パワポケ考察① パワポケとは何だったのか

1 導入

 パワポケ2は人生で最もやりこんだゲームだ。本作に僕は小学校低学年のころに出会い、パワポケシリーズは以後、僕の人格形成に大きく寄与している(例えば①対象から距離を保ち様々な観点から物事を見る批判精神、②劣位に置かれた側への共感、③ご都合主義を許さないという意味でのリアリティの追求などなど。本ブログの他の記事にもこれらの特徴は色濃く現れている)。ゲーム実況者ゆーきさんによるパワポケシリーズのプレイ動画を見たことを機縁に、ここしばらくパワポケ熱が再燃し、手に入る限りのパワポケに関する文章・画像・動画を見てきた(ちょうどパワポケコラボ中のパワプロアプリに復帰し、ソフトも買った)。その中で、パワポケシリーズは特異なゲームであったことを改めて実感するようになった。しかしながら、どのような点が特異であるのかについては十分に語られてこなかったように思う。ともすると過激なバットエンドやギャルゲー描写、スタッフの悪ノリへの言及で終わってしまうことが多く、作品全体や内容についての考察はあまり見当たらなかった。そのため、今回は他のゲームと比較した上での位置づけと、本作の特異性を考えてみたい。要するに、パワポケシリーズとは何だったのかについて考えてみたい。

2 ゲームの概要

まず、パワポケシリーズの概要について整理しておきたい。この部分はプレイしたことのある人にとってはほとんどが既知の情報であるので、読み飛ばしても問題ない。パワポケシリーズは、テレビゲーム『実況パワフルプロ野球』シリーズの携帯ゲーム版であり、基本システムを本家より受け継いでいる。『パワプロ』及び『パワポケ』全てに共通して最も重要な要素は、①野球の対戦と②対戦で使用する野球選手の作成である。後者の「サクセス」と呼ばれる野球選手の作成は、一種の育成シミュレーションであり、プレイヤーが一人の野球選手の人生の一部(例えば高校時代)を仮想体験することで選手を作成していく。サクセスは『ときめきメモリアル』のシステムを元にしており、主人公が選択した行動によって野球に関する能力値が変動し、またエンディングが分岐する。より具体的には、ターン毎に主人公は①練習、②同僚らとの交流、③異性とのデートなどの行動を選択し、様々な経験をすることを通じ野球選手として成長していく。そのほかに試合や誕生日のような定期的に発生する定期イベントやランダムに発生するランダムイベントがあり、これら全てのイベントにおいても主人公たるプレイヤーには行動の選択が求められ、選んだ選択肢によって選手能力に変化があったり、後に発生するイベントやその結末が分岐したりする。第一義的にはサクセスとは優れた野球選手を作成するためのものであり、そのためには以下のスキルがプレイヤーには求められる。①試合などでのキャラクター操作の上手さ、②効率的な育成のためのスケジュール管理、③イベント発生時の選択肢に関する知識。ポイントは試合でのキャラクター操作がいくら上手くてもそれだけでは育成において不十分なところだ。育成目的(ex.今回は俊足巧打の外野手が作りたい)に応じた選択肢を選んだり、ランダムで発生した諸状況に応じたその時々で最適な育成スケジュールを組んだりする必要がある。この点が、サクセスのやり込み要素となっている。

ここまでは『パワプロ』及び『パワポケ』両方に当てはまる特徴について書いた。次はパワポケシリーズに焦点を当てて概要を続けたい。本シリーズはパワプロシリーズのスピンオフとして始まったものであり、1999年から2011年にわたって全部で15作が発表されている。本家は野球をプレイすることそれ自体に比重があったのに対し、本シリーズは当初携帯ゲームのスペック的に十分に野球の試合を再現することが困難であったため、制作陣は文章のみで表現可能なサクセスのストーリー面に注力することとした。そしてこのことが決定的にパワポケシリーズの性質を決定づけることとなる。すなわち、パワポケシリーズの特徴・魅力は一にも二にもサクセスのストーリーである。まず野球さえしていればなんでもよいというばかりにメインストーリーが突飛である。たとえば①目が覚めると主人公はサイボーグとして生まれ変わっており、生きていくために金を稼がなくてはならなくなるものや、②一流選手だった主人公がクビ寸前のダメ選手と入れ替わってしまうところからスタートするもの、③特務機関のエージェントとしてプロ野球に主人公が潜入するもの、④風来坊として河原でテント生活をしながら大型スーパーに脅かされる商店街の草野球チームの助っ人をするもの、⑤内定先が倒産してしまったため日銭を日雇い労働で稼ぎながらネットゲームで野球をするもの(本作に至っては現実世界での野球すらしない!)などなど、バラエティに富んでいる。メインストーリーはゲームを進めるにつれて次第に真相が見える仕組みとなっており、読み応えのあるものだが、登場キャラクターに対する細やかな描写もまた同じ程度に魅力的である。血の通ったキャラクターたちがそこにいたことを示す例として3つ、印象的なセリフを取り出してみたい。①クビ寸前のダメ選手だった彼氏が一流選手と人格が入れ替わってしまい、それでも彼を追う女性に対しチンピラ(この人物は正真正銘の悪漢であり小悪党である)が女性の追っていた彼はもうどこにもいないと諭す際のセリフ「…違うね。確かに姿が変わっただけなら同じ人間だ。だが、立場と財産と周囲の人間の態度が変われば…もう別の人間なんだ」。②次は草野球チームのチームメイトの警官がぽつりと漏らした述懐「私、警察官になって世の中の正義を守りたかったのであります…でも現実には、つまらない日常勤務の繰り返しで。一番つらいのは、どこででもそうなのではないかということを考えてしまう時なのであります。だから、世の中のどこかに世界征服を目指している妙な連中がいて欲しいと思う*1」。③清貧な市会議員の娘で後に世界最高権力者となり世界を危機に追いやる人物が主人公と交わした高校の生徒会長時代の会話「人間は愛を尊いものだと勘違いするから、世の中の悲劇の半分が生まれる。残りの半分は偶然と判断ミス、それと想像力の欠如から。だから、悲劇がゼロにならん。......悲しいことだな」。以上から、本シリーズのストーリーが一筋縄ではないことが多少なりとも伝わったと思う(より詳細なストーリーの魅力については後述する)。

