『PSYCHO-PASS サイコパス』1期の考察 意味するところとは何だったのか

PSYCHO-PASS第1期がSFにおける傑作であることを示したい。そのため、本作の素晴らしさを余すところなく表現したい。以下では、本作に埋め込まれた設定と提出されている問題を一つ一つ紐解いていく。

【洞察に基づく未来予測】

まず本作の良さは、あくまで現代と地続きである点にある。現代すでに存在している技術や考え方の延長上にしか、本作の世界は描写されない。思うに、未来予測とはすでに進行中の物事の流れ、いわばベクトルを読み取ることである。ベクトルが複数ある場合は、それらの相互作用により全体として生じるベクトルを読み取り、今の地点から将来到達する地点を予測することである。すなわち、未来予測には①現在の地点と②ベクトルという運動量及び方向の理解が必要ということになる。

また、良いSFの要件とは、突飛な設定や未だ存在しない科学技術を、筆者の科学的知識・想像力を総動員して産み出すことだけではない。作中で構想された一つの世界を通じて、我々の持つ特質の一つを引き伸ばして提示し、現代を生きる我々とその社会に対する特徴を抉り出すこと、理解を深めさせることに意義がある。未来を予測すること、あるいは「今ここ」ではない「いつかのどこか」を構想することは、必然的に人間に対する深い洞察を必要とする。

フレデリック・ポール「SF作家に求められるのは車の誕生の予測でなく、渋滞という概念の予測である」

本作の特筆すべき価値とは、社会科学と人文科学に対する作者の深い知見に基づき近代社会と近代人の性質を深く理解し、日常の隅々に至るまで近未来のビジョンを描いて見せたことにある。

【意思決定の問題】

本作においては、食事や服装のような日常的な選択から就職のような人生における重大事に至るまで、あらゆる意思決定にシビュラシステムが介在している。もちろんそれは人間の必要によるものである。我々は最良の意思決定をしたい。しかし、人間の意思決定能力には限度がある。そのため、人間はシビュラシステムに限らず様々な意志決定支援の手段を生み出してきた。例えば、学力偏差値がその一つだろう。学力偏差値はほんの数年前まで存命の人物によって作られた、本来は進路指導用のツールであった。学力偏差値が存在するまでは、学生がどこの学校を受験すべきか、合格する見通しはいかほどか、教員の経験と勘によってしか判断することが出来なかった。一方、現在の我々は学力偏差値の恩恵を受けることで、自身が進学可能な学校を容易に知ることが出来るのである。本作においても、主人公の常守朱が就職先を決定する際に、意思決定支援技術は威力を発揮する。シビュラシステムによる職業適性診断により直ちにあらゆる職業の適正及び合格/不合格が決定され示される。一つ一つの職業を調べ自分で適正を考えたり、何社も就職面接を受けたりする必要はもうない。そして、人間よりもはるかに「正しい」判断により、適正も合格/不合格も決定されるのだ。偏差値同様、このような意思決定技術は点数や順位の形で数値化される。数値としてより精緻に表現されることで、本人の意思決定に資するからである。例えば「同じ適正A判定でもXは87点で、Yは83点だから、Xの方が自分は向いているのかなあ」というように。そうして我々は数値を内面化していく。その数値を前提とするようになる。その数値ばかりに目が行き、その数値を生み出すそもそもの基準に対して疑問を抱かなくなっていく。学力偏差値が発案者の目的に反し独り歩きし、偏差値操作や偏差値による学校及び生徒の序列化を招いてしまったことを我々は思い出すべきだろう。水道は人間の飲み水獲得能力を損なう。ガスコンロは人間の発火技術を失わせる。同じように、意思決定支援技術は、自分で意思決定する能力を低下させる。その背景には、意思決定基準のブラックボックス化がある。行政が情報公開を拒むように、一般に情報を持つ者はその閲覧権限を縮小しようとする。本作でも引用されているヴェーバーの言葉を引用する。

