キメラアント編の軍儀における定石についての考察

 キメラアント編におけるメルエムとコムギの交流について、軍儀の定石に着目して考察を行う。メルエムは当初、定石を乱した力戦に持ち込む指し手に終始した。それが次第に定石をなぞるようになり、新しい定石をコムギとともに生み出すに至る。この変遷は、メルエムが軍儀という文化の共同体に組み込まれ、その一員となっていく様とパラレルである。そしてそれらは、メルエムが人間になっていく様でもあった。それをこれから見ていく。

コムギとの対局以前 あるいは力戦形

 コムギと対局する前のメルエムは、盤上のゲームについて「骨を掴んだ」と言った。

「チェス・囲碁・将棋・・・ルールは違えど一級の打ち手にはその打ち筋に独特の呼吸がある ゆえに“相手の呼吸を乱すこと”が肝要・・・! 定石を知ると相手の呼吸が見えてくる そこからは相手が呼吸しにくい手を生み出すだけだ」

ここでの「骨」とは、定石ではないことに注意したい。メルエムは定石を確かに学んだ。しかし、メルエムが定石を学ぶのは対局相手の呼吸を知るためである。定石という基準点を知ることで、その基準点との差分から相手方の「独特の呼吸」を見出す。そして、定石と相手固有の呼吸を掴むことで、そこを乱す打ち手をする。すなわち、力戦に持ち込む。力戦とは、定石から外れた戦いのことを指す。

 つまりメルエムは、定石を指さない/指させないために定石を学んでいるのである。①定石から外れることで、過去の棋士たちの棋譜と研究の結晶である定石という知識への参照が遮断され、純粋な知的能力のみによる戦いに引きずり込む。くわえて、②相手の呼吸を乱すこと=相手が嫌がる手を打つことによって、さらに自分のペースに持っていく。

 この①及び②をメルエムは「骨」と呼んだ。そして、先のメルエムのセリフを受けて、プフはこのように言ったのだった。

「全ての勝負に通じる真理かと・・・・・・そこに到達してはこの先の室内遊戯も大同小異・・・退屈されるだけかと思われますが・・・・・・」

このとき、メルエムは、盤上のゲームすべて(そして勝負事のすべて)に妥当する「普遍的」な「骨」を掴んで、知るべきすべてを知ったと思っていた。各盤上ゲームにおける「個別具体」の定石は、あくまで手段であって、それ自体が価値を持つものではなかった。要するに、人類の文化的産物たる盤上ゲームをナメていた。メルエムはまだ人類の文化共同体の一員ではない。

コムギとの対局 あるいは運命の一手

 コムギとの対局が始まる。当初のメルエムはコムギの偉大さがまだわからない。

「古典的な高矢倉だ・・・差し筋にも何ら変わったところはない 初期陣形も入門書レベル・・・余の方がまだ本気で戦うに値せぬということか」

「選択肢は多いが本質は他の遊戯と等しい あと4・5局指せば奴の本気を引き出せよう さすれば奴の呼吸も見えてくる」

しかし、次第に当初の見積もりが誤っていたこと、コムギの恐るべき才能をメルエムは理解し始める。上達すればするほど逆に、「意の掴めぬ手が増えてきた」のである*1

「馬鹿な‼置き駒から詰みまで144手 余の打ち筋を全て読まねばこの手には至らぬ・・・‼ 絶対にあり得ぬ‼」

そこからしばらくして、とうとうメルエムは、コムギに付け入るスキを見つける。すなわち、呼吸を乱す一手を。

「乱してやる 其方の呼吸」

「盤中央からの攻防は無限!! 正着はない こちらの対応次第でいくらでも長引く一局 さぁ聞かせてみよ 其方の喘ぎ・・・!!」

 メルエムはこの一手をもって力戦形に持ち込めると確信していた。コムギのしっぽを掴めるところまで来たと思っていた。しかし、それは全くの間違いだった。コムギが初めて手を止めた後に打った一手を見て、メルエムは自身の詰みを宣言する。この時点においてメルエムは、①コムギが初めて手を止めたことは困惑を意味しないこと、②自身の手は死路であったこと、③コムギはそれを知っていたことを、言葉を交わすことなく悟る。軍儀もまた一つの言語であり、すでにメルエムは左記を理解する程度に高度なリテラシーを身につけている。だからメルエムは問わずにはいられない。

