キメラアント編考察② 人類からの贈り物 ――無償の愛と底すらない悪意

 前回はメルエムがネテロ・コムギに与えたもの、そして人類すべてに与えようとしたものについて書いた。ネテロとコムギは彼からの贈り物を受け取り、幸福のうちに死んでいったが、人類は彼からの贈り物を拒み、人類の持つ最も暗い部分をもって彼に報いた。

 本文では、彼の成長・変化の過程を追いながら、彼が触れてきた人類の最良の部分を見ていこうと思う。彼はただひたすらに、人類の最良の部分を味わい、人類がもたらした贈り物を誰よりも貪欲に吸収していった。その短い生涯の中で、知的にも精神的にもすさまじい早さで成長・変化し、人生が完成に至るその瞬間まで、その生を燃焼し尽くした。彗星のように消え去っていった彼と人類との交流の場面たちは、我々読者に「言い知れない何か」を残していった。それを一つずつ解き明かしていきたい。

暴君の誕生

 生まれてすぐのメルエムは野獣ですらない何かだった。母の胎を突き破って誕生し、自らにより死にかかった母を一顧だにしない。そして、腹が減れば同族すら衆人環視中で手にかけ喰らう。知性を持った生物が持つべき最低限の品性も持ち合わせてはいない。ささいなことで癇癪を起して部下の殺害を試み、口癖は「二度言わすな」だった。人類に対しても家畜以上の感情を持ち合わせることはなく、搾取の対象としてのみ扱った。

 しかし、暴力という点において、他に隔絶した力を持っていることは明らかであったため、彼は早々にその力を振るい・誇示することをやめた。この点、師団長クラスの蟻たちとは対照的である。彼はあらゆる点における自らの卓越性を確かめるため、知的遊戯に興じるようになる。その中で彼は「運命の人」コムギと出会う。

コムギとの出会い

 コムギはこれまでの対局相手とは全く異なっていた。まずメルエムは彼女の底の見えない強さに驚く。彼女の価値を真に理解することが出来るのは、彼女に匹敵する知性をメルエムが持つからである。

「不細工な……知性・品性の欠片も感じれぬ 何故斯様な者から 論理の究極とでも表現すべき美しい棋譜が泉の如く生み出されるのだ……⁉」

 メルエムは初めて自身に優越する能力を持った存在に出会う。それと同時に、彼は自分の中の新しい部分に気づく。

「わからぬ 不愉快だ 呼吸を乱されているのは終始余の方 本来ならば心身湯立つ程受け入れ難い屈辱‼ だが…苛立ちながらも其れを愉しんでいる自分が一方に在る…!その源泉がわからぬ」

 ここにおいて、メルエムはもはやただの暴君ではない。自身が他に優越することは自明のことであり、彼が真に知りたい・出会いたいのは、相対するに値するような偉大な存在なのである。ネテロやコムギが抱いていたような渇きを、彼は感じ始めていた。何故彼は自身の卓越性が証明されるだけでは満足しないのか。それは、彼が「誇り高い王」であったからだ。

ギリシア人は、文学でも美術でも、敵も味方も同じように勇敢で高貴で美しいものとしてあらわす。卑劣なものや弱小なものたいする勝利は讃えるに価いしない。尊敬すべき敵に勝ってこそ誇るにたりるのだ。」―――『世界の歴史4 ギリシア河出書房新社)』

 この時点ではまだメルエムはコムギの強さしか見てない。まだ彼女を、あるいは人類を甘く見ている。メルエムは盤外の揺さぶりを試みる。彼女が勝てば望むものを与え、負ければ左腕をもらうと言った。欲望と恐怖で呼吸を乱そうというのだ。しかし、コムギには全く通用しない。さらには、コムギから①自分が負けるときは死ぬときであること、②常日頃からその気概で対局に臨んでいることを告げられる。この瞬間、メルエムは人生初めての敗北を味わう。彼が盤外戦を仕掛けたのは、欲望や恐怖で呼吸が乱れると高をくくっていたからであり、また、彼女の精神性あるいは覚悟を甘く見ていたからだ。しかし、今やメルエムは「覚悟が足りなかったのは余の方」であることを痛感する。対局の敗北は負けにはカウントされない。それは技量の問題であり、上達すればよいだけのことだからだ。問題は覚悟であり、それはつまるところ精神性の偉大さにある。欲望も恐怖もなく、ただひたすらに軍儀のことだけにすべてを捧げるその在り方に、メルエムは深い感銘を受ける。メルエムは西郷隆盛が理想とした人間のある境地を垣間見たのだと思う。

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るものなり。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」

