ジャンプバトル漫画の歴史

はじめに

 80年代以降のジャンプにおけるバトルマンガの描かれ方について大きな流れを書く。この範囲を対象としたのは、「少年マンガ」かつ「ジャンプ作品」かつ「バトルマンガ」が、今日におけるマンガというジャンルにおいて、一丁目一番地と考えるからである。また、80年代以降を対象としたのは、ジャンプが少年マンガ誌において覇権を握り始めた時期以降に対象を絞ったからである*1

概要

 大まかな本論における概要を書くと、80年代ヒット作において多用された様式及び物語形式は、90年代後半に部数の伸びとともに行き詰まりを見せる。同時期の模索を経て、00年代に新しい様式・形式を確立・消化し、再度隆盛に至る。

 もう少し具体的に書くと、80年代ヒット作である『キン肉マン』、『北斗の拳』、『ドラゴンボール』、『聖闘士星矢』、『ダイの大冒険』等に見られた、単純な物語構造――具体的には、①必殺技の描写等の視覚的迫力に頼った作劇、②戦闘力のインフレ化、③戦う理由の自明性を指す――は、次第に飽きられ・通用しなくなっていく。

 ジャンプ低迷期を支えた『るろうに剣心』や『封神演義』、少し遅れて『シャーマンキング』は、それぞれ「戦う理由」や「戦いが繰り返される構造」を問い、ひいてはそれらが物語の筋道において前景化・主題化された、すぐれて内省的な作品であった。

 この模索期を経て、2000年前後からジャンプはヒット作を連発する。具体的には、『ONE PIECE』、『NARUTO』、『BLEACH』、『銀魂』、『DEATH NOTE』等である。これらの作品において、内省的な問題設定はもはや前景化されない。しかし、模索期の遺産は確実に受け継がれている。すなわち、複数の正義(戦う理由)が存在し、善悪は揺蕩い、戦う前提となる世界認識は話が進む中で覆される。90年代の変革期を経て、それ以降の作品群は、80年代の作品群とは似ても似つかぬ複雑な物語の骨格を獲得するに至った。

 僕は現在に至るまでのバトルマンガジャンルの変革について、ターニングポイントとなった作品が2つあると考える。それは『ジョジョの奇妙な冒険』と『幽遊白書』である。『ジョジョ』は②戦闘力のインフレ化に対して、頭脳戦(あるいは能力の相性)という手法を導入して、バトルマンガのマンネリに対応した。

 また、③戦う理由の自明性について、『幽白』は強い疑義を呈し続けた。すなわち、仙水編において「敵と出会い戦い勝利する」営みの繰り返しへの倦厭を樹の口をして語らしめ、物語の最終盤において、人類の守護者=正義の代理人たる霊界の独善・自作自演を暴いて、戦う必要性と正当性を無に帰した。くわえて、『幽白』において戦う動機は自明でも利他的(公共的)なものでもなく、個人的・相対的なものとして語られた。

 以上、②’頭脳戦の手法の導入、③’戦う理由の相対化・個人化は、必然的に①視覚的迫力に頼った作劇、つまりは即物的な水準から、意味内容の水準へ作劇の比重が傾き、物語は複雑化する。

 本論では、90年代にパラダイムの転換があったこと、その嚆矢となる作品は上記2作品であったこと、パラダイム転換の具体的な内容等を書く。

80年代作品群の特徴

 ここで念頭に置いている作品は、『キン肉マン』、『北斗の拳』、『ドラゴンボール』、『聖闘士星矢』、『ダイの大冒険』である。代表的な大ヒット作品という基準で、独断と偏見に基づき選んだ。

 これらの作品を一読すると、最近の作品群に慣れた読者は、あまりの物語構造の単純さに驚くと思う。善悪ははっきりしており、正義はほぼ単一であり、世界観・世界構造は単純である。これらの作品は、「お約束」の世界である。『キン肉マン』において「正義超人」は正義の味方であるという「約束」があり、『北斗の拳』でケンシロウは暴力が支配する世界で、ほとんど唯一の希望たる「正義の側」である。また、『聖闘士星矢』の主人公たちは、邪悪に対抗する「希望の存在」であり、『ダイの大冒険』での主人公は「世界を救う勇者」である。

 これらの「世界設定」と「主人公の役割」は自明の前提であって、基本的に揺らぐことなく物語は進行する。「はっきりとした悪=敵」が存在し、「悪との戦い及び勝利」に物語の筋は終始する。ただし、『ドラゴンボール』はこの傾向が完全には当てはまらない。本作の前半部において、悟空は「正義の味方」というよりは「冒険者」であり、「世界設定」も当初を基準とすると物語の進行の中で変化していく。しかし、後半に進むにつれ、「地球存亡の危機をもたらす悪役」と「それに対抗する悟空一派」との闘争という反復に物語は収束していく。ここにおいては、上記の傾向がほぼ完全に当てはまる。以上、上記すべての作品について、戦う理由は単純・自明である。世界を守るためであり、悪に対抗するためである。

 第二に、これらの作品に欠かせない要素として、必殺技がある。キン肉バスター、北斗百裂拳、かめはめ波、ペガサス流星拳、アバンストラッシュと、主人公及び物語の代名詞的必殺技はもちろんのこと、主人公以外の味方、敵含め、これらの作品は技のデパートといえる。読者たる子どもたちはその技を真似して遊び、後発の作品群はこれらの技をパロディ化する(例えば、銀魂における聖闘士星矢のパロディ。)。必殺技は大ゴマで描写され、その視覚的迫力が作品の質を大きく左右する*2。もちろん、近年のバトルものにおいても必殺技はほぼ確実に存在する。その重要性も大きく変わらない。異なるのは作劇中の重要度の比重である。僕がここで言いたいのは、近年の作品と比較して、80年代の作品は筋書きや戦いの駆け引きが単純であるため、見せ所としての必殺技の重要度が相対的に高かったと思われる、ということだ。

 第三に、戦闘力のインフレ化現象がある。上述の通り、この年代の作品は迫力が重要である。「迫力」とは「すごさ」である。ところで、そもそも視覚表現は質的なものである。「すごさ」を表現する手段には、量的な表現も当然駆使される。『キン肉マン』では超人強度、『ドラゴンボール』では戦闘力という量的概念によって、即物的に「すごさ」が表現される。むろん、例えば「戦闘力100万」という事実の提示は、それだけでは「すごさ」を演出することができない。量的概念は相対的なものであるから、それまでの登場人物の数値と比較して、はじめてその程度、あるいは「すごさ」が表現される。この点で、『ダイの大冒険』における有名な大魔王バーンのセリフ「今のはメラゾーマではない、メラだ」も、わかりやすく比較による「すごさ」を表すものである。

 しかし、(数的)比較表現を用いた「すごさ」の演出は、わかりやすさの代償に戦闘力のインフレ化をもたらす。「これまでよりずっとすごく」を新しい敵が現れるたびに繰り返さなくてはならない。『聖闘士星矢』においても、青銅聖闘士の繰り出すパンチの速度はマッハ1だったが、白銀聖闘士のそれはマッハ2~5となり、黄金聖闘士に至ってはその速度は光速(=マッハ88万)となってしまう。ただし、『北斗の拳』だけは、当該問題から免れている。ケンシロウは物語当初から最強クラスのキャラクターであり、パワーアップはしないし、そのため敵の強さのインフレも起こらない。ケンシロウの「迫力」、「すごさ」は技の威力の説明と凄惨なダメージ描写で表現されることになる。

 以上、まとめると、80年代の作品群は、①「お約束」としての戦う理由の自明性、②必殺技の描写等の視覚的迫力に頼った作劇、③戦闘力のインフレ化、という基本的な物語フォーマットが、概ね共有されていたと言ってよいと思う。

 

つづき

killminstions.hatenablog.com

*1:それより前になると、①マガジン等の他誌の方が人気であり、②ジャンプ内において現代にまで記憶に残るような有力な作品がほぼ見当たらない。

*2:そのため、集中線や流線で勢いを表す技法が、あるいはより効果的に迫力を表現できる構図が、または人体や物体の破壊の描写が、異常に発達する。

パワポケキャラクター考察 神条紫杏について(後編)

ジャジメントの勧誘とは何だったのか

 ここまで、紫杏本人ついて焦点を当ててきた。以下では、紫杏に大きな影響を与えた周りの人物、彼女の父及び10主との関係について検討する。

 前述のように、10主はグッドエンドにおいても紫杏を理解していたわけではない。しかし、彼女を破局から救い出すことには成功した。それは何故か。彼女の破局の原因は、ジャジメントからの勧誘にある。