「何故手を止めて考える必要があった? ノータイムで打てる一手であろうが⁉」

コムギは語る。「離隠」正しくは「狐狐狸固」くわえて「中中将」は自身が生み出した手であることを。そして、自らの手によって死路として葬り去ったことを。

 それだけではない。それだけでは、手が止まった理由にはならない。

「総帥様がワダすと全く同ず戦法を考え出したことはすごく・・・光栄で感動で心が震えますた まるで・・・一度死んだわが子*2が生き還ったような・・・そんな気がすたんです だから もう一度この子の・・・命を消すのが忍びなくて」

メルエムはこのコムギの言葉を、プフ曰く人生で一番長く黙って人の話として聞いた。ともすると、異常な強さを見せるコムギがふとした拍子に見せた人間性に興味を持った・絆されたようにも見えるが、少なくともそれだけではないと思う。

 彼が驚き・興味を持ったのは、自身が仕掛けた乾坤一擲の力戦への一手が、定石の一部であったこと。そして、それを生み・殺し*3たのが目の前の対局者であるコムギであったこと。それらにこそ彼は瞠目しているのではないか。それまでのメルエムにとって、一方の極にすでに検討されつくした定石があり、もう一方の極に全く定石から外れた力戦の形があるはずだった。「盤中央からの攻防は無限」で「正着はない」と見積もったはずが、その力戦形の混沌は、たった一手で収束するのである。そして、その手を生み出したのは目の前に座っている10年前の彼女なのであった。このことは何を意味するか。定石に関する知識だけでなく、純粋な知的能力においても、彼女には敵わないかもしれないという可能性である。この瞬間において、メルエムは本当の意味でコムギの才能を認めたと思われる。そして同時に、コムギもまたメルエムの才能を認めたと思われる。猛烈な速度で上達し、遂には自身の生んだ定石すらもメルエムが再発見したことに、コムギは深く深く感動している。

 メルエムが定石を生み出す過程の追体験をしたこの出来事は、さらなる意味を持っている。メルエムは定石の破壊者であった。メルエムの定石を逸脱・破壊するはずの一手は、卓越した打ち手による応答によって、定石の一部としてその秩序の中に引き戻される。メルエムの「破壊」は、彼を包み込む彼女の実力によって、「創造」に成り代わった。その質的転換の瞬間に、彼は瞠目したのだ。彼は軍儀という文化共同体の言語を習得する段階を脱しつつある。誰も知らない新たな作品たる棋譜を生み出していく段階へと移行しつつある。つまりは軍儀という文化共同体の一員として本格的に組み込まれようとしているのである。

 そして同時に、この定石の再発見という出来事は、コムギにとってもこの上ない幸福な出来事であった。コムギはかつてこの定石を「創造」するとともに「破壊」した。メルエムの「破壊」にコムギが応答することで「創造」が成ったように、コムギの「創造」あるいは「破壊」は、誰かがそれに応えない限り先に進めない。この定石について「創造」と「破壊」の両方をコムギが担ったことは、コムギに対する者が誰もいなかったことを意味する。軍儀周りの元ネタであろう『ヒカルの碁』の一節を引用する。

「知っとるか?碁は2人で打つものなんじゃよ。碁は1人では打てんのじゃ。 2人いるんじゃよ。1人の天才だけでは名局は生まれんのじゃ。等しく才たけた者が2人要るんじゃよ、2人。 2人揃ってはじめて…神の一手に一歩近付く」

 コムギにとってこの定石の再発見とは、自身に匹敵しうる才能の登場を意味する。メルエムとは、死ぬまで続くかに思われた孤独な一人芝居を終わらせてくれる救い主に他ならない。