「官僚制的行政は知識によって大衆を支配する。専門知識と実務知識。そして其れを秘密にする事で優越性を高める」

また、意思決定内容・技術の高度化・専門化は、一般人のその内容・基準に対する理解を阻む。結果、我々は「今までだって上手くいってきたのだから、詳細はよくわからないが、今回も提示された結果に従おう」と考えるようになり、意思決定能力ばかりでなく、意思までも少しずつ削り取られていく。シビュラによる意思決定介在領域は全てを覆うようになる。そして、一つの到達点に至る。全ての人間にとって何が大事で何が大事でないかを決定する、究極の意思決定である統治への到達である。

【より洗練された統治技術】

近代以前においては、人々を従わせるための方法として、身体に損傷または苦痛をもたらす刑罰すなわち身体刑が用いられた。しかし、近代社会においては、身体刑は禁止されている。理解と納得による服従が要請される。身体刑への恐怖による統治から、規律訓練型権力による統治へと移行する。学校や軍隊、工場、監獄のような、他の価値観の介入を許さない閉鎖空間において、くり返し規律や規範を刷り込むことによって、統治を行う方法である。PSYCHO-PASSの世界においても、この規律訓練は大いに実施されている。その最たるものは、犯罪係数を用いた馴化である。くり返しくり返し広告で「メンタル美人であること」を目指すように、犯罪係数を上げないように、人々は脅迫される。PSYCHO-PASSの世界においては、国家が一つの監獄なのだ。人々は犯罪係数を内面化し、犯罪係数の上がる行為や犯罪係数の高い人物と関わることを忌避するようになる。本作において治安を司る省庁が警察省ではなく厚生省であるのは偶然ではない。

さらに進んで、最新の統治方法、環境管理型権力による統治も見てみよう。環境管理型権力は統治者が望まない行動を、環境を操作することにより選択不可能することで、人々を統治する。よく例にあげられるのは、公園のベンチの真ん中に作られた区切りのための突起である。これは一見すると座ることの出来る領域を区切ることが目的であるかのように見えるが、その実ホームレスがそのベンチで横になることを防ぐものである。本作においては、ドミネーターの仕様に環境管理型権力の作用を見ることが出来る。すなわち、ドミネーターはシビュラの判断により発砲の是非が下される。現代において警官は発砲する際は複雑で面倒な発砲許可条件を満たす必要がある。もはやそれは必要ない。また、誤射や不正使用の問題も、もう存在しない。間違いを起こさぬよう、先回りして禁止される。

【近代国家の臨界点】

近代社会の特徴に、自力救済の禁止がある。もし自己の権利が侵されたとしても、自己の実力をもってその回復をすることは許されず、司法手続きによらねばならないとするものだ。『GetBackers -奪還屋-』のように盗まれたものを盗み返して奪還することは許されない。まずは自分の実力で自己の権利を回復するよう求められた近代以前とは、この点が大きく異なる。近代国家は、自力救済の権利を人々から取り上げるとともに、その実現のための実力をも人々から取り上げた。すなわち、暴力を行使する権限及び武器を取り上げた。私闘による破壊と混乱を防ぐためのものであるが、国家が暴力を独占することは極めて危険なことでもある。アメリカ人が銃を持つ権利にこだわるのは、国家が暴走した際の抵抗権を保持しようとするためであることを思い起こしてほしい。本作において、暴力の独占は一層進められる。前述のドミネーターの仕様は、暴力の独占の一形態である。また、作中において人々は暴力にさらされたことがないという描写がある。他人が暴力を受けている場面に際しても、何が起きているかすぐには理解できない。また、理解できるようになると、異常なパニックを起こし、急激に犯罪係数を悪化させる。些細な暴力すらも、その行為可能性がシビュラの監視と規範内面化により奪われているためである。人々は、暴力行使の権限をシビュラに奪われるだけでなく、暴力行使・被害の経験や想像までも奪われている。以上から、シビュラによる統治は国家による暴力独占の一つの臨界点に達している。

