『君たちはどう生きるか』の考察 二人の父あるいは説教の内実について

はじめに

 昨日、本作を観た。今となってはずいぶん前のタイトル発表の時点では、「パヤオがとうとうもうろくして盛大なオナニー*1を見せつけた次は、説教はじめやがった」といった声を聞いた。しかし、今度は内容につき、「どうやらタイトルは借りるだけで中身は冒険ファンタジーらしい」と噂になり、「やっぱり説教はしないのか」と思っていた。そして、本作を観て「ガチ説教だった」との感想を持った*2

 本作は宮崎駿の来歴を語るものであるとともに、ジブリあるいはアニメというジャンルそのものの来歴を語るものである。そしてさらには、これまでの日本とこれからの日本を見据えたものであり、宮崎駿という一人の人間、アニメという一つのジャンル、日本という国が、栄えて滅びていくはじまりと終わりを提示することで、これまで「これらのものたちがどう生き、どう在ったか」を描き、「君たちはどう生きるか」をこれからの人々に問うたものである。それをこれから見ていく*3

現実と虚構の二つの世界

 本作では二つの世界を眞人らが行き来する。すなわち、現実の世界と虚構の世界である。作中において、現実は不快なものがはびこる世界として描かれる。露悪的なほどに貧富の格差がある。老いた女中らは父のみやげものにあさましく群がる。眞人は「あるとこにはあるもんだねえ」との言葉をそのとき耳にする。母を喪って気持ちの整理もつかないうちに、父は再婚*4して子どもをもうけている。眞人は新しい母を受け入れられない。権威と金を振りかざして彼を守ろうとする父もまた、彼に望んだものをくれる存在ではない。端的に言って、眞人は現実を憎んでいる。

 そして、現実を憎む者だけが、あの塔の中へと行くことができる。父のような現実に満足する者は塔に入ることはない。塔が象徴するものは、現実に対抗する虚構のすべてである。「象牙の塔にこもる」という言い回しが象徴するように、醜い現実世界を、あるいは俗世の汚辱を拒絶して、自分の理想を築き上げる営みすべてが、ここでは象徴されている。ここでの虚構とはアニメーションに限らない。あらゆるイデオロギー、学問的理想、芸術的創作そのすべてが塔の中の世界である。虚構世界とは、現実に不満を抱く者たちの理想世界である。したがって、作中における虚構世界とは大叔父の創り出した世界であるが、虚構世界は単数ではない。ほかにも虚構世界があるだろうことが推察される*5

 本作での虚構世界とは、ジブリそのものであり、同時にアニメというジャンルそのものである。言うまでもなく、大叔父とは宮崎駿である。とうとう後継者を見つけられず、ジブリという理想世界は崩壊した。そして、アニメというジャンルも滅びに瀕している、と宮崎駿は考えている。これには注釈が必要だろう。宮崎駿はアニメというジャンルが危機に瀕していると以前から警鐘を鳴らしてきた。いわゆる「どん詰まり発言」である。

「僕の本心は、日本のアニメはどん詰まりまで きていると思います。僕よりも20歳も若い庵野(秀明)という監督が、「自分達はコピー世代の最初だ。その後の世代は全部コピーのコピーだ。 そしていまや、コピーのコピーのコピーになっている。それがどれほど 歪んで薄くなるか分かるでしょう。自分で観てきたものをそのまま描いて いるんじゃない」という言い方をしていますけど、それは、 自分の周りの若い人たちと付き合って、僕自身も痛切に感じていることです。それをどうしていくのかは、僕らではなくて、その人達に課せられた課題だと思うんですよ。」

 ここで大叔父の虚構世界は何故滅びたかを思い起こしてほしい。インコたちがいつの間にか増えることで、世界はおかしくなっていった。彼らの中で序列を決めて王を作り、彼らが増長して、慎重に取り扱うべき積み木を粗雑に扱った結果、虚構世界は滅びたのだった。インコとは何者か。何故インコなのか。インコは人間の言葉を話す。ただし、意味を理解することはない。インコはインコの言葉はさらにマネする。そうしてコピーのコピーのそのまたコピーが広がり、急速に劣化は進んでいく。宮崎はアニメのジャンルをこのように見ていると思われる。

