三島由紀夫の『鹿鳴館』とマルクス主義フェミニズム

以前、三島由紀夫の『鹿鳴館』について、三島本人の弁とは異なり、アリストファネスの『女の平和』が下敷きにあることを書いた。また、両作品の類似点と相違点及びそれらから見えてくることを書いた。しかし、上野千鶴子らが紹介したマルクス主義フェミニズムとの奇妙な一致(『鹿鳴館』は1956年発表。上野によるマルクス主義フェミニズムの紹介は1980年代)については十分に書くことが出来なかった。三島は意図せずしてその卓抜した物語展開能力によって、全く別ルートから近代における男女の力学について、四半世紀ほど早くマルクス主義フェミニズムと同一の結論に至った、と僕は考える(もちろん理論の精緻さについて、社会科学であるマルクス主義フェミニズムが、演劇である『鹿鳴館』に優越することは言うまでもない)。両者に共通しているのは以下の点である。①近代化が進み封建的支配から解放されるにつれ、女性は自由になっていくと思われたが、その実、新しい支配の下に再編成されたに過ぎなかった。②近代化の下で称揚される自由恋愛は、自発的な屈従を女性たちにもたらす新しい支配の方式に過ぎなかった。③結局のところ、政治的・経済的な力なくして個人の自立は不可能であった。以上について、順を追って見ていきたい。

まず『鹿鳴館』の最も大まかな筋を振り返ってみたい。本作は、母を紐帯とした父(清原)-母(朝子)-子(久雄)のつながりが、名義上の夫(影山)に敗れる物語である。互いのことを信じ想う愛情に基づく純粋な関係が、影山が象徴する冷厳な現実に敗れ去っていく物語である。何が勝敗を分けたか。影山と朝子の政治的実力の差と、さらにその背後にある経済的実力の差が決定的要因だろう。影山は朝子の様子に違和感を覚えるとすぐに女中頭の草野を篭絡しその陰謀を看破し、逆襲の策を講じる。草野の裏切りには、経済的見返りがあったことにも注意を要する。

影山「お前に一軒手ごろな家を見つけてやり、お前の親兄弟も養ってやり、生涯安楽に暮らすだけのことはしてやると言った筈だ」

外見上の主は朝子であっても、草野の本当の雇い主すなわち金主は影山なのだ。また、そもそも清原と朝子が一緒になることが出来なかったことがこの物語の原因である。朝子はかつて芸妓であり、清原には彼女を身請け出来るだけの金がなかった。ここにも経済力の有無が背景として存在する。ある女性の名義上の夫となるには、経済力が必要となるのだ。そして、自立するための経済力を持たないために、自身が女であるために、自らの子を手放し他の男の妻とならざるをえなかった朝子の悲しみもまた、ここにはある。

朝子「まだ当歳のあなたを引離されて、来る夜も来る夜も私は泣き明かし、死のうと思い詰めたこともありましたわ。でも男のあなたの将来を考えると、父なし児にすることはできませんでした」

次に、マルクス主義フェミニズムについて、本文に関係のある箇所に絞って要約したい。そのためには、まずマルクス主義における労働者の立ち位置について書かねばならない。封建的支配下におかれた人々は近代化により解放され、自由になると考えられていた。領主への地代の義務から解放され自作農となったためである。しかし、現実にはそうはならなかった。自由競争下において、小規模経営者は大規模経営者に駆逐されていく。結局、自作農たちは土地を失い、小作農としてあるいは都市に流入し工場労働者として、自己の労働力を切り売りして働かざるをえなくなる。近代化は封建的支配下におかれた人々を自由にすることはなく、新しい形式で彼らを縛り付けたに過ぎなかった。それどころか、マルクスによると、近代以降人々は一層立場が弱く、不自由になったという。封建社会においては領主に地代を払う義務はあるものの、各人自身の持ち分たる土地を持っていた。10の収穫を得て5の地代を払えば残りは自分のものになった。対して、近代社会においては、小作農にせよ工場労働者にせよ、自身の持ち分たる土地や工場、工具など生産手段を持たない。全て雇い主に貸してもらっている状態である。小作農や工場労働者は、材料や生産機械と同じ、労働力という一つの生産のための部品に過ぎなくなる(材料+生産機械+労働力⇒商品)。ここにおいては、10の収穫を得るのは雇用主であり、被用者ではない。雇用主から被用者に対し、5の労賃が支払われることとなる。この違いは重要である。生産により発生した財の取得権利と処分権が被用者から雇用主に移っているのである。こうなると、取得した財をどの被用者にどの程度配分するか、雇用者の胸三寸となってしまう。生産手段を持たず、雇ってもらわなければ生きていくことが出来ない被用者が、雇用者に比して圧倒的に弱い立場となることは明白だろう。

