『かげきしょうじょ‼』第7巻 スピンオフ中山リサ編あるいは聖先輩の卒業について  

 聖先輩の卒業にまつわるエピソードは、あまりに的確に・精密に人の心の最も柔らかいところを貫く。貫かれた僕たちは、言葉を失ってただただ立ち尽くすばかりだ。彼女は本作品内において、明らかに特異な存在である。紅華=宝塚の暗い側面をほとんどただ一人、代表した人物である。中山リサのスピンオフを食ってしまって、事実上二度目のスピンオフの機会が与えられた、ただ一人の人物である。そして――他の登場人物たちにおいては挫折とそこからの再生が描かれる中で――取り返しのつかない挫折と断念がエピソードとして描かれた、ただ一人の人物である。彼女は何者だったのだろうか。あるいは、彼女の卒業のエピソードは何故ここまで心を打つのだろうか。それを明らかにしたい。

 彼女は作中において、一貫して「向こう側の人」として描かれている。言い換えれば、彼女は決してこちら側に降りてきてくれない。主人公たちにとって身近な先輩である竹井委員長やリサ、あるいは大先輩である里美ですら、彼女と比べればはるかに親しみやすい。飾らない素の姿で接してくれるし、時には自分の弱さまでさらけ出して、主人公たちに向き合ってくれる。対して、聖先輩にはそれらの心の通じ合いがほとんど存在しない。

 そして、彼女が登場するとき、ある種の緊張感が物語にただよう。彼女にはなれ合いや予定調和はない。その最たるものが、さらさの祖父が倒れた場面でのあの発言だろう。

「帰れば?あなたなんかを見に来ている人も期待している人も誰一人居ないんだから 代わりなんていくらでもいるんだから 帰りなさいよ」

この種のはっきりした物言いは、さらさに対してだけではないことには注意を払うべきだ。下記は竹井委員長の聖先輩評である。

「でも私が言えないことを言ってくれるから凄く助かってる」

くわえて、役者としての経験豊富な安藤先生が、今回の事件の報を聞いて直ちに「さらっと」代役を立てる決断をしたことからも、言い方はともかくとして、聖先輩の判断は正しかったことが示唆される。さらに、文化祭開催前の時点で、彼女の「親しい人物」が文化祭に来られないことが描写されている点にも注意したい。

「ごめんね聖」「やっぱり文化祭行けない」「ごめん」

リサ編スピンオフにて後で明かされるように、これは彼女の父からのLINEであった。この場面では「さみしい」や「ごめんね」というメッセージが何度も届いていた旨も、母に対して語られる。その語りのあった1ページ前、すなわち隣のページに、リサの父がリサを情熱的に祝福するシーンが配置されていることが聖先輩の哀しみを際立たせる。しかし、彼女の心情が直接語られることはない。本編はリサのスピンオフであるため心情を吐露する主体はリサであり、あくまで聖先輩はリサの目を通して語られる客体なのである。

 聖先輩が内心を明らかにしないのはリサ編スピンオフに限ったことではない。本編においても、「野島先輩の微笑みは無意味にやさしければやさしいほど怖」く、「ちょっと何を考えてるか解らないところがある」と評される。唯一彼女が心情を雄弁に語るのが、5巻の聖先輩回想編である。そして、何故彼女が今のようになったのかも示される。彼女は高校時代、その不器用さから手痛い裏切りに遭い、友情も恋愛も同時に失った。彼女の純粋さ、焼けつくような渇望は、世俗の微温的な人間関係とは全く折り合いがつかなかった。

「私の『好き』は 嘘も本当もないから!男でも 女でも 好きな人には好きしか無いから‼」

不器用さと純粋さは紙一重である。夢のために恋愛を断念した星野薫のスピンオフ回が想起される。星野もまたその気負い故に周囲としばしば衝突する。聖先輩の場合はもっと過激で極端だ。

「誤解されたって 噂されたって 誰にどう思われようが構わない 私のことを嫌いな人のことなんてもうどうでもいい」

 ここにおいて、彼女は理解されることを諦めた。それは双方向性の心のやり取りを諦めたということでもある。野島聖スピンオフ編最終ページの入学直後におけるリサに向けられた笑顔は、身を守るための仮面である。これは彼女の弱さである。そして、その徹底は彼女の強さでもある。彼女は演じるということの本質のある側面を体現した人物であった。憧れる者から憧れられる者へ。与えられる者から与える者へ*1「演じる」とは意志による営みである。「ありのままの私」ではなく、「あらまほしき私」を形作る営みである。娘役志望でありながら男役のスターに上り詰めた、里美星がさらさに向けたアドバイスを思い起こそう。

「素の自分を晒すのが恐いなら いい? 紅華歌劇団音楽学予科生の 突然リレーに抜擢された 馬鹿でかい女の子 という役を演じなさい 私達だってそうなんだから 舞台の上での役だけでなく つねにトップという存在を演じ続けているのよ」

聖先輩の身を守るための仮面は、いつしか「トップに上り詰める途上の私」という仮面に変わっていった。その仮面はやがて本物になるはずだった。しかし、その夢はかなわない。今回読み返してみて、卒業間近になって今の気持ちを紗和に率直に語る竹井委員長のセリフが7巻に配置されていたこと、その隠された意図、あるいは作者の周到さに驚く。

「努力に裏打ちされた実力は きっと自分を裏切らないと思うから…不安もあるけど 今は ずっと憧れていた舞台の向こう側へやっといけるんだって ワクワクしかない だってそのための二年間だったんだもの