さらに、パワポケシリーズには上述の野球をしながら野球選手を育成するサクセスとは別に、もう一つのサクセスシリーズが存在する。一般に前者を表サクセス、後者を裏サクセスと呼ぶ。裏サクセスにおいては、野球をサクセス中でしなくてはならないという制約すら存在せず、より自由度が高いため一層何でもありとなっている。例えば①太平洋戦争時代の日本にタイムスリップした主人公が、日本軍兵士として200週間を生き抜くもの、②ファンタジー世界で仲間を集めながら冒険するRPGもの、③忍者である主人公が三国に分裂した忍者の里を統一するために抗争に明け暮れる三国志風戦略ゲームもの、④宇宙人の侵略で「ゾンビ化」した住民に囲まれながら10日間生き延びるパニックホラーもの、⑤江戸時代によく似た異世界でカードバトルをするカードゲームものなどがある。裏サクセスにはすでに表サクセスで登場したキャラクターたちが新たな役を割り当てられ別人として登場する。いわば裏サクセスは表サクセスに対する異世界のIFストーリーである。裏サクセスは表サクセスに引けを取らないテキスト量とやりこみ要素があり、表サクセスとは独立してそれ単体として十分楽しめる作りとなっている。

以上、ここまでで見たように、①本家であるパワプロシリーズのときから育成シミュレーションの形で選手を作成する「サクセス」が非常に重要な要素を占めていた。②パワポケシリーズは開発当初のハードのスペック上の都合から、サクセスのストーリー及び人物描写にパワプロに比して一層の比重を置いた。③ストーリー重視により肥大化したサクセス要素は、野球要素を極小化しついに何でもありの異世界もののIFストーリーである裏サクセスが誕生するに至った。次回以降は本格的にパワポケの考察に入っていく。

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パワプロクンポケット

パワプロクンポケット

  • 発売日: 1999/04/01
  • メディア: Video Game
 

*1:このセリフを僕が引用したのは、三島由紀夫の嘆きと響きあうように思われたからだ。

三島「そういうことで仕事をやっている時に、何か生の倦怠というか、ただ人間が自分のためにに生きようということだけには、卑しいものを感じてくるのは当然だと思う。人間の生命というものは不思議なもので、自分のためだけに生きて、自分のためだけに死ぬというほど人間は強くない。人間は何か理想なり、何かのためにということを考えているので、生きるのも自分のためだけに生きることにはすぐ飽きてしまう。すると死ぬのも、何かのためにということが必ず出てくる。それが昔言われた大義というものです。そして大義のために死ぬということが人間にとってもっとも華々しい、あるいは英雄的な、あるいは立派な死に方だと考えられていた。 しかし今は大義がない。これは民主主義という政治形態が大義などいらない政治形態なので、当然のことなのだが、それでも心の中に自分を超える価値が認められなければ、生きていることすら無意味になるというような心理状態がないわけではない。それだけに私も、なにかもっと名誉のある、もっとなにかのためになる死に方をしたい。そう思いながらも、結局は葉隠の著者のように、生まれた時代が悪くて、一生そういうことを思い暮らしながら、畳の上で死ぬことになるだろうと思います」

参照元のサイト:しんいちろう茶屋BLOG:三島由紀夫の予言 Mishima's prediction - livedoor Blog(ブログ)

この嘆きは発話者である警官や三島だけのものではないと思う。治安を守る者が社会を乱す者を心のどこかで待ち望む。本末転倒である滑稽さをうっすら感じながらも、同時にそれを願わずにはいられない。砂を噛むような毎日の中で、来るかもしれない「いつか」に備えて自分をずっと磨きながら待っている。そしておそらくその日はやってこないこともわかっている。どれだけ強く焦がれても、多くの人には自分の人生を十二分に報いるような劇的な瞬間などやってこない。その耐え難さ・その嘆きは、現代を生きる人々の心のずっと奥の方に底流しているように僕には感じられる。件の警官がふっと漏らしたセリフは、日々の生活の中では後景に退く嘆きを、掬い上げたものなのだと思う。