サエキけんぞう(細川ふみえ)版夢見るシャンソン人形の解釈について

原曲であるゲンズブール版夢見るシャンソン人形が辛辣で皮肉に満ちた歌詞であることは有名な話である。乱暴に要約すると、「頭が空っぽな音の出る人形である私が、恋なんて知らないのに恋の歌を歌っている。私の歌に乗っかって踊りや恋に夢中になっている子たち(つまりは聞き手であるあなたがた)もまた空虚な音の出る人形に過ぎない。恋は歌の中だけにあるわけじゃないのに(※L’amour n’est pas que dans les chansonsの直訳は左記のとおり。日本語訳に見られる「恋は歌の中にしかない」は意訳であり誤訳に近いと思う)、みんな歌の中の恋に夢中になっている。それでもいつかは私も歌のような恋をしてみせる。」といったところだろうか。発表当時この曲の歌手フランス・ギャルは「音の出る人形」の意味するところ、その揶揄を理解せず歌っていたそうで、加えて後に歌うことを辞めたことからも、この曲はまさしく音の出る人形による歌であった。1965年発表にもかかわらず、現代日本のアイドルまでもその皮肉の射程内である点は見事である(余談だが、どこかの日本アイドルたちのライブの大トリにこの曲がフランス語で歌われている動画を見たことがある。アイドルたちは感情を節に込めて歌うのだが、意味を理解していたのだろうか)。

本題であるサエキけんぞう版では、その内容が大きく反転している。それをこれから見ていく。歌詞は以下のとおり。

わたしはいわゆるシャンソン人形 恋を咲かせるシャンソン奏でる人形

キラキラ金髪シャンソン人形 そうです世の中は甘いボンボンのようね

私の歌は鏡のようだわ 魔法のようにハートを映すの

みんなは浮かれて笑いながら 誘われるままウイ・ノンそして踊るけど

恋はただむなしい絵空事ね まことの愛なんて笑わせないでね

わたしの歌はカケラに砕けて 魔法のようにどこでも行けるの

私の歌は鏡のようだわ 魔法のようにハートを映すの

だけれどときどきため息つく 男の子ひとりも知りもしないのに

恋の歌・歌うなんてヘンね そうですただの人形それでも平気よ

魔法のようなシャンソン歌っていつかは かわいい唇をうばってみせるわ

魔法のようなシャンソン歌っていつかは かわいい唇をうばってみせるわ

まるでこの曲は原曲とは異なるニュアンスのものであると宣言するかのような歌いだし。「わたしはいわゆるシャンソン人形」。私は「聞き手であるあなたがたが言うところの」シャンソン人形なのであって、歌い手が「本当は」何者であるかは秘匿される。聞き手の欲望に合わせて自分を見せているだけであり、歌い手は「本当の私」を見せてはくれない。シャンソン人形は私にとって数ある外向けの仮面のうちの一つに過ぎない。原曲の私が私とは何者か(=音の出るシャンソン人形であること)や私はどうなりたいか、つまりは内面を饒舌にそして迂闊に語るのに対し、本曲の私は徹底して与えられた役割の中の内面しか語らない。

原曲は恋を知らずそれに憧れる10代の少女の歌であるのに対し、本曲は当時のセックスシンボルたる細川ふみえによる歌である。原曲では「男の子のことなんて一つも知りもしないのに」とあった表現がより性的なニュアンスを持つ「男の子ひとりも知りもしないのに」に言い換えられている点にも注意すべきだ。何故このようにカマトトぶるのか。明らかな嘘をつくのか。そこに歌い手の意志などない。「わたしの歌は鏡のようだわ 魔法のようにハートを映すの」とあるように、この歌は聞き手の欲望を映した鏡に過ぎない。初心な女性を聞き手が望むが故に、﨟たけた私はそのように歌うのである。

原曲の歌い手は自分が人形であることに自覚的でなかった。しかし、本曲において歌い手は人形であることを自覚し、引き受けている。「だけれどときどきため息つく 男の子ひとりも知りもしないのに 恋の歌・歌うなんてヘンね そうですただの人形それでも平気よ」。しかし、ここでの「人形」は、原曲とは意味するところが異なる点について注意しなければならない。本曲において私は「男を知らないのに恋の歌を歌うなどヘンだ」と自嘲するがこれは明らかな虚偽、ぶりっ子であって、そのためそれに続く「そうですただの人形それでも平気よ」もまた言葉通りにとってはならない。言葉通りにとるならば、ここでの「人形」とは原曲同様「恋を知らない音の出る人形」という意味であるが、ここでは空虚な人形であることに重点が置かれる。

「わたしの歌はカケラに砕けて 魔法のようにどこでも行けるの」の部分に注目したい。「わたしの歌はカケラに砕ける」とは、歌の元々の意味するところなどバラバラに解体されて皆々が都合のいいように聞きたいように解釈されてしまうことを指す。しかし、それであるが故に「魔法のように」どこへでも行くことができ、誰にでも届いてしまうのだ。ポルノグラフィティの『ヒトリノ夜』の一節「100万人のために唄われたラブソングなんかに僕はカンタンに想いを重ねたりはしない」が思い出される。ポップスター=他者から欲望されるものとは空虚である。誰ともつながることが出来る主体は誰ともつながってはいない。誰にでも届く言葉は誰にも届いていない。「恋はただむなしい絵空事ね まことの愛なんて笑わせないでね」という決め手となる歌詞は、恋愛の酸いも甘いも噛み分けた私であるが故の重量級の重みをもったフレーズであるが、それだけではなく、私とあなたたちとの間に真意など伝わりはしないという嘲笑であり諦観であり覚悟であるのだ。

先述の「ただの人形それでも平気よ」という言葉は重い。「音の出る人形に過ぎないこと」はいずれ治癒される。恋を知る人間になればよいからだ。しかし、「スターという人形(欲望を受ける客体)であること」は、スターである限りにおいて永久に治癒されない。先ほどの歌詞はそれを引き受けたセリフなのだ。真意など伝わりはしないということを引き受けること。これは一つのダンディズムである。DJ OZAMAの『純情~スンジョン~』の一節を引きたい。

さぁ ほら 坊や ここにおいで

純情ばかりじゃ醜いね 曝け出して孤独に負けそう

求めないであげる 飾りきってみせる ねぇ I LOVE YOU 一晩中・・・

まとめよう。本曲は恋を夢見る少女の歌ではない。﨟たけた女性が純情な少女のふりをして恋を歌った歌である。そして、本当はスター=欲望されるものの空虚さとそれに耐えるダンディズムを歌った歌なのであった。ラストで繰り返される「魔法のようなシャンソン歌っていつかは かわいい唇をうばってみせるわ」で歌われる「いつか」は、永久にこないいつかであり、それでも歌の中の私は一向に構わない。原曲の私は現実世界の恋に出会うためお仕着せの歌の中の世界から飛び出ることを願うが、本曲の私は現実世界の私とは切り離された歌の中の架空の私を引き受けて歌うのである。

↓サエキケンゾウ版夢見るシャンソン人形

https://www.youtube.com/watch?v=i4mCyiGXiho