生物学的価値体系の動揺と無数の問いのはじまり

 メルエムはおそらく誰よりも聡明である。だから、コムギが多くを語らずとも、一を聞いて十を知ることが出来る。コムギの恐るべき知性と偉大な精神性だけでなく、人類の卓越性とその多様性、さらには価値尺度の多様性の発見にまで至る。翻って、単純素朴にこれまで信じていたメルエム→無数の蟻の部下たち→人間という序列意識が彼の中で揺らぎ始める。メルエムがコムギに敗北を感じ、彼女の偉大さを認めたこの瞬間が、人類とキメラアントにとって、決定的な運命の瞬間であった。

 ここにおいて、コムギはもはやメルエムにとって卑小で下等な生物ではない。彼は彼女を尊重に値する一個の存在として扱うようになる。だからこそ、ここで初めてメルエムはコムギの名前を知ろうとするのだ。自分の名前を答えたコムギは、メルエムに「総帥様は何とおっしゃられるのか」と名前を聞き返す。彼女は純粋な興味から質問したことに注意したい。コムギは総帥という肩書に関心などない(総帥に取り入るとか賭けに勝つことで家族を楽させようとか、そういった発想すらない)。はじめて自分に匹敵しうる頭脳を持った存在に出会ったから、彼女は関心を持ったのだ。

 このときメルエムはコムギにとって、敵でも味方でも、統治者でも抑圧者・搾取者でもない。軍儀を通して出会った尊敬できる対等な存在として、メルエムを見ている。彼女の透き通るような純粋さを前に、メルエムは激しく揺さぶられる。彼の中にあった自明なことたちは崩れ落ち、次から次へと疑問がわき出てくる。一を聞いて十を知る彼の凄まじいまでの聡明さ故の疑問である。「余の名前は何という?」、「余はこいつをどうしたいのだ・・・⁉」、「余は何者だ・・・?」、「余は一体何の為に生まれて来た・・・?」。メルエムはキメラアントという種族の中での自分の生物学的な位置づけや役割に基づいた自身の説明にもはや満足しない。

 コムギとの出会いは、メルエムの人間観を変えた。苦痛や死への「生物的」恐怖ではなく、金や権力のような「世俗的」欲望でもなく、人生の全てを「文化的」価値のために捧げる。そんな生き方があることをメルエムははじめて知る。キメラアントは人間という種の写し鏡である。メルエムの人間観の変化とは、彼の人生観・世界観の変化を同時に意味する。キメラアントの「本能」としてではなく、キメラアントの種の頂点として「家臣」たちに望まれる「世俗・社会的」な任務としてでもなく、自分にも真に生きるに値する「自分だけ」の意味があるのではないか。その渇望に気づくのである。

「余は何者だ・・・?名もなき王 借り物の城 眼下に集うは意志持たぬ人形 これが余に与えられた天命ならば 退屈と断ずるに些かの躊躇も持たぬ‼」

プライバシー観念の誕生

 上記のように独白した直後に、ピトーに円で自身を監視するのをやめるように言ったことは興味深い。いわば、プライバシーの観念が彼の中に生まれたのだ。プライバシーとは公私を分離し、私の部分については他者に監視・干渉させないものだ。蟻にプライバシーの観念などあるはずもない。そして、王にプライバシーの観念などあるはずもない。キメラアントの本能に従って主従が生きるとき、絶対服従の家臣に隠さなければならない事柄などないはずだ。あるいは、人類史的事実から言って、王に公私の区分は存在しない。

 例えば、近世ヨーロッパでは、王族の出産は公開が原則であった。「本当に王族から生まれた子どもであるのか」が、国政にとって重大事であったからだ。最も私的な行為である出産ですらも、王族の場合は公的な意味をまとわずにはいられない。また、国内の人間が王族と親密な関係にあるとき、そのことはその者が権力を握る契機に他ならない。そして、ただの一般人同士なら「私的な交流」に過ぎないことも、それが国外の者との交流であるとき、外交的意味合いが生じることは避けられない。それ故、王の近臣は王に近づく人物を管理し限定しようとする。

 王と近臣の価値判断が一致していれば、近臣の監視・管理・限定は王にとって不自由とは観念されないが、逆に一致しないときは王にとってそれは大変窮屈に感じられることになる。本編におけるメルエムの監視の拒絶は、キメラアントあるいは王としての本能・役割からの離脱が始まったことを示している。メルエムは人間化していく。この点、プフは全く正しく状況を理解し、今後の行く末も感知していた。

