偉大なる凡人または最後に勝利する者 常守朱の保守主義的偉大さ

 朱のシビュラへのセリフ「尊くあるべき筈の法をなによりも貶める事はなんだかわかってる?守るに値しない法律を作り運用することよ。人間を甘く見ないことね。いつか誰かがこの部屋の電源を落としに来るわ。」の後半部を僕は読み(聞き)飛ばしていた。単なる強がりや願望から発せられた言葉に過ぎないと思っていた。しかし、この発言には作品そのものを決定的に意味づける含みがあり、朱は深い確信に基づいてこの啖呵を切ったのだとわかった。

 実はシビュラと朱にはよく似たところがある。長所がよく似ている。シビュラは自身に足りない価値観の摂取に貪欲であり、変わることを恐れない。自身が更新されていくことを義務とし、そのことがシビュラの卓越性の源泉となっている。他のあらゆる主体が決して追いつくことのできないレベルでの不断の自己更新。これにより統治者であること、すなわちすべての人間にとって何が大切で何が大切でないかの究極的な意思決定をすることが正当化される。一方の朱はどうだろうか。1期の朱を知っている人は皆、登場人物の中で最も実務的内面的思想的に発展を遂げた人物が朱であることに異論はないだろう。僕には朱は日系総合職の理想形のように見える。あらゆる基礎能力が高い水準にあり、人格的に円満で職務に対してひたむきで心身ともにタフ。そして何より大事なことに自らの課題に正面から向き合い、一歩ずつ着実に課題をクリアし成長していく謙虚さと前向きな姿勢。直面する問題を解決するため先輩たちのノウハウを余すところなく吸収し、それでも足りない場合は適切な人物に助力を仰ぐことが出来ること。

 両者に共通するのは、変わっていくことへの常人離れした真摯さである。しかし、冒頭に挙げた発言と、その直後のシビュラの言葉により、シビュラの決定的敗北が暗示される。シビュラはせせら笑ってこう言った。「常守朱、抗いなさい。苦悩しなさい。我々に進化をもたらす糧として。」かつての僕のように、シビュラは朱の発言の意味を全く分かっていない。朱が意味したところは実は極めてシンプルだった。シビュラは人間に奉仕することに存在意義があり、人間なくしてその意義も存続理由もないならば、いつかシビュラを超えるシステムが生まれ、そのときシビュラはお払い箱になるだろう。つまり、朱は何事も永久には続かないこと、すべての物事は変化し移りゆくことをわかっていたのだ。これからも人類が存続し続ける限り身体と脳を持った無数に供給される人間たちに対して、もはや247個の脳しか持たなくなった、身体という可能性を捨て去ってしまったシステムがいつまでも優越し続けることなど、原理的にありえないのだ。

 人間は生物学的に文化的に産まれ産み育ち育て与えられ与えるの連鎖の中にいる。朱の発した「社会の形を選び、認める。その権利のために、人間は血の滲むような努力をしてきた。歴史には敬意を払いなさい。シビュラシステム。」という言葉の重みを厳粛に受け止めなければならない。歴史に敬意を払うということは、未来を信じるということでもある。今の我々には理解を絶するような、あるいは想像もつかないような達成や到達が過去にあったのだから、未来においても現時点では想像もできないような困難の達成がありうるのだということを理解し、未来を信じるということである。ここまでくれば冒頭の発言をせせら笑ったシビュラの迂闊さは明らかとなる。すなわち、何故シビュラの優越性が永久に保証されていると確信できるのか?変わっていくことへの真摯さについて、シビュラよりも朱の方が原理原則に忠実だった。

