理由のように思う。宮崎が庵野の言葉を引いたときに行ったように、「それをどうしていくのかは、僕らではなくて、その人達に課せられた課題」なのである。

 では、現代における虚構にあたる「ジブリ及びアニメというジャンル」の崩壊について、宮崎はどう考えているのだろうか。半藤一利との対談が参考になる。半藤は日本の近代史は40年周期で盛衰を繰り返すと言う。おそらくはそれを念頭に、宮崎は対談で以下のように語っている。

「子どもたちの数が減ってます。アニメは一定の子どもの数がいて成り立つから。これからダメになるだろう。いまは70の人まで映画館にアニメ観にやってくるから救われてるけど。1つのジャンルが盛んになって終わりを迎えるまでだいたい50年。アニメーションも終わりが来る。」

 この立場によれば、ジャンルの崩壊は不可避的なものである。そして、日本の崩壊もいずれ訪れる不可避的なものである。しかし、宮崎はこうも言っている。

宮崎「子どもたちに『君たちの将来は真っ暗だ』と言いたくない。」

 ここに長年にわたる宮崎の悩みと絶望があったと言える。

 本作は、その回答である。宮崎は、眞人をスポイルする二人の父の描写を通じて、「彼の未来を案じて先行して手を打っておくこと」や「懇切丁寧に方法を整えて彼に手渡すこと」が彼をスポイルすること、案じる未来の内容がある種の自己愛に基づいていたことを抉り出した。現実世界にはスポイルしてくる父がいる。そして、父が象徴する現実の不快さから逃れて、理想を掲げて虚構世界を創った大叔父もまた親切さや自己愛で彼をスポイルしてくる存在なのだった。

 さらには、自らが延命を願ったアニメあるいはジブリの崩壊こそが、新世代にとってのまだ見ぬ新たなジャンルのはじまりであるだろうことにも宮崎は思い至った*9

 何故大叔父の虚構世界は崩壊したか。眞人が来たからである。また、眞人が後継者にならなかったからである。何故眞人の母や叔母は大叔父の事業を継がなかったのか。それは彼女らが「女だから」ではないのか。そうすると、何故妊娠した叔母がインコたちに祀られていたかがわかる。叔母の子こそがインコの考える後継者だったからではないか。つまり、眞人の弟は大叔父の世界を継いで、現実世界に生まれてくることはなかったはずであった。したがって、弟の現実世界での誕生は、虚構世界の崩壊なくしてあり得なかった。眞人は言うまでもなく宮崎の分身である。大叔父も宮崎の分身であるのだから、弟もまたある一面では、宮崎の分身である可能性がある。というのも、宮崎は1941年生まれであり、眞人よりも弟の方が宮崎の生年に近く、宮崎は次男であるからだ。大日本帝国の崩壊亡くして現行の日本がなかったように、大叔父の虚構世界の崩壊なくしてアニメ及び宮崎の誕生はなかった*10

 ここでの宮崎の思考過程を整理してみよう。ある特定の時代が終わろうとするとき、その時代の始原にさかのぼる。そのとき、その時代の前にはまた別の時代があり、その崩壊によってその時代の成立は可能になったことに思い至る。したがって、今の時代の崩壊はその時代とともに生きた宮崎にとって喪失を意味するが、これからの世代にとってはそうではない*11。それどころか、新しい時代のためには古い時代はいつまでも延命せずに早く滅びた方がいいこともある。

 こうして、宮崎は自身の中核的な人生の部分に対する絶対的な愛着を断念し、自己の来歴と立ち位置を相対化した。自身の信じる価値に基づき、未来やそこに至る方法を語る限りにおいて、後発世代をスポイルしてしまうことに宮崎は思い至った。

 したがって、もはや宮崎にできることは、①自分はどのような環境で生まれ育ち、何を感じて人生を送り、どのような手練手管で人生を渡ってきたかを、嘘無く提示することである。そういう意味で、きっと眞人の父もまた宮崎の一面を表した姿なのである。そして、②時代やジャンルが繰り返される様子を整理して伝えること、③後発世代は今岐路に立っていることを示すこと、そして何よりも大事なことに、④後発世代を信じること、である。

まとめ

 最後に、虚構世界=(日本)アニメというジャンルの創造者に自身をなぞらえる思い上がりともいえる強い宮崎の自負を僕は感じた。そして、インコという姿で縮小再生産を行う後輩たちを描いたことにあまりの辛辣さに驚いた。これは挑発として理解すべきように思った。「こう書かれて素直にショックを受けるようじゃダメなんだ」と言っているように思った。あるいは、セルフオマージュの連打は、コピーの再生産となるためアニメの将来に責任を持つものとして自ら禁じていた手法を、実際にやって見せることでその責任から降りたことを示すもののようにも見えた。