「苛立ちの根・・・大方の予想はつく 私の能力・・・”鱗粉乃愛泉”ならばそれはより明確になろう しかしそれは王に対する最大の侮辱行為・・・いや・・・それは言い訳・・・正直に言おう 私は恐れているのだ 現在王に芽生えているものが この上なく不安で恐ろしくてたまらないのだ・・・」

 プライバシーの観念は、独立した個人の誕生とも密接に関係している。そのことを示すために、孫引きになるが手元にある有斐閣社会学』の教科書で引用される『明治大正史 世相篇』における柳田國男の記述を引こう。

「家の若人らが用のない時刻に、退いて本を読んでいたのもまたその同じ片隅(窓際)であった。彼らは追い追いに家長も知らぬことを、知りまたは考えるようになってきて、心の小座敷もまた小さく別れたのである」

 あるいは、あまりに有名なヴァージニア・ウルフの名言を引用しよう。

「女性が小説を書こうとするなら、お金と自分だけの部屋を持たなければならない」

 上記2つの引用は、家父長制を内面化した主体が、自分だけの空間を確保することを通じて、伝統社会から個人を切り出していく様を描き出している。すなわち、他者に干渉されない物理的条件が内面を生み出し、その内面が個人の自立・確立を基礎づける。キメラアント編においては、護衛軍の監視・干渉を排除することで、メルエムはキメラアントの本能とは別種の内面を少しずつ切り出していった。そして、種族の王ではなく一人の個人を形作っていった。

王の名前という問題

 メルエムが自身の名前を欲したこともまた大変興味深く示唆的である。何故メルエムには名前がないのか。それは作中でプフが言うように、彼が唯一無二の存在であり、王と言えばメルエムのことを指すからである。

 この点、日本における天皇制が想起される。彼らもまた姓を持たない。そもそも姓とは天皇が臣民を管理するために与えたものであった。したがって、管理する主体である天皇は姓を持つ必要がない*1首相官邸公式HPでの記述を引用しよう。

①姓は天皇から賜与されるもので、天皇・皇族は有しないもの

・わが国においては、姓は、臣民たることの表象として、その奉仕や忠誠の度合いに応じて天皇から賜与されるものであった。

・従って、天皇・皇族は姓を有しない。

・姓は、公式の呼称とされ、戸籍への登録、公文書における表記等に用いられた。

 上記の記述を見れば、メルエムが「余の名前は何という?」と言ったとき、ユピーが「私には荷が勝ち過ぎる問題・・・到底答えを持ち得ることかないませぬ」と答えた理由がわかるだろう。

 王直属護衛軍の三人にとってメルエムは王以外の何者でもない。しかし、メルエム自身は<王であること>だけでは満足していない。<自分が生きるに足りるそれ以上の何か>を求めている。そして、蟻という存在たちの内部においては決して与えられなかった何物かを与える存在は、搾取対象であるはずのコムギ・ネテロという人類たちであった。

コムギとネテロ――文武の代表者たち

 彼らは人類の文武における代表者である。文武はそれぞれ異なる特徴を持つ。武はその性質上真剣勝負である限りにおいて、少なくとも一方に不可逆的な破壊をもたらす。試合と真剣勝負は違う。前者はあくまでゲームでありルールに基づいて勝敗が決するが、後者はヒソカvsクロロや幽遊白書における飛影vs時雨*2のように、命を賭けた戦いである。取り返しがつかない一回性の出来事であることに、武における真剣勝負は意義がある。

 一方で、文は真剣勝負が何度でも可能である。また、相対者を破壊することなく、真剣勝負を通じて互いを高め合うことが出来る。文において勝負は目的ではなく手段である。では、文の目的とは何か。真実や美により一歩でも多く近づくことである。対戦相手とは一つの作品を生み出すための共同作業者である。武の本質とは異なり、相手を傷つけたり滅ぼしたりすることは目的ではない。

 また、武とは暴力にほかならず、その本質及び延長線上には核兵器が象徴する暗い側面がある。くわえて、武=暴力は治安及び統治の裏付けを与えるという意味で、人間社会全体を支えている。いわば、公に対する責任を負っている。武の体現者であるネテロは、武人であると同時に、人類の未来を一身に背負う公的立場も担っていた。それに応じて、彼の死には二つの意味が付与される。すなわち①武人として「真剣勝負で死にたい」というものと、②人類の未来を背負う者として「死ななければならない」というものである。

