『ONE PIECE』、『NARUTO』、『BLEACH』、『銀魂』、『DEATH NOTE』の考察 ――90年代後半の遺産の相続人たち

遺産の相続人たち

 90年代後半の低迷期から、00年代に入ることになると、ジャンプはヒット作を連発して息を吹き返す。具体的には、『ONE PIECE』、『NARUTO』、『BLEACH』、『銀魂』、『DEATH NOTE』といった作品群だ。これらは『DEATH NOTE』を除いて長大化し、物語の骨格において80年代の作品群とは似ても似つかぬ複雑性を持つに至った。いわばこれらの作品群は模索期の財産相続人たちである。本節では、どのように遺産は引き継がれたのか、①駆け引き・相性の導入、②内面の掘り下げ、③正義の正当性の観点から確認する。

駆け引き・相性の導入について

 まず①駆け引き・相性の導入について、80年代作品群では存在しなかった頭脳派キャラクターが複数登場していることに目がつく。代表的なものだけを挙げる。純粋な戦闘力が劣るので「頭を使わないと勝てない」キャラクターとして、『ONE PIECE』のウソップとナミ*1。「頭も使える」キャラクターとして、『NARUTO』のシカマルと『BLEACH』の浦原喜助。『DEATH NOTE』は全キャラクターが「頭脳戦」しか行わないのは言わずもがなだ。また、『ONE PIECE』での悪魔の実の能力者にははっきりとして強みと弱みがある。能力者全体の特徴として、海と海楼石という弱点がある。そして、ゴム人間は雷と打撃に強く、斬撃に弱く、バラバラ人間は斬撃に強く、スナの実の能力者は水に弱い。『NARUTO』においても「五大性質変化」という概念で、はっきりと相性関係を定義している。これらに対して、『BLEACH』は相性概念の描写は希薄だが、少なくとも「斬拳走鬼」という概念によって、霊圧という単一数直線上に全キャラクターが置かれて強さが判定される事態を回避している。

内面の掘り下げについて

 次に、②内面の掘り下げについて、『ONE PIECE』は極めて特徴的な性格を有する。ともすると敵キャラの内面描写にばかり比重があった『幽遊白書』とは対照的に、『ONE PIECE』は敵よりも仲間の掘り下げを重視する。特に仲間集めの段階にある物語の前半部では、各章のボスとその章で仲間になるキャラクターは一対であり、章ボスを倒しボスとの因縁を解消する過程の中でその仲間の背景・内面が明らかになり、最終的に仲間となる。ここにおける物語の二大要素は、問題状況を発生させた章ボス一味との闘争と、その章での仲間の背景・内面の掘り下げである。仲間となる各キャラクターはそれぞれ異なった背景を持ち、それに対応する形でのそれぞれ異なった仲間に加わる動機を有する。つまり、ここにも動機の個人化・複数化が見られる。キャラクターの魅力が作品の価値の大きな部分を占める『BLEACH』においても、戦う理由や人間性の掘り下げが重点的になされる。すなわち、一護という名前の由来であり、一護と恋次の「魂にだ!」という共鳴であり、茶渡のアブウェロとの約束があり、白哉の背負う重責がある。また、マユリ、剣八砕蜂、ギン、狛村と、戦う理由は個人化している。そして戦う理由が個人に求められるから、雨竜やギンのように相手側に行くかのような表現がありえる。『銀魂』でも銀時の戦う理由は「俺の武士道(ルール)」を守るためと個人化され、万事屋一派、桂一派、高杉一派、真選組と、戦う理由につき異なる正義・目的が同時に存在する。上記に比べると『NARUTO』は当てはまる要素が薄いように思われるが、「逆だったかもしれねェ…」のセリフに象徴されるナルトとサスケの内面の掘り下げ、互いの立場の相対化は言及に値する。

正義の正当性について

 そして、③正義の正当性について、『ONE PIECE』は主人公たちがアウトローであることから必然的に正義は相対化され、統治権力たる海軍、ドラム王国、ひいては世界政府のそのものの不正義が抉り出される。『銀魂』において複数の正義が同時に存在していることはすでに述べた。また、『DEATH NOTE』が正義の問題を一つの主題としていることは特段の説明を要しない。特筆すべきは、主人公が悪側であることだけでなく、正義の側と悪の側が相互浸潤している点にある。すなわち、月の行為は手続と正当性を欠いたある意味での正義の行いであり、Lはキラ逮捕という大目標のために非道ともいえる超法規的手段を取る。そのような意味で、善悪は揺蕩い・相対化している。『NARUTO』、『BLEACH』両作品についても、陰謀が次第に明らかになり戦いの前提が掘り崩され、統治権力の正当性が揺らぐ物語構造が共通する。敵は明確な目的意識・ビジョンを持った現行の体制への挑戦者である。

藍染「勝者とは常に世界がどういう物かではなく、どうあるべきかを語らなければならない」

あるいは、マダラの「月の眼計画」は、恒久平和実現のためのものであった。

 主人公は「現行体制への挑戦者」か「現行体制の守護者」かで、上記作品群を色分けすることも可能である。重要なのは、現行体制の是非が焦点化されている点である。体制の是非が焦点化され、戦う動機の個人化が前提となった状況下において、正当性問題への取り組みの深度は作品の深みに直結する。これは80年代作品群にはなかった視点である。

 

つづき

killminstions.hatenablog.com

*1:彼らは以前の作品では非戦闘員として扱われたのではないだろうか。