はじめに
『PSYCHO-PASS』1期は、シビュラ社会における管理と自由の対立を描いた作品であるだけでなく、人間が自らに与えられた宿命をいかに引き受け、自己の役割を発見していくかを描いた思想劇でもある。
本稿では、シビュラ、狡噛、槙島、常守の四者を比較する。シビュラは査定の一方向性に、狡噛は私刑の閉塞に、槙島は観念による裁きに閉じていく。これに対して常守だけが、他者との応答を通じて自らの使命を発見し、個としての輪郭を獲得していく。
その頂点が、第20話「正義の在処」における彼女の内的対話である。本稿では福田恆存『人間・この劇的なるもの』を補助線として、この場面に結晶する思想劇の中核を明らかにしたい。
人間・この劇的なるもの
福田恆存は、近代的な意味での「個の確立」を疑った思想家である。私たちはしばしば、家柄、才能、職業、環境、他者との関係といった制約を取り払った先に「本当の自分」があると考える。しかし福田にとって、それは錯覚である。具体的な条件をすべて取り除いたあとに残るのは、純粋な個性ではなく、むしろ手ごたえのない抽象的な存在にすぎない。
では、「私」はどこに現れるのか。福田にとってそれは、自分では選びきれない条件や出来事を引き受け、具体的な状況に応答していく運動の中に現れる。生まれ、立場、才能、出会い、喪失、他者から投げかけられた問い。そうした「ままならないもの」は私を縛るが、同時に私に輪郭を与える。
ただし、必然性を受動的に受け入れるだけでは個は成立しない。それを自分の判断として引き受け直さなければならない。この引き受け直しは、抽象的な決意ではなく、具体的な他者との応答、すなわち「劇」の中で生じる。以下ではこの観点から、『PSYCHO-PASS』1期を読み直す。
ここまでをまとめると、次の三点になる。第一に、個は無から立ち上がるのではなく、必然性、すなわち自分では選びきれない条件や出来事を足場としてしか立ち上がらない。第二に、その必然性をただ受動的に受け取るだけでは個にはならず、それを自分の判断として引き受け直す必要がある。第三に、その引き受け直しは抽象的な決意ではなく、具体的な他者との応答、すなわち「劇」の中で生じる。この三点が揃ったとき、はじめて福田のいう「劇的なるもの」が立ち現れ、個は輪郭を持つ。
シビュラシステム——与え、そして奪うもの
いうまでもなくシビュラシステムは人々に役割を与える存在であった。配属初日の事件で監視官としてやっていく自信を失っていた常守を励ますために、彼女の友人である船原ゆきが第二話で口にした標語を引用しよう。
「成しうる者が為すべきを為す。これこそシビュラが人類にもたらした恩寵である」
ここにはシビュラシステムの判断への素朴な信頼が現れている。すなわち、シビュラは人間に対して「あなたは何者であり、何をなすべきか」を告げてくれる存在である。進学、就職、適性、精神の健全性、犯罪の可能性までもが数値化され、その判定によって人間は自分の居場所を与えられる。そこでは、人間が自らの能力や欲望や不安を抱えて迷う必要はない。シビュラが、各人にもっともふさわしい道を示してくれるからである。
この点だけを見れば、シビュラは福田的な意味での「必然性」を人間に与える装置であるかのように見える。各人は偶然の不安から解放され、自分に適した場所に配置される。「成しうる者が為すべきを為す」という標語は、まさにそのような幸福の約束として語られている。
しかし、ここにこそシビュラの決定的な倒錯がある。福田において重要なのは、必然性が与えられることそれ自体ではない。与えられた必然性を、本人が具体的な他者との応答のなかで、自分の判断として引き受け直すことである。ところがシビュラは、その過程を省略する。人間は自分で迷い、自分で失敗し、自分で応答しながら役割を発見するのではない。最初から、外部のシステムによって「あなたはこれを為すべきである」と告げられるのである。
したがって、シビュラが奪っているものは単なる自由ではない。より根本的には、人間が自らの必然性を引き受け直し、個として輪郭を持つための劇そのものを奪っているのである。