 対して、文はそれ自体が目的であるという極私的な純粋さを持つ。何を背負うわけでもなく、ただ「私のために」それをするのだ。暴力がもたらす悪意と憎悪に対し、文は敬愛と好意をもたらす。暴力はどちらか一方の強制だけでもやり取りされるが、文は相互の意志の一致に基づきやり取りされる。文の体現者であるコムギは、外界で何が起きているか最後まで知ることはなかった(人類の未来に対する責任を負っていなかった)。そして、メルエムのためにその命を捧げた。すなわち、彼女の死には二つの意味が付与される。①文人としてただひたすらに「素晴らしい対局の中で死にたい」というものと、②愛し愛される者として「メルエムのために」死にたいというものである。

 文は共通の言語なくしてやり取りされ得ないが、武はそれ自体が種族を超えた共通の言語であることにも着目したい。その性質故に、メルエムは当初、下記のような感想を持ったのだった。

「理不尽に現れ他の数多ある脆い強さを奪い 踏み躙り壊す・・・‼それが余の力 暴力こそ この世で最も強い能力(チカラ)‼」

文人からの贈り物

 暴力こそ至高の能力であるとふっきれたつもりのメルエムは、コムギを「もう用済みである」と殺そうとした。にもかかわらず何故彼女を助けたか。何故彼女を客人として扱おうとしたのか。暴力以外の価値をメルエムは学んだからに他ならない。コムギが体現する文の極致は一つの奇跡をもたらした。僕は古今和歌集仮名序を想起する。

「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」

 文とは数ある文化の中の一つである。文化とは(それを解する能力が相手にある限りにおいて)敵味方等の立場を超えて、すべての存在が共有する共通財産である。メルエムはキメラアント社会の頂上に君臨する統治者であるだけでなく、いまや人類が脈々と紡ぎだしてきた文化共同体の一員であり、その文化の鑑賞者・担い手でもあるのだ。

 このことに関連して、前回に続いて再び『ヒカルの碁』のシーンを引用しよう。物語のラストにおいて、ヒカルは対局相手から「何故碁を打つのか」と問われる。直前の対局での敗北による悔しさのあまり涙を流しながら、自分の中にある、負けても変わらないその答えを話す。

「…………遠い過去と遠い未来をつなげるために そのためにオレはいるんだ」

 ヒカルの言葉は秀策やサイの存在を念頭に置いたものである。それに対して、対局相手の高永夏はこう返す。

「遠い過去と遠い未来をつなげるためにオマエがいる? オレ達は皆そうだろう」

 そして、この二人の会話を受けて楊海は会場を後にしながら以下のように言う。

「まァ 進藤君と違い秀策1人にこだわった言葉じゃないだろうが―――青臭いガキのセリフさ 遠い過去と遠い未来をつなげる? そんなの今生きてるヤツ誰だってそうだろ 棋士囲碁も関係ナシ 国も何もかも関係ナシ なぜ碁を打つのかもなぜ生きてるのかも一緒じゃないか」

 まずは与えられ今度は自らが与える文化の共同体、真理と美の奉仕者の集団にメルエムは対局を通じて組み込まれていた。ここにおいては敵も味方も身分も立場も存在せず、彼は平等で対等な集団の中の一人に過ぎない。そして、彼は「コムギを通じて」多くの贈り物を得て、「コムギとともに」多くの作品を残した。

武人からの贈り物

 ネテロとメルエムとの交流は何を生んだのだろうか。当初メルエムはネテロと命のやり取りを望まなかった。しぶしぶ戦うことになったときも、「飛車角落ち」での「対局」であった。ネテロ主観では真剣勝負であっても、メルエムにとっては真剣勝負ではなかった。メルエムはネテロの武を文化の一つとして鑑賞したのである。

「其の方が 己を高めんが為捧げ続けた永き時 その成果 しかと受け取った 一個が修練の末届き得る限界 それを卓越した稀有な事例といえよう」

 ユピーが敵の心意気に感心したのに対し、メルエムはネテロの極限まで磨き上げられた技とその背景にある生き様を称賛したこと、あるいはその解像度の高さに注意したい。この鑑賞眼はコムギとの対局によって磨かれた。そして、コムギとの対局の経験は、彼の戦い方そのものまでをも引き上げたのだった。「無数にそそり立つ針の穴から正解を導き出し 精確に糸の矢を貫き通しその先の的を射抜く」ような超絶技巧をメルエムはやってのけた。ネテロの四肢をはじめて吹き飛ばした場面である。

「(コムギとの対局が予知のごとき先見を可能にした……‼)貴様が無意識に嫌う型......その存在が本来無限であるはずの選択に標を示すのだ」

 右足の次は左腕を飛ばし、ネテロを土俵際まで追い込むメルエム。ここでメルエムは再びの説得を試みる。

「繁殖に人間を利する事はなくなった 人間の強い『我』が 蟻の統率を著しく乱す事がわかった故 貴様に免じ特区を設け人類の永住を許可しよう 食用にする人間も選定の際に数や質を考慮する 貴様の孤独な戦いは無駄ではなかったのだ」

