カウボーイビバップ 第15話 『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』の感想について

僕は本話がシリーズの中で一番好きだ。思わず快哉を叫びたくなるような軽やかさがある。それは過去を切断した軽やかさだ。本話は特にビバップの乾いた世界観とユーモアを体現するものとして特筆に値する。何もわからないまま始まり知りたいことは何もわからず終わる。「本当のことなんてどうだっていいのさ」と言わんばかりの投げやりで徹底した嘘と事実誤認の連続。「でも、人生ってそういうものでしょう?」とでも言いたげな世界認識がある。本話の筋を追いながら見ていきたい。まずはフェイにより語られる過去話からはじまる。

記憶を失いただ一人コールドスリープから目覚めた女フェイは「私は何者なの?」と聞かずにはいられない。思えば不憫で過酷な状況に一人放り出されたものだ。心細かったろうがめそめそなんてしてられない。それでもフェイは問わずにはいられない。手を差し伸べてくれた弁護士ハガス松本にフェイは聞く。

「どうして私を助けてくれるの?」

「スリーピングビューティーは王子様が守らなきゃな」

何もかもが分からない中で、新しく生まれてきたこの世界のことを教えてくれたのは間違いなくハガス松本だった。次第に二人は恋に落ちていく。しかし、突然の別れが来る。そしてフェイに遺されたハガス松本の借金。弱り目に祟り目である。この世界でただ一人自分を支えて愛してくれた人を喪い、新たな借金まで抱え込んでしまう。しかし、大変な苦境の中フェイがどのように生き抜いてきたのかは語られない。ただ一言、「ずぶとくもなりますの、大年増ですから」と語られるだけである。あくまでフェイが語るのは、アインの眉がハガス松本に似ていたことから始まる「かつて愛した人」についての物語だからだ。

ここまでの話を聞いたスパイクはフェイの過去から察せられる苦労になんてお構いなしに、こう言い放つ。「お前の過去は嘘バッカだな。ロマニーだのなんだの、今のも作り話じゃないだろうな」。それに対するフェイ。「嘘でも偽物でもないわ。本当の事がわからないだけよ。しょうがないじゃない」。

そう、しょうがないのだ。本当のことは何もわからない。それでも彼女はこれからも生きていく。無理やりにでも解釈して「過去」と「今」とをつなげて生きていく必要がある。「私」というものを作っていかねばならない。そこから生まれた事実誤認や結果としての嘘に罪はない。僕たちだって「過去」を語るとき、どこまでが本当でどこまでが嘘で事実誤認か、よくよく考えてみると誰にもわかりはしないのだ。

そうこうしているうちに死んだはずだったハガス松本本人が結婚詐欺師としてビバップ号に連行されてくる。これにより以下が明らかになる。①ハガス松本は生きていた。②ハガス松本が弁護士だというのは嘘だった。③フェイは騙され借金を押し付けられていた。したがって、④「過去」の切ない恋物語はフェイの思い違いに過ぎなかった。そして⑤ドクターもおそらくグルだった(ハガス松本は、ドクターが松本をかくまったゆえに死んだことを示唆)。

途端に「私」を構成してきた物語の屋台骨がぐらついてくる。もはや「過去」の恋愛どうこうの問題ではない。ドクターまでもがグルならば、フェイが54年間コールドスリープしていたことすら疑わしくなる。暴走したフェイはハガス松本を拉致し、松本を問い詰める。

フェイ「本当のことを教えて。私はどうしてあそこにいたの?何が本当でどこからが嘘なの?」「私は...誰なの?」

ハガス松本「君は本当に自分の過去を知りたいのかい?その覚悟は君にあるのかい?」

フェイ「...あるわ」

ハガス松本「そうか」

「......................................」

フェイ「ちょっと!」

ハガス松本「いや僕は知らないんだけどね」

徹底した肩透かしである。本話では確かに信じられる、踏みしめられる真実という足場が一つもない。

間髪入れず何者かによる演説(後掲)が始まる。現れた男はあの時のドクターである。先ほどのハガス松本による「ドクターは死んだ」という示唆もまた嘘だった。

フェイ「あんた、いったいどこまで嘘つけば気が済むのっ?」

ドクターによると、コールドスリープされていたことだけは確かだという。しかし、誰が何故フェイをコールドスリープさせたかなど、それ以外の事はゲート事故でデータが消失したため一切わからない。さらに驚くべきことに、ヴァレンタインという名前は好きな歌にちなんでドクターが勝手に名付けたという。コールドスリープの前後の事情という「私」の根幹を揺るがす問いの答えを追いかけた結果、さらに深いところにある「私の名前」までもが掘り崩されてしまった。これにはフェイもただただ言葉を失うばかりである。何度も何度も「私」を求めて「過去」を探すが、とうとう答えられることはなく、いっそうわからなくなっていく。

ドクターによる先程の演説を見てみよう。これは明らかにフェイに向けた語られた言葉だ。

「自分が何者か。どこから来てどこへ行くのか。人類誰しもが一度は思い悩む問いかけだ。だがそんなことは思春期に悩めばもう十分だ。いい歳になって考えてるのはただの暇人だな」

