キメラアント編とは何だったのか メルエムという福音と人間の原罪――キリスト教を手掛かりとして

 キメラアント編についてネット上で論説を見るけれども、自分にとって芯を食ったもの、キメラアント編のすばらしさを汲み尽くしたものが今まで見つからなかったため、自分で書こうと思う。

 まず一般に、ワルモノ=敵が出てきてそれを倒すというタイプの物語には、二つの法則がある。第一に、ワルモノ=敵が強大であればあるほどストーリーの緊張感は増し、ワルモノ=敵を倒すための説得力も強大さに応じて要求される。「こんな化け物どうやって倒すの?」と読者に思わせられるほど作品は引き締まり、その分だけ困難を乗り越えるために主人公たちは苦労し、作者はストーリー作りに苦心する。いうなれば、ワルモノ=敵は一つの課題を課してきているのである。与えられた課題をどのように読者が納得のいく形で裁くのか。つまり、この種の物語の面白さは①提示された課題の大きさ(敵の強大さ)、②課題への回答の説得力により決まるところが大きいと言える。第二に、この種の物語において常に主人公側は受け身である。これは物語の構造上、ほぼ避けがたい。ワルモノ=敵が問題を起こし、事後的に主人公たちがそれに立ち向かい、戦略を駆使したり爆発的成長を遂げて最後には鎮圧するというのが基本線となっているからだ。そのため、まずワルモノ=敵が存在し、そいつを取り巻く環境や手下があり、対抗勢力としての主人公たちがいる、という図式になる。

 この点、キメラアント編は特筆すべき特徴がある。主人公たるゴンが最後までラスボスに当たるメルエムと戦闘しなかったこと、それどころか会うこともその名前も知らずに物語が終わってしまったことである。もはや本編においてゴンは主人公と言ってよいかすら怪しい。本編の主人公を強いて挙げるならば、僕はメルエムが主人公だと思う。この解釈は、こちらのブログを下敷きにしている。ここでは、キメラアント編を「人が蟻を倒す物語」ではなく「蟻が人になる物語」としている。また、「幽遊白書」における敵役は、最後に「善人」のようになって死んでいく、としている。上記ブログでも指摘のあるとおり、明らかにキメラアント編におけるメルエムはこの系譜の上に位置する。それどころか、さらにその傾向を推し進め、①自ら主人公となり、②最後には人格を完成させ死んでいくものだとすら言える。本編はラスボスが主人公となる異常な物語なのだ。

 キメラアント編は入り組んでおり、各人が諸々の場面で戦闘している描写があり、それら一つ一つが感動的で良く出来ていることは言うまでもないが、それらは本編の大筋とは特に関係のない枝葉に過ぎない。結局のところ、本編の幹となる筋は、メルエム、コムギ、ネテロの三者の関係に集約される。もちろんこの三者の中心にいるのはメルエムだ。ネテロは人間の武の極みの代表として、コムギは人間の文の極みの代表として、メルエムと向き合う。

 まずはネテロについて。かつてひたむきに求めた武の極みは、何者も追随できない領域にまで到達し、自身も気づかぬうちに自らを飼いならしてまった。「完成への燃え上がる想いの数々」を誰にもぶつけることが出来ず、年を経て錆びつき静かにその火は消えていくはすだった。そこにメルエムである。これがネテロにとって福音でなくてなんであろう。ハンター協会の会長となった今、もはや軽々しく命を懸けた真剣勝負は、平時において望めない。ところが、この人類の存亡を賭けた非常時においては会長であることこそが、最高・最良の相手と戦うための正当性と舞台作りを担保するのである。

「いつからだ…? 敵の攻撃を待つ様になったのは、一体いつからだ 敗けた相手が頭を下げながら、差し出してくる量の手に間を置かず、応えられる様になったのは?そんなんじゃ、ねェだろ! オレが求めた、武の極みは敗色濃い難敵にこそ全霊を以て臨むこと!! 感謝するぜ、お前と出会えた これまでの全てに!!