マルクス主義フェミニズムでは、同様の現象が女性に対しても生じたとする。すなわち、封建社会において抑圧されてきた女性は近代化により自由になったと思われたが、その実不自由なまま、場合によっては一層不自由になった。封建社会では特定の役割が割り当てられ、その分に応じた権限を主張することが出来たが、近代社会においてはその役割すらはぎとられてしまう。近代社会における男女は個々人の自由意志のみによって関係を取り結ぶためである。一方に経済的実力があり、もう一方にそれがない場合、この実力差は男女関係の実力差として現れる。「誰のおかげで飯が食えてると思ってるんだ?」という言い回しにその実力差は象徴される。要するに、経済力を持たない者は本質的に扶養されている子どもとそう変わらないのだ。子どもは自分で住む場所を選ぶことが出来ない。進学のような重大事から食事の品目に至るまで、親の「好意」によらなければ自分で決定することが出来ない。そのような檻の中に、朝子もまた囚われている。

では、女性は何故自由に職業を選択することが可能になった近代社会においても、経済的弱者の立場に置かれるのだろうか。一言でいえば、資本制はケア要員を必要とし、女性はケア要員として不採算労働部門へ割り当てられる定めにあるからである。資本制はただ同然で外部から供給され続ける燃料・素材・労働力を必要とする。それなくしては活動を続けることが出来ない。絶えず労働の現場に労働力を供給する営み、それが育児及び家事である。そして、不要となった労働力=老人の世話すなわち介護もまた資本主義社会が成立するためには欠かせない。誰かがしなくてはならない労働だ。育児・家事・介護というケア労働は、主に家庭内において賃金が発生することなく行われる。資本主義社会が不断に継続していくために必須の労働でありながら、その主な担い手たる女性に労賃が支払われることはない。では、ケア労働が女性に集中するようになったのはいつからなのか。近代以前においては職場と住居はそばにあり、また密接不可分だった。店番をしながら子守をし、子どももまた田植えを手伝った。通勤という現象はその図式を大きく覆す。職場と住居は別々の場所となり、家庭と職場の役割分担も明確になっていく。すなわち、男性は外で女性は内でそれぞれ勤めを果たすというものだ。女性は愛する存在として、自らを観念するよう訓練される。ケアすることは愛することだと訓練される。(マルクス主義に限らず)フェミニズムにおいて愛とは、社会がその心情を持つよう要請する構築物なのである。いうなれば、我々は、特に女性は、他者を愛するよう社会の様々な機構により、教育される。『鹿鳴館』作中で、男性は公的領域の専門家であり、女性は私的領域の専門家であるとくり返し描写されるのは、このような社会構造に対応するものである。

