ボカロ曲『炉心融解』の解釈について 『海と毒薬』を手掛かりにして

 以前妻より『炉心融解』の歌詞「エーテル麻酔」は遠藤周作『海と毒薬』より来ているのではないか、という話を聞いた。エーテル麻酔は現代医学ではその引火性が問題となり、使用されない。現代が舞台だと思われる『炉心融解』作中において、何の説明もなく登場する「エーテル麻酔」には、何らかの意味が込められていると解釈することはそれほど突飛なことではない。以下では『炉心融解』中の「エーテル麻酔」は、『海と毒薬』における「エーテル麻酔」だと前提して、これを補助線に本作を解釈したい。

 妻曰く、歌いだしの「街明かり 華やか エーテル麻酔の冷たさ」における後段の「エーテル麻酔の冷たさ」は、『海と毒薬』中で捕虜を生体解剖する際に用いられたエーテル麻酔である。作中の印象的なシーンとして、主人公が米兵に健康診断と偽りつつエーテルを処方する際、米兵がその匂いから「ああ、エーテルだな!」と発話するシーンがある。主人公は真実を告げることなく、やがて米兵はエーテル麻酔により意識を失い、永久に目を覚ますことなくその命を失う。この場面に代表されるように、『海と毒薬』には冷ややかな空気が充満している。命を救うべき医師たちが看護師たちが、何人もその場に居合わせながら、その最期まで真実を隠し続けて、その身を彼らに預けた捕虜の命を奪うのである。この身を凍らせる冷たさを表したものが「エーテル麻酔の冷たさ」である。

 一方、歌いだし前段の「街明かり 華やか」は上述の後段「エーテル麻酔の冷たさ」と対になっている。ここでの華やかな街明かりとは、『海と毒薬』続編の『悲しみの歌』にて、主人公が身を寄せた新宿の街明かりを指す。『悲しみの歌』とは、戦争の記憶が忘れ去られた時代を舞台に、また明るく華やいだ街とそこで暮らす能天気な人々を背景に、生体解剖のあの日以来色あせてしまった世界を生きる主人公が、戦中に犯した罪を忘れられずにいる物語である。すなわち、何もかもなかったかのように明るく生きる人々と街の中で、過去に取りつかれ灰色の世界を生きる主人公を象徴するものが「街明かり 華やか エーテル麻酔の冷たさ」なのである。

 ここまでを前提に、『炉心融解』全体の意味についてデッサンしておきたい。詳細については以下で順を追って書く。この作品は思春期の痛ましいほどの切実さを描いたものだ。それは自意識過剰なほどに倫理的な病だ。自身が犯したわずかな過ちあるいは不作為が、はたから見て滑稽に見えるほど重大な結果をもたらすと思い込み、いつまでもそれにこだわってしまう。この世界の歪みのすべてを一身に引き受けてしまう過剰な思いが、彼/彼女自身を苛んでしまう。しかし、この苦しみは滑稽で愚かしいものなのではなく、高度に倫理的な態度であるということを忘れてはならない。

 さて、『炉心融解』の内容について本格的に入っていきたい。まず「全てがそう嘘なら本当に よかったのにね」と直後の「君の首を絞める夢を見た」を見たい。本当に起こったことは何だったのか。「君」に何らかの災厄が降りかかったことと思われる。ではその原因を作ったのは「僕」なのだろうか。「君の首を絞める夢」を見たことから、二つの可能性がある。①原因を作ったのは「僕」。あるいは②原因を(直接に)作ったのは「僕」ではないが、何らかの関与がある。今回の解釈では②の説をとる。というのは、『海と毒薬』が前提にあるからである。『海と毒薬』において主人公である勝呂医師は、生体解剖のための準備としてのエーテルを捕虜に嗅がせることはしても、直接手を下すことはなかった(より正確には出来なかった)からである。以上から、『海と毒薬』のエーテル麻酔が頭にこびりついて離れない「僕」は、「君」の災厄について何らかの関与があり、そのことにこだわり続けていると解釈される。では、直接手を下していないにもかかわらず「君の首を絞める夢」を見るのは何故か。僕にはドローンで中東を攻撃し、精神を病むアメリカ兵が連想される。物理的危険と精神的負担を減らすために、直接手を下さずに済むようになったはずが、おそらくはそのこと自体によって彼らは実際の戦闘機の操縦士と同じ割合でストレス障害に罹患するという。すなわち、本作においては直接手を下さなかったということをそれ自体によって、「僕」は「君の首を絞める夢」をくり返しくり返し見て、不眠と悪夢に取りつかれるのである。