 一度拒絶した紫杏がそれに従うと回答を改めたのは、ルッカによる「脅迫」によるところが大きい。紫杏を10主が説得する場面において、紫杏は「…私はな、もうたくさんなんだ、人のためにがんばるのは。疲れた、それにめんどうくさい!」と言っているが、生徒会の隠し撮りを見せられてそのように心境が変化したと真に受けるべきでない。

 何故なら、今まさに彼女は、父の政治生命と10主の選手生命を守るために自分を犠牲にしようとしているからだ。また、パワポケ11での献身的・自己犠牲的な言動からも、彼女のあり方が変化していないことが裏付けられる。生徒会の隠し撮り映像は、彼女のあり方を変えさせたのではなく、これまでのやり方は温かったこと、一層手段を選ばず実行しなければ意志を貫徹できないことを、彼女に思い知らせたのだ*1

紫杏に破局をもたらした父の呪い

 この場面において、紫杏が置かれた状況を確認しよう。彼女に突き付けられた選択肢は二つだ。ジャジメントの配下になるか、父と10主のキャリアを犠牲にするか、である。10主のネタ(違法薬物使用の証拠)は、紫杏本人が言うように、ジャジメントの財産である親切高校までをも危険に晒すものであるから、その暴露はハッタリの可能性がある*2

 しかし、父の違法行為に関する証拠は致命的である。これを使わない理由がジャジメントにはない。父は失職するか、さもなくばジャジメントの奴隷になるかしか、選択肢はない。いずれにしてもインディペンデントな良心のみに基づく、人生を懸けた父の政治活動は不可能になる。したがって、ジャジメントの配下に加わった正史及びバッドエンドの紫杏は、父の代わりにジャジメントの奴隷になったと言える。

 自分が親切高校で積み上げてきたものが無意味だったことは、彼女にとって致命的だったとは思えない。自身の価値基準の源となる父の積み上げてきたものが無に帰すことが致命的だった*3。紫杏が自身を犠牲としたのは、父を大事に思っているからだ。そして、そのような選択をしたのは、父の「自分を二の次にしてでも世の中を良くしようとした」生き方を内面化したからだ*4

 父の生き方を内面化したことが、紫杏を破滅に導いた。要するに、彼女の父は彼女に呪いをかけたのだ。人格的に優れた人物が、最愛の娘にむごい呪いを意図せずしてかけてしまうという皮肉なシナリオは、いかにもパワポケらしい。

 そして、彼女の父は自身が彼女を作ったということに気づいていない。前掲の紫杏幼少時代の人形の件を思い出してみよう。そのエピソードを語る父は、彼女のかの性質を先天的なものと見ている*5

 だから、父が彼女の性質を誰よりも深く理解していても、その呪いを解呪することは父には出来ない。いや、その呪いの性質から、そもそも内面化の対象である父本人が「内面化を解く」こと、すなわち解呪は不可能なのかもしれない*6

紫杏を解呪した10主

 彼女を解呪したのは、10主である。彼は「箱のフタをしめる」ことによって彼女を解呪した。フタの外/内という線引きによって、紫杏は外=外面の(父が望んだ)「私」と、内=(主人公を前に捏造された)本当の「あたし」をそれぞれ切り出している。

 10主はどちらが本物であるかの判断はしない。どちらがより望ましいかの判断もしない。「フタをしめる」行為の意味を知るためには、「フタをしめなかった」世界線を知る必要がある。以下はパワポケ11での紫杏と11主との会話である。

「演技なんだよ。こんな人間、自然にいるわけないだろ?」

「すると、本来の社長の性格は別にあるってわけですか?それはいったい……」

「さあ、どうだったかな。なにしろ小学生の時からずっとこの人格を演じてるからな。本来の性格がどうだったか、もう忘れてしまったよ。」

「ええと、それならそういう人格を演じようと思ったきっかけは?」

「それも忘れた。ただ、そういう人間になりたかった。怖くても辛くても、演じているだけだと思えば耐えられた。」

「……それなら、社長はもうそういう人間なんじゃないんですか?」

「おそらくその通りなんだろう。まったく、おかしな話だ。」

 ここにおいて、10主に見せた「あたし」はもはや存在しない。父の望んだ「私」が彼女の中で貫徹されている。つまり、「箱の中のネコ」のやり取りをしたあの瞬間は、外面である「私」が内にある「あたし」に流れ込んで飲み込む危機的状況だったのだ。

 その流れ込みを防ぐ行為、「私」と「あたし」を切り離したままにしておくこと、それが「箱のフタをしめる」ことだった。したがって、紫杏のグッドエンドは、「私」が「あたし」を飲み込まなかったように、「あたし」が「私」を飲み込む物語ではない。すなわち、紫杏が矛盾を解消して一貫した自己を獲得する物語ではない。矛盾を矛盾として、不整合を不整合として、そのまま受け入れられるようになる物語なのだ。

 それは、世界の矛盾を一身に受け止めて、自分一人でなんとかしようをすることを諦めるということでもある。まずは紫杏が一人で抱え込むようになるに至った経緯が垣間見える幼少期のエピソードを見よう。

「へえ、こどもにしか見えないんだ。……じゃあ、あたしが見れなくても ま、しかたないか。」

「どうして、そんなにモモの木のせいれいに会いたいの?」

「だって、見たままのせかいだったらつまんないじゃない。でも、ふしぎなものがいるんだったらすこしはキタイしてもいいでしょ。……でも、これではっきりした。」

「なにが?」

「このせかいは、つまんない。まじめな人がバカを見てわるいやつらがのさばってる。だから、あたしがなんとかしなくちゃ。」

 正史の紫杏は「(心残りは……精霊…………ひと目……だけでも……会いたかった……な……)」と思い残して死んでいく。彼女にとって超常的な存在とは、彼女が達観してしまった合理的説明の行き届いた世界を覆してくれる希望なのだ。世界が合理的である限り、世界を信じることが出来ないという逆説が紫杏の中にある。

 自分が見た通りの世界であるならば、自分が何かしない限り、世界は変わることはない。自分でなんとかするしかない。このように凝り固まってしまっていた彼女のあり様を、10主は解きほぐすことに成功した。

 それまでの彼女の世界とは、世界の主役は自分であり、自分の認識に沿って世界は整序され、自分のみによって世界は良くなったり悪くなったりする。部下に仕事を任せても、本当に仕事を手放したわけではない。何故なら、出力される結果は予見した範囲から出ることがないからだ。彼女に必要だったのは、世界の少なくとも一部を、自分のもとから手放すこと、つまりは予見不可能な結果に、すなわち偶発性に身を乗り出すことだった。

 10主の選手生命がどうなるか、もはやわからない。父(=自分)の積み上げてきたものが失われ、否定されたとき、自分は何を指針として生きていけばいいか、もはやわからない。それでもいいという確信を得たこと。それが彼女を破局から救い出す鍵だった。

 パワポケ11のアルバムにて、「子供のときから大人だったのではなく、結局、彼女は最期までずっとまじめな子供だったのだ。」と紫杏は総括される。ここに言う「子どもであること」とは、①自分が世界の中心であるという認識、②世界の矛盾・不合理を受け入れられていないこと、のみを指しているのではない。③親とは異なった内面=価値観を獲得出来ていないこともまた含んでいる。つまり、父による呪いの解呪とは親離れでもあった。

 父と同じくらい大切な人、大切にしてくれる人に出会うことで、彼女はもう一人の「あたし」を自分の中から切り出すことに成功した。それによって、複雑な世界を受け入れる複雑な私を獲得することが出来るようになった。ジャジメントのヘリにしてみせた「あかんべー」という不相応に子どもじみた行為(ジャジメントに対するリスクを伴う無作法な返答、父と10主に対する一度は引き受けた責任を放棄する決断)は、彼女の成熟を示すものであった。

まとめ

 神条紫杏とは何者だったのか。主人公と恋仲になる「強気ツンデレハイスペックキャラクター」の一つの到達点だと思う。彼女たちは主人公に承認されることによって救われる。アスカというキャラクターは、内面の渇望を極大化して、病理として描き出されることによって、比類なきキャラクター強度を獲得するに至った。以降、彼女によく似たキャラクターが現れても、彼女に匹敵する強度を持ったキャラクターは出てこなかった。

 そのような文脈の中で、僕にとっては、紫杏こそがアスカに匹敵する強度を持ったキャラクターなのである。彼女は常人離れした器を持った大人物である。それ故、彼女の抱える内面的問題は、内面的破局をもたらなさい*7破局とは、彼女の志半ばでの死か、世界規模での破滅としてしか現れてこない。