 新世代の代表でもある眞人は、大叔父の世界を継ぐことを拒絶して、現実世界に戻ろうとした。眞人には大叔父とは違った価値体系がある。これから彼はどうするのか。(破局が迫った)現実世界と向き合い生きることも、大叔父とは別の既存の虚構世界を引き継ぐことも、持ち帰ったたった一つの石を手掛かりに新たな虚構世界を創ることも、可能である。それ以外の選択肢が本当はあるのかもしれない。そのような意味で、時代の岐路に立つ後発世代に対して、宮崎は「君たちはどういきるか」と問いかけているのである。

*1:前作『風立ちぬ』のこと。

*2:※ミルクボーイのあれみたいな振り回され方をした。

*3:したがって、本文ではセルフオマージュや映像的な寓意を対象としない。あくまで言語化可能な意味の水準で本作を扱う。

*4:この当時妻の姉妹と再婚することは珍しいことではない。

*5:誰かがそれを創ったのなら、他にも創った人がいる可能性は十分にある。

*6:本作品は「二人の父」と「二人の母」という二つの物語の軸が存在する。前者は公的な問題系として、後者は私的な問題系として物語の中では展開される。「二人の母」という問題系に関する論評は数多くあるが、特に優れているものとして「君たちはどう生きるか」における母と石と悪意のこと をあげておく。

*7:作品の舞台である前の戦争のころ

*8:虚構世界を出るとインコたちはただのインコに戻り、武力を失い、泡を食って逃げ去っていく。宮崎の悪意を感じる。

*9:自身の生き方を総括した『風立ちぬ』では主題歌に自身と大きく歳の変わらない松任谷由実を起用したのに対し、本作では若者文化の中心人物たる米津玄師を起用した。

*10:宮崎の趣味は軍事・児童文学と同世代比で「古い」趣味であり、それらのジャンルが没落していなければ、アニメという新生のジャンルに飛び込むことはなかったかもしれない。

*11:耳をすませば』の舞台である郊外は、『平成ぽんぽこ合戦』で破壊されつくした里山であり、その里山もまた『もののけ姫』において人を寄せ付けぬ神聖な原生林が破壊された成れの果てなのであった。

スポーツ漫画とは何か 『SLAM DUNK』評論③ 三井と湘北

三井について

 最後は三井である。三井は『SLAM DUNK』において最もキャラクターの掘り下げに成功した人物である。そして、それ故に絶大な人気を誇るのだと思う*1。三井は一番かっこ悪い男であり、一番かっこいい男でもある。湘北バスケ部入部当時、三井は「ポジションはどこでもやれます」と言った。およそバスケット選手が望む実績とスキルのほとんどすべてを持っていた。

 しかし、ちょっとした不幸と自身の弱さの積み重ねで、その大半を失う。二年のブランクを経た今、彼はもうオールラウンドなプレイヤーではない。多くのものを失って数少ない手持ちで戦う中、山王戦という極限状態において、三井というプレイヤーの本質は一層研ぎ澄まされ、よりはっきりとした輪郭を帯びていく。

「オレはもうあの6番を止められねえ 走ることも…抜くことも…何もできねえ……」

「オレから3Pをとったら もう何も残らねえ…!!」

「もうオレには リングしか見えねえ―――」

 挫折により何もかもを失い、さらには極限の疲労状態にあって、最後の最後に残ったスリーポイント。しかし、走ることも抜くこともできないプレイヤーが、一人でスリーポイントを打つことはできない。

 湘北の主な得点源は、流川・赤木・三井である。流川は自分もチームも勝つためにパスをした。赤木はチームの勝利のために自らの勝利をあきらめてサポートに回った。流川・赤木が必要に迫られて自らのスタイルを変えるとき、三井だけはスタイルを変えるのではなく、むしろそのスタイルを深化・貫徹する。

 三井は誰よりも自分の弱さをさらけ出して、それに向き合ってきたプレイヤーである。あるときは「過去の自分を美化し今の自分を責め」「自分の重要性を今一つ信じきれない」でいる。またあるときは二年のブランクを悔やみ「なぜオレはあんなムダな時間を・・・」と一人涙する。三井は自分の弱さ・至らなさ、一人では何もできないことを痛いほど知っている。だから、自分を信じるよりも強く、チームメイトを信じている。

