パワポケキャラクター考察 神条紫杏について(前編)

 これまでのパワポケに関する記事では、出来るだけ主張を支える根拠を明示して、読んだ人が少なくとも「そう言われれば確かにそうとも言える」程度の蓋然性を担保するよう心掛けてきた。つまり、単なる個人の意見・感想に過ぎないものは抑制してきた。しかし今回は、僕個人の主観が多分に入った、そして根拠の明示出来ない臆見を含んだ、紫杏についての考察を行いたいと思う。

紫杏の特異性

 何故紫杏について考察するのか。その理由は、彼女というキャラクターの特異性にある。彼女及びその攻略は、恋愛ゲームのよくある形式から逸脱している。彼女は主人公に内面を理解されることによって救われるキャラクター「ではない」*1。これは正史及びパワポケ11において、主人公が彼女を救うことが出来なかったことを根拠とするわけではない。パワポケ10での彼女とグッドエンドに至る最良のルートにおいても、彼女は主人公によって正しく理解されたわけではない。

 このことを理解するために、パワポケ10における紫杏と主人公との関係性が正念場を迎える、ジャジメントが彼女をヘリで迎えに来た場面を見てみよう。

「そうよ、これが本当のあたし。子供の頃からたった一つしか才能がなかったわ。他人の期待する、架空のヒーローを演じ続けること。どんなに勉強をしても科目でトップはとれない。どんなに練習をしても体育は上の下どまり。でもね、変なしゃべり方をする自信過剰の女を演じている限り、皆が注目して喜んでくれた。楽しかったけど、ずっと怖かった。本当の自分がばれたら、きっと軽蔑される。あなただって、正直がっかりでしょ?手品のタネを見ちゃったんだものね!」

「そんなことは……」

「本当のあたしはね、他人の顔色ばかり伺ってるくだらない小心者なのよ。これまでの、あんたが知ってる神条紫杏は全部ウソなのよ!」

 ここで正しい選択肢を選べば、グッドエンドに至る*2。上記のシーンは、これまで主人公たちに見せていた「私」という仮面を脱ぎ捨てて、本当の「あたし」を主人公に明かしたかに見える。しかし、パワポケ10における彼女のプロフィールには下記のような記載がある。

「彼女の本来の性格は『私』であり『あたし』は主人公の期待した架空の人格にすぎない。ただし、彼女自身がそうなることを望んだということも忘れてはならない。」

 彼女本人にとって、あるいはグッドエンドに至るストーリーにとって、彼女に対する正確な理解は必要ではない。すなわち、上記場面で見せた本当の「あたし」が架空のものであると主人公が看破することなど、必要ではない。そもそも彼女を理解することは極度に難しい。考察⑦では、人生経験豊富で人間を深く理解する野々村監督ですら、彼女を正しく理解することが出来なかったことを書いた。一方で、紫杏はパワポケ11において、狩村や芦沼の置かれている状況と彼らの心情を深く理解し、正しく処方箋を出した*3のであった。いわば、彼女は「理解される人間」ではなく、誰よりも「理解する人間」なのである*4。そして、少し違った観点からくわえて言うならば、彼女は「与えられる人間」なのではなく誰よりも「与える人間」なのである。

父が紫杏を形作った

 上記のような彼女の人間性を形作ったのは、間違いなく彼女の父である。彼は紫杏の唯一の肉親であり、「尊敬する人物は?」と聞かれた際に真っ先に彼女が挙げる、尊敬の対象でもある。紫杏とは、私財をなげうって家計を火の車にしながらただただ世の中を良くしようと政治活動に注力する父の生き写しのような存在なのだ。紫杏とその父との関係を表すエピソードを見てみよう。はじめて主人公が紫杏の父と会ったときの会話である。

「そうだ…君には話しておこうか。あの子の性格についてだ。」

「?」

「あれはあの子が6歳の時だ。生活は苦しく、あの子にはろくなおもちゃを買ってやれなかったが、とある安物の人形を気に入ってね。いつももちあるいていたものだ。あるとき、私の発言が気に入らなかったとある政治団体の連中が事務所に押しかけてきてね。正直、困り果てていた。すると、あの子が突然泣き出した。政治団体のリーダー格に自分の人形を壊されたというのだ。その男には身に覚えのないことだったらしくてね、怒りのあまり紫杏を突き飛ばした、ように見えた。」

「本当はそうじゃなかったんですか?」

「…肩をつかまれる寸前に、あの子が自分から後ろに倒れたんだ。とにかく、大騒ぎになって幼い子供にケガをさせたそのリーダーは逮捕された。くだんの政治団体も、このことがきっかけで勢いを失い、内部分裂して数年後には消滅したよ。」