盤外戦 あるいは二人が賭けていたもの

 メルエムは確かにコムギの才能を認めた。しかし、だからといってコムギの全てを認めたわけではない。メルエムは少なくとも近いうちにコムギに正攻法で勝てないことを理解した。それでも勝つことまで諦めたわけではない。次の一手とは盤外戦である。

「其方が勝てば其方が望むもの なんでも与えよう」「ただし 其方が負けたら左腕をもらう」

この提案はメルエムの人間観に基づくものである。

「ヒトの呼吸を乱すもの・・・欲望と恐怖 欲は目を濁らせ畏(おそれ)は足を竦ませる」

 これはいわば人間を支配する「骨」である。欲望に向かって、あるいは恐怖から逃れようと、人間は行動する。この人間理解は、勝負の「骨」と同様、かなりいい線をいっていると言えよう。何故なら、自身の利得のみに拘泥する人間だけでなく、わが身を犠牲にして人類を守ろうとするネテロの献身すらも、人類を守りたいという「欲望」や人類を滅ぼしたくないという「恐怖」に基づくものだからだ*4

 しかし、勝負の「骨」とこれまた同様に、コムギにはそれらが通用しない。まず「恐怖」について。

「ワダすはプロの棋士を目指した日から軍儀で負けたらば自ら死ぬと決めております」

「欲望」についても、欲しいものが思いつかないと言う。

軍儀のこと以外あまり考えたことがありませんので・・・」

この言葉を受けてメルエムは激しく動揺する。

「どうやら覚悟が足りなかったのは余の方だ 其方が勝った時望むものに余の命を想定していなかった」「これは余自身の問題だ」「賭けはやめだ 下らぬマネをした これで許せ」

メルエムは自身の手によって左腕をちぎってみせたのだった。

 メルエムは「覚悟が足りなかった」「下らぬマネをした」と恥じ入ってみせた。身体の欠損への恐怖をちらつかせれば呼吸を乱すと思ったコムギは、棋士を志した最初から死の恐怖とともにあったのである。翻ってメルエム自身は、何の恐怖とも向き合わず・打ち勝つこともなかったことに気づいてしまった。ここにおいてはじめて、メルエムは軍儀が、コムギにとって単なる「盤上遊戯」なのではなく、全存在を賭けた戦いであることを知る。極めつけは腕を治すまでは打たないとコムギが宣言する場面である。

「打ちません ワダすを殺すならばどうか軍儀で・・・・・・・・・‼」

軍儀にすべてを捧げた人間を「恐怖」や「欲望」で支配することはできない。コムギが軍儀で一貫して賭けていたものとは、財産・身体どころか生命ですらなく、自身の軍儀における栄誉であること、したがってメルエムがこの戦いで賭けていたものもまた栄誉であることを、ここにおいてようやく気付くのだ。そして、軍儀の栄誉は(正々堂々の)軍儀でしか奪うことが出来ないことも。

 アテネオリンピックにおいてハンマー投げ室伏広治が、一位だった者のドーピングの発覚によって金メダルに繰り上がった際に、記者会見で紹介して見せた金メダルの裏に刻印された古代ギリシャ詩人ピンダロスの詩が思い起こされる。

「真実の母オリンピアよ。あなたの子供達が競技で勝利を勝ち得た時、永遠の栄誉(黄金)を与えよ。それを証明できるのは真実の母オリンピア

人間観の変化 あるいは二人の覚醒

 メルエムの軍儀への姿勢に話を戻すと、盤外戦の一件以降、二人は感想戦をはじめたことが読み取れる。感想戦とは、対局の直後に両者がその対局を振り返り、対局中の手筋やそれ以外のより良い手を検討するものである。感想戦は共同作業である。互いにより良い手を次の対局では指せるように、生まれた棋譜から最大限の教訓をくみ取ろうとするものだ。その様子を見てプフは言う。

「王は確かにすさまじい早さで上達している しかし彼女も進化している・・・・・・!」

続いて対局の場面。

「全く間をおかず急所急所を攻めてくる 鋭さは増すばかりだ しかし息苦しくはないむしろ楽しくすらある そういう局面に手が導かれている*5からだ それは此奴が余よりもまだ数段高みから打っている証・・・!」

