『シャーマンキング』の考察 ――ジャンプ90年代後期作品群について②

シャーマンキングについて

 本節の最後に、『シャーマンキング』を扱う。本作のラスボスである麻倉ハオは、物語の早い段階で、その圧倒的な強さから、絶対に倒すことができない存在として描かれる。そのため、<「力で敵をねじ伏せる」以外の方法で、いかにラスボスたるハオがもたらす破局を回避するか>に物語の主題が設定されることとなる。ここにあるのは「力ずく」の徹底した否定である。主人公が何度も口にするセリフは「やったらやり返される」だ。

「やったらやり返されるなんて当たり前の事だしオイラだって怒る時は怒る。でもそればっかだとキリがねえからな。誰か出来る奴でいいからガマンしたりどっかで止めてやらなきゃならねえ」

「だから殺すなつってんだろ 邪魔だからって殺してんじゃハオとなんもかわんねえだろ」

「正義だろうが悪だろうが選択すんのは人の自由だ でも殺して選択する事さえ出来なくさせちまうのはだめだ」

 なぜ「力ずく」はダメなのか。それは決して問題を解決しないからだ、と作中では語られる。

「怒るなと言っているのがわからんのか怒りでは何も救えぬそれはお前が一番身にしみてわかっとるはずじゃろう」

 では、どうすればいいのだろうか。主人公の麻倉葉が一つの可能性を指し示す。

「憎しみは憎しみしか生まない 孤独なお前にとっての真の救いとは他人を信じ他人に身をゆだねる事 だから葉殿はまずその身をもって・・・お前を信じる事でお前の”信じる心”を呼びおこさせたのでござるよ」

 怒りや憎しみや悲しみでこわばった心は、さらなる負の感情・事態を呼び起こす。だから、その心のこわばりを和らげる必要がある。それにはどうすればよいのか。

「どんな奴だって行動には必ず理由がある 霊の見える奴に悪い奴はいねぇと思ってんのは今だって変わんねえからな オイラだってハオのした事は許せねえ でもハオだってどっかに理由はあるはずだ──悪いのはきっとそれなんだろうな」

 相手を対話不可能*1な絶対悪として見るのではなく、自分と同じ大切な何かのために戦っている、切実な思いを持った存在であると思うこと。それを前提に相手の大切なものを理解しようとすること。

「何かをしようとすると必ず賛成する人と反対する人がいる。それはみんな大切にしているものが違うから」

ここには感情に身をゆだねることを拒絶する、ひどく理性的な態度がある。

「人ってやつはすぐ感情に支配されるからな 友達同士にしたってよ みんな大して変わりはねえはずなのにふとした事で仲良くなったりケンカしたりするだろう 感情一つで人は敵も味方も作っちまうんだだから 本当は敵も味方もこの世には存在しねえ 全部はてめえの正義感が生みだした苦しみなんだ」

 「悪・害をなす敵を倒す」物語フォーマットは、ここに完全に消失する。絶対的な悪がいないだけでなく、敵すらももはや存在しない。『シャーマンキング』は、ある意味で、行き着くところまでいってしまった。

「たとえいくら裏切られようと信じる限りこちらから敵対する事などなくむしろ疑いを持たずにいられる事こそが何より自身の幸せである事 それが愛なのだという事 あのお方が正しいかどうかなど問題ではなかった 信じる事をやめた小生の行いこそ人の闇そのものだったのです」

戦いとは敵を倒すことではない。

「ボクはやっと気づいたんだ 戦いに勝つというのは相手を倒す事じゃない それで自分が笑顔でいられるという事に」

強さとは、物理的に相手を屈服させる能力のことではない。

「自信・・・」「それは精神の強さ」「けっして巫力ではなく」「最後に戦いを決めるのはただ一つ それはゆるぎない心なのか」

 ハオはもはや敵ではない。ハオを理解しようとする営みの先に、彼の中に巣食う深いさみしさと悲しみと憎しみが明らかになる*2

「みんなはハオを助けようとしている 死んでも死なない 倒したくても倒せないハオを止める唯ひとつの魔法は ハオの心を倒すこと さびしんぼの彼に通用するたったひとつの武器は 心だ」

 アニメ版『シャーマンキング』のOP曲『Northern light』の歌い出しは「君に届け Northern light」であった。また、作中の盛り上がりの場面で何度も流れた劇中歌『brave heart』のサビ部分の歌詞「風より速く 君の心へ すべり込んで根こそぎ包みたい」であった。ここでの「君」とはハオである。『シャーマンキング』とは、ハオの強すぎる負の感情を大いなる愛で包み込もうとする物語なのだ*3。その試みは、ハオよりも優越することを意味しない。それはハオを完成させるためのものである。