 確かに10主を守るために彼に別れを告げたシーンにおいて紫杏は「(…そうだ、これでいい。私には誰も必要じゃないんだ。)」と独白した。しかし、「必要とされること」だけで、彼女は救われるわけではない。彼女が直面する内面的問題のうち、承認の問題が占める割合はそれほど大きくない。これまで見てきたような込み入った「謎」が彼女の中にはあるのだ。

 彼女は逆説に満ちた人物である(生身の人間もまた逆説に満ちている)。それこそが彼女の魅力だ。すでにいくつかの逆説について、明示的であれ示唆的であれ触れてきた。最後にもう一つだけ彼女の逆説に言及しよう。あらゆる他者を理解し、誰からも理解されない複雑な内面を持つに至った彼女は、大人ではなくたった一つの価値観に基づき行動する子どもなのであった。

*1:親切高校の真実について紫杏は下記の様に言う。

「反抗的な生徒への、従順にする薬の投与を行っていたらしい。」(中略)「あまりのバカバカしさにやる気をなくした。私が必死に守ってきたことなんかここの飲料水にまぜたわずかな薬で代用できるんだ。」

ここで彼女は、地道な努力を嘲笑うかのような、超法規的で即物的な力を行使する巨悪の存在を知る。

*2:むろん、危険な可能性がある限り紫杏は突っぱねることは出来ないだろうが。

*3:別の場面で紫杏は「…………。努力した人間が報われない世の中はまちがっている。」とつぶやいている。ところで、西川さんは好きなキャラクターによう子先生を挙げ、理由として「まじめで努力家で、結局報われないよい人。でも、世の中をうらんでない」からと答えた。くわえて、出門鹿男のプロフィールにおいて前述のように「残念ながら、今の世の中ではあまり報われることのないタイプである。」と記載がある(ほぼほぼこれは西川さんの記述だろう)。

*4:父が同じ立場に置かれたら、おそらく紫杏と同じ決断を下したのではないだろうか。

*5:当該エピソードを語る直前に、彼女の父が彼女について「あいかわらず堅苦しいことだ。双葉より芳しと言うが、まったく誰の影響を受けたものやら。」と言ったことにも注意したい。

*6:例えば、「私に従うな」という命令を考えてみるとよい。

*7:ジャジメント総帥を殺害し、世界の覇者に躍り出るシーンにおいての総帥との会話が象徴的である。

「ところで、君は本当は誰なんだね?」
「私が思うに、それはあまり重要な問題ではないと思います。なさねばならぬことと比べて。」

パワポケキャラクター考察 神条紫杏について(中編)

何故紫杏はすぐれて魅力的であるのか

 前編で取り上げた精神科医のブログの別の記事(これこれ)において、当該記事の筆者は、①アスカに深く共感して彼女の中に自分自身を見出し、②アスカを自分には到達不可能な理想の顕現と見る(すなわち、自分はここまでできないが、出来る限りこのようでありたいと思う)。同様のことが、紫杏と彼女に魅入られたプレイヤーの間でも起こっているように思われる。

 ここで、僕自身の話になる。僕は小中高生のころ、「まじめ」だった。ここでいう「まじめ」とは、親や教員のいうことに対して、無批判に追従することではない。教員・親・ほかの生徒といった関わるすべての人のいうことを真正面から受け止めて、いちいち消化して自分なりに応答し、またその要求内容を満たそうとする意味で、「まじめ」だった。相容れない考え方に対して、聞き流す(あるいはそもそも頭に入っていない)とか、反発して従わないとか、そういったことをあまりしてこなかった。すなわち、ともすると相矛盾する親・教員・生徒らの価値観・思考枠組みのどれかに過度にコミットするのではなく、それらを弁証法的に統合して、「みんなが同意・納得するあり方」をバカ正直に考えてきた。そして、それぞれが要求する評価軸のすべてを、可能な限り満たそうとしていたのだった。

 そのような意味で、前掲ブログの筆者がアスカの中に自分を見出したように、僕は紫杏の中に自分を見出したのだった。僕にとって、生徒たちの価値観に埋没した人間は、無個性あるいは無思慮な人間として映る。それだけでなく、フィクションにありがちな教員の価値観に自己同一化したテンプレ的優等生もまた、無個性あるいは無思慮な人間に見える。対立する両極の間にあって、それらに引き裂かれた人間、両極をつなごうとする者、両極のどちらもの性質を持つ者、その複雑さこそ「リアル」であり、魅力を僕は感じる。

 紫杏は、抑圧的な校風を良しとはしなかった。しかしながら、生徒一般の味方というわけでもなかった。この二つの両極の弁証法的な統合先として、彼女が目指した自律を基調とするパブリックスクールの校風があったのだと思う。

 彼女は物分かりが良すぎる。そして、すべてを自分で抱え込もうとする。世の矛盾を一身に受けようとする。アスカがある類型を理想化された存在であるように、紫杏もまた理想化された存在である。生身の人間には考えられないことだが、フィクションの理想化された存在である故に、大抵の過大な要求あるいは難題をなんとかしてしまうだけの器・力量を彼女は持つ。彼女の、①多様な人間の立場・価値観・相互関係を理解して見通す力*1、②相矛盾する過大な要求に応えられるだけの力量、③それらを可能にする意志・姿勢つまるところ人間性に、僕は彼女の高貴さを見たのだった。

紫杏とその作者

 彼女を生み出したライターは西川直樹さんである。彼が作ったキャラクターの中でも、特に紫杏は力が入っていて、かつ彼自身の内面の反映度合いが強いと僕は思う。というのも、西川さんもまた、「物分かりが良い」ように思うからだ。以下、インタビューでの西川さん発言を二つ抜粋する。

「ところがユーザーさんからのお手紙を見たら、極亜久高校の外藤にものすごく腹を立てた人が多かったんですね。僕としては、『いや、彼らにもそれなりの事情があったかもしれへんやろう』といった気持ちがあったので、それなら極亜久高校を舞台にして、外藤たちを主人公の友だちにしたらどうかと考えていた。『極亜久高校は、ほんまに悪いヤツらやったんか?』ということを言いたかったんです。考えが足りない、生活が苦しい、悪い人に騙されているなど、やむを得ない事情で敵に回したキャラクターも多いけど、『そいつらにも事情があるんや……』というのが、シリーズを通しての一貫したテーマになったと思います。」

「大昔の話になりますが、私の先祖は自分なりの考えを持っていたんですが、仲間を大勢失ったことで『私の考えは間違ってました』と自分から宣言したんですね。最初に聞いた時は、『うちの先祖、仲間を裏切るなんて卑怯者や!』と思った。でも後から考えたら、抵抗できない状況下にいれば仕方のないことですよね。そんなことを日常的に考えてたことが、『パワポケ』シリーズにも反映されてるかもしれないです。」

 自分が理解出来ない者、自分と相容れない者、自分に危害を加える者の立場を、慮る義務はない。慮らないで相手方と自分とを「切断」することは、成熟した人間の一つの知恵でもある。パワポケ11裏サクセスにおける椿の発言を引用しよう。

「大人はな、孤独でいいんだよ。理解できない考え方や価値観が世の中には山ほどあって、それをお互いに尊重していればいい。てめえの価値観を押し付けるな。ドゥヨアビジネス、全部オレの勝手だ。」

 しかし、上記椿の考えを理解しながらも、それがすべてだと西川さんはおそらく割り切らない。以下は、パワポケ14で登場する小学校教員の出門鹿男の発言。

「争いを否定するのは簡単ですが、植民地解放や革命はどうなのか。戦国時代の日本統一のための戦いを否定することができるのか。『よくない今』を変えるための戦いは必要なことであるのかどうなのか。子供を教える立場として、わたしたちは常に悩んでいます。」

 あるいは出門鹿男のプロフィール。

「気が弱いが善良な人間で、きわめてマジメ。生徒たちの悩みも、ちゃんと相談に乗る。残念ながら、今の世の中ではあまり報われることのないタイプである。」

 出門鹿男を通して表現されているのは、簡単に割り切らず悩み続ける知的態度*2であり、生徒の悩みにちゃんと応えようとする「まじめ」な態度である。ここに、西川さん=パワポケ=紫杏の真価があり、そこにプレイヤーは他の物語及びキャラクターにはない価値を見出しているのだと思う。

*1:ジャジメントの試験においての紫杏の解答について、総帥ゴルトマンは「いずれの解答も、無意識に働きかける枠組みを、完全に無視している。」と評している。「完全に無視」するためには、「無意識に働きかける枠組み」を感知する能力が必要となる。これは優れた洞察力ともいえるし、過剰適応の原因となる他者に対する過剰なまでの敏感さともいえる。

