パワポケ考察⑬ 巨大組織の暗躍とプレイヤーを現実へと立ち返らせるリアリズム

パワポケシリーズにおけるある種のリアリズムについて

今度は本シリーズにおけるリアリズムを見てみよう。少しでもプレイしたことのある人間なら、本シリーズが過剰なまでにある種のリアリティにこだわっていることに気づくだろう。このこだわりは、これまでに説明した野球ゲーム・恋愛ゲームとしての性質からの逸脱をもたらす。考察③で見たように、恋愛対象に当たる女性たちは恋愛ゲームのフォーマットからしばしばはみ出てしまう。付き合っていても害しかなさずただただ不快な者や気にかけるような描写があるのに付き合うルートが存在しない者、あるいは不美人の者や上で見た子持ちヤンママなどがいる。これらは我々が現に生きるこの世界に寄せて、本当らしさを追求した結果なのだろう。また、野球ゲームとしての主人公のあり方に冷や水を浴びせかけるような描写もたびたび登場する。例えば、2主人公の祖母は主人公がプロ野球選手になったことを快く思っておらず、実家に帰るたび「公務員になってほしかった」とか「お前の両親に顔向けできない」と嘆く。あるいは「プロ野球なんてクビにならなくても身体が壊れたらそれでおしまいで、一生続けられるわけでもなし、お前は一体将来どうするつもりなのだ」と主人公に詰問し、主人公が言葉に詰まるシーンすらある。また、13の主人公の父は野球エリートの道を進む主人公の将来を危ぶみ、内心では野球をやめてほしいと思っている。主人公の幼馴染の父親にその本心を打ち明けるシーンがある。

父「私は息子に、こんな風に野球にのめりこんで欲しくなかった。一歩踏み外せば、奈落の底のようなぎりぎりの人生など歩ませたくはなかった」

この父の認識は現実においてはもちろん、作中においてもあながち間違ったものではない。パワポケ5でプロ野球選手の主人公がクビを宣告された際のゲームオーバー画面では、野球選手はつぶしが効かないことが明言されている。

「野球にかけてた人生を たった一言 『君いらない』 つぶしのきかないこの俺は この先いったいどうしよう….」

野球選手を育成するサクセスストーリーが本分の本シリーズにおいて、野球に人生を賭けることがいかに危ういかについて言及することは、明らかに不要な描写である。では、何のための描写であるのか。本シリーズはプレイヤーを特定の幻想にのめりこませない。むしろ、対象を相対化し、距離を取ることを教える。考察⑤で見たように、パワポケ2の戦争編では英雄幻想や参謀幻想から距離を取った。

もう一つ例を見てみよう。パワポケ4裏サクセスのRPG風ファンタジー編である。勇者である主人公は冒険をしながら3つの珠を集める使命を負っている。物語終盤、2つの珠はすでに手に入れ、最後の珠は魔王の住む城にあるとの情報を得て城に主人公は向かう。レベルも最終決戦に向けて十分に上がってきたころだ。城に入って主人公は魔王と言葉を交わすが、選択肢にある「お前を倒しに来た」は決して選択してはならない。選択すると、他のモンスターをエンカウントしたときのように戦闘画面へ遷移することすらなく、主人公は魔王の魔法でネズミに変えられ踏みつぶされておしまいになる。データも削除される。主人公がやるべきだったのは、「自分は珠を探しに来ただけで戦いに来たわけではない」と仁義を切ることだったのだ。このように事情を説明すれば魔王も話が分かる人(人?)なので、協力こそしないが大目に見てくれる。また、再度城を訪れた際には、魔王から愚痴を聞かされる。

魔王「なんじゃ、また来たのか。まったく…やはり城全体で定休日というのは問題があるようじゃな」

主人公「『定休日』?そういえば、以前もそういう話を聞いたような。でも、どうしてまたそんなことに?」

魔王「気に入らない奴とか任務に失敗した奴をワシが片っぱしから殺してしまったのがまずかったのじゃ。おかげで、気がついたときには城の掃除にも人手を欠くありさまでな。いやしくも魔王の名を冠するものが庭の雑草抜きをやるハメに…」

