まどマギのフェミニズム的考察 円環の理と感情エネルギーを中心に

魔法少女まどか☆マギカ』において、キュゥべえが求める感情エネルギーは物語の核となる概念である。この存在ゆえに魔法少女と魔女は存在し、この存在ゆえにまどかは狙われ、そして最後には奇跡を起こす。何故最もエネルギ―効率の良い対象が、第二次性徴期の少女だったのか。そもそも何故感情エネルギーは宇宙維持のために必要なのか。これらを解き明かすことで、本作における感情エネルギーの含意を引き出したいと思う。その含意を一言で言うとこうだ。感情とは世界を支え維持する雪かきの機能を持つとともに、世界を変える力の源泉ともなる。以上について、順を追って見ていきたい。

感情エネルギーが膨張する宇宙を維持するために必要であるという設定から想起されることがある。それは資本主義社会を維持するためにケア労働が必要不可欠とされることである。資本主義社会はその外部からの不断の供給を必要とする。供給されるものとは、新しい素材であり燃料であり土地である。そして、労働力もまた資本主義社会が維持されるためにはたえず供給される必要がある。労働力なくして資本主義社会は成り立たない。しかし、労働力は空から降ってくるものではない。産み、育て、教育する必要がある。さらに働き出してからも日々の家事による支えが不可欠である。そして、働くことが出来なくなれば介護を必要とする。これら育児・家事・介護等をケア労働と呼ぶ。そしてこれらケア労働は一部が市場に委ねられ有償になるとしても、大半が家庭内において無償でなされるのが一般的である。そして、一般の労働を駆動するものが金銭であるのに対し、ケア労働を動機付けするものは一般に愛情や思いやりとされる。ケア労働は通常の労働とは異なり、愛情の表現方法として理解され、特に女性はケア労働をすることこそが相手を愛することであると陰に陽に教育される(例えば少女漫画に跋扈するイデオロギー)。そして、時にそれは反転し、ケア労働を怠る者は対象となる相手を愛していない、思いやりのない人間であると観念される(要求されるケアの量・質について、一般に男性よりも女性の方が高い水準を求められる)。このような言説が存在するのは、資本主義社会にとってケア労働が必要不可欠であるからだ。時に推奨し時に脅迫し、絶えず無償のケア労働を誰かに担わせることによって我々は労働力を確保し、資本主義社会を駆動させ続けてきた。誰かをケア労働に向かわせる者。それが本作においてはキュゥべえである。魔法少女によるエネルギーの搾取なくして人類に発展と繁栄はなかったとキュゥべえは言う。資本主義社会なくして人類に発展はなかったであろうこととパラレルである。すなわち、感情エネルギーが膨張する宇宙の維持のために必要であることとは、資本主義社会が自発的な感情(愛情)に基づく無償のケア労働を不可欠とすることの暗示であったのだ。

では、何故最もエネルギ―効率の良い対象が、第二次性徴期の少女なのか。すでに述べたように、ケア労働は主に女性の領分とされる。そして、子どもはその純粋さ故、強い感情を持つことが出来ると考えられる。大人になるとどうしても打算が入り込んでしまう。見返りを求めない一途な思いこそが、純度の高い感情エネルギーをもたらすと考えられる。また、キュゥべえ「とりわけ最も効率がいいのは、第二次性徴期の少女の、希望と絶望の相転移だ」と言った。効率の良さとは感情エネルギーの純度の高さだけを指すとは限らない。有り体に言えば、子どもは騙しやすい。十分な判断能力を持っていれば、一つの願いと引き換えに一生魔法少女として戦い続ける契約を結ぶとは考えにくい。魔法少女として戦うとは何か。それは雪かき――村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』にある表現――である。誰かがしないといけない誰でもできる仕事(少女であれば誰でも魔法少女になれる)。しかし、雪が降ることは止められない。降り積もる雪を放っておけば、そのうち家は崩れてしまう。日々降り積もる仕事。それは家事に代表されるケア労働も同じである。終わりのない、報われにくい仕事だ。魔法少女になるという片道切符の契約とは何か。それはケア労働に専従する契約ではないか。すなわち結婚して仕事を辞め「母」になること――出産し、育児し、家事を行い、父母を介護する――ではないか。子どもを抱えキャリアを捨てた女性は、ケア労働から逃れることは出来ない。どうも僕には、意思能力(自己の行為の結果がどのような帰結をもたらすか理解する能力)の不十分な少女が、未来を深く考えず「母」になる物語のように本作が見えるのだ。