季子「そのころからあの方(※朝子のこと)は、いわば男女の色恋の専門家だったわけですわ。でも私共は多かれ少なかれ、そのほうの博士じゃございません?」

鹿鳴館』に話を戻そう。本作における女性たちにとって、彼女たちの生きる時代は解放の時代のように見えていた。

定子「この新しい、すてきな時代に?」

則子「何百年ぶりに女たちが日の目を見ることのできたこの時代に?」

そして、これまでとは異なり、自分の意志を明確に示し、自分で未来を切り開くことが求められると考えていた。

季子「自分のことを自分ではっきり話せなくては、これからの女はだめですよ」

愛情と信頼によって困難に打ち勝つことが出来ると信じていた。しかし、本作は悲劇である。影山に象徴される冷たい政治的権力がそれを打ち砕く。朝子が影山に怒りを露わにする以下のセリフを見てほしい。

朝子「あなたは成功した政治家でいらっしゃる。何事も思いのままにおできになる。その上何をお求めになるんです。愛情ですって?滑稽ではございませんか。心ですって?可笑しくはございません?そんなものは権力を持たない人間が、後生大事にしているものですわ。乞食の子が大事にしている安い玩具まで、お欲しがりになることはありません」

ここでは権力を持つ影山と愛情を分かち合う朝子らが対比されている。本作において、権力は愛情に優越する。愛情という意志は政治的・経済的裏付けを持たないため、権力という圧倒的な実力を前に敗れ去るしかない。

権力は愛情を打ち砕くだけではない。権力は愛情すらも書き換えてしまう。僕は本作ラストにおいて、朝子は過去に遡及し、過去から現在に至るまで影山を愛するように自らを書き換えたと考える。

権力を象徴する影山は、真理などというものは存在せず、歴史とは自らが作るものだという。

影山「政治には真理というものはない。真理のないということを政治は知っておる。だから政治は真理の模造品を作らねばならんのだ」

影山「私が歴史を作る。時の政府が歴史を作るのだ」

影山の謀略は、朝子の歴史を書き換えようとしたものである。朝子において、清原への想いは後景に退き、久雄への思慕が前面に出ていることを、結果として影山は正しく突いた。清原は久雄を殺した。立ち尽くす清原には、「息子を殺したこと」と「政治的に死んだこと」のどちらが大きかったろうか。息子が死んだ直後に自らの政治的生命の終わりを宣言する清原に、朝子が何度も引き止めても振り返らない清原に、朝子はもうすでに心のどこかで見切りをつけていたのではないだろうか。そこに影山の告白である。

朝子「あなたの贋の壮士の芝居は清原さんをおびきよせるためでございましょう」

影山「清原をおびきよせるのに、どうしてあんな仮装行列が要るものかね。ただ壮士が乱入したと清原に告げればすむことだ」

朝子「ではあの抜身の人たちの野蛮な踊りは、みんな私一人のための慰みの見世物だと仰言るのね」

影山「そうだとも。よく考えてごらん。ほかに何の必要がある。あなた一人のためにやらせたことだ。私の羞かしがりの気弱な愛情がやらせたことだよ」

朝子は激高する。氷のような冷たさを失いべたべたした感情を露わにする影山に嫌悪感を抱く。そして、今日の夜会が終わったら清原についていくと宣言する。

朝子「一寸の我慢でございますね。いつわりの微笑も、いつわりの夜会も、そんなに永続きはいたしません」

影山「隠すのだ。たぶらかすのだ。外国人たちを、世界中を」

朝子「世界にもこんないつわりの、恥知らずのワルツはありますまい」

しかし、次の影山のセリフをもって朝子は翻意する。

影山「だが私は一生こいつを踊りつづけるつもりだよ」

朝子「それでこそ殿様ですわ。それでこそあなたですわ」

朝子に拒絶されても、たとえ虚偽の芝居に終わりがなくても、影山は自分に割り当てられた虚偽の役割を演じ続けることを宣言した。今日限りの偽りを生きればよいと思っていた朝子に比して、はるかに上回る覚悟を示したのである。この揺るがなさに朝子は心服または屈服する。惚れ直す。より正確には惚れ直したことにする。その背景には、上述の影山の告白及び宣言だけでなく、久雄の死と清原への幻滅もあるだろう。もはや朝子に生きていく理由はない。清原よろしく、誰かが殺してくれない限り「べんべんと」生きるだろうが、「事実は生きているとは云えない」だろう。朝子の心はくじかれてしまった。経済的従属が背景にあることにも注意したい。久雄の死を知った直後、久雄を愛していた顕子に朝子がかけた言葉を思い出そう。

