もののけ姫の歌詞の解釈について ――解り合えない孤独を解り合うこと

 もののけ姫の歌詞が頭から離れない。ふとした拍子にあの歌詞を思い出す。取り憑かれているかのように、何度も何度もその意味内容を反芻する。最近、ようやくその歌詞の中に圧縮された意味内容を十全に掴むことが出来た。それをこれから書く。あらかじめ断っておくと、以下解釈は監督及び作詞者である宮崎駿の意図するところとは異なる*1。一般に、解釈は必ずしも作者の意図と一致している必要はない。より説得的であるならば、作者の意図とは異なるものであっても良いという考えの下、本文を書く。

 まず下記に歌詞全文を記載する。

はりつめた弓のふるえる弦よ

月の光にざわめくおまえの心

とぎすまされた刃の美しい

そのきっさきによく似たそなたの横顔

悲しみと怒りにひそむまことの心を知るは森の精

もののけ達だけもののけ達だけ

 結論から先に書くと、この曲はアシタカとサンによるデュエット形式の歌と考えられる。宮崎によると歌詞中の「おまえ」及び「そなた」は両方ともアシタカによるサンに対する呼称とのことだが、①同一人物(サン)に対する特定人(アシタカ)による呼称が複数あることはやや不自然である。②アシタカはサンのことを作中で「そなた」と呼ぶことはあっても「おまえ」と呼んだことはない。以上から、「そなた」はアシタカからサンに対する呼称であっても、「おまえ」はそうではない可能性が高い。では、「おまえ」は誰から誰に対する呼称であるのか。歌詞中の「弓」及び「刃」というガジェットに着目すると、この問題は解けるように思われる。作中の主な弓の使い手はアシタカである。他に弓の使用の描写があるのはモブキャラクターばかりで、サン、エボシ、ジコ坊、ゴンザ、シシ神、モロの君、乙事主等の主要キャラクターに弓を使用する場面は思い当たらない。したがって、歌詞中の弓の使用者はアシタカであると考えられる。よって、歌いだしの第1行目「はりつめた弓のふるえる弦よ」の部分はアシタカパート、第2行目「月の光にざわめくおまえの心」の部分はサンパートの歌詞であると思われる。第1行目でアシタカが独白するのに応えて、第2行目ではサンから見たアシタカが歌われる。第1行目と第2行目が対になっているように、第3行目「とぎすまされた刃の美しい」と第4行目「そのきっさきによく似たそなたの横顔」も対になっている。先述のように、「そなた」はアシタカからサンに対する呼称であった。よって、第4行目はアシタカパートであろう。したがって、形式的には第3行目はサンのパートであることが類推される。また、②歌詞中においてサンとアシタカしかいないと考えるのが一般的な解釈であること、くわえて③サンは作中において刃の使用者であることも、第3行目はサンパートであることを裏付ける。第3行目ではサンが独白し、それに応える形で第4行目ではアシタカがサンを歌う。

 以上から、本曲はアシタカとサンが交互に歌っているものと考えられる。先程の歌詞全文を、担当パートがわかるようにして再掲しよう。

アシタカ「はりつめた弓のふるえる弦よ」

サン「月の光にざわめくおまえの心」

サン「とぎすまされた刃の美しい」

アシタカ「そのきっさきによく似たそなたの横顔」

アシタカ「悲しみと怒りにひそむまことの心を知るは森の精」

サン「もののけ達だけもののけ達だけ」

 ここからは歌詞の内容面の解釈に入っていく。アシタカ「はりつめた弓のふるえる弦よ」→サン「月の光にざわめくおまえの心」において、サンはアシタカの「はりつめた弓のふるえる弦」が敵を射殺す矢を放つまさにその瞬間の、アシタカの「ざわめく心」を精確に捉えている。「はりつめた弓」とはたった一人異郷で苛烈な運命を背負うアシタカの極度の緊張を示すものでもある。そして、殺人にアシタカの心がざわめくのは、殺し殺されがもたらす憎しみの連鎖の結果であるタタリ神の呪いを一身に受けながら、自らも手を汚し憎しみを生まざるを得ない業の身にあることを、その射殺す瞬間に想起せずにはいられないからである。