「限界ギリギリの三井を支えているのは――――自分のために赤木がスクリーンをかけてくれる…その一瞬を逃さず宮城がパスをくれるはず…落ちても桜木がリバウンドをとってくれるはず…という信頼―――」

「奴は今 赤んぼのように味方を信頼しきる事でなんとか支えられている………」

 スリーポイントという三井の本質的なスキルは、湘北というチームが完全なチームワークを果たしてはじめて機能する。三井のスリーは湘北のチームワークの結晶でもあるのだ。

 しかし、山王戦であらわになるのは三井・湘北プレイスタイルの本質だけではない。本戦を通じて、三井・湘北そのものの本質もまた浮き彫りになる。三井は現湘北メンバーのうち、一番早くに加入し、一番最後に加入した者である。三井は一度、自分の弱さのせいでバスケから逃げた。そして、復讐のために再度現れてケンカに敗北し、三年の今になってもう一度バスケがしたいと懇願した。その姿はあまりにみじめである。このときはじめて三井はバスケをしていた頃も、バスケをやめてからも、一貫してバスケを愛しており、その愛に規定されて行動してきたことを自覚する*2

 三井とは何者か。「諦められなかった男」である。極限状態において、彼のこの本質は繰り返し顔を出す。中学県大会決勝の土壇場で。安西先生との再会の場面で。そして、山王戦での奇跡的な追い上げの場面で。意識がもうろうとしながら、赤木が自分を取り戻して立ち直るのを横目に、うわごとのようにつぶやく。

三井「河田は河田… 赤木は赤木…そしてオレは……オレは誰だ?」

三井「オレは誰なんだよ…!? 言ってみろ!!」

三井「オレの名前を言ってみろ…!! オレは誰なんだよ」

松本「三井…!!」

三井「おう オレは三井 あきらめの悪い男…」

 赤木は「今は河田に勝てない。それでもいい」と折り合いをつけた。赤木は「勝つ必要はない」と「否定形」を飲み込んだだけで、自分が何者であるかを積極的な形で捉えられていない。一方で、赤木と違って自分を生み失うことのない三井は、上記のように積極的な形で自分を規定することができる。

 本戦において、プレイ内容としてもメンタル的にも、湘北を引っ張り逆転勝利へと盛り立てたのは、一番未熟な桜木と一番経験がある*3三井である。桜木は何も持たないから恐れない。三井はすべてをかつて失ったからもう揺るがない。桜木は自分を素人と規定し、「おめーらバスケかぶれの常識はオレには通用しねえ!! シロートだからよ!!」とハッパをかける。これは桜木個人にしか当てはまらない自己規定であり、経験を積む中でいずれ失われていく特性である。一方で、三井の「諦めの悪い」態度は、安西先生が口にした「断固たる決意」と響きあう。

安西「全国制覇を成し遂げたいのなら、もはや何が起きようと揺らぐことのない『断固たる決意』が必要なんだ!!」

 三井は「自分が何者であるか」に最も迫った人物である。山王戦よりも前に三井は、劣勢でこそ「オレは燃える奴だったはず」と言い、「オレは最後まであきらめない男三井だ」と言った。今回の自己規定「あきらめの悪い男」はほんの少しだけニュアンスが異なる。「あきらめない」から「あきらめの悪い」へ。ここにおいて、もはや「あきらめること」は自分の意志にすらかからない。彼がバスケをあきらめられなかったように。赤木が通常時における湘北の精神的支柱であるならば、三井は非常時における精神的支柱であり、何があっても決してあきらめず何度でも立ち上がる湘北の象徴である。

三井「静かにしろい この音が・・・ オレを蘇らせる 何度でもよ」

そのプレイから、生き様から、三井は湘北を不屈のチームに引き上げる。

 ここで三井自身を規定し、暗黙のうちに湘北自身をも規定した、先程のセリフのシーンを再度作画つきでみてみたい。

 僕はこのワンカットが『SLAM DUNK』における内面表現としての画力の絶頂だと思う。通常の精神状態でこのカットが描けたとは思えない。作者もまた試合状況及び三井の内面とシンクロして描いているように思われる*4

 本作は後半になるにつれ、マンガ的表現から写実的表現へシフトしていき、人物画も実写にどんどん近づいて行ったが、このカットはその中でも異様である。角ばったエラ。穴まではっきりと描かれたわし鼻ぎみの顔立ち。整った顔立ちからは程遠く、不気味さと不思議な色気をたたえている。

 このカットは写実的な人間の顔の描写を超えている。生身の人間は人に見られることを意識して「顔を作る」。人は作った顔を人に見せている。鏡の前に立つときですらも、無意識のうちに人は顔を作るから、自分すらなかなか「自分の顔」を見ることはない。