また、シビュラシステムは統治方式の一つの極致でもある。再び本作中で引用されたヴェーバーの言葉を引く。

「理想的な官僚とは憤怒も不公平もなくさらに憎しみも激情もなく愛も熱狂もなくひたすら義務に従う人間のことである」

人情のような人間的感情とは無縁な、①公平無私であることが官僚には求められる。加えて、良き意思決定には②圧倒的な情報量と③卓越した価値判断能力が必要である。複数の対立する価値観を調整し優先順位をつけ、ファクトに基づいた判断をすることが統治者には欠かせない。監視社会化によって収集されたあらゆる情報をベースに、公平無私にして最良の知性が意思決定を下す。それがシビュラシステムである。それでも判断を誤ることはある。判断能力が不完全なこともある。足りない部分についてはシビュラの中に未だ存在しない価値観を持つ主体を取り込むことにより、シビュラはアップデートされていく。常にデータを蓄積し価値観をアップデートしていく官僚制の一つの到達点がシビュラなのである。ここにおいて、官僚制は生身の肉体を持った人格の集合体ではなくたった一つのシステムとなった。

【自由と責任の問題】

思うに、自由には3種類の自由がある。①不介入による自由と②介入による自由、③訓練により獲得される自由だ。①不介入による自由は想像しやすいだろう。誰にも邪魔されないとき、その者は自由だ。では②介入による自由とは何か。介入によってはじめて可能になる自由である。万人の万人に対する闘争状態とは果たして自由だろうか。ここにおいて自由な者は最強の者だけである。最強の者も衰えるであろうし、いつ寝首をかかれるかわからない。だからこそ暴力行使の権限は国家により独占され、万人はそれにより守られる。契約内容を当事者の自由に任せる契約自由の原則を修正し、契約内容を制約する労働法などもまた、それにより自然状態では抑圧される労働者を守ろうとするものだ。

このような介入や制約が強者には不自由と感じられる一方で、弱者には自由と感じられるのは、以上のような性質に基づくためである。次に、③訓練により獲得される自由とは何か。我々はこの世に生まれ落ちた瞬間は自由ではない。生まれた環境や家庭、宗教によって制約される。他の選択肢を知らないとき、語るべき語彙を知らないとき、我々は自由ではない。楽器を考えてみてもいいかもしれない。楽器を自由自在に演奏することは、でたらめに引くことではない。そのような意味で、自由を獲得するためには訓練を要する場合がある。

すでに意思決定能力が支援技術で低下すると書いたように、能力は開発しなければ発達しない。または衰えてしまう。シビュラによるあらゆる領域への介入によって人々は様々な不自由を解消することが出来た(もはやシビュラ下において家庭内暴力という概念は存在しないだろう。また夜道が危険で歩けないという事態もなくなっただろう)が、同時にそのことによって自由獲得能力が衰えていることが、本作では示されている。シビュラ社会において、人々は果たして自由になったのだろうか、不自由になったのだろうか。

また、自由の問題は責任の問題と密接不可分である。「自由なくして責任なし」である。シビュラ社会においては、犯罪は技術的にドミネーターの仕様に代表されるように技術的に不可能とされる。それを潜り抜けたとしても、犯罪係数という仕組みによって事前に予防される(事前予防は予言の自己成就の問題を新たにもたらしたが)。しかし、倫理的問題は依然として存在する。それを主人公である常守に、シビュラ社会に突き付けたのが槙島だった。ドミネーターでは裁くことが出来ない槙島を裁くためには、拳銃の使用が必要である。そこにおいては引き金を、自身の判断と責任によって引かねばならない。槙島の一身を賭けた問いかけに応答するには、システムに寄りかからず、常守もまた「生身の私」を賭けなければならない。