朝子「顕子さん、心の弱いことを仰言ってはだめですよ。どんなことをしてでも生きてゆこうとなさらなくてはだめですよ。残酷なことを申しますよ。久雄はあなたのために死んだのではありません。ですからあなたが後をお追いになるのは無駄事です」

これは朝子自身への言葉でもあるのだ。久雄はもちろん清原も、朝子のために「死んだ」わけではない。清原についていくという朝子の強がりに対して、影山の「死人との結婚は愉快だろうね」という影山は、どこまでも朝子の本心を見抜いている。

清原が見捨てられたと決定的にわかるシーンがある。ラストのピストルの音の件である。朝子ははっきりと物音をピストルの音と認識している。にもかかわらず、動じる様子もなく再びワルツを踊る。清原が消されることに思い至らないはずもない。やはり清原は見捨てられたのだ(2008年度テレビドラマ版も同様の解釈をとる)。

こうして、経済的・内面的に逼塞した朝子は、彼女の合理的選択として影山と夫婦であり続けることを選択する。もう二度と朝子は影山に本当の自分をさらけ出すことはない。与えられた妻という役割を死んだようにこなしていくだけだ。朝子もまた殺されたのだ。

思えば影山は、いつもそうして対象を自らの手の下に置いてきた。

影山「いわばまあ、そうだ、その菊をごらん。たわわに黄いろの花弁を重ねて、微風に揺られている。これが庭師の丹精と愛情で出来上がったものだと思うかね。そう思うなら、お前は政治家にはなれんのだ。政治家ならこの菊の花をこんなふうに理解する。こいつは庭師の憎悪が花ひらいたものなんだ。乏しい給金に対する庭師の不満、ひいては主人の私に対する憎悪、そういう御本人にも気づかれない憎悪が、一念凝ってこの見事な菊に移されて咲いたわけさ。花作りというものにはみんな復讐の匂いがする。絵描きとか文士とか、芸術というものはみんなそうだ。ごく力の弱いものの憎悪が育てた大輪の菊なのさ」

まとめよう。本作は三島得意の、青年と女性の愛と誠実が、老人の狡知により打ち砕かれる物語だ。物理的に殲滅され、内面的に屈服を余儀なくされる。それは(マルクス主義に限らない)フェミニズムが明らかにしたロマンティック・ラブ・イデオロギーの客体化と軌を一にする。フェミニズムは「愛」という概念を情緒的なものとしては扱わない。徹底的に、科学的に分析する。そして、社会的に構築されたフィクションであることを抉り出す。女性たちが「愛」を内面化し、自発的に屈従していく様を描き出す。そして、マルクス主義フェミニズムは、近代化がむしろ女性たちに不自由をもたらしたこと、その背景には経済的実力があることを示す。本作においても、朝子は最後には自発的に影山に屈従する。経済的に自立は困難であり、内面的に折れてしまったからだ。彼女たちが寿いだ女性の解放の時代とは程遠く、政治的・経済的実力差に基づく支配は厳然として存在した。三島は近代の男女の力学を冷たく描き、愛や正義の脆さを悲劇の形式で抉り出した。そして、おそらくは意図せずして、全く異なる立場のマルクス主義フェミニズムの主張するところと一致した。個々の登場人物を掘り下げ物語を展開していくことにより、作者の意図を超えた地平へと到達すること。本作は物語というシミュレーションがもたらした一つの達成だと思う。

鹿鳴館 (新潮文庫)

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