主人公「ゾンビとかゴーレムは?魔法は得意なんでしょう?」

魔王「あの連中は行動をプログラムするのが大変な上に、気がきかんのじゃ!ゴーレムのコックに同じ料理をひと月も出されて、頭が変になりそうになったぞ」

主人公「はぁ…」

魔王「で、古代の王宮料理人を召喚したら世にもまずい料理を作りおった。当時はスパイスがなかったんじゃよ!」

主人公「大変ですね」

魔王「というわけで、ワシの下で働かんか?いまなら週休2日で月給は…」

主人公「いえ、遠慮しておきます」

魔王「そうか?では、愚痴に付き合ってもらったことであるし、手土産をやろう」

作中において魔王は悪魔化されない。トホホな側面を持った人間臭い人物として描かれる。主人公もまた勇者でありながら魔王という絶対的な力の前では無力なものとして描かれる。いわば、勇者幻想は否定される。勇者にもかなわない圧倒的なものが世界に存在し、それに対してはやり過ごすしかない。要するに、舞台はファンタジー世界であるにもかかわらず、妙なところで世知辛くリアルなのだ。

この種のリアリティは表サクセスにおいても顔を出す。パワポケ2において主人公は思い付きでめちゃくちゃな経営をするワンマン球団オーナーに振り回される。具体的には、入団2年目に2軍を半分クビにし、3年目には2軍を消滅させるというものだ。さらにはその会社の副社長曽根村は会社乗っ取りを画策してチームの弱体化工作や彼女候補(彼女はオーナーの隠し子)の殺害を試みる。曽根村が会社を自滅させるために、大きく打って出る経営するようオーナーの無能なバカ息子カケルをそそのかすときの会話を再掲しよう。

曽根村「社長。ここは男らしく、『攻め』の姿勢で戦うべきです!私も、協力しますよ」

カケル(「男らしく」か…そうすれば弓子も…)

カケル「よし、たのんだぞ曽根村!」

曽根村「はい、おまかせください。……」

曽根村(金のない時のギャンブルは失敗するものですよ。世間知らずのカケル社長)

個人的な話になるが、僕は曽根村の最後の内心の言葉の描写がとても好きだ。小学校低学年だった当時、この言葉に僕は衝撃を受けた。決して感情を表に出さず穏やかで、長年にわたって社長に忠誠を誓ってきた人物が、腹の底では背中を刺す瞬間をじっと待っている。対象年齢が主に小学生相手の作品で、「金のないときのギャンブルは失敗する」という世間知を入れてくるのにもしびれた。ここではじめてある種の社会を見たし、人間の怖さも知った。曽根村はあらゆる汚い手段に手を染め、殺人を指示し、そして会社を乗っ取った暁には社長就任会見で平然と愛だの夢だのとのたまう。正史における顛末を書いておこう。乗っ取り工作が裏目に出てプロペラ団に会社を乗っ取られてしまい、社長親子はホームレス同然となる。一方、曽根村は世界的大企業の部長職におさまる。ライターによると、有能な人間には需要があるから、とのことだ。己の野望のためには平気でどんなことでもする人間が、十分すぎる社会的地位を得て報いも受けずにのうのうと暮らしている。

この曽根村という人物は使い勝手が良いのか大変ライターに気に入られているようで、以降も裏サクセスで名悪役としてたびたび登場する。パワポケ9の裏サクセススペースキャプテン編では、彼は圧政を敷く国家の長官である。

曽根村長官「強大な力に反抗して、それでも生きのびるような人間がいたら、それは英雄ではないですか。そんな伝説が残ってしまえば、いつまでたっても権力に反抗的な人間はいなくならない。だから、あなたにはこの場で死んでいただかないと困るんですよ」

冷徹な体制側の論理を語るこのシーンは、悪役曽根村の面目躍如といったところだろう。

話を戻そう。パワポケ2において、単なるプロ野球選手に過ぎない主人公は上述した上層部での意思決定や陰謀など知る由もない。にもかかわらず、その決定に否応なく振り回されることになる。本シリーズにおいて、主人公視点では野球と恋愛が主な物語の要素となるが、その背後には常に主人公の運命に大きな影響を与える巨大な権力を持った組織が存在する。そして、一個人の力が組織に対していかに無力であるか、組織への個人的抵抗がいかに困難であるかが繰り返し描かれる。例えば、たびたびシリーズに登場し、常に巨大な悪と戦ってきたある記者。

大谷記者「たしかに、かつて私は社会の悪と戦うことに人生を捧げてきた。その結果、どうなったと思う?度重なる裁判と脅迫で神経をすり減らし気がつけば印税も使い果たして、記事を載せてくれる雑誌もなくなった」