 今まで積み上げてきたすべてを絞りつくすことで、ネテロは人間の意地を見せた。メルエムはそれを余すことなく受け取った。それはネテロ個人への敬意になり、さらにはその我の強さは人類全体の誇り高さとして理解された。

 コムギがメルエムから勝ち取ったのは、コムギ個人の安全と「生かすに足る人間がいる」とメルエムに理解させたことであるが、それだけでは人類全体を守ることは出来ない。ネテロの奮闘によりはじめて、「繁殖に人間を利する事はない」との明言を得ることが出来た。

 譲歩を勝ち取りながらも、ネテロは武の本質を貫徹した。すなわち、武の中にある文化的側面(それ自体が目的となるもの)と破壊的側面(何か他の目的のために手段となるもの)のうち、より武の特質として根本的な後者を全面化した。それは、自分の命も武人のプライドもかなぐり捨てて、公的責任を果たすために相手を完全に滅ぼすことである。

 ネテロからメルエムへのもう一つの贈り物(それは人類から蟻への贈り物でもある)。貧者の薔薇。それは人類の英知の結晶であった。「人間の底すら無い悪意(進化)」が遂に生み出した、これもまた一つの成果物なのである。

 チャーチル第一次大戦後に書いた『世界の危機』における有名な記述が想起される。ここにおいてチャーチルは、暴力から個人の武勇が剥ぎ取られ、システム化されていく様を描いた。そして、その究極的帰結に原子爆弾の誕生を事実上予見していた。

「戦争から、きらめきと魔術的な美がついに奪い盗られてしまった。
アレクサンダーやシーザーやナポレオンが、兵士たちと危険を分かち合いながら、馬で戦場を駆け巡り、帝国の運命を決する。
そんなことはもうなくなった。
これからの英雄は、安全で静かで、物憂い事務室にいて書記官たちに取り囲まれて座る。
一方、何千という兵士たちが、電話一本で機械の力によって殺され息の根を止められる。
これから先に起こる戦争は、女性や子供や一般市民全体を殺す事になるだろう。
やがて、それぞれの国々は大規模で、限界のない、一度発動されたら制御不可能となるような破壊の為のシステムを産み出すことになる。
人類は、初めて自分たちを絶滅させることが出来る道具を手に入れた。
これこそが、人類の栄光と苦労の全てが最後に到達した運命である。」

毒麦のたとえ

 メルエムは主にコムギとの交流と通じて、次々に変化を遂げていくことをこれまで見てきた。最も彼のそばにいて彼を理解し、いち早くその変化に気づいていたのはプフだったことは特筆に値する。①生まれてはじめて人間(コムギ)の話を辛抱強く聞き続けたこと、②珍しくあるいははじめて前言を撤回したこと、③王が軍儀で人類に勝たねばならない理由、④メルエムが「コムギ」と名前で呼んだこと、⑤コムギを案じ自ら彼女のいる部屋へ向かったこと、これらはすべてプフを通して作中では語られた。プフは早々からはっきりとコムギの存在を危険視していた。彼にとってその危惧は結果として正しかった。それだけでなく、彼は感情面においてもコムギの存在を許せなかった。

「いや……無能のプフよ お前は認めたくないだけ‼あの女といっしょにいてほしくない‼‼絶対の王が万が一にも下賤な人間の身を案じ自ら下賤な人間の部屋に足を運ぶなどあってはならないっ」

 思うに、コムギとは蟻側にとって毒麦であった。すなわち、『マタイによる福音書』13章の毒麦のたとえである。

「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。(中略)それからイエスは、群衆をあとに残して家にはいられた。すると弟子たちは、みもとにきて言った、「畑の毒麦の譬を説明してください」。イエスは答えて言われた、「良い種をまく者は、人の子である。畑は世界である。良い種と言うのは御国の子たちで、毒麦は悪い者の子たちである。それをまいた敵は悪魔である。収穫とは世の終りのことで、刈る者は御使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。」

 コムギは蟻たちにとって、麦畑に紛れ込んだ毒麦のように見えた。上記引用の意味するところは、「対象の価値を人間が判断することはできない。その判断が出来るのは最後の審判を下す神だけである」というものだと僕は理解する。コムギが毒麦であったかは、本当のところはわからない。

 そして、人類にとってはメルエムが毒麦のように見えた。メルエムとコムギの交流とは、異種同士が文化という穏当な接触面にて互いを深く知り合い・相互作用するという一種の実験であり、本人たちの意図せぬ外交でもあった(王の私的交流は公的な意味合いを帯びることはすでに述べた)。

