東方アレンジ『Le Cirque de Sept Couleurs』の解釈について

 この曲のラストのサビが昔から好きすぎるので、こじつけじみた技巧的な解釈だけれども、一本の筋の通った解釈というか妄想を書こうと思う。

 ちなみにこのPVが好き(特にラストのサビ)。

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 あらかじめ言っておくと、これから書く解釈は、

【東方】七色の人形遣い - ニコニコ動画

及び

下記ルバイヤートの詩に影響を受けている(『七色の人形遣い』はネタバレになるため内容については言及しないし、以下の記述においてその内容を知る必要もない)。

われらは人形で人形使いは天さ。
それは比喩ではなくて現実なんだ。
この席で一くさり演技をすませば、
一つずつ無の手筥に入れられるのさ。

 上記2つにどのような影響を受けているかというと、要するに、①天ー②アリスの制作者ー③アリスー④人形という創造者-被造物の関係が連なっていると理解して本作品を解釈しようとしている点である。この前提の下で、本作品のテーマは、以下となる。すなわち、(1)アリスの創造主への反抗あるいは自律。また、(2)そのこと自身が運命に対する意志の超克を示すということ。そして、(3)運命を我がものとする超克への手掛かりは与えられた役を演じ切ることによってなされるという逆説。以上の内容について歌詞の順を追って見ていく。まず全歌詞を記載する。また、以下では歌詞を引用した部分は「」で囲んで示す。