「ええと、父親を助けようとしたんでしょうか?」

「おそらくね。しかし、問題はその後だ。病院で紫杏に真相を訪ねた。人形を壊したのはお前か、とね。するとあの子は無邪気に笑ってこう言ったものだ。父上、人形は買いなおせば済みます。」

「…!」

「それ以来、私はあの子に人形は買い与えなかった。あの子もねだることは一度もなかったがね。ともかく、あの子は必要だと思うとやってしまう子なんだ。そのことで大切なものを失おうと決して立ち止まりはしない。あの子について行くつもりなら覚悟しておくことだ。」

「ええと、俺がついて行くんですか?」

「もちろんだとも。あの子は自分以外の何者にも決して従うことはないさ。私にすら、ね。」

 上記のエピソードについて、前述のプロフィールには下記のような記載がある。

「結局人形を壊したのは彼女ではなく、父親の期待した人格を、完璧に演じただけのことである。」

「他人が期待するように完璧に演じること」すなわち過剰適応

 ここでも彼女の記述として、「演じる」という語が使われる。前掲のセリフを再掲しよう。

「子供の頃からたった一つしか才能がなかったわ。他人の期待する、架空のヒーローを演じ続けること。」

 これらの彼女に関する記述について、僕はもう一歩踏み込んだ解釈をしたい。すなわち、「他人が期待するように完璧に演じること」とはいわゆる過剰適応なのではないか。この用語を厳密に用いることは出来ないが、差し当たってWebサイトを適当に検索してヒットした説明「ある環境に合うように、自身の行動や考え方を変える程度が度を超えている状態」あるいは「自分の都合よりも周りを優先させ、無理をしながらもがんばっている状態」を前提としたい。

 この解釈をとるにあたって、ある精神科医のエヴァのアスカに関するブログを取り上げる。以下、特に本文にとって重要と思われるアスカの内面を論評した箇所を複数引用する。

「過剰適応&他者からのまなざしが痛くて快感で仕方がないといった呈をなしている。天才のようで天才ではない彼女は、狂気の努力と狂気のすりつぶしによって“天才少女のようにふるまっている”。それが彼女の防衛の形式であり、彼女が自分自身の諸問題からメンタルを防衛するための盾として選んだ処世術だった。」

「劇中でも、アスカは自分自身の諸問題から目を逸らせるために“努力する疑似天才”を演じ続ける狂気の舞を、壊れて動けなくなるまで続けている。」

「リアルの精神科界隈では、彼女同様、過剰適応を選択し“美しい私として”“よく出来る人材の私として”自分のスペックを超えた処世に生きる人は絶えることがない(特に女性!)。彼女らにおいては承認要求が強かったり要求水準が高かったり――ともかく社会や他人に敏感すぎて、過剰なまでに素敵にみせなきゃという強迫性がいっぱいで――心身に無理がかかるような無茶な過剰適応が観察される。」

「他者の助けを求めるような適応行動はアスカにおいては認められない。」

自傷や“悲劇のヒロイン”というコーピングがあれば、アスカはもっとラクだったかもしれないし、致命的な決壊には至らなかったかもしれない。だが、それではステロタイプメンヘル女そのままになってしまう。アスカはそうではなかった。ただひたすら真っ直ぐに過剰適応し、本物の天才と厳しい現実の前に散っていったのだ。」

 取り上げた記事においては、「ステロタイプメンヘル女」とアスカというキャラクターとの違いが説明される。すなわち、「自傷や“悲劇のヒロイン”というコーピング」をアスカが行わず、「ただひたすら真っ直ぐに過剰適応し、本物の天才と厳しい現実の前に散っていった」ことが、アスカを際立たせている、とある。

 また、架空の物語において、あるキャラクターに対して天才・秀才・優等生といったタグ付けを行い、それを根拠に卓越したパフォーマンスを描写することで、その者の魅力をアピールするという手法は、それがないもの物語の方が少ないほどに、極めてよく見られる。そして、その優秀さの背後にあり、かつ優秀さと骨がらみとなっている内面的な問題を描写する手口も、今ではありふれたものである。よくある物語においては、主人公らが優秀な彼/彼女を内面的に救うという筋書きを持ってくるために、彼/彼女の内面は存在する*5のだが、エヴァのアスカにおいては、主人公含めた周りの人間は彼女に対してどうすることも出来ず*6、彼女が破滅に至るまでを見ていることしか出来ない。

紫杏固有の過剰適応のあり方

 引用したブログでは、①「ステロタイプメンヘル女」と②アスカとの差分について語られた。本文では、これら(①及び②)と③紫杏との差分を明らかにすることで、紫杏の特徴を描きたい。すなわち、紫杏は、「自分を優れた者として見せなくてはならない」という強迫観念を抱えているわけではないし、承認欲求に駆動されているわけでもない。彼女は自身に対する不当な評価を目的のために平気で甘受するし、正しく自身を誰かに理解してもらうことを渇望しているわけでもない。彼女の人となりをよく現した主人公との一連の会話を引用しよう。

