キメラアント編の考察 ジャイロとは何者なのか――メルエムとの対比で読み解く

 前回は劇的な死を遂げたメルエム・コムギ・ネテロをキメラアント編における物語の幹として解釈を行った。メルエムが中央に位置し、それに向き合うのがコムギとネテロである。コムギは人間の文の極致を代表する者として、ネテロは人間の武の極致を代表する者として、それぞれメルエムに相対した。

 ところで、文武はそれぞれ異なる特徴を持つ。武はその性質上真剣勝負である限りにおいて、必ずどちらか一方を傷つけ滅ぼす性質を持つ。一方、文は何度も真剣勝負が可能であり、真剣勝負を通じて互いに高め合うことが出来る。

 また、武とは暴力にほかならずその本質及び延長線上には核兵器が象徴する暗い側面があり、さらに武=暴力は人間社会全体を背負うという公に対する責任を負っている。武の体現者であるネテロは、武人であると同時に、人類の未来を一身に背負う公的立場もまた担っていた。そのため、彼の死にもまた二つの理由が生じることになる。すなわち、武人として真剣勝負で死にたいというというものと、人類を救うためというもの。

 対して、文はそれ自体が目的であるという(極私的な)純粋さを持つ。また、武人同様「道を極めるためになら死んでもいい」という動機を持つが、それだけではなく「相手のためになら死んだっていい」という、敵を称えるとは次元の異なるリスペクト、すなわちエロスが表現されている。コムギは文人(棋士)であると同時に、一個人としてメルエムという個人を承認し、愛す者としての役割を担っていた。

 ネテロは武人及び人間代表として、コムギは求道者及び愛する者として、それぞれ二つの死の動機をもって死んでいった。

 そして、上記とは別に人間が持ちうる「そのためになら死んだっていい」という想い、すなわち怒りと憎しみを体現したのが、本来の主人公たる、そしてこれまで人間の明るい側面ばかりを担ってきたゴンであった。

 まとめると、ネテロは求道及び人類のため、コムギは求道及び愛のため、ゴンは憎しみのため、それぞれ命を投げうった。

 ここには人間の究極的な動機に対する洞察がある。①求道のためとは、それがしたいから、それが好きだから行うもので、それ以上の理由はない。②人類のためとは、言い換えれば特定集団のためであり、それが自分の命より重要な場合、死への動機となる。③愛のためとは、言い換えれば特定個人のためであり、それが自分の命より重要な場合、死への動機となる。④憎しみのためとは、今回のゴンのような場合、より正確には特定個人への憎しみのためである。自身の身を顧みないまでの激情に駆られたとき、それは死への動機となる。

 これら動機の①~④のうち、対事物に向けられているのは①のみであり、②~④はすべて他人に対して向けられたものである。このように整理すると、漏れているパターンがあることに気づく。②は特定集団への正の感情、③は特定個人への正の感情、④は特定個人への負の感情である。すなわち、⑤特定集団への負の感情が欠けていることになる。

 『HUNTER×HUNTER』全体においては、すでにクラピカの幻影旅団に対する復讐心が、⑤特定集団への負の感情に分類される。しかし、キメラアント編において、少なくともここまでの考察の中では、当該動機は存在しない。たしかに、人類側の政治家たちはネテロに危険生物=キメラアントの速やかな殲滅を指示はしたが、対象をろくに把握せずただ危険を取り除きたいという動機で出された指示であること、怒りや憎しみに駆動された指示でないことに注意したい。事実、メルエム討伐により危難が去った後、キメラアントを根絶やしにしようとする動きは人類側に見られない。キメラアントという種の殲滅が目的なのではなく、人類という種への危難の除去が目的だったのだ。

 さて、ここまできてようやく表題のジャイロのキメラアント編における位置づけについて入ることが出来る。結論を一部先に言うと、ジャイロこそがキメラアント編にてこれまで出てこなかった、全世界に悪意をばらまきたいと願う、⑤特定集団への負の感情に基づいて行動するキャラクターだったのだ。ジャイロの回想における父との精神的つながり、ひいては人間との精神的つながりを失う下記決定的シーンを思い出してほしい。ここで彼は誰からも、唯一の肉親である父親からすらも、微塵も気にかけられていないことを知る。人間(ヒト)として扱われてこなかったことを知る。

「ヒトとは 父親のこと 否 ヒトとは人間だ 人間(ヒト)に迷惑を掛けるな オレは 人間じゃなかったんだ」

この事件による耐えがたい悲しみにより、父親への憎しみから飛躍し、人間存在そのものへの憎しみを、ジャイロは持つに至る。上述のとおり「オレは人間じゃなかったんだ」と過去回想において自己認識しており、さらにキメラアントの襲来でジャイロは完全に人間でなくなった。キメラアントとして生まれ変わった。このことはメルエムが最後には人間となって死んでいったことと対応している。

 加えて、メルエムは母のみから処女懐胎によって産まれた一方で、ジャイロは父子家庭であった。そして、ジャイロは飯場で育った大工(というほどおそらくは高級ではないが)の息子、すなわちキリストと同じ生い立ちであったことも、メルエムとジャイロが対の存在であることを暗示する。

 さらに、メルエムがもたらそうとした福音――コムギ、ネテロにとっては恋焦がれても永久に与えられることがなかった彼らに見合った実力を持つ対戦相手として。人類全体にとっては人間社会の矛盾を発展的に解消しうる改革者として。詳細は本文冒頭の前回の記事を参照――とも、ジャイロのあり方は対になっている。すなわち、人間に災厄をもたらすものとして天から遣わされた者がジャイロなのである。

 以上から、本来キメラアント編はメルエム・コムギ・ネテロの三者関係ではなく、メルエムの対となるジャイロを加えた四者関係で物語が進むはずだったのではないかという仮説が生じる。母から生まれ良くも悪くも無垢で公平な心を持って人を導こうとした、キメラアントから人となり死んでいったメルエムと、父のもとで育ち人間精神の汚穢に塗れ全世界に悪意をばらまきたいと願い、人からキメラアントに生まれ変わったジャイロ。ここまで対称な存在としたからには、彼らによる共闘または彼ら同士の対話や闘争が作中で予定されていたような気がしてくる。「結局 ジャイロはゴンと出会うことなくこの街を去りどこかへ消えた それが互いにとって幸運だったか否かは2人が出会うまでわからない」とゴンと出会わなかったことが作中では強調されているが、僕にとってはむしろ、メルエムと出会わなかったことの方が、重要だと感じられるのである。