パワポケ考察⑤ プレイヤーという神の視点がもたらす意味(前編) 戦争編や忍者戦国編を題材に

5 本論その3:語られない話のもう半分を知るために

ホームレスの家出少女の立場を通して見るやむにやまれぬ人の事情

今回は、パワポケシリーズに通底するある思想あるいはテーマについて書く。一言で言うならばそれは、「ともすると見落とされがちな側のもう一つの視点を忘れないこと」である。この立場はパワポケシリーズスタートの経緯から、すでに存在したものであったことにまず言及しよう。そもそもパワポケ1は、パワプロ5のスピンオフとして始まった。パワポケ1の主人公が通う高校は、パワプロ5で敵チームとして登場する極亜久高校という学校である。パワプロ5ではこの高校は弁当に下剤を仕込んできたりビーンボールを投げてきたりと、勝つためになりふり構わず汚い手を使ってくる。そして、このチームが勝った際には「どんな方法でも、勝負は勝ったモンの勝ちや!」と言い放つ。そのため、パワプロを制作した会社には極亜久高校に対する怒りの手紙が数多く来たという。それに対し、パワポケシリーズのメインストーリーを手がけた人物は、極亜久高校をパワポケ1の舞台にした理由含め、以下のように語っている。

「ひどいひどいっていうけれども、ヤツにはヤツの事情があったかもしれないじゃないかというのがありました。だから極亜久にしたかったんです。それで自分が極亜久高校の立場になってやってみたら、考え方が全然変わるのではないかというのが、個人的な動機です」

今自分が見えている景色からはわからない、向こう側の立場に立って物事を見ること。ここからパワポケシリーズは始まっている。このテーマは作品中で繰り返し現れてくる。例えば、パワポケ8で登場する家出少女のケースを見てみよう。彼女は父親から度重なる虐待に耐え兼ねて家を飛び出し、公園に自分でダンボールハウスを建てて暮らしている。虐待の程度は深刻で、心を壊す寸前まで来ている(ルートによっては本当に心が壊れてしまう)。このようなキャラクターと主人公は公園をうろつくことで出会うのだが、実はこの公園は別の彼女候補とデートで訪れることもできる。その彼女候補は家出少女とは対照的に、高級住宅街に住む何不自由なく育った大金持ちの令嬢である。彼女と前述の公園に来ると、彼女は件のダンボールハウスを発見する。そして、発見したダンボールハウスの存在を景観が乱れると問題視し、すぐさま人を呼んで撤去させてしまう。「そこまでしなくても…」という主人公に対し、彼女はこう言い放つ。

「この件に関しては、見過ごす事なんてできないわ。公共の場所だからこそ、守らなければいけないルールという物があります」

注意しなくてはならないのは、撤去させた彼女の人柄はとても善良な人物であるということだ。彼女はそのダンボールハウスにまさか本当に人が住んでいるとは思わなかったに過ぎない。いうなれば、自分の育った環境が原因で多少の一般常識と想像力が欠けていたに過ぎない。無知な善意がむごい行いを知らないうちにしてしまうことを示したエピソードである。言うまでもなく、このエピソードは現実に起きているホームレス立ち退きの問題を念頭に置いたものだ。様々な理由で「不法に」公共施設の一部分を、生きていくために占拠せざるをえない人々が存在する。彼らは幽霊ではないので、どこかを住処にしなくては生きてはいけない。にもかかわらず行政は、その占拠の不法性を理由に彼らをその公有地から追い立てる。行政がその代わりの住居や生活手段を世話することはない。行政にとって目下のところ問題は、自分の管轄の公有地が不正に占拠されていることであって、ホームレスたちの生活など知ったことではないからだ。ここまでで明らかなように、行政の側に存在しない視点とは、ホームレスの身になって考えてみるということである。法を犯す側のやむにやまれぬ理由に思いを馳せさせること。事情を抱えた人間と何も知らない人間との世界の見え方、その温度差を浮き彫りにすること。無知と想像力の欠如がもたらす残酷さを示すこと。パワポケ8はギリギリのところまで追い詰められた家出少女と何不自由ない大金持ちの令嬢を対置することで、これらを描き出している。