ああ 五色の道化師 踊れアリス
仮初めの楽園に舞い降りた少女

業火の箱庭 人ならぬ道に生まれ
天命に背く 繰る糸の先のアルルカン

開幕の音が 響いている

呪われた運命に挑む少女
真夜中の惨劇を囃す魔性
戦いのアートを紡ぐドール
燃えてなお矢を放つ 眠りにつくまで

魔の者の証 目交いに宿すシルカシェン

相容れぬ種の 火花散らし

永すぎる命を焦がす少女
あどけない面差しは月の戯笑
ああ 破壊の輪舞曲を舞い踊る
聖母のように抱き締めて 力尽きるまで

顔の無い主の 招く声が——

ああ この世は誰もが一人舞台
それぞれの運命を演じている
ああ 絵本のとびらを開いたなら
神よりも強くなって逢いに行くわ

七色の人形 少女アリス
望むなら最後まで演じましょう
業の身を操る者は誰?
その胸に灼き付けて 生まれ変わるまで

 冒頭の「五色の道化師」に注目してほしい。続いて「踊れアリス」とあることから「五色の道化師」とはアリスの事だとわかる。しかし、アリスは本来「七色の人形使い」が二つ名であるはずである。一方、ラストのサビを見ると「七色の人形 少女アリス」とある。すなわち、冒頭における描写はアリスが不完全な状態であることを暗示するものであり、ラストに至ってようやく彼女は完成するのである。それは何によってなのかは以下の歌詞を追うことで、おのずと明らかになる。なお、以降の歌詞でそれぞれアルルカン、ドール、少女と呼び名がそれぞれ出てくるが、後述するようにすべてのアリスを指している。
 続いて「仮初めの楽園に舞い降りた少女」とあるが、その直後に「業火の箱庭 人ならぬ道に生まれ」とあるのはどういうことだろうか。一見するとこれは矛盾である。業火の箱庭(にて)人ならぬ道に生まれながら、楽園に舞い降りたとはどういうことだろうか。後続の歌詞によってその問題は解かれる。「戦いのアートを紡ぐドール 燃えてなお矢を放つ 眠りにつくまで」を見てほしい。ここでの「アート」とは「芸術」ではなく「技巧」だろう。戦いの技巧を紡ぐドールことアリスは、眠りにつく(=死ぬ)まで矢を放つ(=戦う)。普通ドールは燃えるとダメになってしまうはずだが、燃えてなお矢を放つことから、アリスは不滅の身を持つことが示されていると解釈してよいだろう。アリスはヴァルハラのような場所に生まれつき、不滅の身をもって永久に戦い続ける運命にある。生まれ故郷であり左記のような出自であるゆえに、そこは地獄でありながらアリスにとって楽園である、ということなのだろう。また、当該箇所が「箱庭」であったこと、「仮初め」であったことにも注意を要する。すなわち、広大な外部が存在すること、いずれその箱庭を飛び出す未来があることが暗示されている。
 「天命に背く 繰る糸の先のアルルカン」について、天命とは①の天を指す。それに背くのが繰る糸の先のアルルカンであるという。アルルカンとはトリックスターのことである。トリックスターとは世界の秩序を破る者である。前段の「人ならぬ道に生まれ」とのつながりから、アリスは人ではなく人形であることがここで初めて示される。③アリスは天命に背く。②制作者の意志によって。ここで重要なのは、②制作者は直接に①天に背いていないこと、そして③アリスは①天には背くが②制作者に従っているということである。この構造はいずれ乗り越えられる運命にある。そのことを暗示するような、つまりは何かがこれから始まることを示唆するように「響く開幕の音」。
 アリスが挑む「呪われた運命」とは何だろうか。思うにそれは被造物でありながら創造者になろうという業のことだ。②制作者に造られながら④人形を造り操る者、それが③アリスである。①天に造られながら③アリスを作った②制作者もまた同一の関係の中にある。余談だが、天すらも被造物なのだというルバイヤートの一節がここでも思い起こされる。
善悪は人に生まれついた天性、苦楽は各自あたえられた天命、しかし天輪を恨むな、理性の目に見れば、かれもまたわれらとあわれは同じ
 「真夜中の惨劇を囃す魔性 戦いのアートを紡ぐドール 燃えてなお矢を放つ 眠りにつくまで」については前述のとおりである。また、「魔の者の証 目交いに宿すシルカシェン 相容れぬ種の 火花散らし」について、ここで初めてアリス以外の登場人物が出ている点が注目に値する。②の制作者と出会ったと思われる。二人は視線を合わせたとき、互いの目の中にシルカシェン=サーカスの人すなわち(他者を操る)曲芸師の証を見たのである。その共通性にも関わらず、「相容れぬ種の 火花散ら」すのは何故だろうか。それは同業者であることは後景に退き、人と人形という相容れない種族であることが前景化しているからにほかならない。操られる者でありながら操る者でもあり、むしろ後者であろうとするアリスの、主体性または自我の芽生えである。アリスは操られる身であることがもたらす運命に反抗する。もはやアリスは前述のような唯々諾々と制作者に従うものではない。自らを操る存在を目にすることを通じて、アリスは自律の足がかりを手にする。しかしながら、創造者の究極的な望みとは、創造者への反抗=自律であることを忘れてはならない。ここには「言うことを聞かない」ということが、「その者の望みを叶える」という逆説がある。
 次に「永すぎる命を焦がす少女」について、「永すぎる命」とはドールには寿命はないことを指すのだろう。では、永すぎる命を「焦がす少女」とはどういう意味か。制作者に操られる身であるならば、目的を持つ必要はない。それは製作者が与えてくれるものであるから。しかし、自律する身となったとき、その者は何を目指してその身を支えるべきであるのか、という言わば実存的問題が発生する。また、唐突に見える「月の戯笑」は「聖母」と対応するものと思われる。「聖母」と対になるのは「主」である。正統と異端/異教の対比がみられる。聖母とはキリスト教において本来異教の要素であり、後に正統の中に無理くり取り込まれたものである。すなわち、太陽=理性=正統=主と、月=狂気=異端/異教=聖母という対立軸が浮かび上がるのである。「月の戯笑」とは狂気の微笑みである。先ほどの対立軸を念頭に置くと、冒頭の「五色の道化師」も意味合いが変わってくる。何故三色でも四色でもなく、「五色」なのか。「五色」とは仏教用語である。曰く、如来の精神や智慧を表すものという。ここでは仏教そのものではなく、広く異教を指すものとして理解すべきであろう。異教徒のアリスが仮初めの楽園に舞い降りる。何のために?アルルカン(トリックスター)として楽園の秩序を乱す「破壊の輪舞曲を舞い踊る」ために。アリスの「月の戯笑」こと狂気の微笑みは正統側から見た姿であったことだろう。ここではアリスが狂っていると素直に解すのではなく、アリスは正統とはおよそかけ離れた出自または思想を持つのだと解すべきだろう。当初示した「五色」は不完全であり「七色」が完全な姿であるという理解も、<正統>の側から見た理解に過ぎないことがここで明らかになる。「聖母のように抱き締めて 力尽きるまで」の部分は刑死したキリストを抱きかかえるキリストを表したピエタ像を連想させる。聖母とは創造主を<産んだ>もの、すなわち正統秩序の外部にして、にもかかわらず正統秩序に取り込まれたものである。正統秩序内部の異物である聖母を足場に、キリストがユダヤ教に対して行ったような内部からの食い破りを試みていることを本節は示しているのではないか。この超克は続く部分でより一層強調される。
