冨樫義博論――「他者」としての「妖怪」概念

はじめに

 冨樫作品を理解するにあたって、「人外」の存在は極めて重要である。本文では、人間と同等またはそれ以上の知性と戦闘能力を持った人外の存在を「妖怪」と総称する。したがって、本文では『レベルE』での宇宙人たちや、『HUNTER×HUNTER』におけるキメラ=アントもまたは妖怪の範疇に入る。また、冨樫作品では、人間と妖怪との接触が物語の重要なテーマとなる。人間が「妖怪という他者」と出会うことで、物語は駆動する。

 本文では、冨樫作品における人間と妖怪との関係を追って、「妖怪という物語装置」がもたらす効果とその含意を明らかにし、冨樫義博の作家性を明らかにする。あらかじめ結論の一部を言っておくと、「妖怪という物語装置」は、人間の価値体系を相対化し、相対化の極致としての「食人鬼としての妖怪」の存在は、倫理的な自省を読者に強いる。しかし、近年の冨樫作品(具体的にはキメラアント編)にはその一歩先があることをこれから書く。また、その一歩先に言及することで、冨樫義博ヒューマニストであることが明らかになる。これは彼の特性であるとともに、限界でもある。それもこれから見ていく。

幽遊白書』の前期――霊界探偵編及び暗黒武術会編 妖怪との戦い

 『幽遊白書』における主人公浦飯幽助は、人間界を守るため妖怪と戦う霊界探偵である。本作前半において、妖怪は人間に害なす「悪」であって、妖怪に対抗する霊界の人々は「善」と位置付けられている。この文脈において、人間の妖怪化とは妖怪の残忍さを示す表現であった。 例えば、初登場時の飛影は切った人間を全て魔物に変えてしまう降魔の剣を手に入れて、「人間を喰う人面獣を千頭くらい作る」と言う。また、四聖獣のボス朱雀は幽助をさんざんにいたぶり、「雪村螢子の心臓を喰うと誓え!!そうすればお前の魂を魔界で浄化し妖怪にしてやってもいいぞ」というセリフを口にする。

 しかし、霊界探偵編の時点で同時に、妖怪の善性と人間の邪悪さが描かれていることに注意しておきたい。前者とは自分の命を捨てて母を救おうとした蔵馬のこと*1であり、後者とは妖怪を食い物にする垂金のことである。

 続く暗黒武術会編でも妖怪たちの残忍さは繰り返し強調される。印象的なのは浦飯チームに対して度々発せられる「殺せ」の怒号といったコールだろう。ここまでほぼ一貫して、主人公たちの戦う相手は、彼らに害意を持った妖怪たちであった。しかし、本編ラスボスにあたる戸愚呂弟は、元人間であったことが途中で明かされる。この事実は戦う相手が妖怪から人間へとシフトする中期への予兆であるとともに、人間から妖怪への越境というテーマの新機軸でもあった。すなわち、妖怪による人間存在に対する陵辱としての妖怪化ではなく、戸愚呂弟は自ら望んで妖怪となったのであった。

 ここで、冨樫作品を貫く3つのモチーフがそろったことになる。①妖怪すら食い物にする人間(の邪悪な側面)、➁人間を愛した妖怪(または愛された人間の善なる側面)、➂人間が妖怪になる越境、の3つである。この3つの類型はキメラアント編において合流し、一つの到達を見せることになる。

幽遊白書』の中期――魔界の扉編 人間同士の戦い

 前述の通り、魔界の扉編での主要な敵は戸愚呂兄弟を除いてすべて人間である。これは決定的な転換であった。何故なら、以降の冨樫作品において人間に害なす敵としての「妖怪」概念は、キメラアント編を除き一切なくなり、かつ、後述するように、キメラアント編は「キメラ=アントは本当に人間の敵なのだろうか?」が中心的な問題となっているからである。