*2:パワポケスタッフはインタビューにおいて自分たちのことを、「ひねている」と繰り返し言うが、ひねていること=鵜呑みにしないで物事を斜めから見る態度とは、よく言えば簡単に割り切らない知的態度となる。あるいは、紫杏というキャラクターの様々な人の立場を誰よりも慮り深く考えてきたという自負が、相手の考えを半ば無視して結論を押し付ける彼女の独善的かつ果断な判断につながる。

パワポケキャラクター考察 神条紫杏について(前編)

 これまでのパワポケに関する記事では、出来るだけ主張を支える根拠を明示して、読んだ人が少なくとも「そう言われれば確かにそうとも言える」程度の蓋然性を担保するよう心掛けてきた。つまり、単なる個人の意見・感想に過ぎないものは抑制してきた。しかし今回は、僕個人の主観が多分に入った、そして根拠の明示出来ない臆見を含んだ、紫杏についての考察を行いたいと思う。

紫杏の特異性

 何故紫杏について考察するのか。その理由は、彼女というキャラクターの特異性にある。彼女及びその攻略は、恋愛ゲームのよくある形式から逸脱している。彼女は主人公に内面を理解されることによって救われるキャラクター「ではない」*1。これは正史及びパワポケ11において、主人公が彼女を救うことが出来なかったことを根拠とするわけではない。パワポケ10での彼女とグッドエンドに至る最良のルートにおいても、彼女は主人公によって正しく理解されたわけではない。

 このことを理解するために、パワポケ10における紫杏と主人公との関係性が正念場を迎える、ジャジメントが彼女をヘリで迎えに来た場面を見てみよう。

「そうよ、これが本当のあたし。子供の頃からたった一つしか才能がなかったわ。他人の期待する、架空のヒーローを演じ続けること。どんなに勉強をしても科目でトップはとれない。どんなに練習をしても体育は上の下どまり。でもね、変なしゃべり方をする自信過剰の女を演じている限り、皆が注目して喜んでくれた。楽しかったけど、ずっと怖かった。本当の自分がばれたら、きっと軽蔑される。あなただって、正直がっかりでしょ?手品のタネを見ちゃったんだものね!」

「そんなことは……」

「本当のあたしはね、他人の顔色ばかり伺ってるくだらない小心者なのよ。これまでの、あんたが知ってる神条紫杏は全部ウソなのよ!」

 ここで正しい選択肢を選べば、グッドエンドに至る*2。上記のシーンは、これまで主人公たちに見せていた「私」という仮面を脱ぎ捨てて、本当の「あたし」を主人公に明かしたかに見える。しかし、パワポケ10における彼女のプロフィールには下記のような記載がある。

「彼女の本来の性格は『私』であり『あたし』は主人公の期待した架空の人格にすぎない。ただし、彼女自身がそうなることを望んだということも忘れてはならない。」

 彼女本人にとって、あるいはグッドエンドに至るストーリーにとって、彼女に対する正確な理解は必要ではない。すなわち、上記場面で見せた本当の「あたし」が架空のものであると主人公が看破することなど、必要ではない。そもそも彼女を理解することは極度に難しい。考察⑦では、人生経験豊富で人間を深く理解する野々村監督ですら、彼女を正しく理解することが出来なかったことを書いた。一方で、紫杏はパワポケ11において、狩村や芦沼の置かれている状況と彼らの心情を深く理解し、正しく処方箋を出した*3のであった。いわば、彼女は「理解される人間」ではなく、誰よりも「理解する人間」なのである*4。そして、少し違った観点からくわえて言うならば、彼女は「与えられる人間」なのではなく誰よりも「与える人間」なのである。

父が紫杏を形作った

 上記のような彼女の人間性を形作ったのは、間違いなく彼女の父である。彼は紫杏の唯一の肉親であり、「尊敬する人物は?」と聞かれた際に真っ先に彼女が挙げる、尊敬の対象でもある。紫杏とは、私財をなげうって家計を火の車にしながらただただ世の中を良くしようと政治活動に注力する父の生き写しのような存在なのだ。紫杏とその父との関係を表すエピソードを見てみよう。はじめて主人公が紫杏の父と会ったときの会話である。

「そうだ…君には話しておこうか。あの子の性格についてだ。」

「?」

「あれはあの子が6歳の時だ。生活は苦しく、あの子にはろくなおもちゃを買ってやれなかったが、とある安物の人形を気に入ってね。いつももちあるいていたものだ。あるとき、私の発言が気に入らなかったとある政治団体の連中が事務所に押しかけてきてね。正直、困り果てていた。すると、あの子が突然泣き出した。政治団体のリーダー格に自分の人形を壊されたというのだ。その男には身に覚えのないことだったらしくてね、怒りのあまり紫杏を突き飛ばした、ように見えた。」

「本当はそうじゃなかったんですか?」

「…肩をつかまれる寸前に、あの子が自分から後ろに倒れたんだ。とにかく、大騒ぎになって幼い子供にケガをさせたそのリーダーは逮捕された。くだんの政治団体も、このことがきっかけで勢いを失い、内部分裂して数年後には消滅したよ。」

「ええと、父親を助けようとしたんでしょうか?」

「おそらくね。しかし、問題はその後だ。病院で紫杏に真相を訪ねた。人形を壊したのはお前か、とね。するとあの子は無邪気に笑ってこう言ったものだ。父上、人形は買いなおせば済みます。」

「…!」

「それ以来、私はあの子に人形は買い与えなかった。あの子もねだることは一度もなかったがね。ともかく、あの子は必要だと思うとやってしまう子なんだ。そのことで大切なものを失おうと決して立ち止まりはしない。あの子について行くつもりなら覚悟しておくことだ。」

「ええと、俺がついて行くんですか?」

「もちろんだとも。あの子は自分以外の何者にも決して従うことはないさ。私にすら、ね。」

 上記のエピソードについて、前述のプロフィールには下記のような記載がある。

「結局人形を壊したのは彼女ではなく、父親の期待した人格を、完璧に演じただけのことである。」

「他人が期待するように完璧に演じること」すなわち過剰適応

 ここでも彼女の記述として、「演じる」という語が使われる。前掲のセリフを再掲しよう。

「子供の頃からたった一つしか才能がなかったわ。他人の期待する、架空のヒーローを演じ続けること。」

 これらの彼女に関する記述について、僕はもう一歩踏み込んだ解釈をしたい。すなわち、「他人が期待するように完璧に演じること」とはいわゆる過剰適応なのではないか。この用語を厳密に用いることは出来ないが、差し当たってWebサイトを適当に検索してヒットした説明「ある環境に合うように、自身の行動や考え方を変える程度が度を超えている状態」あるいは「自分の都合よりも周りを優先させ、無理をしながらもがんばっている状態」を前提としたい。

 この解釈をとるにあたって、ある精神科医のエヴァのアスカに関するブログを取り上げる。以下、特に本文にとって重要と思われるアスカの内面を論評した箇所を複数引用する。

「過剰適応&他者からのまなざしが痛くて快感で仕方がないといった呈をなしている。天才のようで天才ではない彼女は、狂気の努力と狂気のすりつぶしによって“天才少女のようにふるまっている”。それが彼女の防衛の形式であり、彼女が自分自身の諸問題からメンタルを防衛するための盾として選んだ処世術だった。」

「劇中でも、アスカは自分自身の諸問題から目を逸らせるために“努力する疑似天才”を演じ続ける狂気の舞を、壊れて動けなくなるまで続けている。」

「リアルの精神科界隈では、彼女同様、過剰適応を選択し“美しい私として”“よく出来る人材の私として”自分のスペックを超えた処世に生きる人は絶えることがない(特に女性!)。彼女らにおいては承認要求が強かったり要求水準が高かったり――ともかく社会や他人に敏感すぎて、過剰なまでに素敵にみせなきゃという強迫性がいっぱいで――心身に無理がかかるような無茶な過剰適応が観察される。」

「他者の助けを求めるような適応行動はアスカにおいては認められない。」

自傷や“悲劇のヒロイン”というコーピングがあれば、アスカはもっとラクだったかもしれないし、致命的な決壊には至らなかったかもしれない。だが、それではステロタイプメンヘル女そのままになってしまう。アスカはそうではなかった。ただひたすら真っ直ぐに過剰適応し、本物の天才と厳しい現実の前に散っていったのだ。」

 取り上げた記事においては、「ステロタイプメンヘル女」とアスカというキャラクターとの違いが説明される。すなわち、「自傷や“悲劇のヒロイン”というコーピング」をアスカが行わず、「ただひたすら真っ直ぐに過剰適応し、本物の天才と厳しい現実の前に散っていった」ことが、アスカを際立たせている、とある。

