ヒカルの碁の考察 佐為あるいは棋譜の中にだけ存在する真実

 『ヒカルの碁』の最も重要なモチーフは<棋譜の中にだけ存在する真実>である。ここでの棋譜とは白と黒の石が交互に置かれていった記録に過ぎない。にもかかわらずそこに作中の棋士たちは後述のようにあまりに多くのものを読み取っていく。それが可能なのは囲碁の体系が自然言語とは違ったまた一つの言語体系であるからだ。素人にとっては全く意味をなさない白と黒の配置が、その体系内部にある人間にとっては豊かな意味世界として現れる。

 本作は主人公ヒカルが囲碁の言語体系に習熟して一人の棋士となっていくストーリーである。門外漢の主人公があるジャンルに次第に魅せられ・引き込まれていき、そのジャンル世界の内部の人間になっていくプロットは、『あしたのジョー』や『SLAM DUNK』、『ガラスの仮面』といったマンガ作品の傑作に限らず、あらゆる物語における王道といえる。『ヒカルの碁』における特筆すべき特徴とは、<棋譜の中にだけ存在する真実>、すなわち囲碁の持つ言語体系によって表現される意味内容の妙味を十全に表現したことにある。それをこれから見ていく。

囲碁という言語を介したコミュニケーション

 本作における棋士たちは二つの言語を使ってコミュニケーションをする。自然言語囲碁という言語(以下では「囲碁言語」と呼ぶ。)とである。ときに囲碁言語は自然言語よりはるかに雄弁に真実を物語る。本件について特に印象的なシーンはアキラとの初対局の場面であろう。対局までの挙動から、ヒカルは見るからに初心者である。しかし、石を扱う手つきのあやしい明らかな初心者であろうと、彼の打つ手が彼の実力なのである。ヒカルの手を見てアキラは戦慄する。

「これは最善の一手ではない 最強の一手でもない・・・・・・・・・・・ボクがどう打ってくるかためしている一手だ!僕の力量を計っている!!はるかな高みから―――――――――」

 多少の解説が必要かもしれない。筆者の解釈では、「最善の一手」とは相手の力量・棋風に関係なくその場面において最も良い結果につながる手のことを指し、「最強の一手」とは相手の力量・棋風を考慮すると最も良い結果につながる手のことを指すと思われる。アキラはこの手がそのどちらでもなく、「ボクを試す手」だと言った。すなわち、アキラの次の手について、選択肢が多くかつアキラの力量によって打つ内容に差が出る局面を佐為は作りだしたということだ。そして、この手をもってアキラは対局相手が自身よりもはるかに格上であることに気づく。たしかにヒカルは対局前に自身の棋力について、「ちっとは強いぜ」と言っていた。しかしアキラはその言葉を信じなかったし、信じていたとして「どの程度強いか」はその言葉からは計りようがない。棋力は実際に打ってみることでしか、本当のところはわからない。

 そして、それによって生み出された棋譜は、その者の棋力だけでなくその者自身をも照らし出す。例えば、saiのネット対局を見た緒方のセリフ。

「JPN(日本人)とあるがどこまでホントかな とにかくインターネットは闇の中だから・・・・・・ しかし子供ではない 子供の打ち方は荒い どんなに素質のある子でもミスが出る だがsaiの打ち方はどうだ その練達さは長久の歳月を思わせる!」

囲碁言語は時間と空間を超える

 すでに様々なところで指摘のある通り、「ネット碁だけで現れる謎の棋士sai」というプロットは、ネット対局が普及し、かつ人工知能が人間の棋力を上回らないほんの十数年の期間でのみ可能であった。サイバー空間は囲碁が白と黒と配置と順序の組み合わせに過ぎないという特性をより引き伸ばし、物理的身体を持たない幽霊も対等な形で対局に参加することを可能にする。また、サイバー空間は場所の制約を軽々と飛び越える。saiは世界中と対局を繰り返し、実力のみをもってじわじわとその名を知らしめていく。世界中の実力者たちがさまざまな経緯から、ルートから、saiの存在を知っていく過程にはわくわくさせられる。