 一方で、ここで描かれているものは、顔の表面の、意識によって制御可能な表層の奥底があらわになっている。締まりのない口とうつろな目、土気色の顔色は極度の疲労を示す。そして同時に、その顔は恍惚の表情に似て、彼が尋常ならざる精神状態にあることを雄弁に物語っている。すなわち、自分が何者であるのかを知る、安心立命の境地である*5

本当の最後の一人について

 三井は山王戦より前にいち早く挫折し、誰よりも自分の弱さ・至らなさを知り、一番成熟したプレイヤーとなった。しかし、彼よりも早く挫折を経験した人物が湘北に入る。安西監督である。

 『SLAM DUMK』は少年マンガには珍しく、試合における監督の役割が大きく、彼らの内面的な掘り下げも少なくない。安西監督の挫折とは言うまでもなく、谷沢の蹉跌である。谷沢の精神的未熟さは、原作中では掘り下げの少なかった宮城を除くスタメン4人のそれぞれと対応する。

 すなわち、桜木のようにスタンドプレーに走って基礎をおろそかにし、流川のように足元を固めず生き急ぎ、赤木のように突出した実力とその自負から安西監督の「お前の為にチームがあるんじゃねぇ。チームの為にお前がいるんだ!!」の言葉の意味を真に理解しなかった。そして、チームを裏切る形での渡米からみんなにあわす顔がないと言って、三井のように頭を下げてチームに戻ることなく、悲劇の死を迎えてしまう。

 この経験から安西監督もまた、自分の至らなさを思い知る。彼は谷沢指導時には名将の名声を得ていた。実績・地位を背景とした権威・権力にものを言わすような指導にあたっていたことが最悪の形で跳ね返ってきた。この経験と反省があるからこそ、精神的に未熟できかん坊の一年生コンビ桜木・流川に対して言葉を尽くして目的・理由を説明し、あるいはなだめすかして、導くことができたのだ。本作において、バスケに関わる人々は誰も無傷ではない。

まとめ

 ここまで、湘北メンバーがいかにして弱さと向き合って強くなったか(=変化したか)を見てきた。本作において、強さとは弱さの対立概念ではない。どんなに強い人間にも弱い部分があり、「それをどのように受け止めるか」が重要であることを、本作は複数のキャラクターの内面描写によって描いてきた。

 そして、それを可能にしてきたのがスポーツという装置であった。スポーツにはルールがあり、そのため勝ち負けがはっきり定まる。ルールは形式的に双方の戦闘条件を対等にするから、言い訳が不可能なほどに実力差を明らかにする。

 また、チームスポーツにおいて一人の力には限界がある。全国制覇への道は果てしなく、上には上がいる。だから、どこかで壁にぶつかる。低いレベルでは両立可能だった、これまでの自分のスタイルと個人の勝利とチームの勝利は、どこかで両立が不可能になる。否応なく何を捨てるかの決断に迫られる。勝つためには変化を迫られる。

 捨てるものを持たない素人桜木とほとんどすべてをすでに失った経験豊富な三井が、チームの勝利が一番大事であることをいち早く指し示し、流川はこれまでのスタイルを捨て、赤木は自分の勝利を捨てた。「負けたくない」という思いが、彼らの強烈なエゴを説得する。相手がそこを狙ってくるから、自分の弱さと向き合う必要が生じる。相手を出し抜くために、仲間を理解して協力する必要が生じる。

 スポーツとは筋書きのないドラマであると言われる。それは双方が総力を挙げて勝利を目指すからだ。総力を挙げた戦いは、対象を限定しない。そのために純技術的な事柄だけに勝敗の要素は限定されず、内面的な課題までもが問題となる。

 死力を尽くすからこそ、一方にとってもう一方は巨大な壁として立ちふさがる。それが巨大であればあるほど、現在の自分・チームの限界を超えることが要請される。両チームは自身らの勝利という相対立する結果を追い求める。相手の予想を裏切り、超えていこうとする。これにより「筋書き」がなくなる。

 しかし同時に、試合での勝利を目指すことは必然的に「いかにこれまでの個人・チームの限界を超えられるか」を要求してくる。相手だけでなく自分の予想もまた超えられたとき、それは「いい試合」になる。「ドラマ」になる。すなわち、勝利という相いれないものを奪い合いながら、同時に「いい試合をする」という同一の目標を、より高次の次元において協力して目指している。これがスポーツの持つ弁証法的物語展開機能である*6