 また、架空の物語において、あるキャラクターに対して天才・秀才・優等生といったタグ付けを行い、それを根拠に卓越したパフォーマンスを描写することで、その者の魅力をアピールするという手法は、それがないもの物語の方が少ないほどに、極めてよく見られる。そして、その優秀さの背後にあり、かつ優秀さと骨がらみとなっている内面的な問題を描写する手口も、今ではありふれたものである。よくある物語においては、主人公らが優秀な彼/彼女を内面的に救うという筋書きを持ってくるために、彼/彼女の内面は存在する*5のだが、エヴァのアスカにおいては、主人公含めた周りの人間は彼女に対してどうすることも出来ず*6、彼女が破滅に至るまでを見ていることしか出来ない。

紫杏固有の過剰適応のあり方

 引用したブログでは、①「ステロタイプメンヘル女」と②アスカとの差分について語られた。本文では、これら(①及び②)と③紫杏との差分を明らかにすることで、紫杏の特徴を描きたい。すなわち、紫杏は、「自分を優れた者として見せなくてはならない」という強迫観念を抱えているわけではないし、承認欲求に駆動されているわけでもない。彼女は自身に対する不当な評価を目的のために平気で甘受するし、正しく自身を誰かに理解してもらうことを渇望しているわけでもない。彼女の人となりをよく現した主人公との一連の会話を引用しよう。

「実を言うとその規則はな、生徒の不満を集めるために作ったやりすぎの規則なんだ。次の自治会長は就任早々これを改めることになるだろう。そして、私が作った他のもっと穏当な規則は生き延びる。」

「じゃあ、君はこの規則がおかしいことを知っていて?」

「私に関して言えば、立場上守らざるを得ないだろう?なにしろ堅物の愚か者だからな。」

「……あきれたな。バカのふりまでして自治会活動を軌道に乗せたいのか?」

「どうしてそこまでできるんだ?」

「……10主。お前は鏡に映ったおのれの姿を見て笑えるか?」

「え?」

「ときどき、自分自身からこういう声を聞くことはないか。どんなに努力しようと、すべては結局ムダなのだと。」

「!?」

「どんなに今努力したところで私が卒業してしまえばいずれこの学校の校風は崩れ去る。お前がどんなに努力したところで野球ができる時期など、たとえプロに行けたとしてもすぐに終わってしまう。30年も経てば、今の努力などなかったことになるだろう。……では、なぜ苦しい練習をする?」

「……考えたこともなかった」

「……それでいいんだ。……私に関して言うなら、『やらずにいられない』からだ。目の前にゴミが落ちていればゴミ箱に捨てねば気がすまん。正しいからでも、カッコいいからでもない。ただ、やらねばならないと思ってしまったから、やるんだ。たとえ鏡に映ったおのれの姿がどんなにこっけいであろうとも……やらねばならん。」

 紫杏を駆り立てるものは、「やらずにいられない」というその想いである。この事実は、一見すると彼女の「他人が期待するように完璧に演じる才能」とは特に関係のない物事のように見える。しかし、過剰適応という補助線を引くと、その関係が明らかになる。すなわち、彼女は父が望んだ私を内面化して、父が望むように私も望むようになっているのである*7。以上のように、紫杏の過剰適応の特徴は、父を中心とした他者の価値観の内面化にある。

*1:ある種のギャルゲーは、能力的に全くヒロインに敵わない主人公が、内面的に彼女を理解(凌駕?)することによって、その反対給付として彼女を「所有」する物語であるように思われる。この形式は、ともすると平凡な主人公が非凡なヒロインと結ばれる説得力を調達するものであり、穿った見方をすれば、現実世界の力関係を内面世界において覆す、あるいは現実では敵わない相手に対し内面の未熟さを見下すことによりバランスをとる、というある種の復讐のように見える。

*2:グッドエンドに至る上記やり取りの続きは以下の通り。

「(どう言えば……)」

「君は……箱の中のネコだ」

「いきなり何を言っている?」

「箱の中のネコが生きているか死んでいるか、見た人間がいるとしても元々の確率は変わらない」

「全部演技だと君が主張しても、これまでの君がウソかどうかは確率50%のままだ!」

「あはははははは!こ、こんな馬鹿な解釈は……聞いたことがない!」

「それに……ウソでいいじゃないか」

「少なくとも、そういう人間に憧れてそうなろうと努力したんだろ」

「さっきの君が言ったことなんて箱の中のネコが暑苦しくなってちょっとフタを開けてみただけさ」

「すぐにしめれば、誰も気づかない」

「……箱のフタをしめる?」

「ああ。こうやって……」

(バタバタバタ…)※ヘリが近づいてくる音

「しかし、局長みずから迎えに行くとはどんな重要人物なんですか?」

「生意気な小娘ですよ。ですが…ん?!ヘリポートに誰かいる。ライトで照らせ!」

「はい。…あの、これは?」

「キス…してますね。!進路変更、このまま基地へ。」

「ええっ?回収しないんですか。」

(ブォーーーーン)

「…行っちゃったな。」

「ああ、うまくメッセージが伝わったようだ。」

「メッセージ?」

「うむ。あっかんべー、だ!」

*3:くわえて、水木に対しても彼の将来を案じて、アメリカへ留学するよう適切なディレクションを行った。

*4:考察⑦において、「紫杏は理解されることを諦めた人間である」と書いた。それに関連して、人を理解することとは、他人を自分の中に取り入れて「より複雑な私」になることに他ならないのだから、人を理解するという行為は、人一般から理解されなくなることなのかもしれない。

*5:まるで鍵穴と鍵のように

*6:シン・エヴァはともかくとして

*7:考察⑧において、紫杏を「父の娘」と呼称したのはまさに、そのような意味においてである。以下、余談だが、「父の娘」という語は、当該記事を書いた当時、筆者の造語のつもりで使用していたが、概ね同じような意味でユング心理学の用語としてこの語はあるらしい。

短歌「冬の日の窓から射してくる光 それってあなたの祈りですよね?」の解釈について

【はじめに】 

 表題の短歌がたまたまツイッターのタイムラインに流れてくるのを目にして、不覚にも年に数回あるかという文学的な感銘を受けた。この歌は、すぐれて技巧的であり、また意味内容が高密度に圧縮されていると感じた。詩のたぐいは全く門外漢だけれども、それを解きほぐしてみたいと思った。それを書く。

【形式面:本作の特異性】

 まず目につく本作の特異性は、「視点の多層性」である。「冬の日の窓から射してくる光」という①外界と、②それを描写する者がいる。そして、①と②の間にはある種の結びつきが見出される。ここまでは古今東西よく見られる技法である。まず思いつくものとして、百人一首

「花さそふ あらしの庭の 雪ならで ふりゆくものは 我が身なりけり」

では、「降りゆく花びらとは、老いさらばえていくこの私自身なのだ」と感慨をもって語られる。

 また、11世紀イランの『ルバイヤート』の一節、

「昨夜酔うての仕業だったが、石の面に素焼の壺を投げつけた。壺は無言の言葉でいった―― お前もそんなにされるのだ!」

では、「絶対的な力を持った存在に気まぐれで割られる壺それ自体が、いつかの私の運命なのだ」と運命に対して無力な自分が見出される。

 両者ともに、対象と私との関係であって、そこに第三者が介入することはない。

 それに対して、本作は、①外界と②それを知覚・描写する者との(その者が気づき得なかった)結びつきを見出す主体こそが、③第三者ひろゆき」なのである*1。さらには、この歌の視点という観点からいえば、②’光を知覚し描写している者の視点、③’②’を論評する第三者ひろゆき」の視点、④上述①~③の三者関係を神の視点からスケッチする本作の歌い手の視点と、3つの視点があることがわかる。ここに本作の特異性がある。短歌という極端に文字数の限られた形式の中でなされるこの視点の多層化は、エキセントリックなまでに技巧的なものとして、僕には映る。

【内容面:圧縮された意味内容】

 くわえて、驚くべきことに、本作は技巧を凝らした秀作では終わらない。本作の読み手は一読して、意味内容が高密度に圧縮されていることを直観的に感得するだろう。

 まず、ひろゆき語録の指示する「それ」が複数の解釈を許容することに言及しなければならない。①「冬の日の窓から射してくる光」とは雲間から差した一筋の光であり、祈りが外界に影響する「(かのように見えた出来事=)奇跡」を、「それ」と呼んでいるのかもしれないし、②雲間から光が射してくるという何気ない事象を殊更に見つけ出したこと、または③そのことに意味を見出したこと、その背景にある彼/彼女の心情を、「それ」と呼んでいるのかもしれない。あるいは、④「雲間から降り注ぐ光」そのものが「それ=祈り」なのかもしれない*2。ともあれ、本文では、上記のどれか一つに「それ」の意味を確定・限定するべきでなく、これらの意味が同時に込められていると解釈して、話を進める。