 この実験は様々なものを産んだ。コムギを通してメルエムは、暴力とは別の偉大な何物かがこの世界に存在すること、この世界には様々な求道者がいて、理解を絶する意志と鍛錬と到達があることを知る。すなわち、人間へのリスペクトを持つようになった。

 この作品の心憎いところは、この極私的な奇跡と大局レベルでの必然が同居している点にある。コムギとの出会いをきっかけに、メルエムは寛容さ、公正さ、敬意、感謝等の徳目を次々に身につけていく。最後には護衛軍の三名のことを「余には過ぎた者たちであった」とまで述懐する。

 ただし、統治者にふさわしい弱者への労りや慈しみ、情けまでもを持つに至ったかは作中の描写ではわからない。何故ならばメルエム(とコムギ)の加速度的な成長*3は、その途中において無残にも中絶させられてしまうからだ。これからもっともっと高みへ行くはずだった発展途上の二人は、「収穫まで育つままにして」おいてもらえなかった。「毒麦」を引き抜いたのはキメラアントではなく人類の方だったことは明記しておく必要があるだろう。

 この点こそが大局的必然である。核戦力を持ち無数の人員と組織を誇る人類に、王という急所を持つ蟻が勝つことはない。周りへの被害を避けるため、また話し合うために戦う場所を移したメルエムの賢慮をネテロは踏み躙った。本当のことを言うと、戦う場所が変更された時点で、すでに人間と蟻との戦いの趨勢及び彼らの運命は決していた。

 そう考えると、メルエムの再三にわたるネテロへの説得は、あまりに空しく響いてこないか。本編では届かなかった想い、報われなかった願いが数多くある。ゴンのカイトへの想い、シャウアプフの献身、ナックルが望んだ解り合うこと、メルエムの提案した人類の未来等々。報われなかった願いがあまりに多いからこそ、最期に結ばれたメルエムとコムギの姿は際立つ。

メルエムとコムギの情死 ――あるいは人格的完成

 種を超えて惹かれ合い、そして様々な妨害や障害を乗り越え、とうとう最期には二人は結ばれる。初めから最後まで血生臭く凄惨なキメラアント編において、その物語の中心に情死に至るロマンチズムが配置されていたことは驚嘆すべきことである。

 最期の時を過ごす相手に選ばれず、とうとう報われないまま広場で骸を晒して死んだシャウアプフとの対比に着目したい。プフはすべてを捧げた。にもかかわらず報われなかった。何故か。プフの思慕は一方通行であった。メルエムにとって、護衛軍たちは手足のようなものだった。白と言えば白になり、黒と言えば黒になる。不随意に動くことなどない。メルエムは眼下に集う人々を「意志持たぬ人形」と呼んだ。退屈を感じていた。護衛軍もまた彼にとってはじめから与えられていた人形だった。

 一方、コムギはメルエムにとって思い通りにならないはじめての存在として現れた。彼女と出会うことでメルエムは様々な問いを受け取った。317話『返答』はそれに対する答えが示される。メルエムはコムギに自身の名前を伝える。それに対してコムギは再度自身の名前をメルエムに伝える。

「……知っておるわ…………いや そうだな……知らなかった 余は…何が大事なものかを……何も知らなかったようだ…」

 名前とは識別記号ではない。識別記号であるならば、王は名を持つ必要などない。女王の願いが込められたその名前はコルトへ、コルトからネテロへ、ネテロからメルエムへ、そして最後にはコムギへ。それぞれ異なった、しかしいずれも真摯で切実な想いをもって、蟻から人へ、人から蟻へ、そして再び蟻から人へと伝えられた。「二度言わすな」が口癖だったメルエムが、死の間際には何度も何度もコムギの名を呼んだこと、最後に名前を呼んでほしいと願って死んでいったことはそのような文脈*4の中で理解される必要がある。

 メルエムはコムギを手段=道具としてではなく、目的=人格として扱った。その予兆はすでにあった。コムギの名を想起させるきっかけを作ったウェルフィンに礼を言い、パームに首を垂れてコムギの居場所を聞き出そうとした。どちらも効率だけを考えるならばする必要のないことだ。十分過ぎるほど力に訴えるだけの実力は持っている。

 ウェルフィンに礼を言った瞬間のプフの嗚咽を見逃すべきでない。プフは全く正しい。この瞬間、メルエムは完全に蟻ではなくなった。そして、間もなく彼は人格的完成を迎える。コムギとの対局の時である。一度死んだ狐狐狸固は二人の子として*5よみがえる。対してメルエムは逆新手を繰り出す。コムギの目からから涙が溢れる。

