キメラアント編考察① メルエム=キリストによる人類の祝福と偽キリストの原罪

 『HUNTER×HUNTER』におけるキメラアント編は現代少年マンガの最高到達点だと思う。しかしながら、キメラアント編を正確に理解し、その素晴らしさを汲みつくした評論・考察は目につかない。本文はキメラアント編とは何だったのか、そしてその素晴らしさを可能な限り引き出したい。そのために、まずは少年マンガの基本構造について考えようと思う。

少年マンガの基本構造

 一般に、少年マンガには①大きな壁と②主人公(とその仲間たち)の成長という要素が物語の中核的なものとして存在する。主人公たちの前には大きな壁が立ちはだかる。挫折を味わったり窮地に陥ったりしながらも、修行などによる成長や劣勢を覆すような知略をもって、最終的には壁を乗り越える。壁は大きければ大きいほど、ストーリーの緊張感は増す。そして、その分だけ主人公が壁を乗り越えられるようになるだけの十分なパフォーマンス=説得力も必要となる。「こんなのどうやって乗り越えられるんだ?」と読者に想わせられるほど作品は引き締まり、その分だけ困難を乗り越えるために主人公たちは苦労し、作者はストーリー作りに苦心する。いうなれば、壁とは一つの課題である。設定された課題をどのように読者が納得のいく形で裁くのか。この種の物語の面白さは①提示された課題の大きさ、②課題への回答の説得力により決まるところが大きいと言える。

 少年マンガにおいては、キメラアント編のように乗り越えるべき壁がワルモノ=敵であることがよくある。この種の物語において主人公側は常に受け身である。これは物語の構造上、ほぼ避けがたい。ワルモノ=敵が問題を起こし、事後的に主人公たちがそれに立ち向かい、知恵を絞ったり爆発的成長を遂げたりして最後にはワルモノ=敵を鎮圧するというのが基本線になっているからだ。そのため、この種の物語は、まずワルモノ=敵が存在し、彼を取り巻く環境や手下が設定され、対抗勢力としての主人公たちがいる、という図式になる。要するに、物語はワルモノ=敵を軸に展開されることとなる。

キメラアント編の特異性

 この点、キメラアント編は特筆すべき特徴がある。主人公たるゴンが最後までラスボスに当たるメルエムと戦闘しなかったこと、それどころか会うこともその名前も知らずに物語が終わってしまったことである。もはや本編においてゴンは主人公かと言ってよいかすら怪しい。本編の主人公を強いて挙げるならば、僕はメルエムが主人公だと思う。この解釈は、こちらのブログを下敷きにしている。ここでは、キメラアント編を「人が蟻を倒す物語」ではなく「蟻が人になる物語」としている。また、『幽遊白書』における敵役は、最後に「善人」のようになって死んでいく、としている。上記ブログでも指摘のあるとおり、明らかにキメラアント編におけるメルエムは『幽遊白書』における敵役の系譜の上に位置する。それどころか、本編のラスボスたるメルエムはさらにその傾向を推し進め、①自らが主人公となり、②最後には人格を完成させ死んでいく。本編はラスボスが主人公となる異常な物語なのだ。

物語の幹となる三者関係

 キメラアント編は入り組んでいる。各人が諸々の場面で戦闘する描写があり、それら一つ一つが感動的で良く出来ていることは言うまでもないが、それらは本編の大筋とは特に関係のない枝葉に過ぎない。結局のところ、本編の幹となる物語の筋は、メルエム・コムギ・ネテロの三者の関係に集約される。もちろんこの三者の中心にいるのはメルエムだ。ネテロは人間の武の極みの代表として、コムギは人間の文の極みの代表として、メルエムと向き合う。

求道者ネテロの孤独と渇望

 ネテロとは何者か。求道者である。かつてひたむきに求めた武の極みは、何者も追随できない領域にまで到達した。そしてその結果、彼は自身も気づかぬうちに自らを飼いならしてしまった。ネテロがパリンストンを副会長に引き込むような、あるいは無理難題ばかり言うような、「ひねたジジイ」になったのには理由がある。絶えざる渇望と耐え難い退屈を少しでも癒し・紛らわすため、そうなってしまったのだと僕は考える。こうして年を経て錆びついた情熱は、その炎は、静かにそしてゆっくりと消えていくはずだった。いうなれば、ネテロは人生を半ば諦めかけていた。そこにメルエムである。これがネテロにとって福音でなくてなんであろう。ハンター協会の会長となった今、軽々しく命を懸けた真剣勝負は平時においてもはや望めない。ところが、この人類の存亡を賭けた非常時においては、会長であることこそが最高・最良の相手と戦うための正当性と舞台づくりを担保する。