 本作のクライマックスの一つであるsai対toya koyoの対局シーンでは、世界中が固唾をのんでその趨勢を見守っている。言葉がわからず/言葉をかわさずとも、その一手、またその次の一手が言葉よりもずっと大きな意味を持っている。

 さらに、囲碁言語は時間をも超えていく。消えた佐為を探してヒカルは何もかもを投げ出して、思い当たるすべての場所を探して回る。しかし、佐為は物理的空間の中にはもうどこにもいない。途方に暮れていたとき、ふと虎次郎(秀策)にとりついていたころの棋譜をヒカルは読む。ここではじめてヒカルは、佐為が天才であることに気がつく。そして、虎次郎は佐為の真価を知っていたから彼に全部打たせたことと、自分が犯した「過ち」にも。

「ここの佐為の一手 上下左右・・・八方にらんだすげェ手だ・・・・・・・・・ こんな手打たれたら力の差に相手も戦う気なくしちゃうぜ ・・・・・・・・・佐為 アイツ・・・天才だ ・・・・・・もっとアイツに打たせてやればよかった・・・・・・」

「オレは碁なんか全部知らなくて佐為の強さなんかちっともわかんなかった!オレ 自分が打ちたいって! やっと佐為のすごさがわかってきてもオマエなんかって後回しにして バカだオレ バカだっ!」

「佐為に打たせてやればよかったんだ はじめっから・・・・・・ 誰だってそう言う オレなんかが打つより佐為に打たせた方がよかった! 全部!全部!全部!! オレなんかいらねェ! もう打ちたいって言わねェよ! だから神さま!お願いだ! はじめにもどして! アイツと会った一番はじめに時間をもどして!!」

 佐為と一緒にいたときにはわからなかった彼の天才性に、はるか昔の棋譜を読むことで、彼を失くしてから気づく。言語によって記された内容が時間・場所を超えて届くのは、囲碁に限らず言語一般の特性である。そして、リテラシーの向上によって昔わからなかった意味内容が今になってわかるようになるというのも言語一般の特性である。

 言語は模倣によって獲得される。ヒカルは囲碁言語を佐為の打ち手の模倣によって獲得していった。だからヒカルの打ち手の中には避けようもなく佐為の打ち手が刻印される。佐為を失い、佐為の断片を渇望して方々を探した末に、ヒカルは自分の打ち手の中に佐為がいることに気づく。

「・・・・・・・・・この打ち方 アイツが打ってたんだ・・・・・・こんな風に」

「いた・・・・・・・・・どこをさがしてもいなかった佐為が・・・・・・こんな所にいた―――――」

「佐為がいた どこにもいなかった佐為が オレが向かう盤の上に オレが打つその碁の中に こっそり隠れてた」

「おまえに会うただひとつの方法は 打つことだったんだ」

 ここにおいては、囲碁言語は時間と空間という隔たりを超えて「届く」ものではない。佐為の打ってきた囲碁はヒカルを構成する要素の一部であるのだから。

棋譜の中にだけ存在する真実

 佐為とは<棋譜の中にだけ存在する真実>のメタファーである。佐為が消滅して以降はその要素が一層強まる。ヒカルが打つのをやめれば、佐為の存在はなかったことになる。そしてヒカルが打つこと自体が、佐為がこの世界に生きた証となるのだ。

 <棋譜の中にだけ存在する真実>を象徴する一つのシーンを引用しよう。越智にアキラが「アナタが進藤にイレ込む理由」を問われて、アキラは2年前の一局の再現をはじめる。

「なんだか打ち方が古いような印象を受けるけどこの黒の人相当打てる 白の甘い所に切り込む鋭い手!この強さは!?黒は誰!?まさか――――」

「彼だよ」

「ボクは知ってる!彼が院生になった時も見たし研修手合も打った!」

「ここでボクが投了!」

「バカな!ありえないよ 2年前!?」

「完敗だった」

「誰も信じないよ この黒が2年前の進藤だなんて!」

「そう だから誰にもこの一局は見せてない キミに初めて見せた」

「ボクだって信じない!」

「だろうね ―――だが確かに この一局は存在したんだ」

 佐為が物理的身体を持たず、他のあらゆる事実が彼の実在を否定しようとも、棋譜だけは動かしがたい真実を明らかにする。すなわち、彼がそこにいたことを明らかにする。塔矢行洋が佐為について語った「彼もまたその強さだけが存在の証」という言葉は全く正しい。

