ジャンプ90年代後半の模索が遺したもの 友情・努力・勝利の再編

ここまでのまとめ

 これまで、80年代作品群と比して、物語構造の骨格に大きな変化があったことを記述してきた。ここでその変容をまとめてみようと思う。そのためには、ジャンプのスローガンである「友情・努力・勝利」の観点で整理するのがよい。

「努力」の再編

 まず、本文では②戦闘力のインフレ化という問題を見てきた。これは「努力」と対応する。今は勝てない敵も、修行によってパワーアップすることで量的に対象を凌駕し、勝利に至ることができるという筋書きがかつてあった。右肩上がりの発想である。この量的表現に対して、新しい物語の枠組みでは質的表現が用いられる。要するに、駆け引きと相性だ。別の言い方をするならば、「努力」の内実が再編されたとも言える。強くなるために努力するだけでなく、勝つために知恵を絞って策を練ることもまた、「努力」に組み入れられたのだ。

「友情」の再編

 次に、③戦う理由の自明性の動揺を見てきた。かつては確固として存在した「お約束としての役割」が失われていったことを見た*1。敵が悪の側であるとは一概に言えなくなってくる(「敵」概念と「悪」概念の分離)。主人公が敵と戦うのは相手が「悪」だからではなくなる。敵が主人公らに立ちはだかる理由・事情が強く要請される。

 主人公側も、戦う自明性が失われたにもかかわらず、「命や人生を懸けてなぜ戦うのか」という動機付け・説得力の問題が生じてくる*2。結果、「各キャラクターの内面の掘り下げ」または「正義の正当性問題」が重要になっていく。

 味方の戦う理由を掘り下げる場合、ほかの者とその理由が同じならば書く必要はなく、内面の個性もなくなる。つまり、他の味方との戦う理由の差分が重要になる。したがって、同一の理由で敵に立ち向かうという状況が掘り崩される。かつての作品群は、味方が共に戦うのは「味方だから」以上の理由が基本的にはなかった。戦う理由の相違や温度差は問題とならなかった。いわば、「ホモソーシャル的な連帯」が前提とされていた*3。それが解体される。各人は、各人の理由に基づいた各人の目的を目指して戦う。仲間の皆が全く同じ方向を向いているという状態が前提・当たり前であることはなくなった。

 しかし、必ずしも同じ方向を向いていないということは、連帯の弱体化を意味するのではない。その必然性がないにもかかわらず、各人の動機から自らの意志で同じ方向を向くとき、その連帯はより強固なものとなる。『ジョジョ』のブチャラティが組織に対する裏切りを宣言して、自分についてくるか部下に決断を迫るとき、彼はなんと言ったか?

ブチャラティ「だめだ…こればかりは「命令」できない!おまえが決めるんだ………自分の「歩く道」は…………自分が 決めるんだ……」

 「戦う」から「理由⇒戦う」への分節は、理由へのダイレクトな対処による「戦い」の解消の可能性をもたらし、一方で理由の齟齬から「仲間が味方にならない事態」をも招来しうる(「仲間」と「味方」の分離)。つまり、「敵/味方」の線引きは相対化する。これは「友情」のあり方が「ホモソーシャルの解体」を通じて再編されたことを意味する。

 ここまでで②戦闘力のインフレ化、③戦う理由の自明性の動揺を見てきた。この両方に共通する特徴は、単一のものが多様化したことにある。②強さは単一の基準ではもはや計れず多様化する。そして、③絶対だった善悪は相対化し、単純単一だった戦う動機(「誰かや何かを守るため」程度の解像度の理由)は、複雑化・複数化した。要するに、少年バトルマンガの共通財産としての概念・語彙セットが、豊かになったということである。