 ネテロは「武人として」、報われて死んでいった。コムギはどうだろうか。彼女も同じく軍儀にすべてをささげた求道者である。彼女は軍儀の賞金で貧しい大家族を支える大黒柱であった。優勝なくして生活を支えることはできない。日ごろから自分が軍儀で敗けるときとは自らが死ぬときであるとの覚悟で臨んでいる。幸いそれでもこれまで生きていくことが出来た。大切な勝負では一度も敗けることがなかったと解釈しても良いかもしれない。しかし、そのことはある種の哀れさを誘う。並び立つものがいないとき、何を目標として生きていけばよいのか。彼女の求める美しい棋譜は、独り相撲では永久に生み出されることはない。下記はヒカルの碁の引用である。

知っとるか?碁は2人で打つものなんじゃよ。碁は1人では打てんのじゃ。 2人いるんじゃよ。1人の天才だけでは名局は生まれんのじゃ。等しく才たけた者が2人要るんじゃよ、2人。 2人揃ってはじめて…神の一手に一歩近付く

 コムギにとってもメルエムは、降って湧いたような福音に他ならない。他のプレイヤーを全く寄せ付けない実力を持った彼女は、はじめて自身と同レベルの頭脳を持った対象と相対することで覚醒(念能力の発現)する。彼女が強くなるのはこれからだったのだ。メルエムとの最期の対局で加速度的に成長し、「この日のために生まれてきたのだ」という確信と幸福の中でコムギは死んでいく。

 メルエムは彼らのひたむきさ、そして個の極致としての到達点に心打たれる。最初にその目を開かせたのはコムギであることを見落としてはならない。文の極致がもたらした奇跡である。僕は古今和歌集仮名序をどうしても想起してしまう。

「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」

 彼女を通してはじめてメルエムは、暴力とは別の偉大な何物かがこの世界に存在すること、この世界には様々な求道者がいて、理解を絶する意志と鍛錬と到達が人間にはあることを知る。すなわち、人間へのリスペクトを持つようになる。

 この作品の心憎いところは、この極私的な奇跡と大局レベルでの必然が同居している点である。極私的な奇跡とは、メルエムの人格的完成である。コムギとの出会いをきっかけとし、彼は寛容さ、公正さ、敬意、感謝等の徳目を次々に身につけていく。最後には直属護衛軍の三名のことを「余には過ぎた者たちであった」とまで述懐する。ラストに見せたシャプアプフの絶望は正しく、王は蟻ではなく人間となった。ただし、統治者にふさわしい弱者への労りや慈しみ、情けまでもを彼が持つまでに至ったかは作中の描写ではわからない。なぜならばメルエム(とコムギ)の加速度的な成長は、その途中において無残にも中絶させられてしまうからだ。この点こそが大局的必然である。核戦力を持ち無数の数と組織を誇る人間に、王という急所を持つ蟻が勝つことはない。ネテロは武人としてメルエムに臨むとともに、人間代表としてもメルエムに対していた。周りへの被害を考慮し、また公平を期し戦う場所を移したメルエムの公正さをネテロは踏みにじり、自身の満足のためだけに武人としての戦いを挑んだ後、汚い爆弾「ダーティー・ボム」により確実に彼を仕留めたのだった。本当のことを言うと、戦う場所を隔離した時点で、すでに人間と蟻との戦いの趨勢と彼らの運命は決していたのだ。そう考えると、メルエムの再三にわたるネテロへの説得は、あまりに空しく響いてこないか。本編では届かなかった想い、報われなかった願いが数多く存在する。ゴンのカイトへの想い、シャウアプフの献身、メルエムの提案した人類の未来等々。報われなかった願いがあまりに多いからこそ、最期に結ばれたメルエムとコムギの姿は際立つ。

 ここまでの流れを読み解く際に、少女「コムギ」の名前は注目に値する。まず連想されるのはヨハネによる福音書12章24節及び25節である。

よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。 」

 これは死地に向かうキリストの発言であり、周知のようにこの後磔刑に処され、そのことにより人間の罪は贖われる。本作で対応するのはネテロの捨て身の攻撃であろう。ネテロが一身を捧げることにより、人間は蟻の手に落ちず救われた。そこに至る経緯としてもその際用いた手段としても、それは武人として醜く惨めな、そして人間として罪深いものだったというねじれは見事というほかない。これで「コムギ」のギミックは終わらない。

 次に想起されるのはマタイによる福音書13章の毒麦のたとえである。

「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。(中略)それからイエスは、群衆をあとに残して家にはいられた。すると弟子たちは、みもとにきて言った、「畑の毒麦の譬を説明してください」。イエスは答えて言われた、「良い種をまく者は、人の子である。畑は世界である。良い種と言うのは御国の子たちで、毒麦は悪い者の子たちである。それをまいた敵は悪魔である。収穫とは世の終りのことで、刈る者は御使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。

