『鬼滅の刃』考察 何故売れたのか 物語に横たわる危険性とコロナ禍における日本社会

僕は『鬼滅の刃』に乗れなかった。マンガを全巻読み、映画も観たが何故ここまで売れたのかよくわからなかった。周りの同年代(アラサー)マンガ読みと話をしたとき、皆作品の質が高いことは認める。が、何故ここまで売れたのか、また多くの人間が何故面白いと感じたのかはわからないと言う。先日、妻と友人とでこの件について話をしたところ、この問題に関する輪郭が少しつかめてきた。『鬼滅』は何故売れたのか。何故乗れない人は乗れないのか。その背景にある作品の欠点・限界とは何か。これらを書こうと思う。

まず、『鬼滅』は何故売れたのか。未就学児や普段マンガを読まない層を取り込むことが出来たからだと思う。何故それが出来たか。アニメ版の質が極めて高かったことや感情描写が細やかだったこともあるだろうが、別の点について指摘したい。思うにこれまでの少年マンガのセオリーを破り、大胆にストーリーを簡略化したからだ。鬼殺隊は絶対善であり、無惨や鬼の存在は絶対悪である。『ONEPIECE』や『シャーマンキング』のように正義に対する疑義がさしはさまれることはなく、『幽遊白書』の仙水編以降や『HUNTER×HUNTER』のキメラアント編、『DEATHNOTE』のように善悪が揺蕩うこともない。そして、『BLEACH』の愛染編や『進撃の巨人』、『封神演義』、『NARUTO』、『鋼の錬金術師』のように秘められた陰謀や計画が後に発覚し世界や善悪の見え方が大きく変化することもない(この点、同時期にヒットした『呪術廻戦』や『チェンソーマン』は先述の少年マンガの系譜上にあることがわかるだろう)。これら先行の作品は、世界の構造や善悪を複雑にすることによって作品に深みをもたらしてきた(そして場合によっては尺を稼いできた)。もしかすると近年の少年マンガの歴史は複雑化・ハイコンテクスト化の歴史だったかもしれない。しかし、このような複雑化はその分だけ作品に対する敷居を上げることになる。結果、これまでの少年マンガはマンガを日常的に読み読解力と忍耐力を身につけた読者以外を排除してきたのである(マンガ読みは忘れがちだが、その程度に少年マンガの内容は高度である)。以上から「『鬼滅』が何故売れたのか」の仮説を示した。本作はマンガ読みを向いた作品ではなく、これまでマンガを読まなかった新規層を向いた作品であった。これは「何故乗れない人は乗れないのか」の答えでもある。いつものように我々に向けて書かれた物語ではないのであるから、惹かれないのは当然である。

次に、本作の欠点・限界について書きたい。一言で言うならばそれは「批判精神の欠如」である。前述のように敵は絶対悪であり味方は絶対善であって、作中において疑義が生じることはない。後に明らかになる陰謀も存在しない。物わかりの良い「いい子」である炭治郎は、与えられている情報や敵及び味方の処遇に対して疑うことを知らない。例えば鬼とは本当に戦うしかなかったのだろうか。鬼殺隊の鬼に対する態度は苛烈極まる。たしかに鬼は自らの意志で鬼となった。しかし、一度道を踏み外した者を救うことは出来なかったのだろうか。血液の摂取のみで生存を可能にする珠代の技術により共存可能性が示唆されているにもかかわらず、鬼との対話可能性は描写されない。無惨討伐後、残党狩りで鬼たちは皆殺しにあってしまうのだろうか。*1

たしかに鬼たちについても悲惨な過去が描写され、炭治郎は彼らの悲しみに寄り添う。しかし、寄り添うだけだ。一度鬼に身を落とした者は救えないと根拠なく結論付けている。本作では鬼殺隊や鬼たちの悲しい過去の描写があまりに多く繰り返される。僕はそれに閉口した。情緒ばかりがあり論理がないからだ。鬼殺隊の悲しみ・苦しみはお館様によりケアされ、鬼たちの悲しみ・苦しみは炭治郎によりケアされる。心情的配慮を繰り返す感傷的な態度のみが存在し、根本的問題に向き合う知的態度が存在しない。

この点について、「【鬼滅の刃】鬼殺隊のホワイト化に向けたご提言」は正しく問題を突いている。曰く、鬼殺隊はブラック企業であり、そのため多くの隊士たちが命を落としてきた。その改善のため問題点と改善案を3つにまとめた。それが下記である。

