あだち充論 『H2』を中心とした作品における恋愛とスポーツの関係についての考察

はじめに

 あだち充作品の特徴は<恋愛とスポーツとの有機的連関>にある。➀恋愛とスポーツの両要素を十分に描きながら、➁同時に両者が物語の展開の中で密接に絡み合って進行する。➀に関してあだち作品において特筆すべき点は、両要素について一方がもう一方の主あるいは従とならないところにある。ほぼすべての他のマンガ作品は、恋愛とスポーツの要素が含まれている場合、一方が主となりもう一方が従となる。例えば『MAJOR』にせよ、『キャプテン翼』にせよ、『SLAM DUNK』にせよ、『はじめの一歩』にせよ、恋愛要素は添え物に過ぎない。恋愛がメインのマンガ作品に至っては、スポーツの要素が従としても出てくることはまれである*1

 この二つの要素が一つの作品に同時にメインとして描かれないのは、両要素がジャンルとして遠く両方を描ける作家が希少であることもあろうが、そもそも二つの要素を一つの作品に盛り込むこと自体が曲芸じみた難しさを伴うと考えるべきだろう。ある読者に一方の要素がウケても、もう一方の要素がその者にとって退屈に感じられれば、一つの要素に絞った他の数多くの作品に勝つことは困難であり、中途半端な作品にしかならないからだ*2

 本文では、あだち充作品の最高傑作である『H2』について、他のあだち作品と比較しつつ、その特異性と本作が<恋愛とスポーツとの有機的連関>というテーマの集大成であることを示したい。なお、本文においては『H2』にくわえて、『みゆき』、『タッチ』、『ラフ』、『クロスゲーム』の重要なネタバレを含むことをあらかじめ断っておく。

スポーツ漫画としての円熟

 さきほど筆者は、あだち作品について、恋愛とスポーツの両要素を両立させていると書いた。しかしながら、野球以外のスポーツをテーマとした作品や初期作品である『ナイン』や『タッチ』については、スポーツの要素は弱いと言わざるをえない。このことは『タッチ』と『H2』とを比較すると明らかになる。

 両者を比較すると、後続作品である『H2』の方が試合の具体的描写は質が向上したように筆者には思われるが、それは主観的な印象に過ぎず、また筆者に客観的にそれを論証するほどの野球理解はないことから、味方・ライバルとして登場するキャラクターの量・質の観点から比較する。

 まず味方となるキャラクターについて、『タッチ』では一応スタメンメンバーの名前は明らかになっているものの、孝太郎を除けばどのような選手としての特徴や見せ場の描写がほとんどない。一方で、『H2』では野田、柳、木根、佐川、大竹、島と、強い個性と見せ場がそれぞれに用意されている。特に木根が投手として登板する試合は『H2』における感動的な回として印象深い。

 また、ライバルとなるキャラクターについても、『タッチ』では吉田、西村、新田くらいしか登場しないが、『H2』では英雄、広田、三木雄、栗丸、月形、志水、三奈川と倍以上の有力選手が登場し、彼らの属するチームの特徴や背負った背景も試合を通してずっと詳細に描かれている。特筆に値するのはやはり広田の挫折と再生であろう。彼の親族や彼のチームの新旧監督まで描写する細やかさは、『タッチ』には見られなかった特徴である。

 以上から、『タッチ』完結以降はじめてあだち充が書いた野球マンガである『H2』は、『タッチ』では十分に描ききれなかった野球要素を強化したアップデート作品であるといえるだろう。このアップデートにより、先行していた恋愛要素に野球要素が追いつき、あだち作品で最もバランスのとれた作品となるのである。