 不眠と悪夢とりつかれた「僕」は、勝呂医師と同じように「融けるように少しずつ 少しずつ死んでゆく世界 」にいる。また、「時計の秒針や テレビの司会者や そこにいるけど 見えない誰かの 笑い声 飽和して反響する」とあるように、明るく華やいだ外界との調和を失っていく。悩みなんてないかのような外界の中で、異物として自己を認識するようになっていく。そして最後には、「核融合炉にさ 飛び込んでみたら そしたら きっと眠るように 消えていけるんだ 僕のいない朝は 今よりずっと 素晴らしくて 全ての歯車が噛み合った きっと そんな世界だ」と、自分が世界の違和の原因そのものであり、自分さえ消え去れば世界は完全な調和を取り戻すという妄想に至る。

 ここで出てくる核融合炉というモチーフもまた、間接的な関与または不作為を示すものだ。むろん、本作が2011年3月11日以前に作られたことには注意すべきであるが。原子力発電という方法が誰かにリスクを負わせていること、その一方で利益のみを享受している「僕」がいること。その不均衡にすら「僕」は耐えることが出来ない。「僕」がその最前線である「核融合炉」についてくり返しくり返し言及し、そこに飛び込みたいと願うのは、その不均衡が象徴するこれまで犯してきた様々な間接的関与または不作為の罪、そして「君」への罪責を忘れることが出来ないからだ。

 自己を支えきれなくなり、とうとう自身の消失=メルトダウンを願うまでに「僕」は至る。死という言葉は適切でない。死してもなお、その存在が残るからだ。存在及び存在した過去すべてを消失させることによってのみ、「僕」は許され/救われ、また世界は調和を取り戻すと、彼/彼女の中では観念される。

 この浅はかさと観念性は、若さゆえのものである。すでに様々なところで指摘のある通り、そもそも核融合炉でメルトダウンが起こることはまずない(原子炉と核融合炉は別物である)し、炉心融解ではなく炉心溶融が正しい呼称である(らしい)。この事実誤認と核を持ち出す不謹慎さもまた、若さゆえの過ちなのだろう。

 まとめよう。本作は3つの間接的関与または不作為が「罪」のモチーフとして描き出されている。すなわち、①生体解剖、②「僕」の犯した何事か、③原子力の利用にかかる「僕」のあり方。そして、この3つが互いに響き合う。「僕」はかつて読んだ『海と毒薬』の勝呂医師の罪を、過去のどこかで起こった愚かな他人による出来事として読むことが出来ない。今まさに自分に突き付けられた問題として読んでしまう。ずっと心に残り続けている。あることにこだわり続けること。我が事として受け止めること。それらは生きていく上で歳を重ねるにつれ失われていく一つの機能だ。「生きるのが上手になる」ともいう。「ずるくなった」ともいう。ボカロ曲の中で特別優れた本作を聴くとき、自分の中の錆びついてしまった、痛ましいばかりの切実さを僕は思い出すのである。

 

 吉本隆明『廃人の歌』

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 ぼくのこころは板のうえで晩餐をとるのがむつかしい 夕ぐれ時の街でぼくの考えていることが何であるかを知るために 全世界は休止せよ ぼくの休暇はもう数刻でおわる ぼくはそれを考えている 明日は不眠のまま労働にでかける ぼくはぼくのこころがいないあいだに世界のほうぼうで起ることがゆるせないのだ だから夜はほとんど眠らない 眠るものは赦すものたちだ 神はそんな者たちを愛撫する そして愛撫するものはひょっとすると神ばかりではない きみの女も雇主も 破局をこのまないものは 神経にいくらかの慈悲を垂れるにちがいない 幸せはそんなところにころがっている たれがじぶんを無惨と思わないで生きえたか ぼくはいまもごうまんな廃人であるから ぼくの眼はぼくのこころのなかにおちこみ そこで不眠をうったえる 生活は苦しくなるばかりだが ぼくはとく名の背信者である ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によって ぼくは廃人であるそうだ おうこの夕ぐれ時の街の風景は 無数の休暇でたてこんでいる 街は喧噪と無関心によってぼくの友である 苦悩の広場はぼくがひとりで地ならしをして ちょうどぼくがはいるにふさわしいビルディングを建てよう 大工と大工の子の神話はいらない 不毛の国の花々 ぼくの愛した女たち お袂れだ
 ぼくの足どりはたしかで 銀行のうら路 よごれた運河のほとりを散策する ぼくは秩序の密室をしっているのに 沈黙をまもっているのがゆいいつのとりえである患者だそうだ ようするにぼくをおそれるものは ぼくから去るがいい生れてきたことが刑罰であるぼくの仲間でぼくの好きな奴は三人はいる 刑罰は重いが どうやら不可抗の控訴をすすめるための 休暇はかせげる

 

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