この剥奪を端的に体現しているのが縢秀星である。彼は幼少期に潜在犯と認定され、通常の選択肢から排除された。そこで問われるのは、彼が何を望み、どのように自分の人生を引き受けるかではない。問われるのは、彼の犯罪係数が社会にとって許容可能かどうかだけである。シビュラは彼に「潜在犯」という役割を与えるが、それは宿命を使命へ変えるための役割ではなく、人生の可能性をあらかじめ閉ざす烙印である。ここに、シビュラが与える役割の本質がある。それは人間に居場所を与えるように見えて、実際には人間が自分の生を劇として生きる余地を奪うのである。
狡噛慎也の閉塞
シビュラシステム下の市民の多くは、与えられた役割を自ら問い直すことなく受け入れる。そのことによって、彼らは迷いから解放されると同時に、劇を奪われてもいる。一方で狡噛は自分にしかなしえないこと・自分がなすべきことを見定めて、シビュラの枠組みから逸脱する。すなわち、槙島を裁くことができるのは自分だけだと判断し、自分に残された最後の居場所すら捨てて、槙島を殺すという一点へ自らの生を狭めていく。我々はこれをどう理解すればよいのか。福田の枠組みで言う「主体的な引き受け」として見るべきであろうか。筆者はそうは考えない。
補助線として縢のセリフを引用する。
「俺なんて5歳でサイコパス検診に弾かれて以来、ずうっと潜在犯だぜ…治療更生の見込みゼロ、だから今俺はココに居る。一生隔離施設で過ごすより、公安局の猟犬になって殺し屋家業を引き受ける方が『マシ』だから…!」
あるいは第一話で狡噛を制止するために彼を撃ってしまった常守に対して狡噛が吐露した言葉。
「もう長いこと執行官をやっている」
「迷うことなく、疑うことなく、命じられたままに獲物を仕留める猟犬の習性が」
「俺の手には染みついちまってる」
「あの銃の言いなりになって、何人もの潜在犯を撃ってきた」
「それがこの社会のためになると小綺麗な理屈を鵜呑みにして」
「いつの間にか考えることさえなくなった」
「自分がやってることがなんなのか顧みることさえ忘れていた」
(中略)
「あのとき俺は迷わなかった」
「迷えば死ぬと思っていた」
「こんなところで終わりたくない、絶対に死ぬわけにはいかない」
「それだけで頭がいっぱいだった」
この二つの台詞が示しているのは、執行官という存在が、すでに大きく選択肢を奪われた者であるという事実である。縢にとって公安局は、自由な職業選択の結果ではない。それは、隔離施設で一生を終えるよりは「マシ」な選択肢にすぎなかった。つまり彼は選んでいるようでいて、実際には選ばされている。
狡噛もまた、この「猟犬」としてのあり方を自覚している。彼はドミネーターの判定に従い、命じられるまま潜在犯を撃ってきた。現場において彼に許されていたのは、考えることではなく、執行することである。迷えば死ぬ。撃たなければ撃たれる。彼の前にいる他者はもはや応答すべき相手ではなく、撃つか撃たれるかの対象に変質する。そこでは、自分が何を裁き、何に責任を負っているのかを問う余地はほとんど残されていない。判断はドミネーターに委ねられ、執行官の手元には、「撃つか撃たれるか」という切迫した二択だけが残る。ここでは、人間が自らの行為を引き受けるための劇は成立しない。
しかし、槙島との出会いによって、狡噛は別の形で再び二択に投げ込まれる。シビュラは槙島を裁かない。ドミネーターは彼を執行対象として認識できず、法の内側に留まる限り、狡噛は彼を裁くことができない。ここで狡噛に突きつけられるのは、シビュラの下で正義をあきらめるか、シビュラから脱して自分の手で正義を執行するか、という二択である。
つまり、狡噛は完全に「制御の外」へ出たのではない。彼はシビュラの猟犬であることをやめたかに見える。しかし実際には、シビュラが作り出した二択の、もう一方の極へ追いやられたにすぎない。かつて彼は「撃つか撃たれるか」という現場の二択に閉じ込められていた。そして槙島以後の彼は、「正義をあきらめるか、私刑に走るか」という倫理的二択に閉じ込められる。どちらの場合も、彼に欠けているのは、迷い、応答し、別の可能性を探るための劇的な余白である。
