スポーツ漫画とは何か 『SLAM DUNK』評論② 宮城と赤木

宮城について

 湘北スタメンメンバーにおいて、桜木・流川の一年生コンビは「粗削りな大器と天才的な点取り屋」という赤木・三井の三年生コンビの立ち位置を反復している。この4名についてはその内面的課題が作中で浮き彫りにされ、キャラクターの掘り下げも十分になされていた。

 それに対し、二年生の宮城については『SLAM DUNK』本編において、十分な描写がされてこなかった。映画『THE FIRST SLAM DUNK』はそれを補完する試みである。Web上で本作の様々な考察がなされており、筆者がそれに付け加えることはない。

 本文の文脈に即して本作の主題に一つ言及するならば、本作は宮城リョータが「怖さと向き合う」物語である。リョータは生来の内向的性格から、また兄と比較しての劣等感から、あるいは父・兄を亡くした痛みから、あらゆるものと向き合うことができない。彼はあらゆるものを否認する。

 ある場面で妹のアンナは「生きてたらね」と答えて暗にソータが死んだことを受け入れて前に進むべきだと言い、母への手紙に「ソーちゃんが立つはずだった場所に、明日、俺が立つことになりました」としたためるリョータに対し、安西監督は「ここは君の舞台ですよ」とハッパをかける。

 また、ソータから教えられた「平気なフリ」は、当初は呪いとして機能する。すなわち、「平気なフリ」とは「怖さ」や「痛み」を否認することとして機能する。最もはっきりとそのことが現れるのは、バイク事故による昏睡から目覚めた時の母との会話のシーンである。リョータはおどけて「沖縄が見えたぜ」と言い、母を激怒させる。自分の痛みや恐怖、あるいは母へのいたわりを語るのではなく、事故に遭っても「平気」だったととっさにアピールしてしまう。

 「怖さ」を否認することは問題を解決しない。「怖さ」を乗り越えるためには、「怖さ」と向き合わなければならない。山王戦においてリョータは、憧れの兄が目標とした存在と対峙し、自分の抱える恐怖と向き合う。戦いの後の母との会話で山王について、リョータ「怖かった」と告白する。後日談でもアメリカの大学での試合直前にリョータは恐怖からトイレで吐いている。「怖さ」がなくなることはない。「怖さ」を受け入れて・向き合って、飼いならすこと。それが「平気なフリ」をすることだった。

 ここまで、桜木、流川、宮城を見てきた。一年生二人が試合で勝つために変化(成長)したことは、①基礎をおろそかにしないこと、②チームプレイを心がけることであり、初歩的であるとともに技術的な事柄であった。対して、宮城の場合はより内面的な問題が課題であった。これから見ていく赤木、三井についても勝つために要求される変化・成長は、内面的なものであり、宮城の「怖さを飼いならすこと」よりも困難な課題となる。ここには技術的課題から精神的課題へ、容易な課題から困難な課題へ、という学年すなわち技術的・精神的成熟度に応じた発展が見られる。

赤木について

 赤木は言うまでもなく湘北の大黒柱である。山王戦に至るまでは、マッチアップで後れを取ったことはない。湘北というチームは赤木のゴール下での絶対的な支柱を前提に、流川のドライブや三井のスリーが加わったチームである。赤木にとって自分が相手に勝つことは前提であり、いかにチームに勝利をもたらすかが常日頃の課題であった。

 だから宮城を「パスができる」とかばい、桜木をあの手この手で苦心しながら戦力化した。赤木は長い間、勝つことも負けることもできなかった。他に戦力がいないから、当然勝つことはできない。そして、チーム内で一人突出していたために、複数人に囲まれつぶされてしまうから、個人としての敗北を経験することもできない。

 戦力が整った三年時でも、神奈川県大会という環境においては、センターとして突出していたために、個人としての敗北をとうとう知ることができなかった。長らく自分だけのワンマンチームであったことから、あるいは上記の経緯から、赤木は「自分が勝たなければチームが勝つことはない」という思いが人一倍強い。すなわち、「自身の敗北とチームの敗北を切り分けることができない」のである。

 三年時になってようやく戦力が整い、湘北は神奈川県大会を突破し、赤木個人には名門チームからの大学推薦の話がきた。チームとしても個人としても赤木は自信を深めた。そして、全国の猛者たちと渡り合うためにさらなる練習を積むことも怠らなかった。

 それが河田によって粉々に打ち砕かれるのである。河田はゴール下において赤木を完封する。さらには赤木には逆立ちしたってできっこないスリーポイントを含めたガード・フォワードの高度な実力を見せつける。流川の場合に比してより絶望的であることに注目したい。流川は「パスをしない」というすぐに実行可能ないわば伸びしろがあった。それによって沢北に食らいつくことができた。しかし、赤木の場合そのようなものはもう残っていない。晴子が涙を浮かべてつぶやくセリフ「あんなに練習したのに・・・」は読者にとって、ほとんど悲鳴のように響く。大黒柱は取り乱し、敵わない勝負を繰り返し、そのすべてに敗北する。

 赤木の提出された課題は、読者にとっては明白である。やるべきことは桜木の役割とほとんど変わらないからだ。すなわち、個人戦では勝てないことを前提に、いかにチームを盛り立てるか。それが赤木には、これまでのいきさつから、刻一刻と変化していく試合中に求められることから、その精神状態から、難しい。

 赤木を救ったものは何か。かつての好敵手魚住である。彼もまた赤木に封じ込められ、チームが勝つことを優先する決意をした。その経験が、決勝リーグで戦ったプレイの記憶から、あるいは魚住の常識外れのメッセージから、言葉だけではきっと届かなかった赤木の深いところへ、非言語の形で伝わる。赤木は自分が河田に勝てないことを認めた。勝たなくてもいいことも認めた。

赤木「オレがダメでもあいつらがいる あいつらの才能を発揮させてやればいい そのために体を張れるのはオレしかいない おそらく現段階でオレは河田に負ける でも 湘北は負けんぞ」

 このことはこれまでの赤木のバスケットボール人生を根底から揺るがすような、アイデンティティそのものの変化を迫るものである*1

 赤木はそのバスケットボール人生から、長らく普通のプレイヤーになることができなかった。信頼できる仲間を得て、そして自身の個人技での敗北を通じて、はじめて本当の意味で仲間を信頼し、チームワークを体得することができた。ようやく普通のバスケットボール選手になれた。個人としてはコテンパンにやられてしまっているにもかかわらず、得られた仲間の有難さに思わず涙をこぼしてしまう赤木に、だから僕は涙してしまう。

 

 

つづき

killminstions.hatenablog.com

*1:通常は早くとも数か月、あるいは年単位の時間が必要な自己変革ではないか。