 ここにおいてもはやメルエムが呼吸を乱すような打ち手をすることはもうない。対局の大きな流れの中に抱かれ、その流れにしたがうことに楽しみすら感じている。徒らに力戦に持ち込むことの無意味を悟り、盤外戦の不毛さを知り、誇りを持った棋士として対局相手を認め、謙虚な心持ちで盤面に向かうとき、メルエムは加速度的に成長する。そして、対局相手をも開花させる。

「総帥様 ワダす・・・変です 止まらないんです 素晴らすい手が次々と洪水みたいに頭に傾れ込んで来て ワダすもっともっと強くなれる・・・!」

「これからだったのだ・・・‼ 強くなるのは・・・!」

 すなわち、コムギの覚醒である。この直後、メルエムはコムギに名前を聞く。コムギは自らの名を答えるともに、メルエムにその名を聞く。メルエムがコムギのその才能の発露から彼女個人に興味を持ったように、コムギもまた総帥としての地位ではなく卓越した打ち手という個人として、メルエムに興味を抱く。

 しかし、メルエムは答える言葉を持っていない。この言葉をきっかけに、メルエムはキメラアントという種のまどろみの中から、個人を切り出していく*6

 「欲望」や「恐怖」ではない動機に基づいて生きるコムギのような人間がいること。コムギとの出会いは、メルエムの人間観を変えた。苦痛や死への「生物的」恐怖ではなく、金や権力のような「世俗的」欲望でもなく、人生の全てを「文化的」価値のために捧げる。そんな生き方があることをメルエムははじめて知る。キメラアントは人間という種の写し鏡である。メルエムの人間観の変化とは、彼の人生観・世界観の変化を同時に意味する。キメラアントの「本能」としてではなく、キメラアントの種の頂点として「家臣」たちに望まれる「世俗・社会的」な任務としてでもなく、自分にも真に生きるに値する「自分だけ」の意味があるのではないか。その渇望に気づくのである。

「余は何者だ・・・?名もなき王 借り物の城 眼下に集うは意志持たぬ人形 これが余に与えられた天命ならば 退屈と断ずるに些かの躊躇も持たぬ‼」

メルエムもまた、自らの意思によって文化的共同体へ帰属する、個人として覚醒していくのである。

ネテロとの「対局」 あるいは二つの盤外戦

 メルエムとコムギとの奇跡的な交流は、ネテロ一派の襲撃によって中断される。ここでは、圧倒的に優位なコムギとメルエムという関係が、圧倒的に優位なメルエムとネテロという図式に成り代わって反復されていることに注意したい。メルエムはコムギから学び、勝つことだけを目的に問答無用でねじ伏せることをしなかった。それどころか当初は「其の方が余と交すことが叶うのは言葉だけだ」と言って戦うこと自体を拒否した。

 今度はメルエムが盤外戦を仕掛けられる番である。それも戦いを有利に進めるためではなく、戦いの場に引きずり出すために。すなわち、ネテロは「ワシに負けを認めさすことができれば教えてやらんでもないぞ?」と言った。しぶしぶメルエムは戦うことにする。

 しかし、メルエムにとってネテロとの戦いは「遊び」であった*7。メルエムはその高い審美眼をもって、ネテロの練り上げられた技の数々を味わい尽くした。そして驚くべきことに、圧倒的劣勢にあるネテロもまた、メルエムとの戦いは勝敗などどうでもよい・するの必要ない「遊び」に過ぎなかったのだ。

 さらにややこしいことに、ネテロの仕掛けた戦いはにただの「遊び」であると同時に、必ず勝たねばならない人類の存亡を背負った・公的使命を帯びたものでもある。ただの「遊び」に過ぎないのならば、コムギにメルエムがして見せたように、時間をかけて力の差を見せつけて負けを認めさせることもできた。事実、メルエムはそうして戦いをおさめようとした。