したがって、狡噛の判断を単純に福田的な「主体的な引き受け」と呼ぶことはできない。たしかに彼は、佐々山の死と槙島への怒りを自ら引き受けている。しかしその引き受けは、他者との応答へ開かれるのではなく、槙島を殺すという一点へ収束していく。彼は宿命を使命へ変えたというより、使命を復讐へと圧縮してしまったのである。彼はシビュラ社会から自由になった人物ではない。むしろ、シビュラが作り出した不自由な二択の中で、最後まで劇を奪われ続けた人物なのである。
槙島聖護の失敗
では、狡噛をこの二択へ追い込んだ槙島は、シビュラの外部に立つ真に自由な個であったのか。シビュラに裁かれず、人間の意志を問い続けた彼こそ、福田的な意味での劇的人間であったのか。そうではない。槙島もまた、別の一方向性に閉じている。彼はシビュラの査定を拒んだ代わりに、自らの観念によって人間を裁くのである。
彼を知るためには、はじめて感情をむき出しにして狡噛に語った最後の戦いのシーンでのセリフを思い出す必要がある。
「他者とのつながりが自我の基盤だった時代など、とうの昔に終わっている。誰もがシステムに見守られ、システムの規範に沿って生きる世界には、人の輪なんて必要ない。みんな小さな独房の中で、自分だけの安らぎに飼い慣らされているだけだ」
ここに彼がシビュラシステムを崩壊させようとした動機のすべてが込められている。管理社会での抑圧や不自然さを嫌ったチェ・グソンとは異なり、槙島はシビュラシステムが古典的な意味での人間を消失させてしまったことに怒り、そして絶望している。
ここで槙島が想定している「人間」とは、たとえばアリストテレスが『政治学』で述べたポリス的動物、すなわち共同体の中で他者と関わりながら自己を形成する存在に近い。少なくとも槙島にとって人間とは、システムに適性を告げられ、孤立した安らぎの中で飼い慣らされる存在ではない。他者と出会い、衝突し、欲望し、選び、傷つくことで自我を形づくる存在なのである。
彼はこの要件を満たさない者を人間とは考えない。すなわちシビュラに飼い慣らされた現代の人々の大半は、彼の眼から見れば人間ではないのである。例えば、船原ゆきを殺害する際、彼は剃刀をもって頸動脈を掻っ切った。これは血抜きを行う屠殺の工程を彷彿させる。あくまで象徴的に読めば、この殺害方法は、彼女を対等な他者としてではなく、処理される身体として扱う槙島の視線を示しているようにも見える。
もちろん、作中設定として槙島の免罪体質は単なる心理的無自覚に還元できるものではない。だが思想的に見れば、彼が自らの行為を罪として経験していないこと、あるいは現実の他者を良心の対象から除外していることは、彼の色相が濁らないという設定と象徴的に響き合っている。
彼にとって、シビュラに飼い慣らされた人々は、すでに彼のいう意味での人間ではない。だからこそ彼は、ゆきを殺すときにも、他者を殺める者としての良心の痛みを引き受けない。
ここで想起されるのは、小林秀雄が嘘発見器について述べた「この機械は、被疑者が、嘘をついているという自覚を持っている事を前提としなければ、意味をなさない」という指摘*1である。機械が捉えるのは良心そのものではなく、罪の自覚が身体に残す反応である。シビュラもまた、罪そのものではなく、罪が心理的反応として表れたものを測定しているにすぎない。したがって、その自覚が存在しない者、あるいは自らの行為を罪として経験していない者に対して、機械は無力である。
これはそのままシビュラシステムにも当てはまる。シビュラは犯罪係数を測定する。しかしそれは、良心や罪そのものを測定しているのではない。罪が心理的反応として表れたものを測定しているにすぎない。だからこそ、槙島のように自らの行為を罪として経験しない者は、シビュラの網をすり抜ける。