「実を言うとその規則はな、生徒の不満を集めるために作ったやりすぎの規則なんだ。次の自治会長は就任早々これを改めることになるだろう。そして、私が作った他のもっと穏当な規則は生き延びる。」

「じゃあ、君はこの規則がおかしいことを知っていて?」

「私に関して言えば、立場上守らざるを得ないだろう?なにしろ堅物の愚か者だからな。」

「……あきれたな。バカのふりまでして自治会活動を軌道に乗せたいのか?」

「どうしてそこまでできるんだ?」

「……10主。お前は鏡に映ったおのれの姿を見て笑えるか?」

「え?」

「ときどき、自分自身からこういう声を聞くことはないか。どんなに努力しようと、すべては結局ムダなのだと。」

「!?」

「どんなに今努力したところで私が卒業してしまえばいずれこの学校の校風は崩れ去る。お前がどんなに努力したところで野球ができる時期など、たとえプロに行けたとしてもすぐに終わってしまう。30年も経てば、今の努力などなかったことになるだろう。……では、なぜ苦しい練習をする?」

「……考えたこともなかった」

「……それでいいんだ。……私に関して言うなら、『やらずにいられない』からだ。目の前にゴミが落ちていればゴミ箱に捨てねば気がすまん。正しいからでも、カッコいいからでもない。ただ、やらねばならないと思ってしまったから、やるんだ。たとえ鏡に映ったおのれの姿がどんなにこっけいであろうとも……やらねばならん。」

 紫杏を駆り立てるものは、「やらずにいられない」というその想いである。この事実は、一見すると彼女の「他人が期待するように完璧に演じる才能」とは特に関係のない物事のように見える。しかし、過剰適応という補助線を引くと、その関係が明らかになる。すなわち、彼女は父が望んだ私を内面化して、父が望むように私も望むようになっているのである*7。以上のように、紫杏の過剰適応の特徴は、父を中心とした他者の価値観の内面化にある。

*1:ある種のギャルゲーは、能力的に全くヒロインに敵わない主人公が、内面的に彼女を理解(凌駕?)することによって、その反対給付として彼女を「所有」する物語であるように思われる。この形式は、ともすると平凡な主人公が非凡なヒロインと結ばれる説得力を調達するものであり、穿った見方をすれば、現実世界の力関係を内面世界において覆す、あるいは現実では敵わない相手に対し内面の未熟さを見下すことによりバランスをとる、というある種の復讐のように見える。

*2:グッドエンドに至る上記やり取りの続きは以下の通り。

「(どう言えば……)」

「君は……箱の中のネコだ」

「いきなり何を言っている?」

「箱の中のネコが生きているか死んでいるか、見た人間がいるとしても元々の確率は変わらない」

「全部演技だと君が主張しても、これまでの君がウソかどうかは確率50%のままだ!」

「あはははははは!こ、こんな馬鹿な解釈は……聞いたことがない!」

「それに……ウソでいいじゃないか」

「少なくとも、そういう人間に憧れてそうなろうと努力したんだろ」

「さっきの君が言ったことなんて箱の中のネコが暑苦しくなってちょっとフタを開けてみただけさ」

「すぐにしめれば、誰も気づかない」

「……箱のフタをしめる?」

「ああ。こうやって……」

(バタバタバタ…)※ヘリが近づいてくる音

「しかし、局長みずから迎えに行くとはどんな重要人物なんですか?」

「生意気な小娘ですよ。ですが…ん?!ヘリポートに誰かいる。ライトで照らせ!」

「はい。…あの、これは?」

「キス…してますね。!進路変更、このまま基地へ。」

「ええっ?回収しないんですか。」

(ブォーーーーン)

「…行っちゃったな。」

「ああ、うまくメッセージが伝わったようだ。」

「メッセージ?」

「うむ。あっかんべー、だ!」

*3:くわえて、水木に対しても彼の将来を案じて、アメリカへ留学するよう適切なディレクションを行った。

*4:考察⑦において、「紫杏は理解されることを諦めた人間である」と書いた。それに関連して、人を理解することとは、他人を自分の中に取り入れて「より複雑な私」になることに他ならないのだから、人を理解するという行為は、人一般から理解されなくなることなのかもしれない。

*5:まるで鍵穴と鍵のように

*6:シン・エヴァはともかくとして

*7:考察⑧において、紫杏を「父の娘」と呼称したのはまさに、そのような意味においてである。以下、余談だが、「父の娘」という語は、当該記事を書いた当時、筆者の造語のつもりで使用していたが、概ね同じような意味でユング心理学の用語としてこの語はあるらしい。