 しかしそれは叶わない。個人としての負けは認めても、人類として屈服することはネテロにとってあり得ないからだ。ネテロはもう一つの盤外戦を準備していた。演武の舞台そのものから破壊すること。すなわち、貧者の薔薇。こうしてメルエムは滅ぼされたのだった。

 盤面そのものを破壊する貧者の薔薇の使用について、メルエムがコムギに対したとき、当初を除いては盤面上での戦いに終始し、彼女自身を攻撃しなかったこととの対比に注目したい。メルエムはネテロらの襲撃の意図を直ちに察し、周囲に被害をもたらさないために、自発的に戦う場所を変えたのだった。すなわち、戦うための盤面を整えさえした。

 また、メルエムは王宮突入直前のゴンらのプロファイルされている場面を思い起こそう。メルエムが「自分で自分を傷つけた」のは自分を許せない時であり、「自尊心を守るために痛みを避けない型(タイプ)」であり、「意に沿わぬ説得には決して応じない」と評されている。メルエムはその自尊心から、コムギに対してもネテロに対しても、どこまでも公正に振る舞った。すでに引用した通り、「余自身の問題」であるからだ。

 一方で、ネテロは人類全てを背負って立っている。すでに「キメラアントは人間という種の写し鏡」と書いた通り、人間もまた「意に沿わぬ説得には決して応じない」。そして、その自尊心は人類の屈服を拒否するために盤面そのものを破壊するのである。

新手・逆新手・逆新手返し あるいは収穫の季節

 メルエムとネテロとの戦いが終わると、いよいよ軍儀をめぐる物語もクライマックスを迎える。自分に残された時間が残り少ないとメルエムが知ったとき、メルエムは最期の時間とコムギと過ごすことを決める。ここの件を読むとき、僕はいつも吉田松陰が死の直前に書き遺した『留魂録』の一節*8が思い起こされる。すなわち、すべての人間には人生の長短に関係なく春夏秋冬があり、その終わりには集大成としての収穫とそれを楽しむ季節があること。メルエムにとってもコムギとの最期の対局はこれまで撒いた種の収穫にあたる、最も実り豊かな瞬間であった。

 メルエムは以前答えられなかった自身の名を伝える。このことは蟻の王という役割から離れた軍儀を愛する一人の個人として、コムギに相対していることを意味する。だからメルエム勝利の暁には、コムギに「様抜き」で自身の名を呼ぶことを求める。平等で対等な個人と個人として、ともに軍儀に取り組みたいと望んであるからだ。ここにおいてはもはや、戦いの勝敗は栄誉を賭けたものでもなくなる。どちらが勝っても、負けても、もうどうでもいいことだ。だからコムギは「勝ったら何が欲しい?」と聞かれて、間髪入れず「もう一局お願いいたすます!!」と応える。それを受けてメルエムも先の質問を「愚問だった」と思う。恐怖や欲望や栄誉のためでなく、軍儀を指すこと、ただひたすらにそれ自身の悦びのために。

 二人のこの通じ合いになれ合いはあってはならない。再度狐狐狸固を指すコムギにメルエムは「余を愚弄するか」と怒気を見せる。「ワダす軍儀でふざけたことないです」と平然と返すコムギ。そして放たれる新手。それは突然の中断によってメルエムに届けることができなかった贈り物である。メルエムは狐狐狸固を生き返らせる新手の価値をたちどころに理解する。それどころか、新しい定石を即座につぶす新しい一手=逆新手で応じて見せる。歓喜の涙を流すコムギ。かつて狐狐狸固について、コムギは「創造」と「破壊」の両方を自らでなした。つぎにメルエムの力戦を目指した「破壊」の一手は意図せずして昔の「創造」の再発見となり、コムギはためらいながら再度の「破壊」を行った。そしてとうとう今回はコムギの「創造」に対してメルエムが「破壊」で応えてみせたのだった。

 その後メルエムの「告白」に対し、「再-創造」たる逆新手返しで応じた。コムギもまた今この瞬間が、自分の人生最高の瞬間であり、同時に収穫期であることを悟る*9

まとめ

 以上のようにして、当初は定石の破壊者として軍儀に臨んでいたメルエムは、次第に軍儀に魅かれ・定石に従い、最後は軍儀のために人生を捧げ・全く革新的な定石をコムギと二人で生み出して死んでいった。定石を学び・操り・創ることで、彼は軍儀の文化共同体に組み込まれ、その一員となっていった。

