ボカロ曲『炉心融解』の考察 無機質な歌唱法に込められた切実さ

 ボカロ曲の中で、『炉心融解』は特別な曲だと思う。正直言って、僕は良いボカロのリスナーではない。このころのボカロ曲の、特に有名な曲くらいしか知らない。それでも、『炉心融解』だけはボカロ曲になじみのない僕にとっても折に触れて聴き返す大切な曲になっている。何故か。思うに、ボカロ曲の中で本曲が特殊な立ち位置を占めるからだ。それを明らかにしたい。

 多くのボカロ曲は、より人間らしい歌声にすることを目指して作られる。多くの作者は、人間が歌っているのかボカロが歌っているのかわからないレベルを目指して「調教」を行う。当然、歌詞には感情が乗せて歌われることが良しとされる。例えば、『メルト』や『恋は戦争』は恋がかきたてる狂おしさを巧みに表現した白眉と言えるだろう。しかしながら、機械の歌声はまだ人間になりきることはできていない。ここに作者と聴衆の共犯関係が生じる。聴衆は不完全な機械の歌声の中に、人間的な情緒を積極的に見出そうとする。このようなあり方はたまごっちでもAIBOでもペッパーでも、およそ生き物に模した機械に対して僕たちが抱いてきた構えであった。生物との違いをあげつらうのではなく、生物との共通点を見出し、それを愛でるのだ。機械の歌声の不完全性は、歌い手がその曲を歌うことによっても補完される。ボカロ文化とは、ボカロという機械と作者と聴衆にくわえて、歌い手がいてはじめて、完全なエコシステムとなる。

 ところが、『炉心融解』の場合は勝手が異なる。この曲は「歌ってみた」になじまない。人間が歌うと曲の中にあったはずの切実さが失われてしまう。ボカロの中にある無機質さ・歌唱の不自由さにこそ、この曲の命がある。

 すこし遠回りをしたい。そもそもボカロ文化とは共同幻想である。ある種の偶像をみんなで作り出してみんなで愛でる文化である。偶像は具体的な身体を持たないほうが良い。なんでも乗せることができる透明な身体=容器を通して、感情を乗せ、共感し、つまるところ繋がることができる。ボカロという依り代はコミュニケーションの回路なのだ。

 一方で、『炉心融解』は機械の歌声がはらむ「もどかしさ」にこそ焦点を当てる。自分の中に巣食うこの感情にどのような言葉を当てて良いのかわからない。「悲しい」とか「苦しい」といった直截的な感情の表現は歌詞の中に出てこない。今の私の気持ちに定型的な感情・表現・感情表出を割り当てることに強い違和感がある。内に渦巻く感情を自分でも捕まえられない。捕まえられないから表現できない。だから、歌詞の中では「私を通して観測された現象」と「今私が抱いている心情がもたらす心の動き」だけが記述される。本曲の歌詞はひどく抽象的であるが、その抽象性は単なる代入可能性として解すべきでない。私は何かにとりつかれていることだけは確かだが、それが何かを具体的に捕まえることができていない茫漠さを表したものとして理解すべきだ。

 私の中の感情であるのに、自分ですらもそれを捕まえることができない。頭の中に靄がかかって、まるで他人事であるかのように見える瞬間すらある。この離人感は生身の人間ではなく、ボカロが歌うことによってはじめて表現され得る。一般的なボカロにおいては、ボカロとは上述の通りなんでも感情を乗せてやり取りできる透明な回路・通路であった。そして、ボカロというプラットフォームを前提に、歌い手が多種多様な個性という色を加えることで一層豊かになっていくジャンルであった。しかし、本曲においてはボカロとは具体的な身体を持たない「No One」であることにこそ意義がある。もしこの曲を生身の身体を持った私が歌ったとき、たちどころに逃げてしまう何物かを表現するための依り代が「No One」なのだ。

 『炉心融解』はボカロというジャンルの調和から外れて、孤立している。『炉心融解』とは何か大切なものを含んだノイズである。曲中の私も、自身を取り巻くものたちとの不調和を訴えている。

時計の秒針やテレビの司会者や/そこにいるけど 見えない誰かの/笑い声 飽和して反響する/アレグロ・アジテート 耳鳴りが消えない止まない/アレグロ・アジテート 耳鳴りが消えない止まない

 僕はここで、サイモンとガーファンクルの『The Sound of Slience』を想起する。「音」と「沈黙」という相反するものが結びついた曲名に込められた逆説に着目したい。まずは下記の歌詞を見てほしい。なお、歌詞中の「talk/hear」は漫然と音を出したり聴いたりしている状態、「speak/listen」は会話の内容をきちんと話したり聞いたりしている状態を指すと考えてほしい。

Ten thousand people, maybe more(一万人、あるいはそれ以上の人々)