1)鬼殺隊は、隊士の育成に無頓着である。

→育成方針を明確化し、できれば全集中常中を最終選別の参加基準とする。

2)鬼殺隊は、隊士の死亡率改善に無頓着である。

→癸から柱に至るまでスリー、もしくはフォーマンセルで任務にあたるように徹底する。

3)鬼殺隊は、組織における問題の解決に無頓着である。

→行冥を中心に問題解決を行うフローを隊内で作り上げる。

詳しくは先述のリンク先を見てほしいが、要するに組織としてまともな体制が存在していない。そのことを問題視する発想も作中にない。作中でクローズアップされるのは、悲惨な境遇にありながら腐らず歯を食いしばって苦境に立ち向かう「頑張る」隊士たちの姿ばかりだ。本当に恐ろしいのは先ほどあげたこれらの問題点が、「現場の隊士たちの頑張り」という美談によって糊塗されることである。

これはもはや本作の問題だけにとどまらないことを、読者は薄々感づいているかもしれない。本作の想像力の限界は、日本社会全体の持つ想像力の限界でもある。拙劣な戦略と劣悪な補給下にありながら死力を尽くして戦い、死んでいった先の大戦の日本軍人たちを想起せずにはいられない。彼らの壮烈な死もまた美談として消費されていった。

いまひとつ付け加えるべき本作における欠如がある。それは「社会性の欠如」である。本作において鬼殺隊は社会の中で居場所を持たない。一言さらりと鬼殺隊は政府非公認であると言及されているのみである。少年マンガにおいて主人公が属する武装組織は、社会の中に組み込まれている(『チェンソーマン』や『僕のヒーローアカデミア』、『呪術廻戦』、『HUNTER×HUNTER』など)か、その組織が統治機構そのものである(『NARUTO』や『進撃の巨人』、『BLEACH』、『封神演義』など)ことが多く、そうでなくとも社会や統治機構との何らかの関係を持つことが通常である。『鬼滅』において、何度も殺人事件が発生しているのだから、政府が鬼及び鬼殺隊の存在を知らないとは考えにくい。鬼殺隊でこれまで蓄積してきたノウハウと引き換えに、政府に助力を仰ぐことは出来なかったのだろうか。そうしていれば横展開されずに個人的運用で終わった銃や毒などの新兵器の研究・開発も、組織的に実施することが出来たはずだ。より直接的な軍事的支援も取り付けられたかもしれない。問題が発生したときに公助に頼らずに自助及び共助で対応しようとする想像力は、サブカルチャーにおいて頻出する(ある種の恋愛もので発生した問題は、愛の力で解決されるべき問題ではなく、福祉の問題である。また、『アンパンマン』や『セーラームーン』で主人公たちは警察機構を通さずダイレクトに脅威を排除する)。これもまた日本社会全体の想像力の限界に端を発したものである。

しかしながら、より問題を含んだ、そしてよりありそうな可能性について指摘したい。政府と鬼殺隊がコネクションを持たなかったのは、鬼殺隊首脳部の怠慢なのではなく、鬼が跋扈する当該事態を政府が黙殺していたためかもしれない、というものだ。作中において鬼の存在は、大きな社会問題としては描写されていない。また、鬼殺隊隊士の多くは親族等を鬼に殺された被害者である。つまり、ほとんどの大衆や政府にとって鬼の存在は大した問題なのではなく、したがって身銭を切ってまで支援するに値しない社会問題に過ぎないのだ(無惨のセリフ「私に殺されるのは大災に遭ったのと同じだと思え」は言い得て妙である)。すなわち、以下のような構図が浮かび上がってくる。鬼殺隊首脳部が現場の隊士たちに戦闘に関する全てを丸投げするだけでなく、政府もまた鬼による殺人という問題を被害当事者団体である鬼殺隊に丸投げしている。この構図は、扱っている問題が重要な社会問題であるにもかかわらず、大衆と政府による無関心のため十分な支援を得られず現場の奮闘頼りで消耗していくNPO法人を彷彿とさせる。そして何よりも、現在進行形で生じているコロナ禍における医療従事者たちを想起させる(本作における鬼は伝染病をモチーフにしているという考察もある)。前々から病床及び保健所を削減され、貧弱な体制で十分な手当てもなく現場の頑張りのみで乗り切ることを求められる医療従事者たち。そこに知事が医療従事者への感謝の手紙を送ろうと提案するのを見ると、僕は政府による不作為、大衆の無関心、破綻した体制による現場の消耗とその美談化は、日本の宿痾のように思えてくるのである。

*1:2022年1月30日、本記事を引用する形である方から「無惨が死ぬと他の鬼も死ぬため残党狩りは生じえない」とのご指摘を受けた。同旨の考察を行った記事が存在することも確認した。僕自身もご指摘の解釈が正しいと思う。よって、この指摘にかかる部分の本記事考察は事実誤認に基づくため書き直す必要がある(いつかそのうちの宿題とさせてください)