「勝利」の再編

 上記に対応して、「勝利」の描き方も再編された。勝つことは「必須」のものでも「絶対善」でもなくなった。『シャーマンキング』において、葉は勝つことを必須条件と考えない。『封神演義』において、目先の戦いに勝利することは何の意味ももたらさない。太公望妲己も聞仲も、戦闘狂の趙公明すらも、勝つことは二の次であり、それよりも優先される大きな目的がある。そして、「勝ち方」も重要になった。『幽白』屈指の名勝負である飛影VS時雨戦では、飛影は勝ち方にこだわった*4

「以前は生きるために戦い、勝つために手段を選ばなかった。目的があったからだ。だが、今はない。別にいつ死んでも構わなかった。だから勝ち方にもこだわることができた」

あるいは、汚いやり口でチームを窮地に陥れた相手に対して、トーナメントルールなど無視して暴れようとする幽助や飛影を諭した桑原の言葉。

桑原「ムカつくまんま暴れるだけなら、奴らと変わんねーぜ。キタネェ奴らにも筋通して勝つからかっこいいんじゃねーか?大将」

また、『るろうに剣心』の剣心は、言うまでもなく、「勝つこと」よりも「戦い方」にこだわっていた。そして、「結果」に対しての「過程」というテーマを正面から扱ったのは、『ジョジョ』の第五部『黄金の風』である。すなわち、ラスボスの「過程を吹き飛ばし結果だけを残すスタンド『キング・クリムゾン』」に対し、「真実に向かおうとする意志」が対置される。

*5

 以上、すべてに共通するのは、「戦いの文脈・意味」が多様化・複雑化した点である。80年代作品群では、お約束によりお膳立てされた戦いの場があり、戦いそのものがどういった文脈の上にあるのか、どのような意味を持っているのか、深く掘り下げてこなかった。上述の戦う動機であるところの内面・正当性の掘り下げが進むと、必然的に「戦いの文脈・意味」もまた深化する。そのような意味で、『勝利』の描き方の再編は、③戦う自明性の動揺への対応の結果の一つであった。

 「友情・努力・勝利」はそれぞれ再編され、戦う理由は内面及び正義の正当性問題の掘り下げを要請し、強さの定義の変更は多様なバトル描写を可能にした。また、戦いの結果から過程・内容への関心のシフトは「戦い」や「勝利」の定義を大きく拡張した。

 ここにおいては、①視覚的刺激の重要性は相対的に低下する。つまりは即物的な水準から、意味内容の水準へ作劇の求められるものは大きくシフトしていく。丸めて言えば、極端に全体のレベルが上がったために、構図を含めた画力だけでヒットすることが難しくなる。ある程度の画力は前提となり、その上で意味内容の水準でどこまで点を稼げるかがより重要になったということだ*6

 

つづき

killminstions.hatenablog.com

*1:これを「大きな物語の終焉」と呼びたければ呼んでもよいと思う。

*2:再帰的近代のアイデンティティ論との対応が想起される。

*3:一方で、『シャーマンキング』のリゼルグは、戦う動機の温度差を感じて、主人公の元を離れて別の組織に属する。そして、主人公は出来事を「ありうること」と受け入れて、リゼルグを責めなかった。

*4:『HUNTER』のゴンとヒソカはレイザー戦で、勝利が確定しているにもかかわらず、リスクを冒して「完璧に勝つ」ことを望んだ。

*5:

詳細は下記サイトを参照。

https://dic.pixiv.net/a/%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%81%AB%E5%90%91%E3%81%8B%E3%81%8A%E3%81%86%E3%81%A8%E3%81%99%E3%82%8B%E6%84%8F%E5%BF%97

*6:最近の作品群に慣れたマンガ読みが、80年代の作品等の古い作品を読むと、その単純・退屈さに辟易するのはそのためだ。ただし、対象としている読者層が昔と変化していることにも注意したい。近年の少年マンガの読み手は高齢化している。したがって、その分だけ複雑な内容が求められる。余談だが、90年代全盛期は団塊ジュニア世代の読者とともにあったのではないかという気もしている。