恋愛面での特異性

 あだち作品において、恋愛面のストーリーには一つのパターンが存在する。すなわち、三角関係において、①幼馴染の関係にある、②恋敵より相対的に劣った、③主人公が勝つ。『タッチ』では和也の死の前から、彼に比して相対的に能力の劣る達也を南が選ぶであろうことが示唆されており、和也死後のライバルである新田が超高校生級のスターであろうが抜群の2枚目であろうが、達也と南の間に入り込む余地はない。『みゆき』では真人は同級生のみゆきではなく妹のみゆきと最終的には結ばれる。それも非の打ち所のない人物として描写される沢田から結婚式の土壇場で奪って、である。『クロスゲーム』では恋敵となる東らはほとんど問題とならず、コウとその幼馴染である若葉及び青葉との三人の関係に終止する。『ラフ』では恋敵である中西とヒロインである亜美とが幼馴染である点が異例であるが、水泳の実力において中西に劣る主人公の圭介を亜美が選ぶという点は既存のパターンをなぞるものである。

 『H2』においてはこれらの点について勝手が異なる。本作は比呂、あかり、英雄、春華の四人の恋愛模様が恋愛パートの主題となるが、作品のクライマックスで問題となるのは、比呂、あかり、英雄の三角関係である。そして、②´直接対決に勝利した主人公の比呂が①´幼馴染のあかりを③´諦めることで、物語は集結する。『H2』より前に発表された2作品、すなわち『ラフ』のように幼馴染と結ばれないことがあだち作品でありえ、かつ『みゆき』のようにすんでのところでの略奪がありえる中で、『H2』のラストへと向かうストーリーは、三角関係の決着の形を容易には予想させない点で、読者に緊張を強いるものであった。

恋愛とスポーツとの連関―『タッチ』、『ラフ』、『クロスゲーム

 上述のように、あだち作品は恋敵に相対的に能力面で劣る者が恋愛においては勝者になるパターンが反復されている。多くの場合ここでの能力とはスポーツの能力を指し、恋愛要素にスポーツの要素が有機的に連関してくることがあだち作品の特徴となる。もっとも、有機的連関といっても、あだち作品においてスポーツの勝者(または敗者)がそれ故に恋愛の勝者になることは一度たりともなかった。そうなってしまえばそれはあだち作品とは真逆の野暮の極みとなる。基本的にスポーツの勝敗と恋愛の勝敗とはなんの関係もない。スポーツは優劣の問題であり、恋愛は関係性の問題であるとはっきりと区別される。にもかかわらず、この二つが物語の中で絡み合うところにあだち作品の妙味がある。具体的に見ていこう。

 言うまでもなく、『タッチ』で達也が甲子園を目指す理由は和也の果たせなかった南の夢を叶えるためである。そして、個人の動機の水準から一段視座を高くした物語の水準では、甲子園の夢を叶えることは達也にかけられた和也の死の呪縛を解くことでもある。三角関係の決着がつく前に和也が無念の死を遂げたため、達也は南との恋愛関係について身動きが取れなくなってしまう。それが甲子園に出場することによって解呪される。それを示すのが達也による南への告白のシーンである。「上杉達也浅倉南を愛しています。世界中の誰よりも」という達也のセリフでの「誰よりも」とは、他の誰でもない和也を念頭に置いたものである。

 また、『ラフ』では主人公圭介は海で溺れた亜美を恋敵仲西よりも早くに救けることができなかったことを機縁に、物語のラストでは亜美をかけた勝負とすることになるが、勝敗は作中で明らかにされない。また、亜美がどちらを選ぶかは、その勝敗とは関係なく、それよりも前に決まっている。亜美をかけた二人の戦いとは、「どちらが彼女にふさわしいか」の二人にとっての気持ちの問題に過ぎない。

 そして、『クロスゲーム』では、コウは青葉に3つの「ウソ」をつく。すなわち、➀甲子園に行くこと、➁160kmの速球を投げること、➂月島青葉が一番好きなこと、である。これはもちろんレトリックだ。コウは➀及び➁を実現してみせることによって、➂もまた「ウソではない」ことを示してみせた。『クロスゲーム』は死者との三角関係という点で『タッチ』の変奏であり、野球を通じてその死者からの呪縛を乗り越える点が共通している。