戦争編あるいはカッコ悪いから誰にもお話にしてもらえない人々の話

先ほどの段ボールハウスの例は、主人公と深い関係を持つ人物についてだった。今度は主人公本人が置かれる状況が語らしめるものについて書きたい。舞台はパワポケ2裏サクセス戦争編である。本編のシナリオの大半を手がけた人物は制作背景について以下のように語る。

「以前に、映画か何かを見て腹立ったことがあるんです。取ってつけたように戦争はいけませんよ、というような教訓話で。『戦争はそんなもん違うやろ! よし、オレが戦争のツラさを教えちゃる!』と。腹が減れば病気でバタバタ倒れ、無茶な命令を与えられれば黙って従わなければならない……」

戦争編に英雄は出てこない。活劇にしろ悲劇にしろ、劇的な瞬間もない。単調な任務を繰り返す中でじわじわ追い詰められていき、淡々と死んでいく。目的もわからないままいつ終わるとも知れない戦いが続く。理不尽な命令が次々にふってくるけれども、抗命することなどできはしない(抗命の行きつく先は私刑か激戦地への左遷である)。例えば、主人公は軍幹部に軍票という日本軍が発行した紙幣で現地民から食料を調達してくるよう言いつけられる。この軍票に価値の裏付けなどあるわけがなく、現地民にとってすればただの紙切れに過ぎない。要するに、武力を背景に略奪を命じられる。公正な商取引に基づく自発的なやり取りであるという見え透いた嘘を主人公は演じなくてはならない。

本編の最も特徴的な点は、最終的なクリアとなる200週目まで生き残ることができる可能性が極めて低いことである。100回プレイして200週クリアできた回数は2回だった、という話もある。さらに恐るべきところは、このゲームのほぼすべてが運によって定まるという点である。プレイヤーの実力でどうこうなる余地はほとんどなく、死ぬときはどうしようもなく死んでしまう。主人公は最下層の兵士であり、部隊の命令に従うことしかできない存在のため、主人公がどうこうできる余地などないからだ。末端の兵士の命は軽い。ある飛行機乗りは作中でこう述懐する。

「戦争じゃあ、人の命が一番安いから、あいつらも軽く見てるんだろうな。俺たちがいなきゃ戦争なんてできないのに」

あるいは、主人公は破綻した作戦を立てそれを撤回しようとしない参謀長に、面と向かって「お前たちの命と私のメンツ、どっちが大切かなどわかりきっているだろう」と言い放たれる。何故主人公はこのように地を這って虫ケラのように扱われながら、さらには運にわが身を投げ出すように生きていかなくてはならないのか。それを説明するために、100週間生き延びた際に発生する定期イベントでの会話を見てほしい。このエピソードは僕にとって、忘れることのできない強烈なものだった。

主人公「俺がこの世界に来てから、100週間、経ったのか。今じゃ、野球とかモグラーズとかガンダーロボなんてまるで夢のようだなぁ」

凡田「『ガンダーロボ』?なんでやんす、それ」

主人公「ああ、大きなロボットに乗って戦争する話だよ」

(そして...)