 ここからが本文の本丸となる。本作の中核的な部分は、「二つの異化作用」にある。この二つはともすると混同されるが、厳密に区別されなければならない。すなわち、①「ひろゆき語録によって言及対象の性質が変化すること」と、②「ひろゆき語録が改変されることによって、ひろゆき語録の性質が変化すること」、である(①と②は入れ子になっていることに注意)。

 これらを理解するためには、まず当該発言の元々の文脈を理解する必要がある。当該発言は、ネット規制が議論されている番組において、相手方が特に根拠を持ち出すことなく「ネットそれ自体が問題を悪化させる一因となっている」と主張したことに対するカウンターとして出たものである。そして、当該発言は主にネット上において、相手方をやり込めるものとしてしばしば引用される。当該発言が引用される理由はその破壊的な攻撃力にあるだろう。

 この言明によって、①「(相手方が思う)一般的事実」は「単なる気分」に矮小化され、②「他者=世界とつながる回路としての、公共に関する言説」は「取るに足りない私一人の感想・思い込み」に貶められる。かくして話者は公共から断絶される。そして、私の感想=思いは、誰とも共有されない私だけのものとして、孤立させられる。以上、「ひろゆき語録によって言及対象の性質が変化すること」の具体的内容を見た。

 次は、「ひろゆき語録が改変されることによって、ひろゆき語録の性質が変化すること」について検討する。本作において、ひろゆき語録は、「感想」の部分が「祈り」に改変されている。この言い換えは大変興味深い。元ネタにおいては、対象となる事象を①「客観的事実」と②「個人的感想」に切り分けるという二分法が用いられたのに対し、本作中では全く異なる軸として、③「祈り」すなわち「願い」あるいは「意志」が導入されている。これは信仰の水準の話である。つまり、「事実がどうであるのか」とは別の水準の話である。我々は、わからない/知り得ない/未確定ゆえ祈る。あるいは、事実に反するから祈るのである(世界が平和でありますように!)。

 この「祈り」という語が持つ力によって、本作のひろゆきの言明は、元ネタの言明とは真逆とも言えるような作用を発揮することになる。それは、①単なるありふれた客観的な情景描写に過ぎなかったものが、かけがえのない・崇高なものとして感じられるようになる、だけではない。②元ネタにおいては、話者の独りよがりを嗤うものだった言明が、(話者本人も気づかなかった)その人固有の切実さを拾い上げるものとなる。くわえて、③「外界から入ってくる光」という受動性が、「私の内面から発せられる祈り」という主体性に結び付けられる。さらに、④元ネタにおいては(データを提示するなどして)客観の世界へ出てくるよう話者に要求することにより、かえってその発話主体を「私一人の感想」の中に閉じ込めてしまっていたものが、「それってあなたの祈りですよね?」と指摘して、「それ」が指示する対象を単なる事実描写や感想とは区別することによって、話者の主観的・内面的意味世界を取り出し/救い出し、「話者の最も深いところにある大切な心の動き」と「他者=世界」とをつなぐ回路になることに成功しているのである。

【まとめ】

 まとめよう。本作は、➀ありきたりな外界の描写、➁ひろゆきの語録、③「感想」→「祈り」の言換えの三要素からなる。上の句「外界の描写」と下の句「あなたの祈り」という、本来は全く関係を見出すことのできないものを結び付ける跳躍と、③の言い換えによる意味内容の反転が本作の本質的価値である。そこでは、「客観的な認知(外界の描写)」に過ぎなかったものが、「主観的認知(祈り)」として解釈され直す。そして、その試みは、「第三者による客観的事実の指摘(語録の引用と改変)」によってなされる。

 以下、余談だが、日本語における「祈り」という言葉の力、その言葉がもたらす磁場の強力さについて、本文を書くことで痛感した。思うに、祈りという行為が世俗的な日々の営みから、あるいは現世利益的な目的-手段の連鎖から、離れれば離れるほど、何か特別な、聖性を帯びたものとして受け取られるのではないか、と思った。

 また、即物的な見返りがないものについて、じっと考えること、あるいはその対象に向き合い深く潜っていくことは、「祈り」と同視してよいのではないか、とも思った。別の言い方をすれば、現代に生きる僕たちは、「祈る」という営みを誤解している、あるいはきわめて一面的に見ているのではないか。この筋でいけば、哲学者も数学者も文学者も、その本分は「祈ること」である。そして、表題の短歌によって、僕は祈らずにはいられなくなったのだ。

*1:ここで僕は第三者を「ひろゆき」と呼称したが、正確には、「この第三者が何者であるか」の解釈は複数の可能性があり得る。文字通り「仮想上のひろゆき本人」かもしれないし、「ひろゆきの言葉を引用する別人」かもしれない。あるいは、「『外界を知覚し描写する主観としての彼/彼女』を客観視するもう一人の彼/彼女」かもしれない。このことは重要な論点になりえるが、今回は深入りしない。

*2:この場合、解釈④の中でさらに複数の解釈があり得る。本文とは大きく異なる解釈として、「ひろゆき」が主体となるものがある。彼は祈るような気持ちで救いを欲する心細い情況にあって、「雲間から降り注ぐ光」にある種の「救い=祈り」を感じ、それと同時にその瞬間を共有していた「あなた」からもひろゆきのことを想った「祈り=救い」が発せられていることを、彼は見出す。その瞬間をスケッチしたもの、という感動的なのかギャグなのかよくわからないものもあり得る。

ボカロ曲『炉心融解』の考察 無機質な歌唱法に込められた切実さ

 ボカロ曲の中で、『炉心融解』は特別な曲だと思う。正直言って、僕は良いボカロのリスナーではない。このころのボカロ曲の、特に有名な曲くらいしか知らない。それでも、『炉心融解』だけはボカロ曲になじみのない僕にとっても折に触れて聴き返す大切な曲になっている。何故か。思うに、ボカロ曲の中で本曲が特殊な立ち位置を占めるからだ。それを明らかにしたい。

 多くのボカロ曲は、より人間らしい歌声にすることを目指して作られる。多くの作者は、人間が歌っているのかボカロが歌っているのかわからないレベルを目指して「調教」を行う。当然、歌詞には感情が乗せて歌われることが良しとされる。例えば、『メルト』や『恋は戦争』は恋がかきたてる狂おしさを巧みに表現した白眉と言えるだろう。しかしながら、機械の歌声はまだ人間になりきることはできていない。ここに作者と聴衆の共犯関係が生じる。聴衆は不完全な機械の歌声の中に、人間的な情緒を積極的に見出そうとする。このようなあり方はたまごっちでもAIBOでもペッパーでも、およそ生き物に模した機械に対して僕たちが抱いてきた構えであった。生物との違いをあげつらうのではなく、生物との共通点を見出し、それを愛でるのだ。機械の歌声の不完全性は、歌い手がその曲を歌うことによっても補完される。ボカロ文化とは、ボカロという機械と作者と聴衆にくわえて、歌い手がいてはじめて、完全なエコシステムとなる。

 ところが、『炉心融解』の場合は勝手が異なる。この曲は「歌ってみた」になじまない。人間が歌うと曲の中にあったはずの切実さが失われてしまう。ボカロの中にある無機質さ・歌唱の不自由さにこそ、この曲の命がある。

 すこし遠回りをしたい。そもそもボカロ文化とは共同幻想である。ある種の偶像をみんなで作り出してみんなで愛でる文化である。偶像は具体的な身体を持たないほうが良い。なんでも乗せることができる透明な身体=容器を通して、感情を乗せ、共感し、つまるところ繋がることができる。ボカロという依り代はコミュニケーションの回路なのだ。

 一方で、『炉心融解』は機械の歌声がはらむ「もどかしさ」にこそ焦点を当てる。自分の中に巣食うこの感情にどのような言葉を当てて良いのかわからない。「悲しい」とか「苦しい」といった直截的な感情の表現は歌詞の中に出てこない。今の私の気持ちに定型的な感情・表現・感情表出を割り当てることに強い違和感がある。内に渦巻く感情を自分でも捕まえられない。捕まえられないから表現できない。だから、歌詞の中では「私を通して観測された現象」と「今私が抱いている心情がもたらす心の動き」だけが記述される。本曲の歌詞はひどく抽象的であるが、その抽象性は単なる代入可能性として解すべきでない。私は何かにとりつかれていることだけは確かだが、それが何かを具体的に捕まえることができていない茫漠さを表したものとして理解すべきだ。