 スポーツでの試合は現実世界において、とてつもない回数試行されている。この世界に存在する物語の数をはるかに上回るだろう。試行回数の多い分だけ、素晴らしいドラマが生まれる可能性も高まる。ただし、弱点もある。第一にプレイヤーしかそのゲームにおけるプレイ一つ一つの意味内容がわからないかもしれないこと、そして第二にプレイヤーでも他のプレイヤーの思惑や内面をうかがい知れないことである*7

 ここにマンガという表現媒体の活躍の余地がある。プレイヤーの主観的な見え方を表現するために、誇張された映像表現を用いるだけでなく、意図・心情の独白によりプレイヤーそれぞれの意識の流れあるいは変遷を描き、表情の一枚絵をもって、絵だけをもってプレイヤーの内面を雄弁に語らしめる。『SLAM DUNK』は「スポーツ」と「漫画」双方の機能をフルに引き出したという点において、傑作なのである。

*1:例えば、2023年のシネマトゥディの人気投票では断トツの一位である。

https://www.cinematoday.jp/news/N0135461

*2:その直前において、宮城は「一番過去にこだわってんのはアンタだろ…」と三井に言い放った。

*3:上述の人生経験のみならず、中学時代に大一番で逆転勝利を果たしていることを思い出したい。

*4:だから湘北はウソように次の試合で負け、本作はウソのように終わる。

*5:このカットは『バガボンド』の連載を事実上予告するものである、と言うと言い過ぎだろうか。

*6:スポーツはルールによる規制によって、この弁証法的物語展開機能が上手く作動するよう調整することが可能である。これがこの世界のありとあらゆるスポーツ以外の闘争との異なる点である。なお、将棋やカードゲームもマインドスポーツという、広義のスポーツである。

*7:例えば、山王戦における赤木の涙のわけを、木暮以外は味方でも知らない。

スポーツ漫画とは何か 『SLAM DUNK』評論② 宮城と赤木

宮城について

 湘北スタメンメンバーにおいて、桜木・流川の一年生コンビは「粗削りな大器と天才的な点取り屋」という赤木・三井の三年生コンビの立ち位置を反復している。この4名についてはその内面的課題が作中で浮き彫りにされ、キャラクターの掘り下げも十分になされていた。

 それに対し、二年生の宮城については『SLAM DUNK』本編において、十分な描写がされてこなかった。映画『THE FIRST SLAM DUNK』はそれを補完する試みである。Web上で本作の様々な考察がなされており、筆者がそれに付け加えることはない。

 本文の文脈に即して本作の主題に一つ言及するならば、本作は宮城リョータが「怖さと向き合う」物語である。リョータは生来の内向的性格から、また兄と比較しての劣等感から、あるいは父・兄を亡くした痛みから、あらゆるものと向き合うことができない。彼はあらゆるものを否認する。

 ある場面で妹のアンナは「生きてたらね」と答えて暗にソータが死んだことを受け入れて前に進むべきだと言い、母への手紙に「ソーちゃんが立つはずだった場所に、明日、俺が立つことになりました」としたためるリョータに対し、安西監督は「ここは君の舞台ですよ」とハッパをかける。

 また、ソータから教えられた「平気なフリ」は、当初は呪いとして機能する。すなわち、「平気なフリ」とは「怖さ」や「痛み」を否認することとして機能する。最もはっきりとそのことが現れるのは、バイク事故による昏睡から目覚めた時の母との会話のシーンである。リョータはおどけて「沖縄が見えたぜ」と言い、母を激怒させる。自分の痛みや恐怖、あるいは母へのいたわりを語るのではなく、事故に遭っても「平気」だったととっさにアピールしてしまう。

 「怖さ」を否認することは問題を解決しない。「怖さ」を乗り越えるためには、「怖さ」と向き合わなければならない。山王戦においてリョータは、憧れの兄が目標とした存在と対峙し、自分の抱える恐怖と向き合う。戦いの後の母との会話で山王について、リョータ「怖かった」と告白する。後日談でもアメリカの大学での試合直前にリョータは恐怖からトイレで吐いている。「怖さ」がなくなることはない。「怖さ」を受け入れて・向き合って、飼いならすこと。それが「平気なフリ」をすることだった。

 ここまで、桜木、流川、宮城を見てきた。一年生二人が試合で勝つために変化(成長)したことは、①基礎をおろそかにしないこと、②チームプレイを心がけることであり、初歩的であるとともに技術的な事柄であった。対して、宮城の場合はより内面的な問題が課題であった。これから見ていく赤木、三井についても勝つために要求される変化・成長は、内面的なものであり、宮城の「怖さを飼いならすこと」よりも困難な課題となる。ここには技術的課題から精神的課題へ、容易な課題から困難な課題へ、という学年すなわち技術的・精神的成熟度に応じた発展が見られる。