あるいは、孤立無援の状態で悪の組織と戦い続けるパワポケ11の彼女候補。彼女は敵の攻撃を避けるため住処としている廃ビルを転々としながら、コンビニの廃棄をあさり、消費期限切れの弁当を食べて暮らしている。そして、あるときあまりのみじめさと心細さで泣き出してしまう。

主人公「とりあえず生活に使えそうな物。寮から持ってきた」

浜野「言っとくけど、ほどこしは受けないわよ。タダで物をもらうってことはプライドで物を買ってるのと同じなんだからね!」

主人公「いや、それ新品じゃないよ。捨てるつもりだったものなんだ。それならかまわないだろ?」

浜野「……そ、そうなの?捨てるのなら、まあ…それなら、ありがたくいただいておくわ。でも、この食べ物は何なの?」

主人公「…消費期限切れ」

浜野「あ…そうなの。じゃあ、もらっておかないとね」

浜野(ぱく)

浜野「…うん、おいしい」

主人公「よかったな」

浜野(ぐす)

浜野「…くやしい…」

主人公「え?」

浜野「くやしい!くやしい!組織にいたころは、いろんなおいしいものが食べられたし、シャワーだって毎晩使えたのに。こんな生活、もういや…」

ここでも子どもっぽい正義のヒーロー幻想は粉々に打ち砕かれる。あらゆるリソースをフル活用する巨大組織に対して、個人の善意や頑張りだけで太刀打ちすることなど到底できない。圧倒的な物量を前に押しつぶされるのがオチだ。対抗するには組織が必要であり、生活のための基盤が必要なのだ。

生活のための基盤、身もふたもなく言えばカネの話は、本シリーズでは常に付きまとう。高校野球編では部費に主人公は頭を悩ませることとなるし、パワポケ12では主人公は家賃の支払いに追われ、滞納が続けばゲームオーバーになる。あるいは、パワポケ3では野球するにも自分や誰かを救うにもカネ・カネ・カネである。

その中で、パワポケ2の世知辛さは特筆に値する。主人公は野球しか知らない世間知らずであるがゆえに、様々な場面で食いものにされる。例えば、最凶最悪の彼女候補のりかには保険に入るようすすめられる。曰く、プロ野球選手は身体が資本なのだから、何かあっても大丈夫なように保険に入っておけば安心である、と。なお、この保険は掛け捨てで支払いは死亡時のみのものであり、この保険によって主人公が恩恵を受けることはない。しかし、主人公は保険の内容など理解できないため言われるままに加入する。そして、保険加入後主人公はのりかから事故を装ってたびたび命を狙われることになるのだ。また、球団と選手との契約を仲介するプロペラ団の甘言に乗ってしまうと、いくら活躍しても一向に給料が上がらず、疑問に思うも何故かは主人公にはわからない、という搾取エンドも存在する。あるいは、給料を支払いたくない球団オーナーに言いくるめられて、給料の半分を自社株にて支払う契約を結ばされることもある。そして、大概の場合、主人公はこの契約を結んだことを後悔することになる。これらのエピソードは一貫して社会の仕組みに目を向けさせようとする。

これまで見てきたこの種のリアリティは、どのような意味を持つのか。僕は高畑勲作品を連想する。高畑は多くのフィクションを批判してこのように言う。作品を観ているときはハラハラして夢中になれるが、観終わった後は何も残らず忘れてしまう。それなら何のために作品を観たのかわからない。空しくならないのか、と。一方で、高畑作品はフィクションを通じて我々の生きる世界を考えさせる。そして、フィクションへの耽溺を許さず、現実への帰還を促す。いうなれば、物語と現実との切断を許さない。この点はパワポケシリーズと確かに通底している。公的領域での野球と私的領域での恋愛を、そして背後に横たわる巨大組織の陰謀を、克明かつ詳細に描きながら、最後にはプレイヤーに現実へ帰還しそれと向き合うことを要求する。パワポケ12のエンディングでのモノローグを引用して今回は終わりとしよう。

「こうして、俺の物語は終わる。物語は終わっても、人生は続く。『めでたしめでたし』で読者は本を閉じることができても、俺たちの努力が終わることはない。そう。みんな歩き続けるのだ」

パワプロクンポケット13

パワプロクンポケット13

  • 発売日: 2010/11/25
  • メディア: Video Game