しかし問題は、単に槙島が特殊な体質を持っていたということではない。思想的に重要なのは、彼が自らの観念によって、他者を良心の対象から除外していたことである。彼は「人間」を求めていた。しかし、その「人間」とは、現実にシビュラ社会を生きている弱く、怯え、制度に依存する人々ではない。彼が認めるのは、自らの意志で選び、自らの欲望に従い、他者との関係の中で自我を賭けることのできる、そのような意味での人間だけである。
ゆえに、彼はシビュラ社会の人々を人間として扱わない。船原ゆきを殺す場面において、そのことは象徴的に現れる。彼は彼女を殺す。しかし彼は、その行為を「人間を殺すこと」として引き受けていない。ここに槙島の罪と罰がある。彼は人間を求めながら、現実の人間を人間として認めない。人間への渇望が、現実の他者への否認へと反転している。そして、それゆえに彼の渇望は満たされることがない。
槙島はシビュラと対立しながら、シビュラと同じ構造を反復している。シビュラが数値によって人間を裁くのだとすれば、槙島は観念によって人間を裁く。シビュラは犯罪係数という物差しで、槙島は古典的人間観という物差しで、人間に優劣をつける。両者は対立しているように見えて、現実の他者をそのまま受け取らないという点では同じである。
したがって、槙島は福田的な意味での劇的人間ではない。福田において劇とは、具体的な他者との応答の中で、自らの必然性を引き受け直すことであった。しかし槙島は、他者と応答しない。他者を試験し、裁き、選別するだけである。彼は他者とのつながりを求めながら、その他者を自らの観念によってあらかじめ排除している。ここに槙島聖護の失敗がある。
常守朱の劇的成熟
常守もまた、シビュラの測定に対して例外的な強さを持つ人物である。ただし彼女は槙島のような意味での免罪体質者ではない。槙島が他者を自らの「人間」の定義から排除することで罪の意識を免れるのだとすれば、常守は逆に、他者を最後まで人間として扱い、その声に応答し続けることで犯罪へ堕ちない。両者はともにシビュラの尺度を揺るがすが、その方向は正反対である。
では、常守朱とは何者であったのか。端的に言えば、彼女は「判断する機会を奪われなかった者」である。シビュラ社会において、多くの人間は判断を免除されている。適性はシビュラが示し、幸福の形もシビュラが告げ、犯罪の可能性もシビュラが測定する。そこでは、自分が何を欲し、何を選び、何を引き受けるべきかを深く問う必要はない。シビュラがその問いを代行してくれるからである。
しかし常守は、その代行に完全には身を委ねることをしなかった。第20話「正義の在処」における四つの回想は、まさにそのことを示している。これらの回想は、単なる過去の記憶ではない。常守がこれまでの人生で受け取ってきた問いが、シビュラの真実を前にして一つずつ呼び戻され、彼女自身の使命へと結び直されていく過程なのである。
第一の回想は、進路選択の場面である。常守は中央省庁のほとんどに適性を示され、友人たちから羨まれる。しかし彼女はそこで、こうつぶやく。
「こんなに何から何まで薦められても、じゃあ結局どれがいいのか、私どうやって決めたらいいんだろう」
ここに常守の特異性がすでに現れている。シビュラが与える豊富な選択肢は、彼女から判断を奪うものではなかった。むしろ、それは彼女に「選ぶとは何か」という問いを突きつけるものだった。シビュラ下の多くの人間が、選択肢をあらかじめ「奪われる」ことによって迷いから解放されるのだとすれば、常守は逆に、与えられることの中に迷いを見出したのである。
福田の言う個の確立は、まさにこの迷いから始まる。何をすべきかを外部から告げられ、それに従うだけなら、そこに劇はない。個は、自らの前に置かれた条件をどう引き受けるかという迷いの中で、はじめて輪郭を持ち始める。
第二の回想は、縢秀星との会話である。直前の常守の「私どうやって決めたらいいんだろう」を受けて、いらだちを込めた調子で答える。
「分かんねえよ。俺なんかに分かるわけねーじゃん。あんたは何にでもなれた。どんな人生を選ぶことだってできた。それで悩みさえしたんだろう?すげえよな、まるでシビュラができる前の爺婆みてえだ」