 そして、おそらくは本来の物語の結末であったろう「2年4か月ぶり」のヒカルとアキラとの対局の最中で、これまでヒカル(と佐為)が残してきた棋譜とヒカルとの直接対決とを通じて、アキラは一つの真実にたどりつく*1

「もう1人いるんだ キミが 出会った頃の進藤ヒカル 彼がsaiだ」

「碁会所で二度ボクと打った 彼がsaiだ」

「キミを一番知っているボクだからわかる ボクだけがわかる キミの中に・・・・・・・・・・・・もう1人いる」

 ヒカルは佐為を失って二重の孤独の中にあった。それは佐為を失ったことであり、佐為が存在した事実を共有する者がいないことである。ヒカルは失われた佐為が自分の中にいること気づく。そして、アキラがヒカルの中に佐為が存在した/していることを見出し、もう一つの孤独から救い出すのである。

「今までオレしか知らなかった佐為を 佐為 塔矢がおまえを見つけた」

 ヒカルは自身が経験した佐為との出来事を誰にも説明してこなかった。言葉では伝わらない・誰も信じないと思っていたからだ。もちろんアキラにも佐為との出来事は語っていない。にもかかわらず、アキラはその真実に到達してみせた。自然言語では決して示しえなかった真実を、囲碁言語が照らし出す。このやり取りの直後にアキラが口にする「キミの打つ碁がキミのすべてだ」という言葉もまた、全くもって正しい。

すべての営みの中へ

 佐為は自らの天命を悟って消えていく。かつては自らが「神の一手」を極める存在であり、そのために三度現世に遣わされたのだと信じていた。しかしヒカルの光り輝く才能を前に、自分は特別な存在などではなく、「神の一手」に至るまでの大河の一滴に過ぎないと知る。

「虎次郎が私のために存在したというならば 私はヒカルのために存在した ならばヒカルもまた誰かのために存在するだろう その誰かもまた別の誰かのために 千年が二千年が そうやって積み重なってゆく」

 ヒカルは自分が打つことが佐為の生きた証になると知った。物語最後の戦いにあたる高永夏戦で、ヒカルは自分が碁を打つ理由を口にする。

「なぜ碁を打つのか 答えははっきりオレの中にある」

「遠い過去と遠い未来をつなげるために そのためにオレはいるんだ」

 ここでヒカルの中で念頭にあるのは佐為とヒカルとの二者関係である。その言葉を受けて永夏はこう返す。

「遠い過去と遠い未来をつなげるためにオマエがいる? オレ達は皆そうだろう」

永夏はすべての棋士は過去の先人たちの財産の相続人であり、自分たちもまた後世に財産を残していく使命を持った主体であると言った。それを受けて楊海はさらに言う。

「青臭いガキのセリフさ 遠い過去と遠い未来をつなげる? そんなの今生きてるヤツ誰だってそうだろ 棋士囲碁も関係ナシ 国も何もかも関係ナシ なぜ碁を打つのかもなぜ生きてるのかも一緒じゃないか」

 こうしてヒカルの持つ二重の特権性は解除される。すなわち、佐為とヒカルの特殊な関係性に限らず、棋士という特権的な地位に限らず、すべての人々は時間を超えて・国を超えて、人々のあらゆる営みの網目の中に生きている。

 『ヒカルの碁』が描こうとしたものは、超常的な経験をした天才少年の成長譚ではない。本作で描かれているのは、主人公ヒカルが囲碁の言語体系を獲得していって一人の棋士になること、すなわち囲碁という文化共同体の一員になっていくことだけではない。囲碁を含めたすべての日々の営みが人類という共同体のなす営みの中にあること、自分もまたその網目の中にありその共同体の一員であること、大人になるとはその事実を知り・その担い手になることであること、本作はそれらを明らかにしたものだ。本作がヒカル個人の物語ではなく、ヒカルを通して人類すべてについて描いたものであるから、本作の最終話のタイトルは「あなたに呼びかけている」となるのである。

*1:この帰結は『めぞん一刻』における最終的な三角関係の解消によく似ており、影響を受けた可能性がある。