 私の中の感情であるのに、自分ですらもそれを捕まえることができない。頭の中に靄がかかって、まるで他人事であるかのように見える瞬間すらある。この離人感は生身の人間ではなく、ボカロが歌うことによってはじめて表現され得る。一般的なボカロにおいては、ボカロとは上述の通りなんでも感情を乗せてやり取りできる透明な回路・通路であった。そして、ボカロというプラットフォームを前提に、歌い手が多種多様な個性という色を加えることで一層豊かになっていくジャンルであった。しかし、本曲においてはボカロとは具体的な身体を持たない「No One」であることにこそ意義がある。もしこの曲を生身の身体を持った私が歌ったとき、たちどころに逃げてしまう何物かを表現するための依り代が「No One」なのだ。

 『炉心融解』はボカロというジャンルの調和から外れて、孤立している。『炉心融解』とは何か大切なものを含んだノイズである。曲中の私も、自身を取り巻くものたちとの不調和を訴えている。

時計の秒針やテレビの司会者や/そこにいるけど 見えない誰かの/笑い声 飽和して反響する/アレグロ・アジテート 耳鳴りが消えない止まない/アレグロ・アジテート 耳鳴りが消えない止まない

 僕はここで、サイモンとガーファンクルの『The Sound of Slience』を想起する。「音」と「沈黙」という相反するものが結びついた曲名に込められた逆説に着目したい。まずは下記の歌詞を見てほしい。なお、歌詞中の「talk/hear」は漫然と音を出したり聴いたりしている状態、「speak/listen」は会話の内容をきちんと話したり聞いたりしている状態を指すと考えてほしい。

Ten thousand people, maybe more(一万人、あるいはそれ以上の人々)

People talking without speaking(彼らはしゃべってはいるけれど話してはいない)

People hearing without listening(彼らは聴こえてはいるけれど聞いてはいない)

People writing songs that voices never share(彼らは決して届きはしない歌を書いている)

And no one dare Disturb the sound of silence(そして、誰もこの沈黙を破ろうとはしない)

"Fools" said I, "You do not know Silence like a cancer grows"(馬鹿野郎!君たちは沈黙が癌のように広がることを知らないんだ)

Hear my words that I might teach you(教えるから僕の声を聞いてくれ)

Take my arms that I might reach you(差し伸べた僕の手をつかんでくれ)

But my words like silent raindrops fell(けれども、僕の言葉は雨粒のように静かに落ちていった)

And echoed In the wells of silence(そして、沈黙の井戸の中でこだまするだけだった)

 あまりにも多くの人々がどうでもいいおしゃべりをしている。そうして生み出された音の洪水の中で、本当に伝えたい言葉がかき消されて誰にも届かない。音の洪水の中ではいくら声を張り上げたって何も伝えられないという逆説が『The Sound of Slience』である。

 ボカロの空間はあまりになめらかに・透明に、繋がりすぎてしまった。ボカロ文化がもたらす調和と一体感によって「私」は容易に「私たち」になる。しかし、それによってかき消されてしまうもの、それでは伝えられないものも確かに存在する。その何かにこだわるとき、捕まえられない・届かない・伝わらないもどかしさに直面する。癒着した彼我をいったん切り離して、絶対的な他者としての「No One」を召喚するとき、自分ではそれを捕まえられない・届けられない・伝えられないと声にならない声で叫ぶとき、はじめてそれは届いてしまう。いや、そうすることでしか届けることができない何かを届けることができる。『炉心融解』は大変込み入ったことをしている。

 今度は、無機質なあの声が何故強く聴き手の心をかきたてるのかを考えたい。言い換えれば、何故あのように無機的に歌われることが「適切」なのか。私を苛むその何かが、慢性的で不断のものであるからだ。私はそれに取りつかれている。ずっと心に引っかかっていて、こだわっている。疲れ切ってしまって、涙も枯れ果てた。そもそも感情を表出することで解決する問題でもない。「オイル切れのライター」のように擦り切れて、心は弾力を失ってしまった。あの声は気力や表出される感情が枯渇しきってしまったことを表現するものだ。私の心は焼き切れてしまった。感情が乗っていないことは、対象への感情がフラットであることではなく、その感情の甚だしさ及びその感情の保持が長期にわたることを示している。

 本曲における私の感情は、表出されるのではなく内へ内へと向かっている。その感情は尽きることがない。風化することがない。僕はここで三島由紀夫の言葉を思い出す。

無神論も、徹底すれば徹底するほど、唯一神信仰の裏返しにすぎぬ。無気力も、徹底すれば徹底するほど、情熱の裏返しにすぎぬ。」

 問題にこだわり続けることができるその強靭な継続能力に、若さを失いつつある僕は、みずみずしい若さと強さを感じる。ある程度歳をとってしまうと、そこまで「頑張れ」ない。途中でどうでもよくなってしまう。

 そして、僕はこの無尽蔵のエネルギーと本曲がモチーフとした原子力エネルギーとのつながりを見出す。原子力発電所が火力、水力、風力と比して無機的である点もちろん念頭にある。しかし、より重要なのは、原子力発電施設において管理される凄まじいエネルギーは、何重もの厳めしい機構によって暴発を抑え込まれている点である。この内へ内へとこもった膨大なエネルギーによって、自家中毒を起こした私は悲鳴<shout‼>を上げている。私はこのエネルギーを放出して救われたい。歌詞中ではそれが「メルトダウン」として表現される。そしてそれは自死=自己の消失と同一のものとして観念される。何故私は死ななければならないのか。この膨大なエネルギーが外へと向かわず、内へ内へと向かっていくからだ。何故内へ向かうのか。この私の想いを捕まえられない・届けられない・伝えられないからだ。何故この歌を作中の私は歌うのか。この歌を歌うことが唯一の、私の想いを捕まえて・届けて・伝える方法、救われて生き延びるための回路だからだ。そして、そうだからこそ、この曲は僕たちにとって切実に響くのだ。

 まとめよう。本曲は感情表出と真意の差分に着目し、その差分に宿るニュアンスを精密に取り出し、表現した作品であった。あるいは、機械的に・抑制的に・不器用にしか表現できないことそれ自体が、ひどく人間的なある種の感情を表すことを示して見せた、極度に高度な表現を達成した作品であった。そして、ボカロというジャンルの特性とその限界、臨界点をいち早くつかんで表現した唯一無二の作品であった。

 

関連記事

killminstions.hatenablog.com

『かげきしょうじょ‼』第7巻 スピンオフ中山リサ編あるいは聖先輩の卒業について  

 聖先輩の卒業にまつわるエピソードは、あまりに的確に・精密に人の心の最も柔らかいところを貫く。貫かれた僕たちは、言葉を失ってただただ立ち尽くすばかりだ。彼女は本作品内において、明らかに特異な存在である。紅華=宝塚の暗い側面をほとんどただ一人、代表した人物である。中山リサのスピンオフを食ってしまって、事実上二度目のスピンオフの機会が与えられた、ただ一人の人物である。そして――他の登場人物たちにおいては挫折とそこからの再生が描かれる中で――取り返しのつかない挫折と断念がエピソードとして描かれた、ただ一人の人物である。彼女は何者だったのだろうか。あるいは、彼女の卒業のエピソードは何故ここまで心を打つのだろうか。それを明らかにしたい。

 彼女は作中において、一貫して「向こう側の人」として描かれている。言い換えれば、彼女は決してこちら側に降りてきてくれない。主人公たちにとって身近な先輩である竹井委員長やリサ、あるいは大先輩である里美ですら、彼女と比べればはるかに親しみやすい。飾らない素の姿で接してくれるし、時には自分の弱さまでさらけ出して、主人公たちに向き合ってくれる。対して、聖先輩にはそれらの心の通じ合いがほとんど存在しない。

 そして、彼女が登場するとき、ある種の緊張感が物語にただよう。彼女にはなれ合いや予定調和はない。その最たるものが、さらさの祖父が倒れた場面でのあの発言だろう。

「帰れば?あなたなんかを見に来ている人も期待している人も誰一人居ないんだから 代わりなんていくらでもいるんだから 帰りなさいよ」

この種のはっきりした物言いは、さらさに対してだけではないことには注意を払うべきだ。下記は竹井委員長の聖先輩評である。

「でも私が言えないことを言ってくれるから凄く助かってる」

くわえて、役者としての経験豊富な安藤先生が、今回の事件の報を聞いて直ちに「さらっと」代役を立てる決断をしたことからも、言い方はともかくとして、聖先輩の判断は正しかったことが示唆される。さらに、文化祭開催前の時点で、彼女の「親しい人物」が文化祭に来られないことが描写されている点にも注意したい。