「うん、すごいよね。誰もが自分の人生を手探りで選んでた。それが当たり前の世界があったなんてね」
「今じゃシビュラシステムがそいつの才能を読み取って、一番幸せになれる生き方を教えてくれるってのに。本当の人生?生まれてきた意味?そんなもんで悩む奴がいるなんて、考えもしなかったよ」
「そうだね、重たくて辛い悩みだよ。でもね、今では思うんだ。それを悩むことができるって、本当はとても幸せなことじゃないかって」
この場面は、常守の特権性を残酷なほど明らかにする。だからこそ、常守の迷いは単なる優柔不断ではない。それは、シビュラ社会においてほとんど失われた自由の痕跡である。自分の人生をどう生きるかを悩むこと。それは重く、苦しく、時に人を不安にさせる。しかしその重さこそが、人間が自らの生を自分のものとして引き受けるための条件でもある。常守は縢との対話を通じて、そのことを知る。悩むことは不幸ではない。むしろ、悩むことができるということ自体が、シビュラ社会においては一つの幸福なのである。
第三の回想は、槙島との対話である。
「僕はね、人は自らの意思に基づいて行動した時のみ価値を持つと思っている。だから、様々な人間に秘めたる意志を問い正し、その行いを観察してきた」
「そうね。あなたの気持ち今なら少しだけ分かるかも」
「そもそも、何をもって犯罪と定義するんだ?君が手にしたその銃、ドミネーターを司るシビュラシステムが決めるのか?」
「違うよね。それがそもそもの間違いだった」
「サイマティックスキャンで読み取った生体力場を観察し、人の心の在り方を解き明かす。科学の叡智はついに魂の秘密を暴くに至り、この社会は激変した。だが、その判定には人の意思が介在しない。君達は一体、何を基準に善と悪を選り分けているんだろうね」
「きっと大切だったのは、善か悪かの結論じゃない。それを自分で抱えて、悩んで、引き受けることだったんだと思う」
「僕は、人の魂の輝きが見たい。それが本当に尊いものだと確かめたい。だが、己の意思を問うこともせず、ただシビュラの信託のままに生きる人間達に、果たして価値はあるんだろうか?」
「無いわけ無いでしょ!あなたが価値を決めるって言うの?誰かの家族を、友達を、あなたの知らなかった幸せを!」
槙島は、人間は自らの意志に基づいて行動したときのみ価値を持つと語る。そして、シビュラの信託のままに生きる人間たちに、本当に価値があるのかと問う。
常守はこの問いを退けない。むしろ彼女は、槙島の問いの核心を理解している。シビュラの問題は、単に誤った判定を下すことにあるのではない。善悪の判断から人間の意志を取り除き、人間が自分で悩み、抱え、引き受ける過程を奪ってしまうことにある。
だから常守は、善か悪かの結論そのものよりも、それを自分で抱え、悩み、引き受けることが大切だったのだと理解する。この言葉は、福田のいう劇的なるものを、常守自身の言葉で言い直したものに近い。必然性を前にして、それを自分で抱え、悩み、引き受ける。その過程においてのみ、人間は自分の生を自分のものにすることができる。
しかし常守は、槙島に同化しない。槙島は「人間」を求めながら、現実の人間を見なかった。常守は、槙島の問いを理解しながら、槙島が切り捨てた現実の人間を守ろうとする。この点で、常守は槙島の問いを最も深く引き受けた人物*2でありながら、槙島とは正反対の場所に立っている。槙島が理想化された人間観を持ち出すのに対し、常守は「誰かの家族、誰かの友人、あなたの知らなかった幸せ」という具体的な人間の生をもって対峙する。
第四の回想は、ゆきとの対話である。
「面白くって楽ちんで辛い事なんて何もなかった。全部誰かに任せっ放しで、何が大切な事なのかなんて考えもしなかった。ねえ朱、それでも私は幸せだったと思う?」
「幸せになれたよ それを探すことはいつだってできた 生きてさえいれば 誰だって」