 ここからしばらくは完全に筆者の解釈であるが、冨樫は「妖怪」を「敵」として書けなくなったのではないか。このことを理解するためのキー概念として、冨樫作品における「品性」という言葉を考えてみたい。筆者の認識している限り、この語は冨樫作品に三度出てくる。①「金さえあれば何でも手に入る」と言ったレオリオ*2にクラピカが言った「品性は金で買えないよ。レオリオ」というセリフ。➁幻海を侮辱し続けた戸愚呂兄に戸愚呂弟が言い放った「オレは品性まで売った覚えはない」というセリフ。そして、➂仙水が魔界の扉にむらがる妖怪たちを見て言った「あそこにむらがっているのはC級妖怪だな 食欲が先立って品性が感じられない B級を境に人間界でいうところの高い知性と理性を持つ妖怪に成長する A級妖怪になると人間界ではある宗教の『神』や『神話の怪物』として語り継がれている者さえいる」というセリフ、である。

 ①の「品性」は節度のニュアンスがあり、節度は➁のむやみに他者を蹂躙しないこと、侵すことのできない領域を認めることにつながる。そして、➂は①及び➁の意味合いを前提に、知性・理性・品性は強さと結びつけられている。ここまできて、「冨樫が妖怪を『敵』として表象できなくなった理由」が明らかになる。すなわち、「偉大な存在が他者を(みだりに)傷つけることなどあるのだろうか?」という疑問である。先走って書いてしまうが、この問いを受けた存在が、メルエム(及び彼の人間に対する態度の変遷)だと思われる。

 以前ブログで書いたように、キメラ=アントとは人間にとっての鏡であった。キメラ=アントは人間を食して人間の特性を取り込む。そのために、人間の素晴らしさも愚かさも彼らは受け継いだのだった。

 あるいはより一般化して、「他者とは私である」という筋で考えることもできる。どのような他者を表象(イメージ)するかが、その人の可能性と限界を示している。卑小な他者しか想像・創造しえない者はその者自身の知性・理性・品性が卑小なのである。あるいは、信仰の対象としての神が何故偉大である必要があるのかもまた、同一の理由による。冨樫が偉大な作家である限りにおいて、彼が満足する敵たる他者もまた偉大な者でなければならない。しかし、偉大な存在は他者をみだりに害しない。よって、バトルマンガでの敵を設定する際には、①偉大な他者たる「妖怪」を敵とすることは諦めて卑小な(=欠落を抱えた)人間同士の内ゲバを描くか、➁偉大な他者たる「妖怪」を自身の卑小さ故にうち滅ぼす人間を描くか、の二択となったのではないか。

 話を戻して、魔界の扉編のラスボスである仙水は「次こそ魔族に生まれますように・・・」と言い遺して死んでいく。「妖怪」ではなく「魔族」である点に注意したい。ここでの「妖怪」は人間から見た化け物の意であり、「魔族」はより客観的な種族の呼称である。この言い換えは意識的である。別の場面での仙水と幽助の会話を見よう。

仙水「おや・・・こんなに力を抑えているのに・・・・もう大地に影響を与えてしまった オレの唯一の弱点だ・・・ふふ 人間界(ここ)では五分の力すら出せない ストレスだよこれは・・・ふふふふ」

浦飯「関係ねーんじゃねーのか? 人間界(にんげんかい)ぶっつぶしたいんだろ ならぶっこわせばいいじゃねェか 全力で暴れてみろよ」

仙水「馬鹿者めが それが傲慢だというのだ!!! 失礼 オレは花も木も虫も動物も好きなんだよ 嫌いなのは人間だけだ」 

 仙水が上記会話で激高したのは、幽助の人間中心的な態度である。人間界の人間以外の存在への配慮を全く理解しない幽助に、仙水はキレたのだった。また、仙水のセリフ中の「人間界」のルビは「ここ」であり、幽助のそれのルビが「にんげんかい」であることにも意味を見出せなくもない。すなわち、仙水は「人間界」という呼称自体に異論があるのかもしれない。

 魔界の扉編に見られるのは、相対化の予兆である。「絶対悪」としての「妖怪」は後景に退き、敵は人間となった。そして、人間が妖怪を食い物にするおぞましい光景を見た仙水は人間中心的な世界観への疑義を提出して、魔族として今度は生まれたいと願いながら死んだ。戸愚呂弟は自ら望んで妖怪になったが、彼にとって妖怪になることは、仲間を守れなかった自分への罰あるいは強くなるためのやむを得ない手段であった。一方、仙水は魔族になることそれ自体を目的として、それを望みながら死んだ。人間の妖怪化のニュアンスはついに、①「人間存在への陵辱」や➁「自らへの罰あるいは強くなるための手段」といった、ないならそれに越したことはないものから、積極的に望まれる➂「憧れの対象」として表現されるようになった。

