短歌「冬の日の窓から射してくる光 それってあなたの祈りですよね?」の解釈について

【はじめに】 

 表題の短歌がたまたまツイッターのタイムラインに流れてくるのを目にして、不覚にも年に数回あるかという文学的な感銘を受けた。この歌は、すぐれて技巧的であり、また意味内容が高密度に圧縮されていると感じた。詩のたぐいは全く門外漢だけれども、それを解きほぐしてみたいと思った。それを書く。

【形式面:本作の特異性】

 まず目につく本作の特異性は、「視点の多層性」である。「冬の日の窓から射してくる光」という①外界と、②それを描写する者がいる。そして、①と②の間にはある種の結びつきが見出される。ここまでは古今東西よく見られる技法である。まず思いつくものとして、百人一首

「花さそふ あらしの庭の 雪ならで ふりゆくものは 我が身なりけり」

では、「降りゆく花びらとは、老いさらばえていくこの私自身なのだ」と感慨をもって語られる。

 また、11世紀イランの『ルバイヤート』の一節、

「昨夜酔うての仕業だったが、石の面に素焼の壺を投げつけた。壺は無言の言葉でいった―― お前もそんなにされるのだ!」

では、「絶対的な力を持った存在に気まぐれで割られる壺それ自体が、いつかの私の運命なのだ」と運命に対して無力な自分が見出される。

 両者ともに、対象と私との関係であって、そこに第三者が介入することはない。

 それに対して、本作は、①外界と②それを知覚・描写する者との(その者が気づき得なかった)結びつきを見出す主体こそが、③第三者ひろゆき」なのである*1。さらには、この歌の視点という観点からいえば、②’光を知覚し描写している者の視点、③’②’を論評する第三者ひろゆき」の視点、④上述①~③の三者関係を神の視点からスケッチする本作の歌い手の視点と、3つの視点があることがわかる。ここに本作の特異性がある。短歌という極端に文字数の限られた形式の中でなされるこの視点の多層化は、エキセントリックなまでに技巧的なものとして、僕には映る。

【内容面:圧縮された意味内容】

 くわえて、驚くべきことに、本作は技巧を凝らした秀作では終わらない。本作の読み手は一読して、意味内容が高密度に圧縮されていることを直観的に感得するだろう。

 まず、ひろゆき語録の指示する「それ」が複数の解釈を許容することに言及しなければならない。①「冬の日の窓から射してくる光」とは雲間から差した一筋の光であり、祈りが外界に影響する「(かのように見えた出来事=)奇跡」を、「それ」と呼んでいるのかもしれないし、②雲間から光が射してくるという何気ない事象を殊更に見つけ出したこと、または③そのことに意味を見出したこと、その背景にある彼/彼女の心情を、「それ」と呼んでいるのかもしれない。あるいは、④「雲間から降り注ぐ光」そのものが「それ=祈り」なのかもしれない*2。ともあれ、本文では、上記のどれか一つに「それ」の意味を確定・限定するべきでなく、これらの意味が同時に込められていると解釈して、話を進める。

 ここからが本文の本丸となる。本作の中核的な部分は、「二つの異化作用」にある。この二つはともすると混同されるが、厳密に区別されなければならない。すなわち、①「ひろゆき語録によって言及対象の性質が変化すること」と、②「ひろゆき語録が改変されることによって、ひろゆき語録の性質が変化すること」、である(①と②は入れ子になっていることに注意)。

 これらを理解するためには、まず当該発言の元々の文脈を理解する必要がある。当該発言は、ネット規制が議論されている番組において、相手方が特に根拠を持ち出すことなく「ネットそれ自体が問題を悪化させる一因となっている」と主張したことに対するカウンターとして出たものである。そして、当該発言は主にネット上において、相手方をやり込めるものとしてしばしば引用される。当該発言が引用される理由はその破壊的な攻撃力にあるだろう。

 この言明によって、①「(相手方が思う)一般的事実」は「単なる気分」に矮小化され、②「他者=世界とつながる回路としての、公共に関する言説」は「取るに足りない私一人の感想・思い込み」に貶められる。かくして話者は公共から断絶される。そして、私の感想=思いは、誰とも共有されない私だけのものとして、孤立させられる。以上、「ひろゆき語録によって言及対象の性質が変化すること」の具体的内容を見た。