赤木について

 赤木は言うまでもなく湘北の大黒柱である。山王戦に至るまでは、マッチアップで後れを取ったことはない。湘北というチームは赤木のゴール下での絶対的な支柱を前提に、流川のドライブや三井のスリーが加わったチームである。赤木にとって自分が相手に勝つことは前提であり、いかにチームに勝利をもたらすかが常日頃の課題であった。

 だから宮城を「パスができる」とかばい、桜木をあの手この手で苦心しながら戦力化した。赤木は長い間、勝つことも負けることもできなかった。他に戦力がいないから、当然勝つことはできない。そして、チーム内で一人突出していたために、複数人に囲まれつぶされてしまうから、個人としての敗北を経験することもできない。

 戦力が整った三年時でも、神奈川県大会という環境においては、センターとして突出していたために、個人としての敗北をとうとう知ることができなかった。長らく自分だけのワンマンチームであったことから、あるいは上記の経緯から、赤木は「自分が勝たなければチームが勝つことはない」という思いが人一倍強い。すなわち、「自身の敗北とチームの敗北を切り分けることができない」のである。

 三年時になってようやく戦力が整い、湘北は神奈川県大会を突破し、赤木個人には名門チームからの大学推薦の話がきた。チームとしても個人としても赤木は自信を深めた。そして、全国の猛者たちと渡り合うためにさらなる練習を積むことも怠らなかった。

 それが河田によって粉々に打ち砕かれるのである。河田はゴール下において赤木を完封する。さらには赤木には逆立ちしたってできっこないスリーポイントを含めたガード・フォワードの高度な実力を見せつける。流川の場合に比してより絶望的であることに注目したい。流川は「パスをしない」というすぐに実行可能ないわば伸びしろがあった。それによって沢北に食らいつくことができた。しかし、赤木の場合そのようなものはもう残っていない。晴子が涙を浮かべてつぶやくセリフ「あんなに練習したのに・・・」は読者にとって、ほとんど悲鳴のように響く。大黒柱は取り乱し、敵わない勝負を繰り返し、そのすべてに敗北する。

 赤木の提出された課題は、読者にとっては明白である。やるべきことは桜木の役割とほとんど変わらないからだ。すなわち、個人戦では勝てないことを前提に、いかにチームを盛り立てるか。それが赤木には、これまでのいきさつから、刻一刻と変化していく試合中に求められることから、その精神状態から、難しい。

 赤木を救ったものは何か。かつての好敵手魚住である。彼もまた赤木に封じ込められ、チームが勝つことを優先する決意をした。その経験が、決勝リーグで戦ったプレイの記憶から、あるいは魚住の常識外れのメッセージから、言葉だけではきっと届かなかった赤木の深いところへ、非言語の形で伝わる。赤木は自分が河田に勝てないことを認めた。勝たなくてもいいことも認めた。

赤木「オレがダメでもあいつらがいる あいつらの才能を発揮させてやればいい そのために体を張れるのはオレしかいない おそらく現段階でオレは河田に負ける でも 湘北は負けんぞ」

 このことはこれまでの赤木のバスケットボール人生を根底から揺るがすような、アイデンティティそのものの変化を迫るものである*1

 赤木はそのバスケットボール人生から、長らく普通のプレイヤーになることができなかった。信頼できる仲間を得て、そして自身の個人技での敗北を通じて、はじめて本当の意味で仲間を信頼し、チームワークを体得することができた。ようやく普通のバスケットボール選手になれた。個人としてはコテンパンにやられてしまっているにもかかわらず、得られた仲間の有難さに思わず涙をこぼしてしまう赤木に、だから僕は涙してしまう。

 

 

つづき

killminstions.hatenablog.com

*1:通常は早くとも数か月、あるいは年単位の時間が必要な自己変革ではないか。

スポーツ漫画とは何か 『SLAM DUNK』評論① 桜木と流川

はじめに

 『SLAM DUNK』は、バスケ漫画のみならず、スポーツ漫画の金字塔である。スポーツはその性質から通常勝敗を伴う。勝敗条件と競技時間がルールで定義されるから、プレイヤーの思いとは何の関係もなく、ゲーム終了時には無情なほど一義的に勝者と敗者が定まる。勝つためには強くならなければならない。

 井上雄彦は「強さ」にこだわり続けた作家だ。それは『SLAM DUNK』に限らない。『バガボンド』の主人公宮本武蔵は「強さ」を求め、「強さとは何か」を追い求めていく。また、『リアル』における重要人物、日本一の悪役プロレスラースコーピオン白鳥は脊髄損傷を負って同様の状況下にある高橋につぶやく。