 次に、サン「とぎすまされた刃の美しい」→アシタカ「そのきっさきによく似たそなたの横顔」において、アシタカは「とぎすまされた刃のきっさき」の中にサンの激しい感情を見出すほどに、彼女のことを深く想っている。アシタカがサンの中に、畏敬の念を持ちながら自然とともに生きる故郷との近しさを見出したことは想像に難くない。文明化された大和民族の社会の中にあって、彼女の「とぎすまされた刃」たる高貴なる野生とその激しさ・峻厳さは一層際立つ。

 しかしながら、この曲の歌詞の意味するところが真に尊いのは、これ以降の第5行目及び第6行目が示す逆説にある。アシタカは第5行目にて「悲しみと怒りにひそむまことの心を知るは森の精」と歌う。アシタカは他の人々と異なり、サンの心には怒りだけではなく深い悲しみが巣食っていることを理解している。さらには、その深い悲しみすらも、彼女の「まことの心」ではないことを知っている。そして、アシタカは「まことの心を知るは森の精」とあるように、<自分はサンを真に理解することは出来ない>という諦念をサンに投げかけ、それを受けてサンもまた「(まことの心を知るは)もののけ達だけもののけ達だけ」と、<アシタカは自分を真に理解することは出来ない>と応えている。すなわち、互いの顔色や表情をはっきりと識別できるほど近くに寄り添いながら、そして互いに惹かれ合い・互いを想い合い、さらには深く理解し合いながらも、それが故に互いが真に解り合うことは出来ないという諦念に両者がともに至るという逆説がある*2

 何故アシタカはサンを理解しえたのか。彼もまた似た境遇にあったからだ。アシタカは大和民族との間での共通の文化的基盤を多く持たない。それ故に彼は孤独である(タタリ神の呪いは作中にて解呪されるため、本質的孤独の原因にはならない)。アシタカは自然と暮らしてきたその出自から、サンを大和民族に比してより多く理解する。一方で、アシタカは自身と大和民族との間の文化的・生育環境的距離に基づく孤独を知るが故に、大和民族とサンとの距離、ひいては自身とサンとの距離の大きさを正しく理解する。すなわち、サンの孤独の深さ・彼女の抱える困難を正しく理解する。アシタカは作中で解呪され、サンと比較すれば多くの共通基盤を大和民族との間で持っている。一方で、サンの持つ他の人類との文化的共通基盤はあまりに貧弱である。くわえてサンは母を喪い、森を失い、シシ神を喪った。その意味で、サンの孤独は一層深い。

 それでもアシタカはサンに「生きろ」と言う。「ともに生きよう」、「会いに行く」と言う。共通の語彙・基盤をこれから築いていこうとしているからだ。ないものはこれから作っていけばいいと考えているからだ。ここにおいては、<解り合えないことを解り合うこと>とは行き詰まりではなくはじまりである。生半な方法では両者の間に横たわる問題は解決されないことを理解してはじめて、適切な一歩を踏み出すことが可能になる。アシタカとサンの諦念の描写はあまりに美しいと僕は思う。しかし、宮崎駿はそこで踏みとどまることをよしとしなかった。『もののけ姫』主題歌で歌われる二人の心情は、過渡期のものであり、物語の結論における二人は諦念・詠嘆を前提としたその先へ一歩だけ踏み出していたのだ。

 

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*1:具体的には、メイキングビデオ『もののけ姫はこうして生まれた』での宮崎発言とは異なった解釈をしている。宮崎発言では、この歌詞はアシタカがサンのことを歌ったものとあるが、本文においては必ずしもそのように解釈しない。

*2:サンもまたアシタカを理解することは出来ないだろう。ただし、世の人々はアシタカを理解することが出来るだろう。