 次は、「ひろゆき語録が改変されることによって、ひろゆき語録の性質が変化すること」について検討する。本作において、ひろゆき語録は、「感想」の部分が「祈り」に改変されている。この言い換えは大変興味深い。元ネタにおいては、対象となる事象を①「客観的事実」と②「個人的感想」に切り分けるという二分法が用いられたのに対し、本作中では全く異なる軸として、③「祈り」すなわち「願い」あるいは「意志」が導入されている。これは信仰の水準の話である。つまり、「事実がどうであるのか」とは別の水準の話である。我々は、わからない/知り得ない/未確定ゆえ祈る。あるいは、事実に反するから祈るのである(世界が平和でありますように!)。

 この「祈り」という語が持つ力によって、本作のひろゆきの言明は、元ネタの言明とは真逆とも言えるような作用を発揮することになる。それは、①単なるありふれた客観的な情景描写に過ぎなかったものが、かけがえのない・崇高なものとして感じられるようになる、だけではない。②元ネタにおいては、話者の独りよがりを嗤うものだった言明が、(話者本人も気づかなかった)その人固有の切実さを拾い上げるものとなる。くわえて、③「外界から入ってくる光」という受動性が、「私の内面から発せられる祈り」という主体性に結び付けられる。さらに、④元ネタにおいては(データを提示するなどして)客観の世界へ出てくるよう話者に要求することにより、かえってその発話主体を「私一人の感想」の中に閉じ込めてしまっていたものが、「それってあなたの祈りですよね?」と指摘して、「それ」が指示する対象を単なる事実描写や感想とは区別することによって、話者の主観的・内面的意味世界を取り出し/救い出し、「話者の最も深いところにある大切な心の動き」と「他者=世界」とをつなぐ回路になることに成功しているのである。

【まとめ】

 まとめよう。本作は、➀ありきたりな外界の描写、➁ひろゆきの語録、③「感想」→「祈り」の言換えの三要素からなる。上の句「外界の描写」と下の句「あなたの祈り」という、本来は全く関係を見出すことのできないものを結び付ける跳躍と、③の言い換えによる意味内容の反転が本作の本質的価値である。そこでは、「客観的な認知(外界の描写)」に過ぎなかったものが、「主観的認知(祈り)」として解釈され直す。そして、その試みは、「第三者による客観的事実の指摘(語録の引用と改変)」によってなされる。

 以下、余談だが、日本語における「祈り」という言葉の力、その言葉がもたらす磁場の強力さについて、本文を書くことで痛感した。思うに、祈りという行為が世俗的な日々の営みから、あるいは現世利益的な目的-手段の連鎖から、離れれば離れるほど、何か特別な、聖性を帯びたものとして受け取られるのではないか、と思った。

 また、即物的な見返りがないものについて、じっと考えること、あるいはその対象に向き合い深く潜っていくことは、「祈り」と同視してよいのではないか、とも思った。別の言い方をすれば、現代に生きる僕たちは、「祈る」という営みを誤解している、あるいはきわめて一面的に見ているのではないか。この筋でいけば、哲学者も数学者も文学者も、その本分は「祈ること」である。そして、表題の短歌によって、僕は祈らずにはいられなくなったのだ。

*1:ここで僕は第三者を「ひろゆき」と呼称したが、正確には、「この第三者が何者であるか」の解釈は複数の可能性があり得る。文字通り「仮想上のひろゆき本人」かもしれないし、「ひろゆきの言葉を引用する別人」かもしれない。あるいは、「『外界を知覚し描写する主観としての彼/彼女』を客観視するもう一人の彼/彼女」かもしれない。このことは重要な論点になりえるが、今回は深入りしない。

*2:この場合、解釈④の中でさらに複数の解釈があり得る。本文とは大きく異なる解釈として、「ひろゆき」が主体となるものがある。彼は祈るような気持ちで救いを欲する心細い情況にあって、「雲間から降り注ぐ光」にある種の「救い=祈り」を感じ、それと同時にその瞬間を共有していた「あなた」からもひろゆきのことを想った「祈り=救い」が発せられていることを、彼は見出す。その瞬間をスケッチしたもの、という感動的なのかギャグなのかよくわからないものもあり得る。