People talking without speaking(彼らはしゃべってはいるけれど話してはいない)

People hearing without listening(彼らは聴こえてはいるけれど聞いてはいない)

People writing songs that voices never share(彼らは決して届きはしない歌を書いている)

And no one dare Disturb the sound of silence(そして、誰もこの沈黙を破ろうとはしない)

"Fools" said I, "You do not know Silence like a cancer grows"(馬鹿野郎!君たちは沈黙が癌のように広がることを知らないんだ)

Hear my words that I might teach you(教えるから僕の声を聞いてくれ)

Take my arms that I might reach you(差し伸べた僕の手をつかんでくれ)

But my words like silent raindrops fell(けれども、僕の言葉は雨粒のように静かに落ちていった)

And echoed In the wells of silence(そして、沈黙の井戸の中でこだまするだけだった)

 あまりにも多くの人々がどうでもいいおしゃべりをしている。そうして生み出された音の洪水の中で、本当に伝えたい言葉がかき消されて誰にも届かない。音の洪水の中ではいくら声を張り上げたって何も伝えられないという逆説が『The Sound of Slience』である。

 ボカロの空間はあまりになめらかに・透明に、繋がりすぎてしまった。ボカロ文化がもたらす調和と一体感によって「私」は容易に「私たち」になる。しかし、それによってかき消されてしまうもの、それでは伝えられないものも確かに存在する。その何かにこだわるとき、捕まえられない・届かない・伝わらないもどかしさに直面する。癒着した彼我をいったん切り離して、絶対的な他者としての「No One」を召喚するとき、自分ではそれを捕まえられない・届けられない・伝えられないと声にならない声で叫ぶとき、はじめてそれは届いてしまう。いや、そうすることでしか届けることができない何かを届けることができる。『炉心融解』は大変込み入ったことをしている。

 今度は、無機質なあの声が何故強く聴き手の心をかきたてるのかを考えたい。言い換えれば、何故あのように無機的に歌われることが「適切」なのか。私を苛むその何かが、慢性的で不断のものであるからだ。私はそれに取りつかれている。ずっと心に引っかかっていて、こだわっている。疲れ切ってしまって、涙も枯れ果てた。そもそも感情を表出することで解決する問題でもない。「オイル切れのライター」のように擦り切れて、心は弾力を失ってしまった。あの声は気力や表出される感情が枯渇しきってしまったことを表現するものだ。私の心は焼き切れてしまった。感情が乗っていないことは、対象への感情がフラットであることではなく、その感情の甚だしさ及びその感情の保持が長期にわたることを示している。

 本曲における私の感情は、表出されるのではなく内へ内へと向かっている。その感情は尽きることがない。風化することがない。僕はここで三島由紀夫の言葉を思い出す。

無神論も、徹底すれば徹底するほど、唯一神信仰の裏返しにすぎぬ。無気力も、徹底すれば徹底するほど、情熱の裏返しにすぎぬ。」

 問題にこだわり続けることができるその強靭な継続能力に、若さを失いつつある僕は、みずみずしい若さと強さを感じる。ある程度歳をとってしまうと、そこまで「頑張れ」ない。途中でどうでもよくなってしまう。

 そして、僕はこの無尽蔵のエネルギーと本曲がモチーフとした原子力エネルギーとのつながりを見出す。原子力発電所が火力、水力、風力と比して無機的である点もちろん念頭にある。しかし、より重要なのは、原子力発電施設において管理される凄まじいエネルギーは、何重もの厳めしい機構によって暴発を抑え込まれている点である。この内へ内へとこもった膨大なエネルギーによって、自家中毒を起こした私は悲鳴<shout‼>を上げている。私はこのエネルギーを放出して救われたい。歌詞中ではそれが「メルトダウン」として表現される。そしてそれは自死=自己の消失と同一のものとして観念される。何故私は死ななければならないのか。この膨大なエネルギーが外へと向かわず、内へ内へと向かっていくからだ。何故内へ向かうのか。この私の想いを捕まえられない・届けられない・伝えられないからだ。何故この歌を作中の私は歌うのか。この歌を歌うことが唯一の、私の想いを捕まえて・届けて・伝える方法、救われて生き延びるための回路だからだ。そして、そうだからこそ、この曲は僕たちにとって切実に響くのだ。

 まとめよう。本曲は感情表出と真意の差分に着目し、その差分に宿るニュアンスを精密に取り出し、表現した作品であった。あるいは、機械的に・抑制的に・不器用にしか表現できないことそれ自体が、ひどく人間的なある種の感情を表すことを示して見せた、極度に高度な表現を達成した作品であった。そして、ボカロというジャンルの特性とその限界、臨界点をいち早くつかんで表現した唯一無二の作品であった。

 

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