 以上、ここまで恋愛とスポーツの両要素を扱うあだち作品をいくつか見てきたが、これらは『H2』と比較すると、恋愛要素とスポーツ要素との連関の度合いがまだ弱い。『タッチ』での両要素の関連付けは、甲子園を目指す動機であってそれ以上でない。恋愛と野球との関係づけが抽象的なものにとどまるから、甲子園予選での第一回戦が持つ意味と決勝戦が持つ意味は、甲子園への近さという量的な差はあれど質的な差はない。後述するように、『H2』での英雄との直接対決は他の試合とは質的に全く異なる意味を持っている。また、『ラフ』のついては前述の通り、水泳の勝負の結果と恋愛とは何の関係もない。むしろ、「勝負より先に亜美の気持ちが明かされていること」つまりは「両者は関係がないこと」、に重点が置かれ、強調されているともいえる。そして、『クロスゲーム』では両要素の関係はコウが人為的に作り出したものであり、その文脈においては対戦相手や試合の内容は重要ではなく、「勝って甲子園に行くこと」と「コウが160kmを出すこと」にのみ意味がある。

恋愛とスポーツとの有機的連関――『H2』

 これらに対して、『H2』の比呂と英雄の物語ラストの戦いは、恋愛とスポーツとの要素が緊密に・有機的に絡み合っている。そして、野球の勝敗が恋愛の勝敗を決めるわけでもないにもかかわらず、野球の勝敗は恋愛関係に関係があるものとして、比呂・あかり・英雄の三角関係を決定的に変化させうるものとして描かれる。

 そこに至る道筋は周到である。比呂と英雄は甲子園の舞台で相まみえることを二人の夢として語りながら、3年生の最後の夏に至るまで様々な障害に阻まれてそれが成し遂げられなかった。県予選で比呂に立ちはだかる最大の敵である広田は、汚い手を使ってでも勝つことを優先する人物であり、野球を心から楽しむことを最優先する比呂にとって許しがたい人物であった。彼を倒してようやく英雄との対決に臨んだとき、比呂は彼が憎んだ広田を反復するように、手段を選ばず勝とうとする。「野球大好き少年」の比呂が野球を楽しんでいない。そのことは英雄との各打席にもっとも色濃く現れてくる。 

 第一打席、比呂はストレート一本の真っ向勝負を拒絶する。第二打席、時間稼ぎをしてまで比呂の万全を期した英雄の心遣いを嘲笑うような三球連続スローボール。第三打席、敢えてストレートコースを空振ることで真っ向勝負を要求してみせた英雄を無視した変化球中心の配球。最後の第四打席、はじめてストレートを含めた勝負に出る。しかし、最後のボールの比呂からのサインはやはり真っ向勝負を避けたスライダー。

 なぜようやく実現した親友との対決を台無しにしてまで比呂は勝つことに囚われてしまったのか。それは「負けることが許されない戦い」だったからだ。経緯は三角関係の起源にさかのぼる。ひかりを英雄に紹介したのは他でもない比呂だったが、比呂は人より遅れてきた思春期に至ってようやく取り返しのつかないことをしたと悟る。このわだかまりにひかりだけでなく英雄も気づいている。そして英雄は比呂とあかりの特別な関係性への感情の整理がつけ切れていないでいる。最後の夏を前にしてひかりの母が亡くなったことで三者の微妙なバランスに変化が生じる。母を亡くしたあかりを励まそうと比呂は無言でグローブを渡してキャッチボールをする。また、あかりは比呂を誘って二人で出かけ、その帰りの別れ際になってあかりは比呂に言う。

