『幽遊白書』の考察 ――90年代の先駆者たち②

戦う理由の自明性の問題について

「敵と出会い戦い勝利する」営みの繰り返しへの倦厭

 次に、③戦う理由の自明性の問題を検討する。『幽白』の作者冨樫義博は、本作が後半に進むにつれ、「戦うこと」それ自体についてのさまざまな疑念に取りつかれるようになった。それは既存フォーマットに対する疑念でもある。まず彼は、バトルものにつきものの「敵と出会い戦い勝利する」営みの繰り返しへの倦厭を明言した。仙水編での最終決戦が決着した場面である。仙水忍のパートナーである樹は、仙水の亡骸とともに亜空間へと姿を消す。その時の捨て台詞が下記だ。

「「死んでも霊界には行きたくない」、忍の遺言だ。お前らの物差しで忍を裁かせはしない。忍の魂は渡さない。これからは二人で静かに時を過ごす。オレ達はもう飽きたんだ。お前らは、また、別の敵を見つけ戦い続けるがいい」

後に冨樫本人が明らかにするように、この台詞は「当時の原作者の血の叫びが入ってた」。それを裏付けるように、仙水と幽助の戦闘あたりにおいて、作者は「原稿に向かうとハキ気がする位漫画を描きたくなくなった」、「この時位にはじめてもう“幽遊”はやめようと編集に頼み込んだ」と語っている。くわえて、別の場所(冨樫の同人誌)では「残念ですが幽遊白書のキャラクターで出来ることは、商業誌ベースではやりつくしてしまいました。あとは出来上がったキャラクターを壊していくか、読者があきるまで同じことを繰り返すしか残っていませんでした。この本でやったようにキャラを壊す試みはジャンプでは当然没になりました。同じことをくり返すに耐え得る体力ももうありません。」とも言っている。以上の内容は、冨樫が「敵と出会い戦い勝利する」フォーマットはもう限界であるという結論に至っていたことを表す。

善悪の基準に対しての疑義

 くわえて、作中における善悪の疑義もまた作品が終わりに近づくにつれ、色濃く表れてくるようになる。まず仙水というキャラクターが提出した疑義がある。仙水は人間が妖怪を食い物にするショッキングでおぞましい場面に偶然立ち合い、「人間は生きるべき価値があるのだろうか…守るべき価値があるのだろうか…」とつぶやいて、妖怪から人類を守護する霊界探偵の仕事を放棄し、行方をくらましてしまう。

 彼が死の間際に語った自身の来歴は、そのまま既存物語フォーマットへの痛烈な否定である。

「小さいとき ずっと不思議だった 『どうしてボクだけ見える生き物がいるんだろう』『どうしてそいつらはボクを嫌っているんだろう』『殺そうとするんだろう』答えがわからないまま戦い方だけうまくなった*1『きっとボクは選ばれた正義の戦士で』『あいつらは人間に害を及ぼす悪者なんだな』安易な二元論に疑問も持たなかった 他の人間には見えない返り血にも次第に慣れていった」
「世の中に善と悪があると信じていたんだ 戦争もいい国と悪い国が戦ってると思ってた 可愛いだろ?」

 それまで自明であった「人間を守る」営みへの疑義は、幽助やコエンマに対して、大きな波紋を投げかけた。後に魔界へ行った幽助は「人間しか食えねェってならオレが二・三人かっさらってきてやるよ」とまで言い放つ。また、コエンマは自身の父であり上司であるエンマ大王を告発し、無謬と思われた霊界に不正があることを明らかにした。

「妖怪に関する報告書や資料を膨大な量で偽造してたそうです 大部分が人間界で妖怪がやったとされる悪事の水増しです とらえたD級妖怪を洗脳しわざと人間界で悪事を起こさせて犯罪件数を増やしていたふしもあるらしいです」

「魔界をずっと悪役にしておけば霊界には人間界を守る大義名分が立つ 堂々と結界を張って領土維持をはかれるわけです 人間がまだ利用していないエネルギーの中に霊界にとっては重要なものがあったりしますから」

 また、物語終盤において、霊界で過激派によるクーデターが起こり、霊界の一部勢力の独善が明らかになった。すなわち、霊界もまた人間界同様一枚岩でなく、独善と自作自演がはびこり、人類の守護者=正義の代理人などではなく、ポジションゲームをしていた人間界・魔界に対応するただのアクターの一つに過ぎないと示される。ここにおいて、戦う必要性と正当性は完全に無に帰した。そうしてこの物語は終わったのである。