幽遊白書』の後期――魔界統一トーナメント編及びそれぞれの未来 魔界内部・霊界内部の戦い

 魔界統一トーナメント以降の『幽遊白書』は善悪と価値観が相対化された世界が描かれている。魔界の扉編は人間内部の争いであったが、魔界統一トーナメント編は魔界内部の戦いであり、後日談的な霊界のいざこざも霊界内部の出来事であった。魔界内部の戦いにおいては善悪の観念は消失している。「妖怪」とは善悪の彼岸を代表するものであるからだ。対立の原因は個人的好悪とポリシーの違いに過ぎない。

 人間と妖怪との対立という基本設定が完全に消失することに対応するかのように、魔界の扉編の最後で、幽助は魔族の末裔であり魔族大隔世により魔族になったことが告げられる。「必要悪として」あるいは「憧れの対象として」、戸愚呂と仙水が望んだ妖怪化という越境を、幽助は望まずして達成してしまう。ここにおいては、妖怪化は忌むべきものでも切望されるものでもなく、➃「ただ存在する事実」なのだった。また、幽助は人間を愛して人間を食うことをやめた遺伝上の父である雷禅に対して「人間しか食えねェってならオレが二・三人かっさらってきてやるよ このまま少しずつ弱ってくたばるそれで満足か⁉ オレならガマンできねェ」とまで言い放つ。ここにおいて幽助は、真田黒呼の言う通り「もう人間界の住民ではない」のかもしれない。

 人間を妖怪から守る霊界探偵として始まった幽助の物語は、自身が妖怪(魔族)となることで終わりを迎える。人間から見れば永遠にもうつる長い寿命を得た幽助は、期せずして/そして後には自ら望んで身を投じた果てしない闘争と殺戮の世界から、凪のように穏やかな人間の世界に還ってくる。「自身が人間であった頃」を知る身近な人々との日々を、いずれ失われる・かけがえのないものと感じて、その最後の日々を惜しみながら。

 ともすると蛇足にすら見える霊界内部のクーデターの一件は、物語世界での相対化の仕上げとして欠かせないものであった。霊界の狂信的な集団によるクーデターの描写によって、霊界も一枚岩でないこと、彼らの掲げる正当性もまた複数あり、それ故に完全に信頼のおけるものでないことが示される。さらに、コエンマによるエンマ大王への告発は全く決定的であった。この告発により、妖怪たちから人間界を守るためとされた結界は、霊界の権益を守るためのものでもあったこと、霊界の正当性を主張するために妖怪を洗脳して人間界で悪事をなさしめるマッチポンプにまで手を染めていたことが明らかになる。そして、あらゆる境界・線引きとしての象徴であった人間界と魔界を隔てる結界が解かれたことが明かされた直後の下記の会話。

蔵馬「現在では妖怪が人間との利害関係なしで人を殺めるケースは数年に一件 ほとんどの妖怪は昔のように人をおどかすイタズラさえしなくなりました 人が人を殺すケースの数千分の一の確率です」

(中略)

幽助「霊界につかまって洗脳された妖怪のことだけど どうなったんだ?」

蔵馬「再びつかまった時に始末されたみたいです」

幽助「そっか オレがつかまえたヤツの中にも・・・・・・・いたのかなァ」

蔵馬「深く考えない方がいいですよ」

 霊界が行っていた「存在しない悪をでっちあげて倒す」営みは、『幽遊白書』前半の、あるいはこの種のバトルマンガ一般に対する批評とも言える。「本当に戦わなければならないのか」という前提を問う態度であり、例えば具体的には、人間にとっての不都合を「悪」と呼ぶ、仙水の言うところの「傲慢」な価値基準への批判的姿勢である。あるいは、争いの根本原因たる軀・黄泉の心理的葛藤を解きほぐすことで三すくみの戦争状態を解消させてしまった物語構成の手つきである。