 ただし、そのような不本意な世界を作ったのもまた、大叔父=宮崎であることを宮崎はよく理解している。作中では理想通りには世界を構築できなかったことが示されている。彼の理想とは何か。虚構世界と現実世界との良好な関係である。それはワラワラを見ればわかる。ワラワラとは厳しく汚れた現実世界に放たれる前の子どもたちである。子どもたちは虚構世界での理想に育まれ、腹を満たして飛び立っていく。虚構世界とは大人にとって、現実から逃れるためのものであるが、子どもにとっては自らを育むものなのだ。だから、本作において虚構世界に行った子どもたちは自らの意志で現実世界に帰ろうとするが、大人たちは現実世界に帰ってこようとしない。

 しかし、虚構世界と現実世界との、あるいは虚構世界と子どもとの良好な関係は破綻している。ペリカンの存在である。ペリカンたちは生きるためにワラワラを食べる。ペリカンに罪はない。彼らは意図せずしてここに連れてこられたのであり、ワラワラを食べねば生きていけないのだから。ペリカンとはアニメを作る人々である。アニメの魔力に魅せられて(=丸呑みし)、この世界に連れてこられた人々である。彼らはもうこの世界でしか生きていけない。そして、生きていくためには文字通り、子どもたちを食い物にしなくてはならないのだ。先ほどの引用の続きの一部をまた引用する。

「僕は確かにビデオを売らざるを得ないと言うか、情けないんですけれども、ビデオを売っています。 事あるごとに、「あまり観せないで下さい」と言っているつもりなんですが、「うちの子は1日に3度は必ず『トトロ』を観ます」という母親の方などに 会うわけです。『トトロ』を一日に3回観るということは、4時間から5時間くらいはテレビの前に座っているということです。で、その5時間の間に、この子は本当ならどれだけの体験ができたのかってね。トトロに抱きついて、ブラウン管にキスしたって、 なにも生れることはないんですよ。 『トトロ』のパッケージに「誕生日にだけ観せて下さい」と書けば良いのかもしれませんけども(笑)。 そんなことをやってて、まともな子供が育ったことはないんでね。」

 ここに宮崎自身が生み出した負の側面に対する痛切な自己認識がある。

眞人をスポイルする二人の父

 では、宮崎は自身の試みは失敗であったと総括して、まだ見ぬ後継者に事業を引き継いで、果たせなかった夢に取り組んでもらうことを期待しているのか。そうとは思えない。そのような考え自体が、エゴであり、後発世代をスポイルしてきたと考えているようだ。本作では、二人の父(=創始者・支配者)が登場する*6。宮崎アニメにおいて、父が物語中大きな役割を占めることは異例だが、さらに彼らは眞人をスポイルする存在として描かれていることが一層興味深い。

 現実において眞人の世界を創造・支配する父(正一)が、眞人を甘やかしスポイルする存在であることはほとんど自明である。彼は眞人を深く愛している。眞人のためを思って、何不自由ない学校生活を送れるよう、先回りして学校に便宜を図っている。金と権威を振りかざしたその愚劣さが、眞人に良い影響を与えないであろうことは、論ずるまでもない。

 虚構世界における大叔父の場合はどうか。彼は眞人を必ずしも愛しているわけではない。彼が愛しているのは彼の理想であり、彼が創ろうとしてきた理想世界である。彼がいなくなった後も、彼の理想が続くことを願うのは一つのエゴである。さらには、そこには深刻なジレンマがある。すなわち、「創始者の理想を実現できるほどの器をもつ人間が、何故創始者ではなく自身の理想を実現しようとしないと言えるのか」という問題である。創始者と同格またはそれ以上の者は、自分で世界を創っていく。同格以下の者のみが彼の下で働き、劣化コピーとなっていく。