戦う理由の相対化

 善悪の疑義とは、戦う理由の相対化でもある。幻海*2は正義のために戦っているわけでないと明言する。

幻海「あんたはあたしを正義といったが、そんなつもりは全くないよ。たまたま嫌いな奴に悪党が多いだけの話さ」

 また、魔界編において、幽助たちはもはや戦う必然性がない。だから桑原は戦いに行かなかったし、だから桑原は「それでも幽助が魔界へ戦いに行く」と言ったのに激怒したのだった。

桑原「ふざけんじゃねえ!魔族になって脳ミソのバカもパワーアップしたのかてめーは…行く理由が強い奴がいるからだと!?ゲームの宣伝じゃねーんだぞ」

 魔界編での戦う理由は、自明でも利他的(公共的)でもない。相対的・個人的なものとして描かれる。魔界へは幽助、飛影、蔵馬がそれぞれ向かうのだが、それぞれ目的も異なるし、そのため共闘もしない。それどころか敵対する別陣営にそれぞれ所属することとなる。幾度も死闘を潜り抜けた戦友が今度はめいめい全く別の方向を向いているのだ。「信頼しあう仲間たちと共通の目標・敵に向かっていく」という、動機の統一性は失われた*3

正義の絶対性は、敵である仙水において現れることにも触れておこう。

仙水「オレは花も木も虫も動物も好きなんだよ。嫌いなのは人間だけだ」

人間を守るという正義が完全に反転する形として仙水には現れている。それに対して、幽助はこう返答する。

幽助「俺はてめーが嫌いだ」

ここにも明らかな、絶対性の否定と相対化・個人化が読み取れる。

 魔界編に至るまで、主人公側の戦いの動機は特に描写されず、人間界や自身の身を守るために、いわば受け身の形で彼らは戦ってきた。一方で、主人公以外の存在、主に各章のボスについては戦う動機の書き込みが詳細に行われた*4。戸愚呂弟はかつての自己を許せず、自らへの罰を求めて戦い続けてきた。そして、それと同時に幻海との因縁が語られる*5。衝撃的なシーンがある。幻海は過去の清算のため、単身戸愚呂弟と勝ち目のない決闘に臨み、殺されてしまう。そのことについて、酷く落ち込む幽助をコエンマが励ましに来るのだが、その会話が非常に印象的だった。

幽「俺がもう少し早く着いてりゃばあさんは戸愚呂に…」

コ「間の抜けたことを言うな」

幽「何? 誰がマヌケだ!てめー!」

コ「マヌケでなきゃ的外れの大バカ者だ 仮にお前が早く着いたとしても幻海と戸愚呂の命を懸けた戦いの邪魔ができたのか?お互いが命を懸けて我の張り合いをやってるときにどの面下げて横やり入れる気だったんだお前は 」

二人の戦いは善悪や正義の問題ではなかった。互いの尊厳を懸けた、個人的な、それ故に何よりも大事な戦いだったのだ。

戦わなくて済むようにする物語

 魔界編では、黄泉と蔵馬の因縁が黄泉の戦う動機である。また、躯と飛影の共通した欠落が、互いに惹かれあう理由であり、戦いに身を投じる理由である。そして、雷禅と幽助の因縁が、幽助が魔界に旅立つ理由であり、そもそもの魔界三すくみの原因である。魔界の三人の王の行動原理は、それぞれきわめて個人的事情に基づく。魔界で善悪や正義の観念などあろうはずもない。すべては相対化され、個人化される。*6

 黄泉の強くなること、天下を取ろうとすることの動機は、蔵馬への執着にある。これが作中では解きほぐされる。また、躯が戦い続ける理由は、自身の中にある激しい感情にある。それは飛影と出会うことで解きほぐされる。

 魔界編とはもう戦わなくて済むようになる過程を描いたものだ。幽助は戦争ではなくトーナメントで決着をつけようと提案する*7。戦いを否定するためのトーナメントである。

 黄泉はその提案を受けるも、天下への野心を失わない。策略をめぐらして優勝しようと、つまりは幽助の望んだフェアで気持ちのいいゲームとしてのトーナメントではなく、策謀渦巻く戦争をトーナメントでも行おうとした。しかし、それは撤回される。なぜか。そのきっかけに雷禅の旧友たちの出現がある。雷禅を弔って霊力の放出を一斉になされたとき、はじめて黄泉は彼らの存在を知る。彼らが自分と同等かそれ以上の実力を持ちながら、何の野心も持たずひっそり暮らしてきたことを知り、すでに蔵馬への執着の問題が解決していた黄泉にとっての、最後のピースがそろうことになる。