あかり「比呂と幼馴染でよかった。さよなら」

 「さよなら」に込められたあかりの意図は明白である。これまでの関係性を断ち切るものだ。なぜ断ち切るのか。英雄ではなく比呂に頼ってしまう自分をみつけたからだ。ではなぜ英雄ではなく比呂に頼ってしまうのか。それも作中ですでに明かされている。英雄は眼の怪我をして自分の野球人生が危機に瀕しているときでもひかりに弱みをみせない。だからひかりは英雄に自分の弱さをさらけ出すことができない。一方で長年寄り添ってきた、「弟」同然の比呂はその「弱さ」も見てきたし、だからこそ自分も弱さをさらけ出すことができる。なぜ英雄はひかりに弱みをみせることができないのか。それは彼の中でどこか「優れていること」と「愛されること」とが結びついているからだ。だから「自分が比呂に負ければ身を引く」という発想になる。

 こうして比呂は「負けられない戦い」に追い込まれていく。ひかりは確かに比呂に英雄を選ぶこと、これまでの比呂との関係を断ち切ることを示した。しかしそのときの涙から、再び会ったときの涙から、比呂はその分離の苦しみと難しさを知る。ひかりも、そして自分も、今の決意をどれくらい守り続けられるのか自信を持つことができない。英雄との対決でもし比呂が負けてしまえば、あかりを失いかつ敗北した比呂にあかりは同情してしまうかもしれない。また比呂の「弱さ」に基づく従来の関係性が反復されてしまうかもしれない。そして、前述の英雄が抱くわだかまりを解消するためにも、一点の疑いもなく決着したことを英雄に理解させなくてはならない。くわえて、比呂が負ける限りにおいて英雄はこの勝負が真正のものでないと終生疑い続けることになるかもしれない。比呂が英雄にわざと勝利を譲ったのではないかという疑いを少しも持たせてはならないのだ。

 さらに、英雄が勝ってしまった場合、英雄はひかりが自分を選んだことについて、「英雄が優れていたこと」によるのではなく「英雄を愛していた」ためであることに確信を持つことができなくなる。そして、英雄が比呂に勝つということは、前述のひかりと英雄との関係性の問題が解決されないことをも意味する。ひかりが想像できないという「負けたヒデちゃん」を実現しなければ、ひかりと英雄とは互いに支えあう関係に至ることはできない。つまり、「英雄が敗北した」「にもかかわらず」「英雄を選んだ」という事実が必要となる。この物語がどうしようもなく切ないのは、上記の事実の完成が、英雄やひかりではなく、比呂の手にかかっている点にある。英雄との戦いの前に比呂が言った「おれはひかりのことが大好きなんだぜ」というセリフはあまりに多義的であまりに切ない。

 話を第四打席の最後の一球に戻す。比呂の出したサインはスライダーだった。しかしその球は曲がらない。この意味一連の流れを理解するためには、比呂の持っていた選択肢を整理する必要がある。本件についてよくまとまったサイトがあったのでその記載を引用する。

最後の一球、比呂の選択肢は以下の3つ。
 ①ストレート → 真っ向勝負を継続、今度はいよいよホームラン。
 ②スライダー → 真っ向勝負から逃げる、打ち取れるかもしれない。
 ③他の変化球 → 第三打席で見切り済み、どうせホームラン。

 事実として投げられた球はストレートだった。タイミングの合っている英雄に投げると打たれることは見えていた。にもかかわらず、英雄のバットは空を切る。なぜか。真っ向勝負のストレートを信じ切ることができなかったからだ。「比呂を疑い、そんな自分を信じられなかった」からだ。つまり、ひかりをめぐる三角関係を背景にした一瞬の迷いが、最終的な決着に影響を与えてしまっている。野球と恋愛は関係がないわけでも、野球要素が恋愛に影響するのでもなく、恋愛要素が野球に影響を与える。そして、負けたこと、比呂を信じ続けることができなかったこと、によって英雄が比呂にも自分にも負けたと弱さを認めたとき、野球の結果は恋愛に影響を与えて、二人の関係性は完成する。物語としてはこれで「大団円」である。 

 しかし、「なぜ最後のボールが曲がらなかったのか」という謎は残る。作中において比呂はストレートを投げたのかスライダーを投げたのに曲がらなかったのか、明らかにされてない。比呂の心情も明らかにされていない。