 このジレンマは才能を育てることができるのならば、回避することが可能であった。しかし、大叔父=宮崎は育てることができなかった。「ジブリで宮崎と一緒に働いていては、彼の後継者は育たない」と押井守庵野秀明が指摘しているように、宮崎は才能をつぶしてしまう。

 作中において大叔父の姿勢にそのことが現れているのは、積み木を継承させるシーンである。大叔父は積み木を用意し、その使い方までも説明した。これは苦労して虚構世界を構築した彼なりの親切である。しかし、そのこと自体が後継者を狭い枠組みの中に閉じ込めてしまう。後継者にとって創造者の説明する方法は、所与のルールとなる。創造者のようにゼロから試行錯誤して世界を構築する必要がないとともに、世界をゼロから構築することが許されていないのだ。そのことを端的に示すものが、十三個ある積み木に対して、「後継者は一つだけ積み木を足すことができる」ルールである。

世界の崩壊と再生

 後継者を得られないまま、おかしくなっていった大叔父の虚構世界はとうとう崩壊する。崩壊の未来には絶望だけでなく希望がある。このことを見ていくため、物語の全体の構造をここで整理しておく。すでに現実世界と虚構世界の対比があることに触れたが、実は現実世界と虚構世界は下記にまとめたようにそれぞれ二つずつあると思われる。すなわち、現代の虚構及び現実と、過去*7の虚構及び現実である。ここがねじれていてわかりにくいところだが、本作は、過去を舞台に世界の崩壊を描写すると同時に、このことを通じて、現代の崩壊を描いている。

・現代における現実:9条・安保体制

・現代における虚構:ジブリ及びアニメというジャンル

・過去における現実:大日本帝国

・過去における虚構:大叔父の世界(=先行世代が築いた何らかの虚構)

 作中の舞台は、現実及び虚構の二つの世界が同時に崩壊しようとする、時代の岐路である。この激動の時代に後発の世代に向けて描かれた本が原作『君たちはどう生きるか』である。大日本帝国が崩壊し、9条・安保体制の今がある。また、アニメ(ジブリ)もまた、戦前からの娯楽、例えば少年少女向け小説(=児童文学)といった文字媒体を片隅に追いやって発展してきたジャンルである。そして、現在は9条・安保体制及びアニメ(ジブリ)が崩壊しようとしている。本作『君たちはどう生きるか』は、この時代の岐路にこれからの世代に向けて、描かれた作品である。

 現代における現実を何故「9条・安保体制」としたかについて、説明が必要だろう。押井が『パトレイバー2』で描いたように、あるいは庵野が『シンゴジラ』で描いたように、9条・安保体制とは虚妄である。そのことを宮崎は当然知っている。丸山真男の言うように、宮崎らは「大日本帝国の「実在」よりも戦後民主主義の「虚妄」の方に賭け」てきたのだった。我々日本人は、虚妄の膜に守られて戦後体制を生きてきた。いわば、我々は現実世界を生きながら、虚構世界を生きていたのだ。だから、その崩壊は作中において、虚構世界がどのようにして崩壊したかを見る必要がある。

 少なくとも宮崎の視点では、<インコのバカども>が時を経るにつれて増えていく。彼らが武装しているのは偶然ではない*8。インコたちは徒党を組み、増長する。そして、インコ大王が取り扱い注意の積み木を手荒に積んで、虚構世界は崩壊する。ここでの積み木とは日本国憲法(及び安保体制)のことだろう。憲法とは国家という危険な暴力装置を制御する精密機械のようなものである。だから、その取り扱いには専門家の知見が必要であり、素人が粗雑に扱うと予測不可能な結果を招く。そして、インコ大王とは専門家の反対を無視して、閣議決定による憲法解釈の変更を行った、安倍晋三であると思われる。かつて、宮崎は憲法問題に関連して、安倍元首相を名指しではっきりと批判している。