 「顔の無い主」とは誰か。何故顔がないのか。目にしているのではなく、あくまで声を耳にしているということに注意を払うべきだ。アリスはすでに自身の制作者の顔を目にしている。しかし、その更なる創造者である天の顔を知ることはない。「主」とあるとおり、やはりここでの対象は①天であるのだ。さらに注意すべきは、すでにルバイヤートの「しかし天輪を恨むな、理性の目に見れば、かれもまたわれらとあわれは同じ」を引いたように、天は唯一絶対の存在ではないことだ。あるいは「顔の無い主」とは、近代以降の神を指すとの理解も可能である。というのは、近代以前においてはキリスト教なりイスラム教なり、具体的な神がこの世界のすべてを想像し運命を定めたと考えられてきたが、神の死以降においてはそのような具体的な何らかの対象に運命を定めた原因帰属が不可能になる。にもかかわらず、依然として我々を縛る運命は現に存在する。そのことをもって「顔の無い主」と呼んでいるとも考えられる。いずれにせよ、自身を縛りまた絡めとる運命に抗うことが、アリスにとっての新しい戦いとなるわけである。
 ここからがラストのサビとなる。同時に、この物語の結論部でもある。「ああ この世は誰もが一人舞台 それぞれの運命を演じている」。ここでは各人は神から与えられた役割を否応なく演じさせられている。そして、人と人とのつながりはなく、「誰もが一人舞台」である。交わることはないし、見てもらえることもない。かつての②制作者と③アリスとの関係では、創造者と被造物は一対一の関係にあったが、今に至っては①天と②'あらゆる人々及び③アリスの一対多の関係としてここでは記述されている。「神よりも強くなって逢いに行くわ」で逢いに行く対象とは誰か。②制作者と考えられる。アリスは今や制作者たちと同じ視座に立ち、彼らと同じ運命を分かちあう立場にある。そこでは皆孤独であることをアリスは知った。一人舞台を越えて制作者に逢いに行くこと。それは真に自律することであり、自由を手にすることである。それは神よりも強くなること、すなわち運命に打ち勝つことを意味し、生易しいことではない。現に未来形で書かれており、未だ成し遂げられてはいない。ただし、それを実現する鍵はどうやらこの手にあるようだ。「絵本のとびらを開いたなら」。絵本とは何か。想像力を意味するものであり、幼子の打算無き没頭の対象である。では、その没頭の対象とは何か。「七色の人形 少女アリス」である。<正統>の筋より与えられたこの役(本来は七色の人形使いであるところ、「七色の人形」を引き受けている点にも注意)を我がものとし、演じ切ること。与えられたものではなく役割それ自身を自分のものに完全にしてしまうこと。それこそが運命という各自与えられた役を超克する術なのだ。いうなれば、自らを自らで完全に操りきること。そうして得られた自由の先に何があるのか。そのとき初めてその役を受け入れるのか、別の役を演じるのか、選択することが可能になる。それでもなお、アリスは「望むなら最後まで演じましょう」という。役を拒否するでなく、役に甘んじるでなく、主体的にその役割を引き受けるとき、はじめて人はその運命を我がものすることができる。三度ルバイヤートを引く。
右手に教典、左手に酒杯、 ときには如法、ときには不如法、 我らは紺碧の大空のもと、 まったくの異教徒でなし、回教徒でなし
対象を拒否するものも対象と同調・同化するものもともに自由ではない。自由とはその中間の淡いにある。
 さて、本当のラストになる。「業の身を操る者は誰? その胸に灼き付けて 生まれ変わるまで」。被造物でありながら意志を持つ業の身にあるアリス、あるいは彼女に仮託されたわれわれは、運命を超克しようとその身を操る神に抗う。かつて制作者がアリスに望んだ「自身の意志を持て」とはダブルバインドであった。何故なら「意志を持つこと」を指示しているからだ。その淡いを潜り抜けて、アリスは制作者に並び立つ。そして、もう一度生まれ変わろうとする。今度は拒否と同調の淡いを抜けて。針に糸を通すような困難にアリスまたは人は立ち向かわずにはいられない。何故なら意志を持つ業の身に生まれてしまったのだから。ただし、制作者とアリスの共犯により、一度は起こった生まれ変わり、一度は起こった奇跡である。不可能ではないのだ。最後に、『世界の歴史<4> ギリシア(河出文庫)』を引用して終わりたい。
 人間である英雄は、神意を十分に知ることはできない。しかしかれらは厭世的になることなく、自分の能力のかぎりをつくして、倒れ、あるいは敗れる。彼らの努力は、自己に課せられた義務をあくまでつくすことにむけられる。それは、自主的に決意し、自己に忠実になろうとする努力だ。それはまた、神意にかかわりなく、人間としての存在の主張である。だから、たとえ事は成らず敗者となっても、この努力、この自己主張によって、高貴な人間となる。愛情にしろ憎悪にしろ、その純粋なものは、もとより人間の美しさであるがそれにこの自主的な義務感がともなってこそ、人間の美しさはいっそう高められる。
 このような行為や感情を、知性が制御しているばあいは、いっそう尊い。どの勇士も武力や腕力だけの持ち主ではなく、知性がその行動を制約し感情さえも克己によって規制される。一種の知性主義の流れが認められるのだ。そのため、単なる勇士の物語や冒険談でなくて、深く人びとの心をとらえる。ホメロスの詩が、人間の、あるいはあるべき人間をあらわす人間性の賛歌にほかならないのはそのためだ。
 ホメロスの世界には怠惰なものや邪悪なものはいない。敵も味方もよき人間である。だから事件を起こす原因や、勝敗を決する要因に神意をもってきたのではあるまいか。苦闘し苦悩するなかに、死すべき人間の限界にたいして、その極限にまで迫っていく壮烈な人間の姿がこの詩の中に展開する。この点においてホメロスの詩は、ギリシア人ばかりではなく、すべての人間を人間性の尊厳へ導く書となることができたのだ。死すべきものとしての人間は、この努力――肉体的にも精神的にも――による救いを信じて、明るく楽天的に生きていく。このような人間観は、のちのギリシア文学や美術ばかりか、すべての基本である。