 この過程は少年マンガの成長物語と軌を一にする。たとえば、『ヒカルの碁』において主人公進藤ヒカルは、またはスポーツ漫画の金字塔である『あしたのジョー』の矢吹ジョーは、あるいは『SLAM DUNK』の桜木花道は、その各々の世界に次第にのめり込み、その世界の秩序を学習し、一人の棋士・ボクサー・バスケットマンとなっていく。メルエムにとってその過程は、多くの成長物語同様、人格の完成へと至る道でもあった。

 前述のとおり、軍儀もまた一つの言語である。物理的身体を持つすべての存在にとっての共通言語である「暴力」とは違って、軍儀の持つその文化的価値はその世界の中に入ってその言語に習熟しなければ、理解することができない。

 ①コムギの生む棋譜が「論理の究極とでも表現すべき美しい棋譜」であることや②定石が過去の天才たちの知性の結晶であることや③その一端にメルエムも加わり新しい定石を生み出したことの価値を彼が理解できるのは、その言語に対する高いリテラシーによる。人がほんの数ミリの眼鼻の位置の違いに美醜を感じる*10ように、微細な差分に意味を見出す営みこそが文化である。

 文化とは、すべての勝負事に妥当する「骨」の水準、言い換えれば普遍的な構造の水準では決してその意味・価値に至ることができないものである。勝利に対して目的合理的な盤外のあらゆる手段を禁欲してあくまで盤上にとどまってみせたとき、あるいは、「欲望」や「恐怖」や「栄誉」といった目的に奉仕する手段としてではなく、それ自体を目的として遊んでみせたとき、メルエムは人間=ホモ・ルーデンスとなったのである*11

 

軍儀の元ネタと思われる『ヒカルの碁』についての考察

killminstions.hatenablog.com

*1:冨樫作品の読者としては、飛影のセリフ「強くなる程貴様が遠くなっていく気がするぜ化物め」が思い起こされる。

*2:キメラアント編において「一度死んだ子」は様々な場面で何度も、何度も甦る。

*3:メルエムはコムギによって「人間として生まれ直し」、ネテロによって殺される運命にある。物理的に生き返るのはその後の話であり、また別の話である。

*4:あるいは蟻の女王のメルエムへの無償の愛すらも

*5:要するに指導対局である。『ヒカルの碁』において、「碁の神様は対等の相手がいないから孤独だ。だから神様は人間に碁を教えて自分の相手ができる存在を育て上げているのかもしれない」という趣旨の会話がある。コムギ・メルエムの関係はここを念頭に読まれるべきだろう。

*6:この過程については以前書いたので繰り返さない。

*7:コムギとの対局を通じて、戦いの進め方が「コムギとの対局が予知のごとき先見を可能にした・・・・・!!」とあることについては自明であるからここで言及するにとどめる。

*8:たとえば、このサイトを参照。

*9:余談であるが、本文を書いてどうもコムギのあり方がメルエムの心を動かしていく過程の検討にあたって、吉田松陰の行動原理であった「至誠」がちらついた。そして、今この時が死に時とコムギが見定めた瞬間は、松陰が愛弟子に死に際して送った手紙の有名な一文「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」を想起させる。以下に前後の内容も記載しておく。

「死は好むべきにも非ず、また悪むべきにも非ず。道尽き心安んずる、すなわちこれ死所。世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心死すれば生くるも益なし。魂存すれば亡ぶるも損なきなり。死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」

*10:これもまた、有意味情報として人間が質・量ともに十分に人間の顔を認識・処理してきた蓄積・訓練がもたらした高いリテラシーによる。

*11:キメラアント編の大筋の元ネタである『寄生獣』では、人間とは「心にヒマ(余裕)がある生物」と定義して見せた。その共通点と相違点を噛みしめてみたい。