パワポケキャラクター考察 神条紫杏について(中編)

何故紫杏はすぐれて魅力的であるのか

 前編で取り上げた精神科医のブログの別の記事(これこれ)において、当該記事の筆者は、①アスカに深く共感して彼女の中に自分自身を見出し、②アスカを自分には到達不可能な理想の顕現と見る(すなわち、自分はここまでできないが、出来る限りこのようでありたいと思う)。同様のことが、紫杏と彼女に魅入られたプレイヤーの間でも起こっているように思われる。

 ここで、僕自身の話になる。僕は小中高生のころ、「まじめ」だった。ここでいう「まじめ」とは、親や教員のいうことに対して、無批判に追従することではない。教員・親・ほかの生徒といった関わるすべての人のいうことを真正面から受け止めて、いちいち消化して自分なりに応答し、またその要求内容を満たそうとする意味で、「まじめ」だった。相容れない考え方に対して、聞き流す(あるいはそもそも頭に入っていない)とか、反発して従わないとか、そういったことをあまりしてこなかった。すなわち、ともすると相矛盾する親・教員・生徒らの価値観・思考枠組みのどれかに過度にコミットするのではなく、それらを弁証法的に統合して、「みんなが同意・納得するあり方」をバカ正直に考えてきた。そして、それぞれが要求する評価軸のすべてを、可能な限り満たそうとしていたのだった。

 そのような意味で、前掲ブログの筆者がアスカの中に自分を見出したように、僕は紫杏の中に自分を見出したのだった。僕にとって、生徒たちの価値観に埋没した人間は、無個性あるいは無思慮な人間として映る。それだけでなく、フィクションにありがちな教員の価値観に自己同一化したテンプレ的優等生もまた、無個性あるいは無思慮な人間に見える。対立する両極の間にあって、それらに引き裂かれた人間、両極をつなごうとする者、両極のどちらもの性質を持つ者、その複雑さこそ「リアル」であり、魅力を僕は感じる。

 紫杏は、抑圧的な校風を良しとはしなかった。しかしながら、生徒一般の味方というわけでもなかった。この二つの両極の弁証法的な統合先として、彼女が目指した自律を基調とするパブリックスクールの校風があったのだと思う。

 彼女は物分かりが良すぎる。そして、すべてを自分で抱え込もうとする。世の矛盾を一身に受けようとする。アスカがある類型を理想化された存在であるように、紫杏もまた理想化された存在である。生身の人間には考えられないことだが、フィクションの理想化された存在である故に、大抵の過大な要求あるいは難題をなんとかしてしまうだけの器・力量を彼女は持つ。彼女の、①多様な人間の立場・価値観・相互関係を理解して見通す力*1、②相矛盾する過大な要求に応えられるだけの力量、③それらを可能にする意志・姿勢つまるところ人間性に、僕は彼女の高貴さを見たのだった。

紫杏とその作者

 彼女を生み出したライターは西川直樹さんである。彼が作ったキャラクターの中でも、特に紫杏は力が入っていて、かつ彼自身の内面の反映度合いが強いと僕は思う。というのも、西川さんもまた、「物分かりが良い」ように思うからだ。以下、インタビューでの西川さん発言を二つ抜粋する。

「ところがユーザーさんからのお手紙を見たら、極亜久高校の外藤にものすごく腹を立てた人が多かったんですね。僕としては、『いや、彼らにもそれなりの事情があったかもしれへんやろう』といった気持ちがあったので、それなら極亜久高校を舞台にして、外藤たちを主人公の友だちにしたらどうかと考えていた。『極亜久高校は、ほんまに悪いヤツらやったんか?』ということを言いたかったんです。考えが足りない、生活が苦しい、悪い人に騙されているなど、やむを得ない事情で敵に回したキャラクターも多いけど、『そいつらにも事情があるんや……』というのが、シリーズを通しての一貫したテーマになったと思います。」

「大昔の話になりますが、私の先祖は自分なりの考えを持っていたんですが、仲間を大勢失ったことで『私の考えは間違ってました』と自分から宣言したんですね。最初に聞いた時は、『うちの先祖、仲間を裏切るなんて卑怯者や!』と思った。でも後から考えたら、抵抗できない状況下にいれば仕方のないことですよね。そんなことを日常的に考えてたことが、『パワポケ』シリーズにも反映されてるかもしれないです。」

 自分が理解出来ない者、自分と相容れない者、自分に危害を加える者の立場を、慮る義務はない。慮らないで相手方と自分とを「切断」することは、成熟した人間の一つの知恵でもある。パワポケ11裏サクセスにおける椿の発言を引用しよう。

「大人はな、孤独でいいんだよ。理解できない考え方や価値観が世の中には山ほどあって、それをお互いに尊重していればいい。てめえの価値観を押し付けるな。ドゥヨアビジネス、全部オレの勝手だ。」

 しかし、上記椿の考えを理解しながらも、それがすべてだと西川さんはおそらく割り切らない。以下は、パワポケ14で登場する小学校教員の出門鹿男の発言。

「争いを否定するのは簡単ですが、植民地解放や革命はどうなのか。戦国時代の日本統一のための戦いを否定することができるのか。『よくない今』を変えるための戦いは必要なことであるのかどうなのか。子供を教える立場として、わたしたちは常に悩んでいます。」

 あるいは出門鹿男のプロフィール。

「気が弱いが善良な人間で、きわめてマジメ。生徒たちの悩みも、ちゃんと相談に乗る。残念ながら、今の世の中ではあまり報われることのないタイプである。」

 出門鹿男を通して表現されているのは、簡単に割り切らず悩み続ける知的態度*2であり、生徒の悩みにちゃんと応えようとする「まじめ」な態度である。ここに、西川さん=パワポケ=紫杏の真価があり、そこにプレイヤーは他の物語及びキャラクターにはない価値を見出しているのだと思う。

*1:ジャジメントの試験においての紫杏の解答について、総帥ゴルトマンは「いずれの解答も、無意識に働きかける枠組みを、完全に無視している。」と評している。「完全に無視」するためには、「無意識に働きかける枠組み」を感知する能力が必要となる。これは優れた洞察力ともいえるし、過剰適応の原因となる他者に対する過剰なまでの敏感さともいえる。

*2:パワポケスタッフはインタビューにおいて自分たちのことを、「ひねている」と繰り返し言うが、ひねていること=鵜呑みにしないで物事を斜めから見る態度とは、よく言えば簡単に割り切らない知的態度となる。あるいは、紫杏というキャラクターの様々な人の立場を誰よりも慮り深く考えてきたという自負が、相手の考えを半ば無視して結論を押し付ける彼女の独善的かつ果断な判断につながる。