 ここに本話のテーマが簡潔に明示されている。「過去」を掘り返すこと、「過去」の「私」を考えることで「私が何者か」を知ることは出来ない。思えば思うほど、わからなくなっていく。何故なら「過去」の基礎となる事実はどうしても誰にとっても曖昧で、それゆえ「過去」の事実に対する解釈もまたころころ変わってしまうものだからだ。徹底した「過去」と「私」に対するクールな不可知論的姿勢。しかし、この言葉がドクターを自称する詐欺師(ドクターがハガス松本を見捨てて離脱する直前、ハガス松本は彼をとっさに「おじさん」と呼んでしまう。ドクターというのもまた嘘なのだろう)から発せられたことに注意するべきだ。繰り返すように、何一つ寄りかかるべき真実はここには存在しない。

ドクターたちに置いて行かれたハガス松本を牢屋にぶち込んだフェイは言い放つ。

「いい気味ね。嘘ばかりついてた罰が当たったってとこかしら」

ハガス松本はおもむろに目を閉じ、そしてまっすぐフェイを見返してこう返す。

「本当のことが一つある。眠ってる君に恋したことさ。スリーピングビューティーにね。」

フェイに驚きと何か少し心打たれたかのような表情が一瞬宿る。それを見たためか、すぐに「いや、嘘、嘘だよ」とハガス松本は頬を赤らめ打ち消す。苦笑とも微笑みともつかない表情になるフェイ。

ハガス松本はおそらく「ハガス松本」ではないし、フェイ・ヴァレンタインも「フェイ・ヴァレンタイン」ではない。互いの本当の名前を知らない者同士が最後に交わした一瞬の会話。そこにはハガス松本にかかっていた懸賞金19800ウーロン(ジェットは198000ウーロンだと勘違いしていた)程度のいくばくかの真実が、確かにあったのだ。「過去」や「私」を固定し捕まえることは出来ない。その時々の「今」の視点から見て、「過去」とは常に移り変わっていくものだからだ。そして「私」自身もまた刻一刻と移り変わっていくからだ(ジャズにおける「ビバップ」とはアドリブ主体の演奏をつないでいくスタイルである)。それでも、今この瞬間のハガス松本からフェイへ向けられた愛情とはまた別のささやかな好意が、確かにここにあったのだ。「過去」のハガス松本の行動にどれほどの真心があったか、今となってはわからないし、わかる必要もない。今この瞬間のこの場所をほんの少しだけ優しい場所に変えられる甘い言葉。そんな言葉は、フェイにとっての「過去」の意味づけもまた、ほんの少しだけ良いものに変えた。

以下は蛇足である。すべてが終わった後で、二人のささやかな心の交流を知らないスパイクが「お前、つくづく薄情な女だよ」と憎まれ口を叩くのを意に介さず、フェイはつぶやく。

フェイ「私の過去、なーんにもわからなくなっちゃったなあ」

スパイク「どうでもいいことじゃねえのか」

フェイ「あんたは過去があるからそう思うのよ」

スパイク「過去はどうあれ、未来はあるだろ」

最後のこの会話は重要である。スパイクはこんなことを言いながら、「過去」に取りつかれた男である。そして、ジェットは第10話『ガニメデ慕情』で描写されたように「過去」と折り合って生きる男である。「過去」に取りつかれたスパイク、「過去」と折り合うジェット、「過去」がないフェイと明確な対比が浮かび上がる。

そして、物語が佳境に向かうラスト近くになって、「過去」のために命を捨てに行くスパイクを止めようと、スパイクに銃を向けたフェイは以下のように言う。

「どこ行くの...?何で行くの...?いつか、あんた言ったわよね?過去なんてどうでも良いって。あんたの方が過去に縛られてる!」

本セリフにおいて本話『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』及び本話のドクターの演説が念頭にあることは明らかである。「過去」がないフェイはラスト直前で、記憶を失う前に関わりのあった場所に向かい、自分の居場所はビバップ号にしかないと気づいて帰ってくる。「過去」がないフェイは「未来」を生きるフェイとなった。一方でスパイクは、「過去の亡霊」ビシャスが「静止していた現在」を揺るがしたため清算を迫られる。第一話で描かれた組織から逃げようとする男女の話で予め示唆されていたように、組織から逃げ続けることは困難である。ビシャスが死ぬか、スパイクが死ぬかである。そして、スパイクにとって逃げる選択肢は完全に失われる。ジュリアを亡くしたからだ。そうなってしまっては、生きる理由もないからだ。こうしてスパイクは「過去」のために死ぬことを余儀なくされる。

フェイは「過去」と決別して「今」に帰ってきた。スパイクはとうとう「過去」に取り殺されてしまった。スパイクにとっての「過去」がまだまどろみの中にあるとき、そのときだけにありえた、幸福な夢がビバップ号での日々だったのだ。