しかし、本作において魔法少女「母」になることは、ポジティブなものとしても描かれている。

キュゥべえ魔法少女は条理を覆す存在だ。君たちがどれ程の不条理を成し遂げたとしても、驚くには値しない」

条理を覆す力とは祈りであり、世界を変えたいという想いすなわち感情だ。世界を変える営みは見返りを求めない強い想いによって、並外れた献身によってはじめて可能になる。本作において想いを持つことは極めて大きな意味を持つ。

OP曲コネクトの一節「喜びも悲しみもわけあえば強まる想い この声が届くのなら きっと奇跡はおこせるだろう」

想いを持つがゆえにまどかは大きな力を持ち世界を変えることが出来る。想いを持たないがゆえにキュゥべえは世界を変えることが出来ず魔法少女に寄生する。交換するのではなく、与えられるのでもなく、与えるものになること。資本主義社会という巨大なシステムが駆動するための最初の一押しは、合理性を超えた想いである。誰かが何かを最初に与えなければ交換の連鎖ははじまらない。すなわち、資本主義社会はケア労働という献身による労働力という燃料の投下なくして駆動しない。

雪かき仕事と世界を変える営みとの間にはどのような関係があるのだろうか。作中でのメッセージは、これらは対立する概念ではなく雪かき仕事の延長線上に世界を変える営みがあるということである。まどかの起こした奇跡を見てみよう。まどかの奇跡は、ほむらの見返りを求めない献身、その積み立てが原資となっている。ただただまどかのために、報われない仕事を人知れずに積み重ねていく。それによってはじめて、まどかは世界を揺るがす力をもったまどかとなる。

まどか「これまでずっと、ずっとずっと、ほむらちゃんに守られて、望まれてきたから、今の私があるんだと思う」

しかし、誰か一人を想うだけでは世界を変えることは出来ない。まどかは何を願ったか。宛先を不特定多数にすること。すなわち私と貴女という個別具体の関係を超えて、自分が知らない過去・現在・未来の誰かまでをも対象とすること。それによってシステム、ひいては世界を変えることが出来る。すなわち、雪かき仕事の積み重ねはいつか、不特定多数の誰かのためを願うことによって、奇跡となる。

本作における奇跡とは、魔法少女が魔女となる因果を断ち切ることである。本作の世界では、魔法少女は魔女が存在するため必要とされる。少なくとも当初は、そのようなものとして描かれている。一般に語られるように、ここに女の敵は女であること、そして女を再生産するのは女であることを示すかのようである。女を女らしく駆り立てるもの、ケア労働へ駆り立てるものは直接的には女であることが多い(その背後に社会構造があり、社会構造を利用する者すなわち本作におけるキュゥべえがいる)。少年兵が大人の兵士となり意思能力が未発達な少年を新たな少年兵とするように、少女は「母」となり意思能力が未発達な自らの娘を新たな「母」とする。まどかはこの連鎖を断ち切った。まどかの母がキャリアウーマンであることは偶然ではない。そのような下地があってこその奇跡である。因果の連鎖を断ち切るためには力がいる。そして犠牲が必要となる。まどかは自らを犠牲とし、この因果の連鎖に終止符を打った。その点で、本作はあまりに苛烈な物語である。本作において、苦境にある当事者を救うのは当事者でしかない。そしてその救いをもたらした張本人は犠牲となった。すなわち、「母」は「女神」となり全ての因果を、全ての矛盾を一身に背負うこととなった。常人には背負いきることが出来ないからこそ、まどかは「女神」とならざるをえなかったのだ。本作はまどかという現代を生きる一人の女性に、あまりに多くの因果と矛盾を背負わせた危うい物語なのである。

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