「いつからだ…? 敵の攻撃を待つ様になったのは、一体いつからだ 敗けた相手が頭を下げながら、差し出してくる量の手に間を置かず、応えられる様になったのは?そんなんじゃ、ねェだろ! オレが求めた、武の極みは敗色濃い難敵にこそ全霊を以て臨むこと!! 感謝するぜ、お前と出会えた これまでの全てに!!」

求道者コムギの孤独と渇望

 コムギもまた軍儀にすべてをささげた求道者である。「ワダすはプロの棋士を目指した日から軍儀で負けたらば自ら死ぬと決めております」と発言していることから、並々ならぬ覚悟で軍儀に臨んでいること、そしてこれまで無敗であること、すなわち軍儀で彼女に並び立つものがいないことがわかる。比類なき彼女の強さはある種の哀れさを誘う。並び立つものがいないとき、何を目標として生きていけばよいのか。彼女の求める美しい棋譜は、独り相撲では永久に生み出されることはない。下記はヒカルの碁の引用である。

「知っとるか?碁は2人で打つものなんじゃよ。碁は1人では打てんのじゃ。 2人いるんじゃよ。1人の天才だけでは名局は生まれんのじゃ。等しく才たけた者が2人要るんじゃよ、2人。 2人揃ってはじめて…神の一手に一歩近付く」

 コムギにとってもメルエムは、降って湧いたような福音に他ならない。他のプレイヤーを全く寄せ付けない実力を持った彼女は、はじめて自身と同レベルの頭脳を持った存在と相対することで覚醒(念能力の発現)する。彼女が強くなるのはこれからだったのだ。

メルエムとは何者だったのか

 たとえ人類を破滅に導きかねない災厄であったとしても、二人にとってメルエムの降誕とは福音であり、メルエムとの対峙とは祝福だった。彼らは人類である前に求道者である。そして、隔絶した力を持つゆえにいつまでも報われない願いに身を焦がす、「救済を待つ者」であった。

「ああ、何と寄辺もない俺の身か。完成への燃え上る想いの数々を、俺はもうどんな聖像に献げても構わない。」

――アルチュール・ランボー『地獄の季節』

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 ネテロとコムギにとって、メルエムとは「救済を与える者」であった。もっと踏み込んでいうならば、本編においてメルエムとはキリストそのものであった。そのことを示すために、作中におけるメルエム=キリストの徴表を挙げておこう。まず、①メルエムは処女懐胎によって産まれた。そして、②ネテロの自爆によって一度死にながらプフ・ユピーの献身により復活を遂げている。さらに、③メルエムの名の意味するところとは「全てを照らす光」である。キリストの先在と来臨を記した『ヨハネによる福音書』第1章9節すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた」を読めば、メルエムとキリストの類似点は偶然によるものではないと確信が持てるだろう*1。くわえて、④コムギに抱きかかえられてメルエムが最期を迎えるシーンは、ピエタ=死んで十字架から降ろされたキリストがマリアに抱かれる場面がモチーフになっているという指摘もある。

 

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 また、⑤ネテロとコムギの名前にもキリスト教的モチーフがほのめかされている。ネテロのフルネームは「アイザック=ネテロ」であり、「アイザック」とは聖書の登場人物「イサク」の英語読みである。イサクはアブラハム不妊の妻との間に年老いてからもうけた大事な一人息子である。アブラハムは神によってイサクを焼き尽くす生贄として捧げるよう命じられる。そして、アブラハムはイサクの同意の下、彼を焼き尽くそうとする(より詳細な内容の考察は後で行う)。この点、イサク=ネテロは貧者の薔薇によって自らを焼き尽くしたのだった。

 また、「コムギ」の語からは聖書の中でもあまりに有名な「一粒の麦」が連想される。すなわち『ヨハネによる福音書』12章24節及び25節「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう」。コムギはメルエムの最期の時間を共に過ごした。そして、そのことによって自らの命を失った。しかし、同時にそのことによって「私はきっとこの日のために生まれて来た」という確信と幸福の中で、コムギは死んでいく。