「どうした…?なぜ泣く…⁉」

「……ワダす…ワダすが……こんなに…幸せでいいのでしょうか?ワダすに…..ワダすみたいな者に…こんなに素敵な事がいくつも起きていいんでしょうか…?」

 歓喜に打ち震えるコムギとは対照的に、メルエムの顔には影が差す。この瞬間に、メルエムは最後の生きる目的を諦めた。彼女はここで死んでいい人間ではない。もっともっと未来がある。そして、今日起きた奇跡の記録を未来へ紡いでいく人間も必要なのだ。つまるところ、自分は彼女を道具として利用していること、その事実に「自分が耐えられないこと」に気づくのだ。だから、①自分は長くないこと、②最期に共に過ごしたかったこと、③長居すると道連れになることをここで明かす。かつては、少しでも意に添わなければ他を圧倒する暴力で意志を貫徹したメルエムが、である。メルエムの「告白」に対し、間を置かずコムギは逆新手返しでそれに応じた。一緒に死ぬとも言った。メルエムの表情から、彼女の返答は望外のことだったと伺える。この瞬間にメルエムの人生は完成する。

「…そうか 余は この瞬間のために 生まれて来たのだ…‼」

 これがもう一つの回答である。メルエムは真に取り組むに値する何かを見つけ、それに没頭し、ある種の到達を見た。そして、見返りを求めない無償の愛は、もう一つの無償の愛によって奇跡的に報いられた。この喜びをより深く理解するために、『歓喜の歌』を引用しよう。

おお友よ、このような旋律ではない!/もっと心地よいものを歌おうではないか/もっと喜びに満ち溢れるものを

歓喜よ、神々の麗しき霊感/天上楽園の乙女よ/我々は火のように酔いしれて/崇高なる者(歓喜)よ、汝の聖所に入る

汝が魔力は再び結び合わせる/時流が強く切り離したものを/すべての人々は兄弟となる/汝の柔らかな翼が留まる所で

ひとりの友の友となるという/大きな成功を勝ち取った者/心優しき妻を得た者は/自身の歓喜の声を合わせよ

そうだ、地球上にただ一人だけでも/心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ/そしてそれがどうしてもできなかった者は/この輪から泣く泣く立ち去るがよい

すべての存在は/自然の乳房から歓喜を飲み/すべての善人もすべての悪人も/自然がつけた薔薇の路をたどる

自然は口づけと葡萄の木と/死の試練を受けた友を与えてくれた/快楽は虫けらのような者にも与えられ/智天使ケルビムは神の前に立つ

天の壮麗な配置の中を/星々が駆け巡るように楽しげに/兄弟よ、自らの道を進め/英雄が勝利を目指すように喜ばしく

抱き合おう、諸人(もろびと)よ!/この口づけを全世界に!/兄弟よ、この星空の上に/聖なる父が住みたもうはず

ひざまずくか、諸人よ?/創造主を感じるか、世界中の者どもよ/星空の上に神を求めよ/星の彼方に必ず神は住みたもう

まとめ

 人類にはもたらされるはずだった祝福も、二人が産んだ文化的達成も、愛し合う二人が結ばれ・報われて死んでいったというささやかな奇跡も、これからあり得たかもしれないあらゆる可能性も、すべては闇に葬られてしまった。千里眼のパームすら、二人の最期は知っても、そこに至るまでの道程を知ることはない。それは二人だけの奇跡であった。他にそれを知っているのは、作中世界の外側にいる読者たる我々だけである。

 メルエムは数十日に過ぎないその生涯の中で、凄まじい早さで変貌を遂げた。獣から王に、王から人に、そして最後には神に限りなく近づいて死んでいった。

「………ほんの少し…だったと思う どこかでほんの少し……何かがほんの少し違っただけで 今の余ならば 神とまでは言わぬが……この世を…………いや 全てが一致しての現在だからこそ そう思うだけなのかも知れぬ」

 メルエムは「全てが一致」と言った。ここでネテロとコムギがメルエムに示し・与えたものたちを確認しよう。ネテロは人生のすべてを燃やし尽くして個の極致を示し、人間の意地を見せた。それにくわえて、名前と死を与えた。コムギは人間の価値そのものを教え、あらゆる徳目を授けた。そして、生きる意味と永遠の命を与えたのだった。ネテロとコムギは、武力と知性であるいは暴力と愛でメルエムを包み込み、彼を抹殺しながら永遠の命を与えた。そうすることで、人類は彼を無力化した。この相矛盾しながらもより高次の目的を達成する人間の複雑さを暗示するかのような、ネテロの最終奥義「百式観音零の掌」が繰り出される際のナレーションを見てみよう。