 聖先輩に紅華としての未来はもうない。しかし、そのことは誰にも明かさない。理解や同情を拒絶しているからであり、紅華音楽学校で与えられ・引き受けた自身の役割を全うしようとしているからだ。彼女の不断の努力と揺るがない意志によって形作られてきた「私」が絶頂を迎えるのは、文化祭本番の場面においてである。

「聖‼いくらなんでも酷いじゃない!なにもあんな言い方しなくても」

「出番前にやめてくれない?」

「あんたの鋼の心臓なら緊張なんてしないでしょ!」

「そうね それもスター性のひとつだわ ごめんね?私 嘘つけなくて」

「聖...あんたって」

「あ!もう次だわ」「私の出番よ‼緊張なんてしないわ!」「そんなのバカみたいだもの」「楽しい…楽しい‼わくわくする!」「この文化祭が永遠に続けばいいのに…!」「リサも見ていて今からあの舞台は私のものよ‼」

ここに至っては、幕外のリサとの会話でさえ、劇的なやり取りとなる。本番前で高揚した彼女の発するミュージカル然としたセリフの一つ一つが、彼女の生きざまを強く印象付けるものとなる。彼女は人生そのものを劇的に生きようとした。

 このシーンの尊さは、彼女の強靭な意志の力による。彼女は誤解されることを恐れない。そればかりか、高校時代のつらい思い出を乗り越えてようやく入口に立った夢を断念することになっても、夢の最後の集大成になる舞台に父が来られなくても、その悲しみも苦しみもほんの欠片も出すことはない。誰かと分かち合おうとすることはしない。彼女が欲しいのは同情や哀れみではなく、充実と賞賛と尊敬なのだ。悲しく哀れな私ではなく、怖いばかりに美しく・強くて鮮烈な印象を残す私になりたいのだ。それがたとえこの瞬間だけでも、「なりたい私」に「私はなる」のだ。僕たちがこのシーンに深く感動するのは、どうしようもない運命に抗い、揺るがない私を確かにこのとき勝ち得て、一矢報いてみせた彼女を深く尊敬するからだ。

 文化祭が終わってからの卒業式のシーンも「見事」だった。いわば、彼女は残身をおろそかにしなかった。理由を告げないまま去ろうとする聖先輩にリサが追いすがるシーン。

「今さらお友達ごっこ?リサは私が嫌いなんでしょ」

「それでもあんたがトップになると思ってた‼性格曲がってて底意地悪いけど きっと聖がセンターも立つんだと思ってたのに…!なのになんで…」

「そうだよ トップになるのは私 いつもトップスターの隣で微笑んで 誰からも愛される娘役トップになるのは私」

ここでも心情は吐露されない。あくまで、そして最後まで、彼女は与えられた役を全うする。それはリサが彼女にいだいていた憧れを守るためでもある。リサの前で内に渦巻く感情を決壊させてしまえば、リサの中の私は「憎らしいあの子」ではなくなってしまう。リサに対して見せた聖の態度は両義的である。血相を変えて追いすがり、「それでもあんたがトップになると思ってた‼」「なのになんで…」と涙ぐんで彼女が去ることを惜しむリサに対して、役の枠内で可能な限りの応答をしてみせたのだった。思えば聖先輩は誤解を恐れないのではない。自分がどうみられるかを、すべてコントロール下に置こうとしたのだ。弱さと意志のなせる業である。しかし、リサに対してだけは、自身が望まない解釈が生じる余地を持った情報を明かした。

「お父さんの会社が倒産しちゃった 夢をつづける資金がないのよ」

これは彼女の不器用な友情の表現なのだ。しかしながら、前述の通り、彼女はすべてをさらけ出すことはしない*2。彼女の本当の気持ちがあふれ出すのは、紅華音楽学校の外に出て、悠太を目にした瞬間であった。悠太に抱きついて大粒の涙をこぼし、入学以降はじめて心情を吐露する聖。ここにおいて彼女はようやくお役御免となり、素の自分に戻ることができたのだ*3

 卒業以降も紅華での活動が続くリサにせよ、100期生の物語に帰る読者である僕たちにせよ、物語から「置いていかれた」のは聖先輩であるはずなのに、まるで自分たちの方が置いていかれたかのような錯覚を覚える。それは彼女が状況や内面を共有しようとしないため、後になってからしか、そのときのことがわからないからだ。リサだけでなく卒業式の件を読んだ読者はみんな、文化祭での聖先輩の勇姿を見返すことだろう。悠太と出会って感情が決壊するときになってはじめて、彼女の内なる悲しみと戦いと気高さがわかるだろう。

 彼女は「この夢はここで終わり」と言った。あるいは唐突に登場するリサの同級生陽菜乃は退団後、劇団颯の入団試験を受けると言った。また、聖先輩が文化祭で演じた役は『風と共に去りぬ』の不屈の精神を持ったスカーレットであった。これらのことから、聖先輩には次の夢を追うときがいつかはきっと来るのだと暗示される。彼女はいつまでも「死んだ子どもの歳を数える」ようなことはしない。しかし、それでも、7巻最終ページにて、文化祭の衣装でお辞儀をしてみせた聖先輩の、紅華でのあの瞬間のあの姿は永遠なのだ。

*1:夢がかなっていれば聖先輩は、憧れの小園のように、ファンを抱きしめて一番欲しかった言葉を与えられるような存在に、きっとなっていたのだろう。

*2:卒業式での花束贈呈において、愛が聖先輩に「文化祭の時も帰りたがっていたさらさが帰れるように わざとキツい言い方したでしょう」と言ってくれたとき、少しだけ彼女は救われた。それでも、「買いかぶりすぎよ」と否定して、愛に自身をさらけだすことはなかった。

*3:家の事情で夢を諦めた経緯から、家族の前ですら本心の発露が許されないところが哀しい。