『るろうに剣心』、『封神演義』の考察 ――ジャンプ90年代後期作品群について①

90年代後期の低迷期・転換期の作品群の特徴

 少年ジャンプは94年末に史上最大の発行部数に到達する*1。その後、次第に部数は下落し、一時はマガジンに発行部数を抜かれるまでに低迷する。この時期を支えたバトルものとして、『るろうに剣心』、『封神演義』が挙げられる。また、これから述べる同種の特徴を持つ作品として、数年遅れて『シャーマンキング』がある。これらの作品の特徴は、「戦う理由」や「戦いが繰り返される構造」それ自体を前景化・主題化した点にある。

るろうに剣心について

 『るろうに剣心』では、戦って相手を傷つけ死に至らしめる行為そのものへの主人公の葛藤が物語の中心に据えられる。そして、当時のサブカルチャーでは画期的なことに、一般に肯定的に書かれることの多かった明治政府*2の正義について疑義が呈される。すなわち、当時一般にはほとんど知られていなかった赤報隊の一件とそれを背景にした相楽左之助の「悪一文字」の描写であり、明治政府が掲げた富国強兵がいずれ搾取と侵略に行き着くことを暗示するかのように、明治政府の内在的論理を先取りして貫徹する存在である「弱肉強食」を掲げる志々雄一派の存在である。また、剣心自体は明治政府の掲げる「大文字の正義」からはっきりと距離を置いていることも特筆に値する。旧知の山形有朋が、剣心に再び国のために力を貸してほしいと頼むシーンがある。

山形「時代は変わった。明治の世に剣一本ではもはや何も出来ん」

それに対し、剣心は申し出を断って、下記のように答える。

剣心「剣一本でもこの瞳に止まる人々くらいならなんとか守れるでござるよ」*3

 ここで明言された剣心の立場は、長年の倫理的葛藤の末に剣心が行き着いた、個人的結論である。一般には、正義のために国家に与することが必要かもしれないことを、剣心は否定していないことに注意すべきだ。あるいは、殺人がどのような場合であれ「すべての人がすべきでない」と剣心が考えているわけでもない。「自分はもうそういうことはしたくない/できない」という心情に至ったに過ぎない。ここには「大文字の正義」から「動機の相対化・個人化」への変化が見られる。

封神演義について

 次に、『封神演義』においては、「戦いが生じる構造」そのものに対する合理的説明への作者の執着が見られる。①なぜ敵を封神する必要があるのか?②なぜ太公望は速攻で敵の親玉を叩きに行かないのか?③なぜ敵は直ちに太公望の抹殺に全力をあげず、戦力の逐次投入を繰り返すのか?これまではバトルもののお約束としてスルーされてきた不自然な筋書きについて、作者は大まじめに答えようとする。それらの説明負荷を解消するものが、封神計画の真相である*4。すべては仕組まれたものであり、不合理な事態の変遷は、より高次の計画のために必要なものであった。くわえて、敵役の何某が太公望の「シャドウ・セルフ」であったことが途中で明かされる。すなわち、太公望と彼は共犯であり、皆の信頼を得る必要のある太公望には決してできないが、計画進行のためには必要・効率的な、非道な行動を彼が代行していたことが明かされる。これにより、「主人公に都合よくあまりに事が運び過ぎること」の合理的説明もまた果たしたのである。

 本作においては「敵」はいても「悪」は存在しないこともまた特筆すべきだろう。本作は中国史上最初の、放伐による易姓革命の時期を封神演義は舞台としている。暴君かつ最後の王である紂王の息子の殷郊は、わが身の安全のため殷王朝から離脱するが、その際申公豹から民を見捨てたことにつき厳しく責められる。このことが理由となって、一時は所属していた主人公たちの陣営から離脱し、王族としての責任を果たすために太公望の敵となることを決意する。ここには主人公とは別の正義がある。

 あるいは、周の軍師たる太公望に立ちふさがる最大のライバルといってもいい存在である殷の軍師聞仲。彼はなぜ統治の正当性がすでに失われていることを知りながら、分がないことを知りながら、殷王朝の再建にこだわるのか。ここでも申公豹が問い詰める。

申公豹「殷という器が失くなっても民にはさほど関係のない事です。いえ!むしろ太公望の言うように民は殷に代わる新たな器を望んでいますよ」

聞仲「言うな申公豹! 殷は私にとって子供のようなものなのだ。子供を亡くして喜ぶ親はいないだろう?」

ここで聞仲の回想がなされる。かつて愛した女性に彼女の死の間際に殷と息子の未来を託され、彼女の息子は王となった。そして、聞仲は代々その後の王たちの教育係となったのであった*5

聞仲「良い王もいれば、悪い王もいた。だが出来の良し悪しに関わらず、みな私を恐れ、慕ってくれた……」

申公豹「そして皆あなたより先に死んでいったのですね?」

聞仲「……くだらん話をした」

申公豹「いいえ、確かにあなたは殷の親ですよ聞仲」

 ここにもまた、太公望とは決して相いれないもう一つの「正当な立場」がある。こうして、戦いの正当性は相対化され、複数化する。

 戦いの正当性ではなく動機の水準で言えば、趙公明は戦う理由などナンセンスであると断じ、戦うこと自体が目的であると言い切った。また、妲己ははるか遠くを見つめながら、見えない戦いを戦っていたことが明らかになる。それぞれ全く個人的な動機である。単一の誰もが当てはまる戦う動機、あるいは絶対的な正義など本作にはありえない。

 

つづき

killminstions.hatenablog.com

*1:そのときの三本柱となった作品が、『ドラゴンボール』、『幽遊白書』、『SLAM DUNK』である。『ドラゴンボール』はすでに述べた通り当該フォーマットに則った作品であり、『幽遊白書』については後述する。『SLAM DUNK』はバトルものではない。本文では「競技もの」として分類し、バトルものと比較した特徴につき後述する。

*2:例えば、司馬史観における「明るい明治と暗い昭和」という図式。

*3:後述するように、『銀魂』の主人公坂田銀時は明らかにこのあり方を継承する存在である。

*4:この点、『エヴァンゲリオン』の影響を感じる。

*5:詳細はhttp://3m4bai.blog.fc2.com/blog-entry-848.htmlを参照。