「また見つかった、何が、永遠が、海と溶け合う太陽が。

独り居の夜も 燃える日も 心に掛けぬお前の祈念を、永遠の俺の心よ、かたく守れ。

人間どもの同意から 月並みな世の楽しみから お前は、そんなら手を切って、飛んで行くんだ・・・。

・・・もとより希望があるものか 立ち直る筋もあるものか、学問しても忍耐しても、いずれ苦痛は必定だ

明日という日があるものか、深紅の燠の繻子の肌、それ、そのあなたの灼熱が、人の務めというものだ。

また見つかった、――何が、――永遠が、海と溶け合う太陽が。」

――アルチュール・ランボー『地獄の季節』

キリスト教的奇跡

 ネテロとコムギはキリストたるメルエムによって天に召された。もちろんこれは悲劇ではない。キリスト教において神によって天に召されることとは、奇跡に他ならない。僕はここで古いスペインの映画『汚れなき悪戯』を思い出す。心優しい12人の修道士たちに育てられた孤児マルセリーノは、ふとしたことがきっかけでキリストに出会う。その汚れなき魂をキリストに認められたマルセリーノは、キリストから「願いをかなえてやろう」と言われる。マルセリーノは「自分の母に、そしてキリストの母に会いたい」と願う。「今すぐにか」と聞かれて、「今すぐに」とマルセリーノは答える。そして、マルセリーノはキリストに抱かれながら眠るように息を引き取る。奇跡である。この奇跡を記念して、マルセリーノは聖堂に葬られ、彼が天に召された日は祭礼の日となった。マルセリーノは聖人となったのである*2

身を滅ぼすほどの幸福

 何故神からの祝福は命を失うものであるのか。それは、祝福のあまりの強度に生身の身体は耐えられないからだと僕は思う。どのようなものであれ、真に根本的な外部からの作用は対象の自己同一性を損なう。神から直接の祝福を受けた者は、もはや人であり続けることは出来ないのではないか。キリスト教そのものが、「自己同一性を破壊するほどの変革(ユダヤ教における選民思想の否定)を遂げることを通じて誕生し、同じく自己同一性を保てなくなるほどの変革(世俗化)を再度遂げることによって、現代におけるキリスト教は人権思想といった西欧由来の諸思想に生まれ変わった」と、以前のブログで書いた。

 ネテロとコムギの「このためになら死んだっていい」という身を滅ぼすほどの想いは、並び立つ者のない高みへと彼らを到達させた。この時点で彼らはすでに人ならざる領域に半歩踏み入れている。もはや彼らと同等の、彼らを満足させるような強度を与えられる相対者は人ならざる者以外ありえない。そして、その強度に生身の身体は耐えられない。彼らは求道者であった。信仰者であった。来る保証のない「いつか報われるとき」を待ちながら、ひたすら勤めていつまでも救済を待っている。彼らはあまりに多くを望んだ。それは身を焼き滅ぼすほどの幸福(神の玉座に近づき過ぎて焼かれたイカロス!)。彼らには二つの選択肢しかない。報われることなく緩やかに心が死んでいくのを待つか、それとも身を焦がし尽くす強度に焼かれてその肉体を滅ぼすか。道を極めて人ならざる者になったとき(それは真に自分の中に揺るぎない信仰を獲得したときに他ならない)、すでにその者は半分死んでいる。「完成への燃え上がる想い」は、死への衝動へと限りなく近づいていく。彼らは身を滅ぼすべくして滅ぼした。彼らはそれを望んでいたのだから。

幼年期の終わり』における上帝=全人類の救済者としてのメルエム

 メルエムが人類の文武の代表たるネテロとコムギにとっての福音であったことは間違いない。それだけでなく、メルエムの存在は人類そのものへの福音にすら変化しうる可能性を見せていた。メルエムはコムギやネテロとの交流を通じて、自らを人類の搾取者ではなく擁護者・救済者に位置づけようとした。メルエムはもはや人類との戦いを望まない。自らを殺そうとする者に対してすらも、力ではなく言葉で働きかけようとする。