 おそらく冨樫は物語構造に上記のようなマッチポンプ的構造があるにもかかわらず、全知全能の神でもない*3霊界の存在が人の魂を裁くことに我慢ならなかったのではないだろうか。戸愚呂は霊界の裁きではなく、自ら望んで最も重い罰を望んだ。本人にそのつもりはなくとも、これは霊界の魂の処断に対する消極的抵抗である。そして、仙水は「死んでも霊界には行きたくない」と言って、霊界の魂の裁きをはっきりと拒絶したのだった。

『レベルE』――相対化が完成した後の世界

 『幽遊白書』の次回作である『レベルE』は、価値の相対化が完成した世界を描いている。物語の主眼は、人間と宇宙人との交流または宇宙人同士の異文化交流である。宇宙人という設定は「他者」を表現するのに極めて都合がいい。全く異なる生体と生活環境を背景に持つ異星人同士は、当然に各々が持つ価値体系も異なる。本作においては、宇宙人間でおいてすら、価値・文化体系が全く異なっている。

 本作においてもまた食人の問題が取り上げられる。本作の食人鬼は「男が女を食べて子供を産む」生物である。愛した対象をどうしようもなく食べたくなり、その本能のために滅亡が運命づけられており、最後に残った三人のうちの一人は、「最近 死ぬ事ばかり考えてる」。そして、主人公格の板倉の独白で話は終わる。

板倉「明日から寝るな と言われてもオレは眠くなる 食うなと言われても腹はへる 言える事など何もないのだ」

 当該エピソードの含意は作中で明らかにされている。実はこのエピソードは王子の創作であり、「いちがいに地球の善悪だけではくくれない」ことを伝えるためと作中で語られる。このセリフは何故冨樫が食人のテーマにこだわるのかを雄弁に物語っている。食人する知的生命体は人間にとって最も相容れない存在である。そのような意味においての「他者」である。相容れない他者とのっぴきならない関係に陥ったとき、自らの全存在が問いただされることになる。

 冨樫作品にとって他者(≒害なす者あるいは敵)との出会いとは、自分のあり方を内省するきっかけである。凡百の作家と異なり、冨樫にとって相対化とは目的ではなく手段である。何らかの絶対化によって見えなくなっていた何者かを明らかにするための手段が相対化である。『幽遊白書』では価値体系の相対化を推し進め、『レベルE』では相対化が完成した世界を描いた。そして、『HUNTER×HUNTER』のキメラアント編は、相対化の一歩先を描いた作品である。

HUNTER×HUNTER』のキメラアント編――「妖怪」が人になる物語

 『HUNTER×HUNTER』において、キメラアント編に至るまでの間、敵として現れる存在は基本的に人間であった。その理由は「『妖怪』を『敵』として書けなくなった」からではないか、と筆者は上記で書いた。そして、キメラアント編で敵に「妖怪」を置くことは、偉大な他者としての妖怪と卑小な人間という図式でのみ冨樫にとって可能であったと思われる、とも書いた。

 また、以前書いたように、キメラアント編は蟻たるメルエムが人となる物語である。ここで注意すべきは、『幽遊白書』で繰り返し用いられた人間が妖怪になる越境のモチーフが、今度は妖怪が人間になる物語として反転している点である。人間性の彼岸へ「行ってしまった」その次は、彼方から人間として還ってくるのだ。「人間から妖怪へ」の運動は、「人間的なもの」の弱さや愚かさから脱し、対象を相対化しようとする運動であった。対して、「妖怪から人間へ」の運動は、人間存在を積極的に肯定しようとする運動である。全人類の存立の危機をもたらす敵の討伐を目的とするバトルマンガにおいて、そのラスボスをして人間存在の賛歌*4を描いたアクロバットが本編の肝である。