「思えばずいぶんチビの頃から『強くなりてえ』『強くなりてえ』ってよ――そんな俺の現在地は世間でいうところの『社会的弱者』 強さって何だろうな、高橋君…。強くなりてえなあ」

ここでいう「強さ」とは、即物的実力ではないことは明らかだ。『バガボンド』にせよ『リアル』にせよ、作中で描かれる「強さ」は、「内面的な強さ」の探求へと深化していく。

 勝敗が一義的に定まり、「強さ」の定義が自明に思われるスポーツ漫画たる『SLAM DUNK』においても、「内面的な強さ」の探求は主要キャラクターの掘り下げによって十全に果たされる。スポーツという装置は、好敵手とのギリギリの戦いを強いることでプレイヤーたちを極限まで追い込み、その者の本質に迫り、あるいは自己変革を要求する。『SLAM DUNK』が金字塔たるゆえんは、スポーツ漫画の持つ上記特性をこの上なく活かしたことにある。

 湘北スタメンメンバーの5人は、競技の中で「強く」なるために「弱さ」と向き合うことを否応なく求められ、自分の「弱さ」に直面することで「強く」なっていく。彼らは強烈なエゴの持ち主たちである*1。例えば、陵南対海南の戦いを見て中座した流川・宮城・三井は、「やはり明日はオレの出来次第だ…」と自負している。彼らが自分の「弱さ」に向き合うことは簡単なことではない。無情なほどに否応なく一義的に勝敗の定まる競技において、その厳しさ・緊張感において、初めて可能になる。それをこれから見ていく。

桜木について

 桜木花道は「初心者」であり「弱い」。陵南戦ではチームの「穴」として狙われ、初歩的なプレイでミスを繰り返して、一方的にライバル視する流川からは「税金みてーなもんだ…… おめーのヘマはもともと計算に入れてる……つっただろ ど素人」と言われる。彼の場合、自分の弱さは前提であって、それを改めて認める必要は薄い。ただし、自己に対する幻想は打ち砕かれる必要があった。桜木は動画を見て自分のシュートフォームが素人丸出しであることを知り、ショックを受ける。

安西監督「下手糞の上級者への道のりは己が下手さを知りて一歩目」

 あるいは、いい勝負ができると思って挑んだ流川との1on1でコテンパンにやられて桜木は放心状態になる。安西監督からも後に「彼のプレーをよく見て...盗めるだけ盗みなさい。そして彼の3倍練習する。そうしないと...高校生のうちには到底彼に追いつけないよ」と言われ、「このときから、桜木は流川のプレイを目で追うようになる。それに伴い、のちにさらに加速度的に成長していくことになるのだが……それはもうちょっと先のことである」とナレーションされる。

 また、晴子に振り向いてもらう下心からバスケを始めた経緯もあって、桜木にはスタンドプレーに走る傾向があった。彼にとってはチームが勝つことは重要ではなく、自分が目立って評価されることが重要だった。基礎的なシュートを「庶民シュート」とバカにして、派手で目立つダンクをむやみに狙おうとする。それが次第に変化していく。決勝リーグの海南戦において、「やっとの思いでつかんだチャンスなんだ」と鬼気迫る様子で試合に臨む赤木の思い*2にあてられて、負傷した赤木が試合に戻るまで自分がこの試合を支えると決意する。

桜木「俺に今できることをやるよ!!やってやる!!」

 「勝つためにできることをやる」とは、「できないこと」を見極め・認めることに他ならない。桜木自身が認めるように「ドリブルのキソ、庶民シュート、リバウンド」と、素人に毛の生えた程度の桜木にできることは多くない。チームが勝つためにはスタンドプレーではなくサポートに徹する必要がある。こうして桜木は勝つために、必然的に、自らの弱さ・至らなさを認めて受け入れていく。桜木はプライドを捨てて現状を正しく認識し、チームプレイに徹するようになっていった。桜木は初心者だから、彼が試合に勝つ上で要求された事柄も、基本的なことばかりだった。

流川について

 対して「スーパールーキー」流川はどうか。流川の心情が作中で描写されることは少ない。それは主人公桜木にとって彼が「他者」であるからだ。恋敵であり、一方的なライバルであり、絶対的な実力差を見せつけてくる存在である。桜木にとって、流川は恋愛においてもバスケにおいても望んだものをすべて持つ絶対的な存在として観念される。