「安倍首相は自分が『憲法の解釈を変えた偉大な男』として歴史に名を残したいと思っているのでしょうが、愚劣なことだと僕は思っています」

 注意しなければならないのは、ここで崩壊したのは<9条・安保体制という虚妄>であって、大日本帝国のように現行の日本国が崩壊したわけではないことだ。少なくとも宮崎にとって、虚妄によって弱肉強食の国際政治のパワーゲームから距離を置くことができてきたことは望ましいことであり、それを自らの意志でかなぐり捨てたことは愚行であった。それは戦後民主主義(あるいは9条・安保体制)という虚妄の中で、アニメという虚構のジャンルに身を置き、ジブリという塔を築いて、荒々しい現実から幾重にも守られて生きてきた宮崎にとっては。ここに宮崎のやましさと迷いがあり、自分を生み育ててきた現行の体制の崩壊が、即日本という国の崩壊であると断言できない理由のように思う。宮崎が庵野の言葉を引いたときに行ったように、「それをどうしていくのかは、僕らではなくて、その人達に課せられた課題」なのである。

 では、現代における虚構にあたる「ジブリ及びアニメというジャンル」の崩壊について、宮崎はどう考えているのだろうか。半藤一利との対談が参考になる。半藤は日本の近代史は40年周期で盛衰を繰り返すと言う。おそらくはそれを念頭に、宮崎は対談で以下のように語っている。

「子どもたちの数が減ってます。アニメは一定の子どもの数がいて成り立つから。これからダメになるだろう。いまは70の人まで映画館にアニメ観にやってくるから救われてるけど。1つのジャンルが盛んになって終わりを迎えるまでだいたい50年。アニメーションも終わりが来る。」

 この立場によれば、ジャンルの崩壊は不可避的なものである。そして、日本の崩壊もいずれ訪れる不可避的なものである。しかし、宮崎はこうも言っている。

宮崎「子どもたちに『君たちの将来は真っ暗だ』と言いたくない。」

 ここに長年にわたる宮崎の悩みと絶望があったと言える。

 本作は、その回答である。宮崎は、眞人をスポイルする二人の父の描写を通じて、「彼の未来を案じて先行して手を打っておくこと」や「懇切丁寧に方法を整えて彼に手渡すこと」が彼をスポイルすること、案じる未来の内容がある種の自己愛に基づいていたことを抉り出した。現実世界にはスポイルしてくる父がいる。そして、父が象徴する現実の不快さから逃れて、理想を掲げて虚構世界を創った大叔父もまた親切さや自己愛で彼をスポイルしてくる存在なのだった。

 さらには、自らが延命を願ったアニメあるいはジブリの崩壊こそが、新世代にとってのまだ見ぬ新たなジャンルのはじまりであるだろうことにも宮崎は思い至った*9

 何故大叔父の虚構世界は崩壊したか。眞人が来たからである。また、眞人が後継者にならなかったからである。何故眞人の母や叔母は大叔父の事業を継がなかったのか。それは彼女らが「女だから」ではないのか。そうすると、何故妊娠した叔母がインコたちに祀られていたかがわかる。叔母の子こそがインコの考える後継者だったからではないか。つまり、眞人の弟は大叔父の世界を継いで、現実世界に生まれてくることはなかったはずであった。したがって、弟の現実世界での誕生は、虚構世界の崩壊なくしてあり得なかった。眞人は言うまでもなく宮崎の分身である。大叔父も宮崎の分身であるのだから、弟もまたある一面では、宮崎の分身である可能性がある。というのも、宮崎は1941年生まれであり、眞人よりも弟の方が宮崎の生年に近く、宮崎は次男であるからだ。大日本帝国の崩壊亡くして現行の日本がなかったように、大叔父の虚構世界の崩壊なくしてアニメ及び宮崎の誕生はなかった*10

