シュタインズゲート『スカイクラッドの観測者』の解釈について

シュタインズゲートシリーズ及び『スカイクラッドの観測者』は、正統かつ伝統的な形式に則った物語である。すなわち物語とは一般に、人間の意志が運命を乗り越えようとするものである。世界の法則という変えがたい真実に対し、運命を変えようとする意志がそれに立ち向かう。本作の特筆すべき特徴は、運命=科学的真実に対し、人間の意志が科学をもって立ち向かう点にある。客観的で絶対的な事実を示す科学は、主人公たちを阻む壁であるとともに、真実という運命に打ち勝つための手掛かりでもある。

以下では、主に①『スカイクラッドの観測者』の歌詞における「『0』が過去で『1』が未来 「今」は何処にもない」とはどういう意味なのか。②『スカイクラッドの観測者』とはどういう意味なのか。③『スカイクラッドの観測者』の歌詞における「収束」、「再生」、「収束」は何故この順序で書かれているのかを順を追ってみていく。まずは全歌詞を以下に記載する。

過去は離れて行き 未来は近づくの?

観測者はいつか 矛盾に気付く

神の創り出した世界は 完全なるもので 絶対の均衡

それは折り重なる偶然 宇宙規模の奇跡

守られてきた ゲート「規制」は終わった

Open The Eyes━━━━━

「0」が過去で 「1」が未来 「今」は何処にもない

背く事の出来ぬ ロジック

Open The Eyes━━━━━

並行する無数の線 選択は冒涜へ

僕らの「存在」さえ疑う その目に映る景色は

「収束」をする

二つの針が指す 時間の概念も

観測者しだいで 歪みを見せる

神に与えられた英知は 必ず「果て」がある 絶対の領域

それは愚かな故の偶然 招かれざる奇跡

閉ざされてきた ゲート「規制」は終わった

Open The Eyes━━━━━

光速へと手を伸ばした 想い出のパルスが

飛び込む不可思議な ロジック

Open The Eyes━━━━━

宇宙がまだ隠し持った 秩序のない理論

無限と呼ばれた点と点が 不正な力を借りて

「再生」をする

Open The Eyes━━━━━

「0」が過去で 「1」が未来 「今」は何処にもない

背く事の出来ぬ ロジック

Open The Eyes━━━━━

並行する無数の線 選択は冒涜へ

僕らの「存在」さえ疑う その目に映る景色は

「収束」をする

何故「過去は離れて行き未来は近づく」ことに対し、観測者は矛盾を見出すのか。本作において時間とは、過去→現在→未来というただ一本の直線的なものではない。「並行する無数の線」とあるように、それは並行し分岐するものとして描かれる。どうやらこのことに上記の矛盾が関係しているように思われる。しかし、普通人間に体感される時間は、前者すなわち「ただ一本の直線的なもの」である。にもかかわらず、本作において後者すなわち「並行し分岐するもの」として描かれるのは、「折り重なる偶然 宇宙規模の奇跡」または「愚かな故の偶然 招かれざる奇跡」のためである。ここでの奇跡とは、もちろん「タイムリープマシンの完成」を指す。このマシンと岡部のリーディングシュタイナーをもって、主人公たちは「未来はただ一つのものではなく無数に分岐していること」を知る。このことは決定的に重要である。人間と他の生物を決定的に区別するものは何か。知性である。本作においては「英知」という言葉でそれは表現される。シュタゲ第一話における岡部の独白をここで引用しよう。

宇宙に始まりはあるが、終わりはない。 ―――無限
星にもまた始まりはあるが、自らの力をもって滅び逝く。 ―――有限
英知を持つ者こそ、最も愚かであること。歴史からも読み取れる。
海に生ける魚は、陸の世界を知らない。彼らが英知を持てば、それもまた滅び逝く。
人間が光の速さを超えるのは、魚たちが陸で生活を始めるよりも滑稽。
これは抗える者たちに対する、神からの最後通告とも言えよう。

『スカイクラッドの観測者』における歌詞「神に与えられた英知」が上記独白と対応していることは明らかであろう。では、この「英知」とはどのような意味を持つのか。そして、「未来はただ一つのものではなく無数に分岐していること」を知っていることが何故決定的に重要なのか。まず前者について書く。動物は「英知」を持たない故に、未来を想像することが出来ない。彼らに出来るのは、これまで蓄積された経験に基づく反応だけである。それに対し人間は、未だ経験したことのない未来を「英知」という人類全体の経験と論理操作に基づき想像することが出来る。そして、想像することによってその未来を実現したり回避したりすることが可能になる。これが本作と関係する「英知」の意味である。では、続いて後者「未来がただ一つのものではないことを知っていること」の意味を書く。未来がただ一つのものであるならば、すでに確定した事態に対し打つ手はない。我々にできるのは、過去に戻り同じ出来事をなぞり直すことだけだ。しかし、未来が複数ありえるのならば、別の世界線に移ること、すなわちすでに確定した事実を覆して運命を変えることも可能となる。ここまでを整理すると、(1)動物は未来を変えることは出来ない。(2)人間はまだ完了していない未来を変えることが出来る。(3)実は人間は完了している過去さえも変えることが出来る。ということになる。以上から、①「『0』が過去で『1』が未来 「今」は何処にもない」の意味が明らかになる。ここでの「0」と「1」がダイバージェンスメーターの0=α世界線及び1=β世界線を指していることは言うまでもない。しかし、世界線世界線の間に過去・未来の時間的前後関係はない。問題は何故「0」の世界線が過去で「1」の世界線が未来であり、「今」は何処にもないのかである。完了している過去が書き換え可能であるということは、我々の存在そのものを掘り崩し不確定なものにする。「僕らの『存在』さえ疑う」のはそのためである。『「今」は何処にもない』のはそのためである。もはや一直線上に位置する過去・現在・未来はどこにもない。過去・現在・未来は客観的なものではなく、主観的なものとなる。主人公たちが自身の意志によって0=α世界線を過去と定義し、1=β世界線を未来と定義する。現在自分たちが位置する0=α世界線を過去のものとして抹消し、1=β世界線(より正確にはシュタインズ・ゲート世界線変動率1.048599%の世界線)を本来の彼らのあるべき・帰るべき未来としようという意志を示したものが「『0』が過去で『1』が未来」なのだ。