百式観音零の掌は敵背後から現れし観音が有無を言わさぬ慈愛の掌衣でもって対象を優しく包み込みネテロの渾身の全オーラを目も眩む恒星のごとき光弾に変え撃ち放つ無慈悲の咆哮である」

 この意図せざる共犯、あるいは人類の多様性と複雑さの前に、生まれたばかりのメルエムが敵うはずもない。惜しみなく与え、惜しみなく奪う。この限りない愛と底知れぬ悪意こそが、人間そのものであり、そのどちらもが人間の抱える業または原罪なのである。メルエムは人間が抱えるその二面性を味わい尽くして死んだのだった。

 最後に、メルエムとコムギとの関係を描いたかのようなランボーの詩『小話』を引用しよう。

 「ある『王子』が、かえりみれば、ただただ何の奇もない贅沢三昧に、日を暮して来た事を思ってむかむかした。彼は恋愛の驚くべき革命を予見していた。妻妾たちには、お天気と装飾とに甘やかされた喜び以上のものは一体が無理ではないのかと考えていた。彼には真実が欲しかった、ほんとうの願望と満足とが得たかった。たとい、これが信心の迷い事であったにせよ、なかったにしろ、兎も角彼は願ったのだ。少くとも、彼は充分に人間の力は持っていた。

 彼を知った女たちは、すべて殺された。美の園の、何という掠奪だ。剣の下で、女らは彼を讃えた。それ以来、新しい女を命じなかった。──が、女たちはまた現れた。

 狩や、飲酒の後、彼は従うものをすべて殺した。──だが、皆彼のあとを追った。

 高価な動物の喉を割って楽しんだ。宮殿を焼いた。人々の頭上に跳りかかって、彼らを寸断した。──だが、群衆も金色の屋根も美しい動物も、やっぱりなくならなかった。

 破壊の裡に酔う事が出来るのか、残虐によって青春を取戻す事が出来るのか。誰一人文句を言うものもない、誰一人同意を称えるものもないのだ。

 ある夕方、彼は昂然として馬を駆った。と、何とも言いようのない、いや、言うも切ないほど麗しい一人の『天才』が姿を現した。その面から、姿から、何とも定め難い、いや、支え兼ねるほどの幸福の、幾重にも錯雑した恋愛の約束が放たれた。『王子』と『天才』とは、恐らくは真の健康の裡に、互に刺違えた。この時、どうして生きながらえる事が出来ただろう。二人は一緒に死んで行った。

 だが、この『王子』は、その宮殿で、尋常の齢、天寿に由って身罷った。『王子』は『天才』であった。『天才』は『王子』であった。

 優れた音楽が、われわれの慾望には欠けている。」

次回

 「欲望としての優れた音楽が欠けている」人類は、メルエム・コムギ・ネテロの死後も相変わらず、人格的完成とは程遠い人々による狂騒をくり返す。人である限り「善人も悪人もいつの世も人はくり返す」のだ。ネテロの死を機縁とする選挙編は、キメラアント編の「祭りの後」である。キメラアント編がハレであるならば、選挙編はケである。

 ①選挙によって選出される会長と生まれついての王、②私利私欲にまみれた人々と公正無私の王、③試験を通じて選抜される選良と生まれですべてのリソース配分が決まる蟻の兵士など、キメラアントと人類との間には対比が数多く見出される。選挙編はその対比を念頭に置いて作られたものと思われる。選挙編をも射程に入れることで、次回は特に統治の観点から、メルエムとは何者であったのかを見てみたい。

 

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*1:なお、天皇という称号の元となった中国の皇帝は姓を持っていた。

*2:この場面において躯は幽遊白書屈指の名台詞「真剣勝負は技量にかかわらずいいものだ 決する瞬間 互いの道程が花火のように咲いて散る」を吐いたのだった。

*3:メルエムは食べれば食べるほど強くなる。また、プフやユピーを食べることでその能力を我が物とした。であるならば、食べた対象の精神的・人格的美質もまた吸収していた可能性がある。彼が急速に人格的完成に至ったのは、彼が数多くレアモノを食べたからではないか。そのように考えると、より陰影に富んだ物語として本作は見えてくる。

*4:この点は映画『そして父になる』の物語構造と酷似している。『そして父になる』については以前のブログで書いた。

*5:富樫作品では生物学的な子を残さない異種婚というモチーフがしばしば現れる。また、人を愛した食人生物というモチーフもまた冨樫作品には頻出である。