 ここでの宮崎の思考過程を整理してみよう。ある特定の時代が終わろうとするとき、その時代の始原にさかのぼる。そのとき、その時代の前にはまた別の時代があり、その崩壊によってその時代の成立は可能になったことに思い至る。したがって、今の時代の崩壊はその時代とともに生きた宮崎にとって喪失を意味するが、これからの世代にとってはそうではない*11。それどころか、新しい時代のためには古い時代はいつまでも延命せずに早く滅びた方がいいこともある。

 こうして、宮崎は自身の中核的な人生の部分に対する絶対的な愛着を断念し、自己の来歴と立ち位置を相対化した。自身の信じる価値に基づき、未来やそこに至る方法を語る限りにおいて、後発世代をスポイルしてしまうことに宮崎は思い至った。

 したがって、もはや宮崎にできることは、①自分はどのような環境で生まれ育ち、何を感じて人生を送り、どのような手練手管で人生を渡ってきたかを、嘘無く提示することである。そういう意味で、きっと眞人の父もまた宮崎の一面を表した姿なのである。そして、②時代やジャンルが繰り返される様子を整理して伝えること、③後発世代は今岐路に立っていることを示すこと、そして何よりも大事なことに、④後発世代を信じること、である。

まとめ

 最後に、虚構世界=(日本)アニメというジャンルの創造者に自身をなぞらえる思い上がりともいえる強い宮崎の自負を僕は感じた。そして、インコという姿で縮小再生産を行う後輩たちを描いたことにあまりの辛辣さに驚いた。これは挑発として理解すべきように思った。「こう書かれて素直にショックを受けるようじゃダメなんだ」と言っているように思った。あるいは、セルフオマージュの連打は、コピーの再生産となるためアニメの将来に責任を持つものとして自ら禁じていた手法を、実際にやって見せることでその責任から降りたことを示すもののようにも見えた。

 新世代の代表でもある眞人は、大叔父の世界を継ぐことを拒絶して、現実世界に戻ろうとした。眞人には大叔父とは違った価値体系がある。これから彼はどうするのか。(破局が迫った)現実世界と向き合い生きることも、大叔父とは別の既存の虚構世界を引き継ぐことも、持ち帰ったたった一つの石を手掛かりに新たな虚構世界を創ることも、可能である。それ以外の選択肢が本当はあるのかもしれない。そのような意味で、時代の岐路に立つ後発世代に対して、宮崎は「君たちはどういきるか」と問いかけているのである。

*1:前作『風立ちぬ』のこと。

*2:※ミルクボーイのあれみたいな振り回され方をした。

*3:したがって、本文ではセルフオマージュや映像的な寓意を対象としない。あくまで言語化可能な意味の水準で本作を扱う。

*4:この当時妻の姉妹と再婚することは珍しいことではない。

*5:誰かがそれを創ったのなら、他にも創った人がいる可能性は十分にある。

*6:本作品は「二人の父」と「二人の母」という二つの物語の軸が存在する。前者は公的な問題系として、後者は私的な問題系として物語の中では展開される。「二人の母」という問題系に関する論評は数多くあるが、特に優れているものとして「君たちはどう生きるか」における母と石と悪意のこと をあげておく。

*7:作品の舞台である前の戦争のころ

*8:虚構世界を出るとインコたちはただのインコに戻り、武力を失い、泡を食って逃げ去っていく。宮崎の悪意を感じる。

*9:自身の生き方を総括した『風立ちぬ』では主題歌に自身と大きく歳の変わらない松任谷由実を起用したのに対し、本作では若者文化の中心人物たる米津玄師を起用した。

*10:宮崎の趣味は軍事・児童文学と同世代比で「古い」趣味であり、それらのジャンルが没落していなければ、アニメという新生のジャンルに飛び込むことはなかったかもしれない。

*11:耳をすませば』の舞台である郊外は、『平成ぽんぽこ合戦』で破壊されつくした里山であり、その里山もまた『もののけ姫』において人を寄せ付けぬ神聖な原生林が破壊された成れの果てなのであった。