凡田「...バカバカしい話でやんす」

主人公「ハハハ。まあ、そう言うなよ。『お話』だよ、『お話』」

凡田「違うでやんす。ロボットで戦争する時代が来ても、どうせ、ほとんどの人間はオイラたちみたいに『生身』で戦わされるんでやんす」

主人公「えっ?」

凡田「でも、カッコ悪いから誰も、オイラたちを『お話』になんかしてくれないでやんす」

主人公「.......」

主人公が元いた世界ではガンダーロボに夢中だった凡田くんが、こちらの世界では苦虫を噛み潰した顔でバカバカしい話だと吐き捨てるように言う。この発言の背景には、凡田くんが従軍を通じこれまで味わってきた苦渋と銃後で喧伝される戦争との落差があるのだろうが、彼の感想は現代の僕たちの戦争表象までをも射程におさめている。一般的な戦争ゲームを例えば考えてみよう。まずは『信長の野望』や『提督の決断』、『大戦略』といった戦略シミュレーションゲームがあるだろう。これらは大所高所に立って大戦略を扱うゲームだ。ここでは末端の兵士は文字通り駒として扱われる。また、『三国無双』やFPS系ゲームのような一プレイヤーとして戦争に参加するゲームもある。これらの醍醐味はたった一人で戦局を覆す爽快感や戦闘がもたらすスリルにある。これらに対し、パワポケの戦争編は全く対照的な位置づけとなる。戦略ゲームにおいてプレイヤーは駒のように末端の兵士を扱うが、戦争編においては主人公たちこそが参謀たちの弄ぶ駒である。そして、『三国無双』で英雄によって次々になぎ倒されるモブ兵士こそが、戦争編では主人公たちなのだ。さらには、FPS系ゲームのようなヒリヒリするようなスリルも戦争編にはない。間延びした単調な日々とじわじわ減っていく体力と突然のあっけない死のみがある。プレイヤーの卓越したプレイングで運命を変えることなどできない。全ては確率であり、主人公の力ではどうすることもできない。

戦争ゲームに限らず、消費者が戦争という物語に望むのは参謀幻想であり、英雄幻想であり、戦闘のスリルであり、劇的な死である。戦争編はこれらを一切許さない。よくある戦争に対する語り口からはこぼれ落ちてしまう、「とるに足りない」兵士たちの、当時はありふれた生きざまにこそ焦点を合わせる(作中で主人公は塹壕を掘ったり、宣伝活動をしたり、死体処理をしたりと、戦闘シーンはそれほど多くない)。凡田くんの言う「カッコ悪いからお話になんかしてもらえない」人々―――そしてそれは戦争という特殊状況に限った話ではない―――に思いを馳せさせる機能を、戦争編は持っている。

忍者戦国編あるいは悪魔にならざるをえない構造に目を向けること

ここまではホームレスの少女と最下層の兵士を例に、弱い立場に視点が置かれるケースを見てきた。しかしながら、パワポケシリーズは立場の弱い側ばかりを取り上げるわけではない。主人公が強い立場にあるケースも存在する。例としてあげるのは、パワポケ5の裏サクセスである忍者戦国編である。本編は三国に分かれた忍者の里が統一(すなわち他の勢力の根絶やし)を目指して戦争を繰り広げる三国志戦略シミュレーションゲームである。敵勢力の根絶を目指す血で血を洗う闘争でありながら、戦いのきっかけは大名の娘が野球をする人形が欲しかったというささやかなものに過ぎない。主人公は3つのうちのいずれかの陣営の司令官として、様々な忍者を雇用して戦争を遂行する立場にある。主人公は戦争の遂行だけでなく、経営の責任も負っている。支配領域の広さに応じた収入をもとに野球人形のパーツを購入して選手能力を高めたり、雇用している忍者の給料を支払ったりする必要がある。雇用する忍者には2つのタイプがあり、表サクセスでも登場したキャラクターと名前を持たないモブの下忍が存在する。前者は戦闘能力が優れている代わりに給料が高く、一度死んでしまったり解雇してしまったりすると二度と雇えないため、大切に扱う必要がある。一方で、下人は能力が劣るものの給料が安くいくらでも代わりが効く。

忍者戦国編の目的は2つある。ストーリー上の目的は他勢力を根絶して忍びの里を統一することであり、プレイヤー自身の目的はより良い野球人形を作成すること(優れた野球選手を育成すること)である。野球人形を作成するためには金はいくらあっても足りない。減らすべき対象は必然的に人件費となる。そのため、経営者たる主人公は容赦なく不要となった無駄飯食らいを切り捨てていく必要が生じる。下忍はアルバイトのようなもので、正社員たる名前のある忍者に比して手軽に雇用・解雇ができる。よって、そのときそのときの要不要に応じて解雇されたり雇われたりする。問題は名前のある忍者たちである。彼らは戦力になり続ける限りにおいて雇用される。戦争が終わりに近づいたり必要となるイベントが終わったりした場合も彼らはお払い箱となる。このゲームの恐るべきところは、解雇した忍者は別の勢力に雇用され、必ず解雇後の次の戦闘で敵として登場してくる点である。そこで彼らを倒すとは、彼らを殺害することに他ならない。大功あった部下は統一が進むにつれて必ずどこかで無駄飯食らいになる。ある程度目途が立ったら追い出して出費を抑えなくては優れた野球人形を作ることはできない。そして、彼らを倒した際には割のいい金銭が手に入るようになっている。したがって、雇用する必要のないキャラクターも小遣い稼ぎのために一度雇用し即座に解雇して殺害するのが最も効率の良い育成方法となってしまう。良い野球人形を作成するとは、血塗られた道なのである。