槙島「サイマティックスキャンで読み取った生体場を解析し、人の心の在り方を解き明かす…科学の叡智はついに魂の秘密を暴くに至り、この社会は激変した。だがその判定には人の意志が介在しない。君たちは一体、何を基準に善と悪を選り分けているんだろうね?僕は人の魂の輝きが見たい。それが本当に尊いものだと確かめたい。だが己の意思を問うこともせず、ただシビュラの神託のままに生きる人間たちに、はたして価値はあるんだろうか?」

ここで問いかけられた問題に常守は真剣に向き合いラストにおいて回答を見出す。

常守「きっと大切だったのは、善か悪かの結論じゃない。それを自分で抱えて、悩んで、引き受けることだったんだと思う」

そして、自身で選択することの重さとそれが決定的に人間の尊厳を左右することに、縢との会話の回想により思い至る。

縢「分かんねえよ。俺なんかに分かるわけねーじゃん。あんたは何にでもなれた。どんな人生を選ぶことだってできた。それで悩みさえしたんだろう?すげえよな、まるでシビュラができる前のジジババみてえだ」

常守「うん、すごいよね。誰もが自分の人生を手探りで選んでた。それが当たり前の世界があったなんてね」

縢「今じゃシビュラシステムがそいつの才能を読み取って、一番幸せになれる生き方を教えてくれるってのに。本当の人生?生まれてきた意味?そんなもんで悩む奴がいるなんて、考えもしなかったよ」

常守「そうだね、重たくて辛い悩みだよ。でもね、今では思うんだ。それを悩むことができるって、本当はとても幸せなことじゃないかって」

【人間の尊厳について】

常守に選択することの重要性と人間の尊厳を気づかせるきっかけを作ったのは、その問題に痛ましいほどの切実さを持って向き合い続けた槙島である。槙島はシビュラシステムのアンチテーゼそのものだ。ニーチェ功利主義ベンサム(イギリス人)を皮肉った言葉が思い起こされる。

ニーチェ「幸福を追求するのはイギリス人だけだ」

同様に、槙島もまたシビュラシステムに強烈なノーを突き付ける。

槙島「僕はね、この人生というゲームを心底愛しているんだよ。だから、どこまでもプレイヤーとして参加し続けたい」

槙島は安楽を拒絶し、常に危険の中に身を置き、プレイヤーとして戦うことをやめない。生きることとはリスクを引き受けることだからだ。

最強伝説黒沢』の黒沢の言葉を引きたい。

「損得だけで生きて何になる・・・?

ましてや安楽・・・あるいは安全・・・

そんなものだけを追って・・・生きて・・・何になる・・・?

そんなことはミジンコ・・・ゴキブリだってやっている・・・!

違うっ・・・!

違うっ違うっ・・・!そうじゃないっ・・・!

オレ達人間は・・・人間ってのは・・・

それ以上の・・・何かだろう・・・!

それ以上の何か・・・つまり・・・人間を・・・人間足らしめている・・・

心・・・!感情がある・・・!

それは・・・たぶん・・・少しでいいから・・・一歩でいいから・・・

ましな人間になろう・・・という気持ちだろう・・・!

オレが・・・オレのヒーローであろう・・・という気持ちだろう・・・!

つまり・・・矜持だろう・・・!

もし・・・もしそれを・・・本当にすべて・・・

失ってしまったら・・・それこそが・・・

本当の意味での・・・

敗者だろう・・・・」

生身をさらし自分のすべてを賭けて他人と向き合う。戦う場合もあれば協調する場合もあろう。しかし、大所高所でそれをジャッジすることだけは、槙島はすることが出来なかった。槙島が求めていたのはひりひりするほどの、人とのつながりなのだから。

槙島「他者とのつながりが自我の基盤だった時代など、とうの昔に終わっている。誰もがシステムに見守られ、システムの規範に沿って生きる世界には、人の輪なんて必要ない。みんな小さな独房の中で自分だけの安らぎに飼い慣らされているだけだ」