 以下では筆者の解釈を書く。作中で明らかにされているのは、三打席までは比呂はなんとしてでも勝ちにいっていたということ、野田に「あまりおれを信用するなよ」と口走り、第四打席の大ファールで「ちくしょう・・・どうしても俺に勝てって・・・か」と独白し、自身の負けを望むような素振りもみせていたこと、である。

 最後の第四打席では比呂は真っ向勝負のストレートを投げており、この打席だけは正面から戦って勝ってみせようと当初はプランしていたものと思われる。しかし、そのプランは大ファールによって狂いが生じる。実質的に比呂はここで負けたのだ。にもかかわらず勝負は続く。当然英雄は自分が勝ったとは思っていない。そして、ツーストライクとなる。ここでの実質的にあり得る選択肢はストレートかスライダーの二択であるが、比呂は英雄の思考を読んだつもりになっているから、比呂視点では勝負は成立していない。

「勝手に信じ切った目だな……100%ストレートしかないってか。

――それだよ英雄。忘れるな。

その融通の利かねえバカ正直さに

――雨宮ひかりはホレたんだ」

 「三角関係の解決に向けた選択肢の内容(=比呂・あかりの微温的関係が解消されるか否か)」及び「その結果の決定者」が比呂であることが、この最後の一球においても反復されていることに注意したい。少なくとも比呂視点では、ストレートを投げると英雄が勝ち、スライダーを投げると比呂が勝つということを、実際に投げる前からわかっていた。そう考えると、二つの可能性があることになる。➀比呂は勝ちに徹してスライダーを投げた。にもかかわらず曲がらなかった。その原因は、野球の神様か、ひかりの母のような誰かか、比呂の無意識によるものかはわからない。もう一つの可能性は、➁英雄の「ストレートを最後まで信じるバカ正直さ」にひかりがホレたことに直前に思い当たり、比呂の中で最後の最後でずっと持ち続けてきた決意が揺らぎ、自分もひかりに愛されたいこと、愛されなくともこれまでの関係性を維持したいことを否定しきることができず、打たれるとわかっていながらストレートを投げてしまった。この場合、その真意を誰にも話すことができないから、野田にも「(曲がらないスライダーを)誰かに投げさせられたのさ」と言って自分の胸にしまっておくことになる。もし以上二択の選択肢しかないのであるならば、後者の方が個人的にはあだち作品に似つかわしく思われる。

まとめ

 まとめよう。以上見たように、『H2』は主人公が恋愛において「敗者」となり、「幼馴染」のひかりとの関係を断念するというあだち作品には異例のストーリーであった。それにくわえて、恋愛とスポーツは別問題であり、関係するとして一方がもう一方の結果に影響を与えないというこれまでのあだち作品の不文律を破るものであった。そして、そこで描写された恋愛とスポーツとの有機的連関は、あだち作品の最高傑作と言ってよいような、緊密で精密なものであった。

 そして最後にもう一点だけ指摘して終わりにしよう。『みゆき』がもっとも典型的なように、あだち作品は互いに弱さをさらけ出し支えあうような親密な関係にある者同士が最終的には結ばれる。この点についても、本作はねじれをみせていた。すなわち、比呂に頼らないことを決めたひかりはやはり比呂を頼る弱さを見せ、自分の弱さをさらけ出せない弱さを英雄は認め、二人の弱さをすべて受け止める強さを示したかつての「弱い弟」は、自分が最後に漏らした弱さを誰にも出さずにそっとしまって、その青春時代に別れを告げたのであった。

*1:現在連載中の『アオのハコ』は例外的に恋愛だけでなくスポーツの要素が極めて大きい作品であり、特筆に値する。ただし、作者三浦糀の過去作である『青空ラバー』は、卓球に熱中する双子の兄弟が幼馴染の女の子に恋をする物語であり、あだち作品のフォロワーであることは明らかである。

*2:この曲芸をやりきった稀有な作品に『銀魂』がある。すなわち、一話完結型のギャグ要素とストーリー漫画としてのシリアス要素を両立させてみせた。