さらに扱いが酷いのが下忍たちである。彼らは作中である領主によって「下忍は使い捨て」と明示的に言及されている。それは大げさでも比喩でもなんでもなく、文字通りの意味だ。戦闘でいくばくかのHPを忍者たちが失うと、回復には時間がかかる。名前のある忍者の場合は替えが効かないため回復まで待つことはやむを得ないが、下忍の場合はそうはいかない。下忍はいくらでも替えが効く。だから傷ついた下忍は即座に解雇し、同じスペックで体力が満タンの下忍を雇いなおすことが効率的な運用となる。身体を張った下忍に報いることなどありえない。忍者戦国編をプレイした人間にとって、下忍の雇いなおしは当然であり、むしろこれを行わない場合、円滑なゲームの進行に支障をきたすことになる。さらに、下忍たちは替えが効く存在のため、無茶な戦闘に投入されることになる。名前のある忍者の場合は死んでしまっては大きな損失となるため、危険な戦闘に投入されず、危なくなればすぐ撤退を命じられる。しかし、下忍たちは捨て石として戦闘に投入され、あるいは「勝てばめっけもん」の戦闘に死ぬまでそこにとどまるよう命じられ、バタバタ死んでいく。なんなら毎ターンの給料支払い前に死んでくれた方が給料を払わなくて済むのであえて死なせることすらある。

これらの邪悪な設定が計算ずくであったことがわかる箇所がある。本ゲームのプレイ完了後、完成した野球人形は野球選手として登録される。登録された選手はデータ項目からその内容を確認することが可能である。基本的にそこで確認できるのは選手能力等であって、普通サクセスでの詳細な記録は残らず見ることはできない。にもかかわらず、忍者戦国編で作成した選手に関してはその選手一人ひとりについて「死亡した下忍の数」という項目が存在する。この野球人形を一体作成する蔭でどれほどの下忍が犠牲となったのか、いつでも確認することが可能であり、それを忘れさせないものだ。非道にならざるを得ない状況にプレイヤーを追い込み、そのため背負うこととなった十字架を突き付けてくる。ここに込められた意味とはなんだろうか。姫様のたわいもない道楽がきっかけで、忍者戦国編でも前節で紹介した戦争編のように末端の人々は理不尽な目にあい、そして次々死んでいく。そして忍者戦国編ではその屍の山を築く主体が、他ならぬ主人公たるプレイヤーなのである。ここには、物事や善悪の原因を個人に帰着させない知的態度が存在する。立ち位置やシステムによって人は善にも悪にもなりうることを経験させるものとして、戦国忍者編は機能している。立場や状況が違えば、戦争編で登場した最低な上官のように、自らもまた平然と手を汚す人間になりうること。そのような状況を作り出すシステムに囲まれたとき、システムに抗うことは割に合わずそして困難であることを、忍者戦国編は教えてくれる。本シリーズのストーリーを手がけた人物は、作中で悪を犯す人々について以下のように語っている。

「考えが足りない、生活が苦しい、悪い人に騙されているなど、やむを得ない事情で敵に回したキャラクターも多いけど、『そいつらにも事情があるんや……』というのが、シリーズを通しての一貫したテーマになったと思います」

ここで語られたことの射程が登場キャラクターたちだけでなく、主人公たるプレイヤーにまで及ぶことはすでに見たとおりである。作中の数々の演出によって喚起される「私はあなただったかもしれない」という想像力が、本シリーズの様々な出来事をより深く理解させる。そして、僕たちが生きるこの現実をより深く理解させる。

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パワプロクンポケット5

パワプロクンポケット5

  • 発売日: 2003/01/23
  • メディア: Video Game