黄泉「妖駄」

妖駄「はい」

黄泉「お前はもう自由だ 好きにしろ」

妖駄「え?」

黄泉「誰が勝つかもう俺にもわからん」

妖駄「ま…まさか本気で国を捨ててトーナメントを戦うと?」

黄泉「やはり俺もバカのままだ」

 なぜ雷禅の旧友たちはすさまじい実力を持ちながら魔界統一の野心を持たなかったのか。必要性を感じなかったからである。黄泉は強い欠落感・飢餓感から、野望に邁進し続けた。あるいは、躯はその生い立ちの呪いから、そのどうにもならない憎しみから、戦い続け殺し続け、強くなってきた。魔界編は、この二人が癒され、「もう頑張らなくていいよ」、「もう苦しまなくてもいいよ」と救われるまでの物語である。魔界三すくみの原因は、王の個人的な動機に基づく。そうであるならば、個人的動機を解消することで、三すくみもまた解消される。争いはもう起こらない。牧歌的なトーナメントだけが残る*8

 以上、『幽白』は、徹底して戦いの前提を掘り崩し続けた作品だった。戦い続ける構造に疑問を持ち、善悪を規定する構造を疑い、正義の単一性を否定し、最後に戦う必然性を問うた。戦いが生じる構造自体への関心は『封神演義』、善悪を規定する構造への疑いは『るろうに剣心』、戦う必然性を問い、戦いの相手を救うことで問題を解消する手つきは『シャーマンキング』の、それぞれ先駆的内容を含むといってよいだろう。

 

つづき

killminstions.hatenablog.com

*1:少年マンガにおいて「成長」という語で混同されがちな「(戦闘)技能の成長」と「精神の成長」とがはっきりと弁別されていることに注意したい。

*2:本筋とは異なるが、『幽白』はジャンプ漫画において幻海、流石、棗、孤光、躯といった女性戦士が複数登場する点で、先駆的な作品であった。『ドラゴンボール』でも女性戦士は登場するが、主人公の師匠として幻海が、最高実力者の一人として躯が、それぞれ登場する点が特徴的であった。

*3:HUNTER×HUNTER』でも初期メンバー4人は早々に散会する。信頼しあっているからこそ、べたべたなんてしないのだ。

*4:鴉の「好きな者を殺すとき自分は一体何のために生まれてきたのかを考えるときのように気持ちが沈むだがそれが何とも言えず快感だ」や左京の「大~~~~きな穴がいい...魔界と人間界をつなぐトンネルです(中略)不公平でしょ?より強大で邪悪な妖気を持つものほど通れないなんて」、仙水の「あと半時間もすれば君達も歴史的な目撃者になれるのだよ 誰もが知っていて誰もが見たことのない伝説上の生き物を見れるかもしれない 外タレや運動屋などメじゃない 真のアイドルだ」というセリフなども印象的である。

*5:仙水編では仙水とコエンマの因縁が語られる。

*6:

ジョジョ』も、遅くとも第五部『黄金の風』において、戦う理由は個人化・相対化される。『幽白』の魔界編同様、犯罪行為を生業とするマフィア世界での抗争がテーマということもあって、善悪というフレームワークではなく、個人的倫理問題に還元される。

ブチャラティ「ボスは自らの手で、自分の娘を始末するために、オレたちに彼女を『護衛』させた……トリッシュには、血のつながるボスの「正体」がわかるからだ。許す事ができなかった。そんな事を見ぬふりをして、帰ってくる事はできなかった。だから「裏切っ」た!(中略)オレは『正しい』と思ったからやったんだ。後悔はない…こんな世界とはいえオレは自分の『信じられる道』を歩いていたい!」

*7:トーナメント優勝者が魔界の支配権を得るが、永続はしない。トーナメントは周期的に開催され、支配者は入れ替わる。

*8:前述のように、霊界が演出した魔界と人間界との対立構造も解消したため、霊界探偵として妖怪という「悪」と戦う必要も消失している。