 シビュラと朱で念頭に置いている主語が異なっていることも忘れてはならない。シビュラはこうだ。「私はこれからも更新されていく」。一方、朱はこう信じている。「人類はこれからも更新されていく」。人類史の続く限り永久に続く更新の連鎖から、うかつにもシビュラは離脱してしまった。ただし、現在の制約条件も変わりゆくことを忘れてはならない。戻ってくることはできるかもしれない。おそらくシビュラが人間の更新の連鎖に戻ろうとするときとは、シビュラの優越性が永続する確信が、シビュラの中で脅かされはじめたときだろう。ここが彼らの正念場である。はじめてシビュラは自身が裁かれうる立場、切り捨てられうる立場になるかもしれないことに直面する。これまでの行状を人類に包み隠さず明かすのか、人類そのものの価値基準を保身のために変えるような操作を行うか否か、自らを超えうるシステムが生まれそうなときそれをエンパワーするのか妨害するのか、自らを不要として切り捨てられるのか、そして人類はシビュラをどう裁くのか。

 以上により、この作品は卑小な個人または一システム対する人類全体が産み出してきた歴史への敬意と、それに続く未来への信頼が伏流していることがわかった。その文脈で、シビュラの致命的な弱点を示そうと思う。思うに、上述のシビュラの迂闊さ、恣意性、視野狭窄はこの弱点から来た。あるいは、シビュラの設計思想そのものにその弱点があった。すなわち、シビュラの脳は同一地域同一時代の脳からのみ成り立っていること。そして、新しく脳を加えていくにしてもその対象を選定する主体が、既存の中核メンバーからなっていることである。現在目に見える事実のみをもって思考することの危うさ。あらゆる場所で見られるこの種の浅はかさへの洞察がこの作品にはある。

 最後に、蛇足ながら常守朱が何故色相が濁らないのかの一つの解釈を書いておく。第3期はまだ見ていないが彼女は捕まっているらしいので、正しくないかもしれない。それでも正統な解釈であると僕は信じるので、書いておく。常守朱はこれまで書いたように真の意味で保守主義者であり、その在り方が徹底しているから。すなわち、自分にまたは現代の人類に希望がなくとも、未来の人類に希望があると確信しているから。思えば同じ人物が脚本を書いたまどマギのまどかと根っこのところは同じである。他の魔法少女が自身の問題で何らかの耐えがたさを感じているのに対して、まどかは自分に望みはない。満たされているから。まどかの耐えがたさは別のところにある。過去・現在・未来の魔法少女たちが報われず何の意味もなく絶望して消えていくこと、その事実に耐えられない。それが覆されたとき、まどかには何の絶望もなかった。朱もまどかも、自分という一個人を超えて、人類全体という単位の幸せと希望が一番気がかりだったのだ。この点で、狡噛や槙島と比較した朱の特異性が浮かび上がってくる。狡噛は私怨の人だった。それは愚かさを意味するのではない。今ここにいる個人のかけがえのなさにこだわっているからであり、未来や全体のために個人がおざなりになることが耐えられないからである。槙島は遠い未来シビュラが乗り越えられることを予期していた可能性が高い。しかし、槙島にとってそれは何の意味もないことだった。彼にとっては、「今」「この自分」が「この世界にいること」が耐えがたいのだ。だからこそ、自分だけのために彼は彼の意思を貫徹しようとしてテロルに走った。それは本人の言う通り、極めて人間らしいことである。狂った社会(あくまで我々から見てだが)で染められず、凶行に走らず、真実を知りながら遠い未来に希望を繋ぎ自身の持ち場を守ることが出来ること。そのような意味で、常守朱は超人なのだ。

追記:互いが認めるように、シビュラと朱は多くの部分で目的を共有している。だからこそ、朱の色相は濁らない。両者で異なるのはシビュラは逸脱したものを集めているが、朱は逸脱していないところ。シビュラは逸脱者を集めれば「正しさ」へ収束すると考えているようだが、朱は逸脱者も含めた人間すべての集積こそが「正しさ」へと収束させてくれるものだと信じている。別の言い方をすれば、朱は逸脱者の特別性・特権性を認めていない。

↓PSYCHO-PASS1期全体を考察したもの

killminstions.hatenablog.com