バトル漫画の本質について 暴力とその正当性

まとめ

10年代以降の作品群について

 ここまでで、80年代作品群の特徴、90年代模索期の特徴と成果、00年代に受け継がれた遺産を見てきた。10年代以降の作品群においても、基本的に同傾向の物語フォーマットが見られる。特に特筆すべきものとして、『約束のネバーランド』では統治秩序との闘争と知恵比べがあり、『僕のヒーローアカデミア』では正義のあり方それ自体をど真ん中に扱う物語であり、個性(これは当然に内面の掘り下げ、戦う動機を要請する)がなによりも大切とされる世界観である。また、『チェンソーマン』、『呪術廻戦』は、(1)頭脳戦、(2)統治機構及び所属組織の正義の正当性問題、(3)内面の掘り下げによる戦う動機の個人化・複雑化という要素がよく引き継がれている。他誌の大ヒット作品である『鋼の錬金術師』、『進撃の巨人』においても、(1)~(3)の諸要素が物語の必須要素として取り入れられていること、すなわち、作品の大ヒットを決定づける重要要素であると思われることについても言及しておこう。

 一方で、10年代以降になって、これらの要素を必ずしも含まれない作品が出たことについても言及しておかなければならない。すなわち、『ブラッククローバー』と『鬼滅の刃』である。両作品とも物語の構造が80年代への先祖返りのように単純である。この事態は、以前ブログで書いたように、物語構造の複雑化が進んだことに対する反動のように思われる。内容の高度化・複雑化は読者の間口を狭めてしまう。これらの作品は、ジャンプの読者が高齢化するのに伴い、高度化・複雑化して若年層や非マンガ読みを排除していったここ数十年の傾向に対する反省の結果であり、そこに意義があると思われる。

バトルものと競技ものについて

 ジャンプ作品におけるバトルマンガの立ち位置について、多少の相対化もしておこうと思う。思うに、ジャンプ漫画は大別して①バトルもの、②競技もの(※ここでの競技ものとは、「一定のルールに則って基本的に二者間で優劣を競うもの」程度の意味としておく。)、③ラブコメ、④ギャグ、⑤その他に分類できると思う。①バトルもの及び②競技もので連載作品の過半数を占めるだろう。この両者の比較を通じてバトルものの性質を明らかにしておきたい。前提として、ここで念頭に置いているジャンプの競技もの作品群は、『キャプテン翼』、『SLAM DUNK』、『ヒカルの碁』、『テニスの王子様』、『アイシールド21』、『黒子のバスケ』、『ハイキュー』である。

 両者は戦う点において共通点があり、特にトーナメント形式のバトル形態では①バトルものかつ②競技ものということがありえる。両者で異なるのは、競技という前提となるルールが存在するか否かである。ルールはルールだから守るべきであり、その根本的な正当性に立ち返ることはないし、その前提を破壊することも起こりえない。一方で、バトルものの場合、戦い方にルールはない。複数名で一人を叩いてもいいし、奇襲やだまし討ちも許される。また、命のやり取りがある。そして、「勝敗の基準が明確であるか」も異なる。競技ものにはルールの定義上「勝利条件」が明確に定められているが、バトルものにはそれがない。そのために、「勝利とは何か」が多様でありうることはすでに述べた。

 いわば、競技ものはルールの自明性に支えられる形で、90年代の戦う自明性の危機を予め回避していたのだ。模索期の財産の観点からみると、(1)頭脳戦と(3)内面の掘り下げの問題は作品内で十分に消化され展開されているけれども、(2)統治機構及び所属組織の正義の正当性問題はほぼ全くと言っていいほど問題とならない。あるいは、右肩上がりの成長物語が保持されている。成長物語が保持される理由は明確である。「強さ/弱さ」の基準がルール上明らかであり、競技であるかぎりにおいて、上達は絶対善であるからだ*1。そのため、強さの定義や強くなる必要性は問題にならない。

 では、(2)正義の正当性問題が欠落しているのはなぜか。バトルものと競技ものとの違いに着目すると、「命のやり取りがあるか」がまず目につく。命を懸ける場合、それをするだけの説得力のある理由が要請される。これまで見てきたように、その理由は「個人的なもの」か「正義の問題」かに大きく分けられる。このようにして、「正義の問題」に行き着く理路がまずある。次に、個別性と全体性の問題がある。競技ものはルールによって特定場面を設定し・切り出した状況下でのみ発生する事象(試合)である。だから、試合の結果は世界秩序に影響を与えない。極端な言い方をすれば、コップの中の嵐である。一方で、バトルものはその制約がない。影響範囲の切り出しがないから、戦いの原因も結果も、その世界秩序全体に係りうる。暴力には正当性問題がつきまとう、といってもよい。

 以上の理路から、競技ものは統治機構及び所属組織の正義の正当性問題にかかわらず、バトルものは左記に突き当たる。ここまでで筆者が言いたかったことは、バトルものの他のジャンルとの比較の上での本質は、正当性問題であること、そして、命や正義が問題となるため、根本問題に立ち返る契機があること、である。

最後の最後に

 本文章は、無意識のうちに昔読んだ宇野常寛の『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』におけるジャンプ漫画の内容の変遷を念頭に置いていた。そのため、宇野の枠組みや議論を前提としていたことを明言しておかなければならない。詳細にそれを検討することはしないが、大まかに言って、①90年代の発行部数低迷期に転換点があった点、②それまでの既存物語フォーマットが通用しなくなった点が低迷の原因であることは宇野の論をそのまま前提とした。

 一方で、宇野の論ではこの問題が③成熟の問題として回収されていく点に強い違和を感じていた。上述の通り、ジャンプにおいてバトルものと競技ものは保守本流であり、ジャンプの読者は戦うこと、勝つこと、そのために強くなることが好きなのであり、それは今後も中核的価値として変わることはないと思っていたからだ。「成長」という語は技能的発達と人格的成熟の二つの意味を含む。後者のモデルが失効したとして、前者を軸にした成長のテーマ*2)は依然としてなくならない。

 本文では、自分なりに物語フォーマットの変遷過程を整理してみた。キーワードは自明性の崩壊であり、強さの基準と戦う理由の自明性が崩壊したことを論じ、それがどのように再編されたかを見てきた。

*1:これに関係して、近年のヒット作『ブルーロック』は、特に「体制順応的」な作品である。

*2:技能の発達とともに成熟には至らずとも人格的にもキャラクターは成長していく。