ジャンプバトル漫画の歴史

はじめに

 80年代以降のジャンプにおけるバトルマンガの描かれ方について大きな流れを書く。この範囲を対象としたのは、「少年マンガ」かつ「ジャンプ作品」かつ「バトルマンガ」が、今日におけるマンガというジャンルにおいて、一丁目一番地と考えるからである。また、80年代以降を対象としたのは、ジャンプが少年マンガ誌において覇権を握り始めた時期以降に対象を絞ったからである*1

概要

 大まかな本論における概要を書くと、80年代ヒット作において多用された様式及び物語形式は、90年代後半に部数の伸びとともに行き詰まりを見せる。同時期の模索を経て、00年代に新しい様式・形式を確立・消化し、再度隆盛に至る。

 もう少し具体的に書くと、80年代ヒット作である『キン肉マン』、『北斗の拳』、『ドラゴンボール』、『聖闘士星矢』、『ダイの大冒険』等に見られた、単純な物語構造――具体的には、①必殺技の描写等の視覚的迫力に頼った作劇、②戦闘力のインフレ化、③戦う理由の自明性を指す――は、次第に飽きられ・通用しなくなっていく。

 ジャンプ低迷期を支えた『るろうに剣心』や『封神演義』、少し遅れて『シャーマンキング』は、それぞれ「戦う理由」や「戦いが繰り返される構造」を問い、ひいてはそれらが物語の筋道において前景化・主題化された、すぐれて内省的な作品であった。

 この模索期を経て、2000年前後からジャンプはヒット作を連発する。具体的には、『ONE PIECE』、『NARUTO』、『BLEACH』、『銀魂』、『DEATH NOTE』等である。これらの作品において、内省的な問題設定はもはや前景化されない。しかし、模索期の遺産は確実に受け継がれている。すなわち、複数の正義(戦う理由)が存在し、善悪は揺蕩い、戦う前提となる世界認識は話が進む中で覆される。90年代の変革期を経て、それ以降の作品群は、80年代の作品群とは似ても似つかぬ複雑な物語の骨格を獲得するに至った。

 僕は現在に至るまでのバトルマンガジャンルの変革について、ターニングポイントとなった作品が2つあると考える。それは『ジョジョの奇妙な冒険』と『幽遊白書』である。『ジョジョ』は②戦闘力のインフレ化に対して、頭脳戦(あるいは能力の相性)という手法を導入して、バトルマンガのマンネリに対応した。

 また、③戦う理由の自明性について、『幽白』は強い疑義を呈し続けた。すなわち、仙水編において「敵と出会い戦い勝利する」営みの繰り返しへの倦厭を樹の口をして語らしめ、物語の最終盤において、人類の守護者=正義の代理人たる霊界の独善・自作自演を暴いて、戦う必要性と正当性を無に帰した。くわえて、『幽白』において戦う動機は自明でも利他的(公共的)なものでもなく、個人的・相対的なものとして語られた。

 以上、②’頭脳戦の手法の導入、③’戦う理由の相対化・個人化は、必然的に①視覚的迫力に頼った作劇、つまりは即物的な水準から、意味内容の水準へ作劇の比重が傾き、物語は複雑化する。

 本論では、90年代にパラダイムの転換があったこと、その嚆矢となる作品は上記2作品であったこと、パラダイム転換の具体的な内容等を書く。

80年代作品群の特徴

 ここで念頭に置いている作品は、『キン肉マン』、『北斗の拳』、『ドラゴンボール』、『聖闘士星矢』、『ダイの大冒険』である。代表的な大ヒット作品という基準で、独断と偏見に基づき選んだ。

 これらの作品を一読すると、最近の作品群に慣れた読者は、あまりの物語構造の単純さに驚くと思う。善悪ははっきりしており、正義はほぼ単一であり、世界観・世界構造は単純である。これらの作品は、「お約束」の世界である。『キン肉マン』において「正義超人」は正義の味方であるという「約束」があり、『北斗の拳』でケンシロウは暴力が支配する世界で、ほとんど唯一の希望たる「正義の側」である。また、『聖闘士星矢』の主人公たちは、邪悪に対抗する「希望の存在」であり、『ダイの大冒険』での主人公は「世界を救う勇者」である。