【効率の体系と正義の体系】

この世界には大雑把に言って、二つの社会を規律する体系があると思う。効率の体系と正義の体系だ。前者は効率性の有無を判断基準にするのに対し、後者は正義の有無を問題とする。シビュラ社会とは、正義の体系を効率の体系が完全に覆ってしまった社会だ。常守がシビュラシステムに抱いた憤懣やるかたない思いは、正義の体系に基づく。たとえそれが全体の効率にとって最適であったとしても、罪を犯した者がそれを免罪され、あまつさえ他人の罪の有無を判断し社会全体を統べる者、すなわち裁判者兼統治者になることは、彼女にとって耐えがたい。しかしそれでも常守は、シビュラに基づく社会を否定しない。否定するのは槙島だけだ。彼女の中でも効率の体系が正義の体系に優越しているからである。

正義の体系に対する効率の体系の優越は、現代の我々にとっても極めてクリティカルな問題だ。中国社会において統治及び経済活動の都合から、次々に個人の権利や尊厳が蔑ろにされていることを我々は知っている。しかも、このことは対岸の火事ではない。ビックデータの活用方法の開発競争が世界中で繰り広げられているが、この競争の勝敗を決するのは、手に入る情報の量である。そのため、サービスが日本語圏にしか通用しない日本企業は苦境に立たされると予想される。トップを争うことになるのは、英語圏の国々と中国ということになる。この点、個人情報のような個人の権利を気にする必要のない中国が他の国々と比べて有利となることは明白だ。問題は、中国との競争圧力にさらされるIT企業が、中国に追随して個人の権利を蔑ろにしないか、ということだ。また、統治の都合からも政府にとり、一層の情報の収集と集約が要請される。特別定額給付金を効率良く給付するには個人情報と口座は紐づけられた方が良いし、脱税を防ぐためには口座の出入りを行政がいつでも閲覧出来るように出来た方が良い。後ろ暗いことがなければ何の問題もないはずだ。いわゆる監視社会化の問題である。以上のように今後、世界全体は効率の体系が優越していくのではないかと予想される。競争圧力によって次第に、あるいはなんらかの事件をきっかけに/口実に一気に、効率の体系は正義の体系を浸食していくものと思われる。

【4極の思想対立】

多くの物語は正義と悪のように二項対立に基づき進んでいく。しかし、本作はシビュラ、槙島、常守、狡噛のそれぞれ異なる4つの立場に基づき物語が進む。4つの立場は二つの軸によって分けられる。すなわち、①法の支配と個人の平等を重視するか、卓越者の自由を重視するか。②全体を優先するか、個人を優先するか。図にすると以下のようになる。

f:id:killminstions:20200807190525p:plain

シビュラと槙島は「何人たりとも法の下に制約される」という原則を無視し、卓越した自身の自由を優先する。その不法を常守と狡噛は許さない。また、槙島と狡噛はシビュラの効率的なシステムにより個人の尊厳が蔑ろにされることに耐えられない。一方で、シビュラと常守は全体として、そして結果として幸福が実現されることを重視する。隣り合う両者は一部価値観を共有するため惹かれ合う。または一方が一方に関心を示す。しかし、斜めの位置にある者同士は一切価値観を共有しないため、互いに興味を示さない。このように、技術やシステムの設定が凝らされているだけではなく、思想的対立についても力が入れられている点が、本作の特長である。

【まとめ】

以上、いくつかの観点から本作で提出されている問題と特長を見てきた。本作は我々とは関係のない遠いどこかの物語ではない。高犯罪係数者に対する隔離は、すなわち一定の規格に合わない者を隔離または矯正する仕組みは、本作中だけの架空のものではない。現代における監獄や精神病院が同一の機能を持つことは、言及されれば自明だろう。異なるのは基準とされる線引きだけだ。現在収監または入院している者は、本当にその必要があるのだろうか。本作はその社会システムを描写することを通じ、今僕たちがいる社会のシステムの自明性に疑問を投げかけている。

常守朱の本作における位置づけと偉大さを書いたもの

偉大なる凡人または最後に勝利する者 常守朱の保守主義的偉大さ - killminstionsの日記