 本編は『幽遊白書』から続く主題系の到達点である。①妖怪すら食い物にする人間の邪悪な垂金が代表する側面は、仙水がダークサイドに堕ちるきっかけを与え、貧者の薔薇(及びそれを可能にする人間の「悪意」)につながっていく。➁人間を愛した妖怪(及び妖怪が愛した人間の善なる徳目)という蔵馬のモチーフは、食人をやめて死に至る雷禅、コムギとの心中を果たすメルエムへとつながる。そして、➂人間が妖怪になる越境のモチーフは、妖怪による人間の妖怪化からはじまり、戸愚呂弟の自らの意思による必要悪としての妖怪化、仙水の魔族になりたいという願い、幽助の魔族大隔世遺伝を経て、メルエムの人間化に至る。

 ①は人間の最悪の部分を、➁は人間の最良の部分を、それぞれ描き出し、➂は人間存在の相対化の機能を結果として持つ*5。本編の特異性は、「人間の尺度でしかものを判断できないことがなんと料簡の狭いことだろうか」と突き放すと同時に、如何ともしがたい人間の利己主義や暴力性といった最悪の部分を暴き・告発しながら、自己や種を超えた生ける存在すべてへの慈愛と自身の全存在を賭けるに値する崇高なもの、あるいはその達成が確かにこの人間世界に存在することを示した点にある。メルエム・コムギ・ネテロは、それぞれ感謝の言葉を残しながらその生を肯定しながら死んでいったのだった。

 本編では、メルエムが人間化しただけでなく、コムギ・ネテロもまた越境し、人間をやめて向こう側に行ってしまったことに注意しなければならない。しかし、これまでの「人間から妖怪へ」といった人間存在の相対化の運動としてではなく、人間的な価値の完成へ向けて彼らは飛び立った。ここにおいて、「越境」と「完成」とは分かちがたく結びついている。

まとめ

 『幽遊白書』の前期において➀単なる物語上の敵役・やられ役に過ぎなかった「妖怪」概念は、ストーリーを通じて練り上げられていき、まずは➁相対化装置に、次に➂「食人する他者」として人間に対峙し内省を迫る存在となり、さらに進んで➃常識・良識・世俗的価値を吹き飛ばし、それでも残った「生きるに値する何ものか」を積極的に照らし出す、いわば善悪の彼岸を象徴する鏡となった。

 冨樫は「人間とは何か」について特に強い関心を持った作家である。彼にとって「妖怪」という他者は人間理解のための手段である。彼は「妖怪」という装置を用いて、上述の通り人間視点でのみの価値尺度を相対化し、人間存在の邪悪な部分を告発し、人間の素晴らしさを称えたのだった。この三点を同時にそれも高い水準で行った点が彼の特長と言える。

 また、冨樫は「妖怪」を劣ったものや邪悪なものとして差別しない。理解も共存も一見不可能に見える「妖怪」たちは、人間と同じ水準で思考し、喜怒哀楽を持ち、その生を全うする存在として「包摂」される。人外の存在は人間以下のものとして扱われることも、人間以上のものとして扱われることもなく、人間と本質的に変わらない存在として描かれる。人間同等の尊厳を与えてその生を肯定する。そのような意味において彼は人間中心主義者であり、ヒューマニストである。ここに彼の特質と限界がある。

*1:蔵馬が命を使って願い事をした暗黒鏡のセリフ「願いをとなえる者達が全てこんなヤツらばかりだったらワシも暗黒鏡と呼ばれることもなかったろうに・・・」は『HUNTER×HUNTER』のナニカについての、キルアのセリフ「呪われててるのは『お願い』する方だ!!」の前身であろう。邪悪とされた対象が邪悪とされている理由は、それを利用する者の心根が邪悪であるからに過ぎず、対象それ自身は文字通り「鏡」に過ぎない。

*2:垂金の「生命も金で買ってみせるわ」が連想される。

*3:雷禅は食脱医師の女の行方を追って知ったのだろうか、「霊界すら魂の最後の行方はわからない」と言っている。

*4:キメラ=アントと人間との接触を通じて、尋常ならざる人間性の陵辱だけでなく、プロウーダとレイナ、モラウとコルト、ユピーとナックルといった多様な人間的徳目が方々で咲いた。

*5:➂の要素は『寄生獣』、➁の要素は『ヒカルの碁』によるところが大きい。①の要素は、冨樫自身の作家性によるものだろう。