ここで問われているのは、シビュラに任せて生きた人間の幸福にも価値があったのか、という問題である。ゆきは、自分は何も深く考えず、すべてを誰かに任せて生きていた。それでも自分は幸せだったのかと問う。この問いは、槙島の問いを死者の側から反転させたものだと言える。槙島の論理に従えば、ゆきのような生は価値の低いものになる。自らの意志を問い、選び、引き受けることをしなかった生だからである。
しかし常守は、そのようには考えない。ここで常守が肯定するのは、強い人間だけの尊厳ではない。自ら選び、自ら悩み、自ら意志することのできる人間だけが守られるのでもない。たとえシビュラに支えられ、誰かに任せ、深く考えないまま生きていたとしても、その生は誰かの友人であり、誰かにとってかけがえのないものだった。常守は、その弱さを含めて人間を守ろうとする。
以上の四つの回想は、それぞれ別々の記憶ではない。それらは、常守がこれまでの人生で受け取ってきた問いの連鎖である。
第一の回想は「選択肢を与えられるとはどういうことか」を問う。
第二の回想は「悩むことにはどのような意味があるのか」を問う。
第三の回想は「人間の価値を誰が決めるのか」を問う。
第四の回想は「シビュラに任せた人生にも幸福はあったのか」を問う。
これらの問いは、常守が自ら選んだものではない。彼女に降りかかってきた必然性である。しかし常守は、それらを外部からの負荷として処理せず、自分の中に残し、互いに響き合わせ、自分自身の判断として引き受け直す*3ここに福田のいう「劇」が成立する。彼女は、他者の声に呑み込まれるのでも、それを切り捨てるのでもなく、それらに応答することによって自分の立つ場所を見出していく。
この瞬間、シビュラによって与えられた監視官という役割は、常守自身の使命へと変わる。
召命とは、外部から一方的に役割を告げられることではない。それならば、シビュラの適性判定と変わらない。真の召命とは、自分では選びきれなかった出来事や出会いが、後から一本の線としてつながり、「これは自分が引き受けるべきものだった」と理解される瞬間である。
常守にとって、第20話の内的対話はまさにその瞬間だった。シビュラに与えられた監視官という役割は、縢の剥奪、狡噛の怒り、槙島の問い、ゆきの死、シビュラシステムの真実を経由することで、彼女自身の使命へと変わる。
ここで初めて、「成しうる者が為すべきを為す」というシビュラの標語は、シビュラ自身の手を離れて、本当の意味を持つ。シビュラがこの言葉を語るとき、それは外部からの査定でしかない。あなたにはこの適性がある、だからこの役割を果たせ、という命令である。しかし常守においては違う。彼女は、与えられた役割をそのまま受け入れたのではない。他者との応答の中で、それを自分の使命へと引き受け直したのである。
したがって、常守朱の成熟が「劇的」であるのは、単にそれが感動的だからではない。彼女の成熟は、福田の意味で劇的なのである。すなわち、逃れがたい必然性を前にして、それを他者との応答の中で自分の判断として引き受け直し、その結果として個が輪郭を持つ。第20話「正義の在処」は、その過程が最も鮮やかに結晶した場面なのである。
結論
『PSYCHO-PASS』1期の主題は、単なる管理と自由の対立ではない。それは、人間が自らに与えられた必然性を、いかに自分の判断として引き受け直すかという問題である。
シビュラは役割を与えるが、その役割を本人が悩み、応答しながら引き受け直す過程を奪う。狡噛はシビュラを離れるが、正義を私刑へと圧縮してしまう。槙島は人間の意志を問うが、現実の人間を自らの観念によって裁く。
これに対して常守朱だけが、他者の問いを切り捨てず、それらに応答することで自らの立つ場所を見出す。彼女において初めて、「成しうる者が為すべきを為す」という言葉は、外部からの査定ではなく、内面から引き受けられた召命となる。
シビュラが人間から奪った劇を、常守はシビュラの内部にいながら回復する。だからこそ『PSYCHO-PASS』1期は、管理社会批判であるだけでなく、人間がいかにして宿命を使命へ変えるかを描いた思想劇なのである。
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