「負けを覚悟の戦いか 理解できぬな…人類という種のためか? ならば余の行為はむしろ“協力”だと言っておく たとえばお前達の社会には国境という縄張りに似た仕切りがあろう 境の右では子供が飢えて死に左では何もしないクズが全てを持っている 狂気の沙汰だ 余が壊してやる そして与えよう 平等とはいえぬまでも 理不尽な差の無い世界を!! 初めのうちは“力”と“恐怖”を利用することを否定しない だがあくまでそれは秩序維持のためと限定する 余は何のために“力”を使うかを学習した 弱く…しかし生かすべき者を守るためだ 敗者を虐げるためでは決してない」

 ここにおいてメルエムは、キメラアントという種や自身のみのために利益を追求する主体ではない。一段高いところにいる。メルエム=全てを照らす光とは、人類という異種族までをも照らすものなのだ。そのことを示すために、『ルカによる福音書』第2章29~35節を引用しよう。この場面は「メシアを見るまでは死なない」との啓示を受けていた老人シメオンが幼児イエスを抱きかかえ、彼こそがそのメシアであるとほめたたえるものである。

「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救を見たのですから。この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります。」

 一般に、キメラアント編とは『寄生獣』を元ネタとした物語であると言われる。ピトーが後藤をモデルとしている点やメルエムとネテロの戦いの結末など、『寄生獣』からの影響があることは間違いない。ただし、『寄生獣』での寄生生物たちは食物連鎖上の頂点、すなわち人類のさらに上に位置する存在はあったものの、人類の未来を慮り救済を企てる存在ではなかった。この点、僕はSFの古典的傑作『幼年期の終わり』との類似性を想起する。本作におけるメルエムに当たる者は上帝(オーバーロード)と呼ばれる存在である。ある日突然世界中の大都市上空に彼らは現れ、人類のものよりも遥かに発達した科学技術と卓越した知性により、積極的に武力を用いることなく人類を管理下に置く。彼らの支配によって旧来の統治機構や文化は失われるも、あらゆる社会的相克や矛盾は解消され、かつてとは比べるべくもない平和で豊かな「黄金時代」を送ることとなる。彼らは何故人類をこのように「飼育」するのか。その目的は物語の終盤に明かされる。実は、彼らはより上位の存在のために奉仕するエージェントに過ぎない。彼らを使役する存在はオーバーマインドという宇宙を統べる精神体である。オーバーマインドの一部として人類及び地球を統合するために、その事業を過たず遂行するために上帝は派遣されてきたのだった。人類は大いなる精神統合体の一部になる。作中で明言されているように、そのときもはや人類は人類ではなくなる。人類の歴史は終わった。しかし、これは上帝たちも羨む充足であり完成なのである。突如飛来した超常的存在による自己同一性の不可逆的で徹底した破壊と、その破壊自体が現生人類には理解不可能なほどの祝福であり完成であるというビジョンを、『幼年期の終わり』は示した。キメラアント編におけるメルエムの存在もまた、この種の文脈の中で理解されるべきものだと僕は思う。

人類救済の芽を摘んだ偽キリスト

 しかし、本編において人類はとうとう救済されなかった。何故か。ネテロがそれを阻んだからである。それはどのようにしてか。自身を捧げる自己犠牲によって。冨樫が込めた皮肉がここに読み取れる。すなわち、メルエム=キリストがもたらそうとした救済は、キリストの崇高な自己犠牲を想起させるようなネテロの行為によって阻まれる。僕はネテロとは偽の救済者=偽キリストであると考える。このことを示すために、①聖書中に偽キリストという概念があること、そして②ネテロは何故偽キリストと言えるのかについて、順を追ってみていきたい。まずは①から。偽キリストとはキリストの名を騙り誤った方向に人々を導く者のことである。『マタイによる福音書』第24章3節~5節を引用しよう。

弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう…

 次に、②について。メルエム同様ネテロにもキリスト教的モチーフがついて回る。自らを焼き尽くす捧げものとするアイザック=イサクの燔祭やネテロが自己犠牲により人類全体を救済しようとしたことはすでに述べた。また、ネテロを慕う十二人の者たちは、キリストの高弟である十二使徒を想起させる(彼らのうちに一人裏切り者がいることも一致している)。しかし、これら全ての要素が微妙に異なっていることに注意したい。すなわち、十二使徒はキリストが死ぬ前の最後の晩餐において集結するが、十二支んはネテロの死後になって集結する。あるいは、イサクの燔祭においてイサクは身を神に捧げようとすると前述したが、実はその直前で神より遣わされた天使によって「神を真に畏れる気持ちはよくわかった」とストップがかかる。すると、周囲に都合よく身動きのとれなくなった雄羊が現れ、それを代替とすることにより生贄となることを免れる。一方で、キメラアント編においてネテロは本当にわが身を焼き尽くす。この相違の原因は、神のために身を捧げるか、人のために身を捧げるかの違いに由来する。人は超常的な力で代替の捧げものを用意することは出来ないからだ。そもそもネテロは「イサク」であって「キリスト」ではない。そして、ネテロは厳密には「イサク」でもない。これまでキリスト・イサク・ネテロの自己犠牲にそれぞれ言及してきたが、「誰から誰へその身が捧げられるのか」という観点で整理すると、この三者の相違がよくわかる。キリストは神たる(あるいはそれに準ずる)その身を人類のために捧げて、人類を救済した(神→人)。イサク(あるいはアブラハム)はその身を神に捧げようとして、子孫の繁栄を約束された(人→神)。ネテロはその身を捧げることで、人類を救済しようとした(人→人)。つまり、本来神へ捧げるべきいけにえを、ネテロは人へ捧げた。神の介在しない自己犠牲では、人類は物質的な「災厄」から脱することは出来たとしても、精神的あるいは精神・物質全てを含んだ根本的な「救済」などされようはずもない。つまるところネテロは、あるいはネテロによる救済は、まがいものなのだ。

まとめ

 まとめよう。メルエムはネテロとコムギを祝福し、救済した。さらにはキリストたるメルエムは、人類そのものをも救済するはずだった。その救済は、ネテロとコムギに対してなされたように、「身を滅ぼすほどの幸福」であったろう。しかし、救済はネテロによって阻まれる。ネテロは人類を「救済」し、人類の救済を阻んだ。メルエム=キリストは、キリストを僭称する人間の代表者により殺され、救済は人間に遍くもたらされることはなく、そして世界は「救われた」のである。ネテロとは何者だったのか。キリストは人類の原罪を贖うために自らの身を差し出した。一方で、ネテロの自己犠牲は、貧者の薔薇を手段とし、メルエムの提示した共生の可能性や新しい未来のための対話を圧殺し、メルエムの示した滅私・寛容・慈愛・奉仕といった様々な徳目を踏みにじった。かの「悪魔兵器」が象徴するものは、利己・不寛容・憎悪・収奪といったメルエムの示した徳目とは正反対のもの――人間の業あるいは原罪そのもの――であった。

次回について

 ここからは次回の内容について書く。今回はメルエムがネテロ・コムギにもたらしたもの、人類にもたらそうとしたものに焦点を当てた。メルエムの徳目との対比を通じて、人類の業あるいは原罪があぶりだされるのを見てきた。しかし、本編の元となった『寄生獣』や『幼年期の終わり』などの先行作品群とは異なり、本編はそれだけにとどまらない。人類たるコムギもまたメルエムに大いなる贈り物を与えて、無明から救い出し、その生を祝福し、彼の魂を救済したのだった。すなわち、人間存在の最善の部分もまた本編では描写される。次回はこれを見ていきたい。具体的には、メルエムとコムギの関係性に焦点を当てて、王であり神であるメルエムが人になり・救済され・幸福のうちに死んでいく様を考察する。そして同時に、そのコムギとの関係性の変遷自体がメルエムを玉座から引きずり下ろす要因となったこと、人間の中にある最良の部分と業の二面性、この二つが(意図せずして)有機的に連関してメルエムを救いかつ殺した人間の複雑さと神秘を、見ていこうと思う。 

killminstions.hatenablog.com

*1:①~③はThreo8284という方の下記ツイートを参考にした。

「①人でありながら誕生の仕方が通常と異なる(処女懐胎、脇の下から生まれる)
②無明の人々に知恵を授ける
③1度死んで再誕する

この3つを満たしてたらキリスト的キャラだと思って良い。ハンター・ハンターのキメラアントの王とかがそれ。」

*2:本映画の主題歌『マルセリーノの歌』の動画を観れば、この作品が描写している修道士たちの信仰生活が、その中に息づく限りない美しさと優しさが、多少なりとも伝わると思う。