「勘違いしてるのは君だよハオ オレ達はおめーを全うな王にするために来たんだぜ?わかるかハオ」

 ここにもう一つの物語の質的転換がある。敵であるはずのハオは救うべき存在となった。そして、さらに進んでハオは、完成させるべき対象となったのだ。物語の終局において、世界を滅ぼそうとするラスボスの「王性」を、主人公たち皆が完成させようと命を懸ける物語を、他に僕は知らない。

 最後に、本作が既存物語フォーマットに強い反発を持っていたことを示しておこう。

「あたしは「オレが世界を救う」なんて奴は信用しないし「やってやるぜ」ってガツガツした熱血マンが大キライ だってそんな奴らに限って己の欲望むき出しでしかも口先ばっかり オレがオレがって普段調子のいい事言ってる割には困難にぶつかるとすぐへこたれる なぜかわかる?奴らは結局自意識と己の欲でしか目的を持たないからよ」

「出来るも、出来ねェも全ては「思い」一つなのに、数字ってやつはつい人にそのどっちかを決定づける魔物なんだ 学校の通知表会社の成績──給料バストウエストヒップ そのクソみてェな数字を見せつけられた日にゃア どんなに自信のある奴だろうが現実の前にねじふせられちまう」

 前者のセリフについては、特に解説は必要ないだろうが、後者のセリフは戦闘力を数値化して序列化するバトルマンガの伝統との関係で読み解く必要があろう。本作においても「巫力」という戦闘力を数値化する概念が存在し、しかもその大小は覆しがたい戦闘能力の差として表現されている*4。どうしようもない力の差に、人は勝つことをあきらめてしまう。一方で、本作はそもそもの前提を問う。「勝つ必要があるのか?」「『勝つ』とはどういうことか?」そういった思索の先に何があるのかはすでに述べた。本作のこの態度は一貫していることを再度強調して終わりたい。シャーマンキングになるという物語の最終目標であるはずの、シャーマンファイトでの優勝を主人公は断念した。つまり葉は、物語の必須要素と思われていたトーナメントを棄権するという選択すらとったのだった。

 以上、本節でとりあげた三作品は、徹底して既存物語フォーマットを問い直し、新しい物語の構築に取り組んだ作品だった。ともするとこれらの作品は、問い直しそれ自体が作品のテーマとなり前面化し、テーマの未消化から、その複雑さから、娯楽性・大衆性を本来のポテンシャルに比して減殺してしまったきらいがある。しかし、後述するように、その遺産は2000年代の後継作に受け継がれ、提示されたテーマは消化され、00年代の作品群は80年代のそれらに比して、まったく異なった物語の骨格を獲得するに至った。そして、娯楽性・大衆性との両立、つまるところ大ヒット作の連発という結果につながった。

 本節の三作品の記述は、既存フォーマットがもはや通用しなくなった状況下において、どのような模索がなされたかの確認であった。次節では、ジャンプ絶頂期である90年代前半から半ばに連載されていながら、つまりはまだ既存フォーマットの限界が明らかになっていなかった状況下にありながら、いち早くその限界に到達した二作品――『ジョジョの奇妙な冒険』と『幽遊白書』――を取り扱う。

 

つづき

killminstions.hatenablog.com

*1:祭司シルバと葉との「ラストテスト」での戦いについて、蓮は「あの二人の対話を邪魔してやるな」と言う。本作において、戦いもまた互いの生き方や価値観のすべてをぶつけ合う、相互理解のための対話であるのだ。あるいは、劇中曲の『brave heart』の歌詞「力の全てぶつかりあって生まれる愛もあると信じたい」とあるように、理解の先に愛があることが暗示される。決して戦いとは敵を滅ぼすためのものではない。

*2:「てめェがこの1000年抱き続けた徹底的な怒りと悲しみは絶対揺るがねえ最強の力をお前ェに与えた だがそれと引き替えに失ったのが てめェの母ちゃんの持つ波長愛の波長だ」

*3:「あんた(筆者注:ハオ)はもう怒りと悲しみから解放されちゃったのよ 葉と出会って力をなくしたあたしと同じにね あんたの心はみんなの魂を前にして すでに折れてしまっていたのよ」

*4:ハオは圧倒的な巫力を持つことが示され、そのために決して戦闘では敵わないことが示されている。