 これらの「世界設定」と「主人公の役割」は自明の前提であって、基本的に揺らぐことなく物語は進行する。「はっきりとした悪=敵」が存在し、「悪との戦い及び勝利」に物語の筋は終始する。ただし、『ドラゴンボール』はこの傾向が完全には当てはまらない。本作の前半部において、悟空は「正義の味方」というよりは「冒険者」であり、「世界設定」も当初を基準とすると物語の進行の中で変化していく。しかし、後半に進むにつれ、「地球存亡の危機をもたらす悪役」と「それに対抗する悟空一派」との闘争という反復に物語は収束していく。ここにおいては、上記の傾向がほぼ完全に当てはまる。以上、上記すべての作品について、戦う理由は単純・自明である。世界を守るためであり、悪に対抗するためである。

 第二に、これらの作品に欠かせない要素として、必殺技がある。キン肉バスター、北斗百裂拳、かめはめ波、ペガサス流星拳、アバンストラッシュと、主人公及び物語の代名詞的必殺技はもちろんのこと、主人公以外の味方、敵含め、これらの作品は技のデパートといえる。読者たる子どもたちはその技を真似して遊び、後発の作品群はこれらの技をパロディ化する(例えば、銀魂における聖闘士星矢のパロディ。)。必殺技は大ゴマで描写され、その視覚的迫力が作品の質を大きく左右する*2。もちろん、近年のバトルものにおいても必殺技はほぼ確実に存在する。その重要性も大きく変わらない。異なるのは作劇中の重要度の比重である。僕がここで言いたいのは、近年の作品と比較して、80年代の作品は筋書きや戦いの駆け引きが単純であるため、見せ所としての必殺技の重要度が相対的に高かったと思われる、ということだ。

 第三に、戦闘力のインフレ化現象がある。上述の通り、この年代の作品は迫力が重要である。「迫力」とは「すごさ」である。ところで、そもそも視覚表現は質的なものである。「すごさ」を表現する手段には、量的な表現も当然駆使される。『キン肉マン』では超人強度、『ドラゴンボール』では戦闘力という量的概念によって、即物的に「すごさ」が表現される。むろん、例えば「戦闘力100万」という事実の提示は、それだけでは「すごさ」を演出することができない。量的概念は相対的なものであるから、それまでの登場人物の数値と比較して、はじめてその程度、あるいは「すごさ」が表現される。この点で、『ダイの大冒険』における有名な大魔王バーンのセリフ「今のはメラゾーマではない、メラだ」も、わかりやすく比較による「すごさ」を表すものである。

 しかし、(数的)比較表現を用いた「すごさ」の演出は、わかりやすさの代償に戦闘力のインフレ化をもたらす。「これまでよりずっとすごく」を新しい敵が現れるたびに繰り返さなくてはならない。『聖闘士星矢』においても、青銅聖闘士の繰り出すパンチの速度はマッハ1だったが、白銀聖闘士のそれはマッハ2~5となり、黄金聖闘士に至ってはその速度は光速(=マッハ88万)となってしまう。ただし、『北斗の拳』だけは、当該問題から免れている。ケンシロウは物語当初から最強クラスのキャラクターであり、パワーアップはしないし、そのため敵の強さのインフレも起こらない。ケンシロウの「迫力」、「すごさ」は技の威力の説明と凄惨なダメージ描写で表現されることになる。

 以上、まとめると、80年代の作品群は、①「お約束」としての戦う理由の自明性、②必殺技の描写等の視覚的迫力に頼った作劇、③戦闘力のインフレ化、という基本的な物語フォーマットが、概ね共有されていたと言ってよいと思う。

 

つづき

killminstions.hatenablog.com

*1:それより前になると、①マガジン等の他誌の方が人気であり、②ジャンプ内において現代にまで記憶に残るような有力な作品がほぼ見当たらない。

*2:そのため、集中線や流線で勢いを表す技法が、あるいはより効果的に迫力を表現できる構図が、または人体や物体の破壊の描写が、異常に発達する。