 天才仙道とすら互角に渡り合う流川が、山王戦でははじめて一方的にやられる。流川はじめての窮地である。そこではじめて彼はパスを出す。何故パスを出したか。言い換えれば、何故これまでパスを出さなかったか。流川楓はすでにゲームを支配している」と評された彼は、パスを出す必要がこれまでなかった。すなわち、自分で決めた方が勝つことが出来た。流川の実力が他に比して卓越する通常時において、流川自身の勝利とチームの勝利は未分化である。その前提が日本一のプレイヤー沢北との対決によって崩される。具体的には、①流川の実力が他に比して卓越していること、②流川の勝利とチームの勝利が未分化であること、である。流川が山王戦の最初に放ったパスは、①の前提を取り戻すためのパスである。すなわち、パスもあると相手に思わせて、今度は仕掛けて勝つための布石である。この判断には背景がある。以前仙道に言われた言葉が流川の頭にはあった。

仙道「お前は試合の時も1対1の時もプレイが同じだな.....1対1のトーナメントでもあればお前に勝てる奴はそういないだろう。でも実際の試合でもお前をとめられないかと言ったら...そうでもない。お前はその才能を生かしきれてねぇ。1対1もオフェンスの選択肢の一つにすぎねえそれがわからねえうちは、おめーには負ける気がしねえ」

 これまでの一人でガンガン攻めていく「天上天下唯我独尊」スタイルは、圧倒的な敵を前にして再構築を迫られる*3。流川は個人プレイで勝つことができないことを悟り*4、自らのオフェンスの形を拡張することで対応する。流川がはじめて放ったパスは、自分が勝つためのパスである。

 一方で、流川が山王戦の最後に放った桜木へのパスは上記と毛色が違っていることに注意したい。前者は①に対応したパスであり、①自己の卓越を取り戻し、自分が勝つためのパスである。対して後者(最後のパス)は、もはや流川個人の勝利に結びつかない。それはチームが勝つためのパスであり、ここにおいて②’流川の勝利とチームの勝利は分化しているのである。

 この最後のプレイ(流川から桜木へのパス、桜木のジャンプシュートによる得点)が本作における桜木・流川のこれまでの集大成であり、最強山王の敗因を語るものである。試合中、桜木は「奴はパスしねえ、負けたことがねーからだ」と言って沢北の動きを読んでブロックした。何故桜木はそれができたのか。桜木は個人プレイでは負けてばかりで、そのためにパスをせざるを得ないことを痛いほど知っているからだ。

 また、試合に敗れて退場する際に、山王の堂本監督は「『負けたことがある』というのがいつか大きな財産になる」と言った。沢北に先んじて敗北を経験した流川だから、パスという選択肢が生まれた。そして、タイトルでもある華やかな「スラムダンク」ではなく、自分の無力を認めて地道な練習を繰り返すことでようやく身につけた基本中の基本であるジャンプシュートによって、桜木が決勝点を手にする。

 湘北というチームにおいて、最弱が故にもっともギブしてきた者に、最強が故にもっともテイクしてきた者がギブ(パス)する。この見事な円環構造が最終戦及び物語の締めくくりに現れる。当たり前のチームプレイであるパスと、基礎中の基礎であるジャンプシュートが、試合の内容としても二人のプレイヤーの成長としても、決定的に重要な意味を持つものとして描かれる。

 

 

つづき

killminstions.hatenablog.com

*1:井上作品の登場人物は本作に限らず、強烈なエゴの持ち主ばかりである。そして、『リアル』においてナガノが下記で言うように、エゴは否定されるものではなく必要なものとして語られる。

「エゴを早くに畳んでしまった者に 勝敗を決する最後のプレイは託せない 戦うものなら、まずは「俺が一番だ」という巨大なエゴありきだ 敗北や挫折や様々な経験でいずれそれは削られて形を整えていくだろう それが成熟ということ 逆はない 成熟してからエゴは身につかない なぜだろう...日本はそんな奴ばかりなんだ」

*2:赤木は部員たちに試合前こう語っている。

赤木「オレはいつも寝る前にこの日を想像していた・・・ 湘北が・・・ 神奈川の王者海南大附属とIH出場をかけて戦うところを毎晩 思い描いていた 一年のときからずっとだ」

*3:仙道の言葉とその言葉を受けて実際に変化するまでの間にタイムラグがあったことにも注意したい。言葉の意味を理解すること、それを受け入れることには時間がかかる。一方で、試合という状況は「直ちに」変化することを求めてくる。試合は変わること・成長すること(強くなること)を強制する装置である。

*4:試合後「修行」をした後なら勝てるようになるかもしれないが。