「ごめんね聖」「やっぱり文化祭行けない」「ごめん」

リサ編スピンオフにて後で明かされるように、これは彼女の父からのLINEであった。この場面では「さみしい」や「ごめんね」というメッセージが何度も届いていた旨も、母に対して語られる。その語りのあった1ページ前、すなわち隣のページに、リサの父がリサを情熱的に祝福するシーンが配置されていることが聖先輩の哀しみを際立たせる。しかし、彼女の心情が直接語られることはない。本編はリサのスピンオフであるため心情を吐露する主体はリサであり、あくまで聖先輩はリサの目を通して語られる客体なのである。

 聖先輩が内心を明らかにしないのはリサ編スピンオフに限ったことではない。本編においても、「野島先輩の微笑みは無意味にやさしければやさしいほど怖」く、「ちょっと何を考えてるか解らないところがある」と評される。唯一彼女が心情を雄弁に語るのが、5巻の聖先輩回想編である。そして、何故彼女が今のようになったのかも示される。彼女は高校時代、その不器用さから手痛い裏切りに遭い、友情も恋愛も同時に失った。彼女の純粋さ、焼けつくような渇望は、世俗の微温的な人間関係とは全く折り合いがつかなかった。

「私の『好き』は 嘘も本当もないから!男でも 女でも 好きな人には好きしか無いから‼」

不器用さと純粋さは紙一重である。夢のために恋愛を断念した星野薫のスピンオフ回が想起される。星野もまたその気負い故に周囲としばしば衝突する。聖先輩の場合はもっと過激で極端だ。

「誤解されたって 噂されたって 誰にどう思われようが構わない 私のことを嫌いな人のことなんてもうどうでもいい」

 ここにおいて、彼女は理解されることを諦めた。それは双方向性の心のやり取りを諦めたということでもある。野島聖スピンオフ編最終ページの入学直後におけるリサに向けられた笑顔は、身を守るための仮面である。これは彼女の弱さである。そして、その徹底は彼女の強さでもある。彼女は演じるということの本質のある側面を体現した人物であった。憧れる者から憧れられる者へ。与えられる者から与える者へ*1「演じる」とは意志による営みである。「ありのままの私」ではなく、「あらまほしき私」を形作る営みである。娘役志望でありながら男役のスターに上り詰めた、里美星がさらさに向けたアドバイスを思い起こそう。

「素の自分を晒すのが恐いなら いい? 紅華歌劇団音楽学予科生の 突然リレーに抜擢された 馬鹿でかい女の子 という役を演じなさい 私達だってそうなんだから 舞台の上での役だけでなく つねにトップという存在を演じ続けているのよ」

聖先輩の身を守るための仮面は、いつしか「トップに上り詰める途上の私」という仮面に変わっていった。その仮面はやがて本物になるはずだった。しかし、その夢はかなわない。今回読み返してみて、卒業間近になって今の気持ちを紗和に率直に語る竹井委員長のセリフが7巻に配置されていたこと、その隠された意図、あるいは作者の周到さに驚く。

「努力に裏打ちされた実力は きっと自分を裏切らないと思うから…不安もあるけど 今は ずっと憧れていた舞台の向こう側へやっといけるんだって ワクワクしかない だってそのための二年間だったんだもの

 聖先輩に紅華としての未来はもうない。しかし、そのことは誰にも明かさない。理解や同情を拒絶しているからであり、紅華音楽学校で与えられ・引き受けた自身の役割を全うしようとしているからだ。彼女の不断の努力と揺るがない意志によって形作られてきた「私」が絶頂を迎えるのは、文化祭本番の場面においてである。

「聖‼いくらなんでも酷いじゃない!なにもあんな言い方しなくても」

「出番前にやめてくれない?」

「あんたの鋼の心臓なら緊張なんてしないでしょ!」

「そうね それもスター性のひとつだわ ごめんね?私 嘘つけなくて」

「聖...あんたって」

「あ!もう次だわ」「私の出番よ‼緊張なんてしないわ!」「そんなのバカみたいだもの」「楽しい…楽しい‼わくわくする!」「この文化祭が永遠に続けばいいのに…!」「リサも見ていて今からあの舞台は私のものよ‼」

ここに至っては、幕外のリサとの会話でさえ、劇的なやり取りとなる。本番前で高揚した彼女の発するミュージカル然としたセリフの一つ一つが、彼女の生きざまを強く印象付けるものとなる。彼女は人生そのものを劇的に生きようとした。

 このシーンの尊さは、彼女の強靭な意志の力による。彼女は誤解されることを恐れない。そればかりか、高校時代のつらい思い出を乗り越えてようやく入口に立った夢を断念することになっても、夢の最後の集大成になる舞台に父が来られなくても、その悲しみも苦しみもほんの欠片も出すことはない。誰かと分かち合おうとすることはしない。彼女が欲しいのは同情や哀れみではなく、充実と賞賛と尊敬なのだ。悲しく哀れな私ではなく、怖いばかりに美しく・強くて鮮烈な印象を残す私になりたいのだ。それがたとえこの瞬間だけでも、「なりたい私」に「私はなる」のだ。僕たちがこのシーンに深く感動するのは、どうしようもない運命に抗い、揺るがない私を確かにこのとき勝ち得て、一矢報いてみせた彼女を深く尊敬するからだ。

 文化祭が終わってからの卒業式のシーンも「見事」だった。いわば、彼女は残身をおろそかにしなかった。理由を告げないまま去ろうとする聖先輩にリサが追いすがるシーン。

「今さらお友達ごっこ?リサは私が嫌いなんでしょ」

「それでもあんたがトップになると思ってた‼性格曲がってて底意地悪いけど きっと聖がセンターも立つんだと思ってたのに…!なのになんで…」

「そうだよ トップになるのは私 いつもトップスターの隣で微笑んで 誰からも愛される娘役トップになるのは私」

ここでも心情は吐露されない。あくまで、そして最後まで、彼女は与えられた役を全うする。それはリサが彼女にいだいていた憧れを守るためでもある。リサの前で内に渦巻く感情を決壊させてしまえば、リサの中の私は「憎らしいあの子」ではなくなってしまう。リサに対して見せた聖の態度は両義的である。血相を変えて追いすがり、「それでもあんたがトップになると思ってた‼」「なのになんで…」と涙ぐんで彼女が去ることを惜しむリサに対して、役の枠内で可能な限りの応答をしてみせたのだった。思えば聖先輩は誤解を恐れないのではない。自分がどうみられるかを、すべてコントロール下に置こうとしたのだ。弱さと意志のなせる業である。しかし、リサに対してだけは、自身が望まない解釈が生じる余地を持った情報を明かした。

「お父さんの会社が倒産しちゃった 夢をつづける資金がないのよ」

これは彼女の不器用な友情の表現なのだ。しかしながら、前述の通り、彼女はすべてをさらけ出すことはしない*2。彼女の本当の気持ちがあふれ出すのは、紅華音楽学校の外に出て、悠太を目にした瞬間であった。悠太に抱きついて大粒の涙をこぼし、入学以降はじめて心情を吐露する聖。ここにおいて彼女はようやくお役御免となり、素の自分に戻ることができたのだ*3

 卒業以降も紅華での活動が続くリサにせよ、100期生の物語に帰る読者である僕たちにせよ、物語から「置いていかれた」のは聖先輩であるはずなのに、まるで自分たちの方が置いていかれたかのような錯覚を覚える。それは彼女が状況や内面を共有しようとしないため、後になってからしか、そのときのことがわからないからだ。リサだけでなく卒業式の件を読んだ読者はみんな、文化祭での聖先輩の勇姿を見返すことだろう。悠太と出会って感情が決壊するときになってはじめて、彼女の内なる悲しみと戦いと気高さがわかるだろう。

 彼女は「この夢はここで終わり」と言った。あるいは唐突に登場するリサの同級生陽菜乃は退団後、劇団颯の入団試験を受けると言った。また、聖先輩が文化祭で演じた役は『風と共に去りぬ』の不屈の精神を持ったスカーレットであった。これらのことから、聖先輩には次の夢を追うときがいつかはきっと来るのだと暗示される。彼女はいつまでも「死んだ子どもの歳を数える」ようなことはしない。しかし、それでも、7巻最終ページにて、文化祭の衣装でお辞儀をしてみせた聖先輩の、紅華でのあの瞬間のあの姿は永遠なのだ。

*1:夢がかなっていれば聖先輩は、憧れの小園のように、ファンを抱きしめて一番欲しかった言葉を与えられるような存在に、きっとなっていたのだろう。

*2:卒業式での花束贈呈において、愛が聖先輩に「文化祭の時も帰りたがっていたさらさが帰れるように わざとキツい言い方したでしょう」と言ってくれたとき、少しだけ彼女は救われた。それでも、「買いかぶりすぎよ」と否定して、愛に自身をさらけだすことはなかった。

*3:家の事情で夢を諦めた経緯から、家族の前ですら本心の発露が許されないところが哀しい。