次に、②『スカイクラッドの観測者』の意味について書く。「スカイクラッド」とは裸であることを指す。これを僕は「白衣を脱ぎ捨てた」と解釈する。これは「科学者であることを辞めた」ことを意味するのではない。これを説明するためにまず「観測者」の意味するところを見る必要がある。本作全体及び『スカイクラッドの観測者』における「観測者」とは、「観測者しだいで 歪みを見せる」と歌詞にあるように、自然科学における観察者効果を意味するものである。すなわち、観察行為それ自体が観察対象に影響を与えることを指す。「スカイクラッド」の意味とつなげるならば、「白衣」とは自身と観察対象との間の相互関係が切断された、言わば研究室のような静謐で管理された環境下において対象と関わる「傍観者であること」を象徴する。対して「スカイクラッド」すなわち「裸であること」とは、自身と観察対象との相互関係というダイナミックな関係の中に身を置くこと、すなわち現場を這いずり回り泥にまみれた「介入者になること」を意味する。

最後に、③収束、再生、収束が何故この順で記載されているのかについて書く。作中において未来は、何度繰り返しても特定の世界線に収束する。すなわち主人公たちにとって望まない未来が何度も反復される。最初の「収束」とはこのことを指す。そしてその収束は「背く事の出来ぬロジック」により規律される。この抗いがたい現実に主人公たちは抵抗する。今度は先程引用したシュタゲ第一話における岡部の独白にたいする比屋定のアンサーを見てみよう。

宇宙に始まりはあるが、終わりはない。無限。

星にもまた始まりはあるが、自らの力をもって滅びゆく。有限。

英知を持つ者こそ最も愚かであるのは歴史からも読み取れる。

海に生ける魚は陸の世界を知らない。

彼らが英知を持てばそれもまた滅びゆく。

人間が光の速さを超えるのは、魚たちが陸で生活を始めるよりも滑稽。

これは、そんな神からの最後通告に抗った者たちによる――

執念のエピグラフ

ここでは、神より与えられた運命は受け入れるものではなく、それに抗い自らの手で切り拓くものとして記述される。歌詞中において「不正な力を借りて」とあるのは、神より与えられた運命に抗うからであり、人間の分を超えて世界の法則に介入しようとするためである。歌詞2番においては「不可思議なロジック」と表現されていることにも注意したい。何故不可思議なのか。「人間にとって」不可思議だからである。また、人間の意志が介在するところには、自然科学的な一貫した法則は存在しない。ロジックに人間が従うのではなくロジックを人間が用いるから不可思議なのである。このように「不正な力を借り」ることで、未来は「再生」する。すなわち、運命=神により抹消された本来あるべきだったと「主人公たち」が「定義」した「未来」が「再生」する。そして、「再生された未来」は、今度は神や主人公たち以外の干渉・介入をはねつける。かつて主人公たちを阻んだ世界法則は、今度は歌詞ラストにおける「背く事の出来ぬロジック」として主人公の味方となる。僕はこのように収束、再生、収束を理解する。

まとめよう。運命を変えることが出来るのは、真実=科学のみである。「背く事の出来ぬロジック」は厳然として存在する。では、運命を変えるために、具体的には何が必要となるのか。因果に介入するために必要とされるのは以下の二点である。(1)因果の対応関係すなわち因果関係を正しく認識すること。(2)因果の連環の解像度を上げることである。具体的には、(1)の因果関係の認識については、「紅莉栖の死を発見した岡部が最初のDメールを発出すること」がβ世界線を生み出すと認識しなければならない。ただし、これだけでは望んだ未来に到達することは出来ない。(2)因果連環の解像度を上げなくてはならない。すなわち、岡部が最初のDメールを発出するためには、「紅莉栖が死ぬこと」ではなく「岡部が『紅莉栖は死んだ』と思うこと」が必要であると、より正確に認識しなければならない。良い物語は、その作中で設定した原理原則に忠実である。本作における原理原則とは、科学は絶対であるということだ。科学とは対象を正しく認識することである。そして、対象を認識することで、我々は選択肢を持つことが可能となる。選択肢を持つことではじめて、自分の意志によって未来を選択すること、すなわち未来を変えることが可能になる。幾度の挫折に屈することなく自分の可能性を信じ続けた比屋定の、比屋定に触発されて執念の男となった岡部の、決して諦めない態度こそが未来を変えた。科学の本質とは頭の良さではない。信念に基づく果てしない試行錯誤である。本作において、中二病とは嗤われるべき幼さや愚かさを指すものではない。困難に打ち勝つ情熱と常人には理解出来ない程の狂信にも似た信念を指すものである。