 僕はこのたとえを「正邪を人間が判断することはできない。その判断は最後の審判までとっておけ」と理解する。本作に引き付けて解釈するなら、毒麦とはメルエムである。正確に言えば、人間にとって毒麦に見えていたものはメルエムである。本当のところ、彼が毒麦であったかは、最後までわからずじまいである。発展途上の彼を、前述のようにネテロが身を捧げることによって刈り取ってしまったからだ。これではメルエムは毒麦だったのか、それとも「毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜」いてしまったのかわからない。少なくとも、コムギという麦は一緒に抜かれてしまった。そのため二人が起こした奇跡、すなわち軍儀における飛躍的な戦法の進歩と、更なる発展の可能性も永遠に失われた。

 加えて興味深いことに、蟻たちにとって、コムギこそが毒麦だったのかもしれない。執拗に王直属護衛軍たちはコムギを遠ざけようとする。自らの種に破滅をもたらす恐れのあるものとして。それでもとうとう刈り取ったのは人間側だったことは、明記しておく必要があるだろう。様々な妨害や障害を乗り越え、また種を超えて二人は惹かれ合い、ある種の情死に至るというロマンチズム(最期の時の相手として選ばれず、広場に骸を晒す報われなかったシャウアプフとの対比。また、などてすめろぎは...)。そして、鬼神をも動した文の極致による奇跡。しかし、文の力は万能ではない。最後に人間を蟻の手から守ったのは無慈悲な暴力であり、組織力の前には蟻程度の存在では到底太刀打ちなど出来ないというリアリズム。そしてそのリアリズムによって刈り取られてしまった、あったかもしれない可能性。ありえたかもしれないその可能性は、ネテロ亡き後はメルエムの心の中だけに存在し、パームには遺されたかもしれないが、ほとんど知られることなく握りつぶされ、なかったことにされてしまう。

………ほんの少し…だったと思う どこかでほんの少し……何かがほんの少し違っただけで 今の余ならば 神とまでは言わぬが……この世を…………いや 全てが一致しての現在だからこそ そう思うだけなのかも知れぬ

 上記のメルエムの言葉に彼のその心以上に無念を感じてしまう。下記のランボー『地獄の季節』の一節に、どうしてもその無念さを重ねてしまう。

「未だ未だほんの幼い頃だ。徒刑場に、陽の目も見ない頑情無頼の囚人に、俺は眼を見張ったものだ。俺は、その男の滞在によって祝聖されたと思しい数ある旅館を訪れた、下宿を訪れた。その男の想いをもって、青空を眺め、野天に彩なす労働を眺め、彼の宿命を街々に嗅いだ。彼は聖者を凌ぐ力を持ち、旅人も及ばぬ分別を備えていた、――しかも、その光栄と理知との証しをするものは彼だったとは、彼だけだったとは。(中略:以降の語り手は囚人を見る者なのか囚人本人なのか曖昧になり、混然一体となり、最期には後続のように視点は囚人本人のものとなる)だが、酒宴も女らと交友も、俺には禁じられていた。一人仲間さえなかった。銃刑執行班をまともに眺め、激怒した俗衆面前に俺は立っていたのだ、彼らには解らない不幸になきながら、そして彼らをゆるしながら。ーーまるでジャンヌ・ダルク。ーー「牧師や教授や先生方、俺を裁判所の手に渡したというのが君らの誤りだ。俺はもともとそういう手合いじゃない。キリストを信じた事はない。刑場で歌を歌っていた人種だ。法律などは解りはしない。良心も持ち合わせはいやしない。生まれたままの人間なのだ。君たちが間違っている、・・・・

 メルエム、コムギ、ネテロは本編で劇的な死を遂げる。しかし、世界はそれで終わるわけではなく、物語も終わらない。本事件の後処理もまたしっかりと描写されている。とうとう表にすら出てくることがなかった政治家たちにより、東ゴルトーは褒章の意味も込めてハンター協会の管理となり(おそらくは現地民への説明と承認なく一方的に!)、東ゴルトーの創始者は30年以上に渡って独裁国家の現状を座視したままエピクロス的隠遁生活を送っていたことが最後に明らかにされる。命を懸けて現場で戦い傷つき、あるいは死んでいったネテロたち、独裁や今回の動乱で死んでいった無辜の人々たち、人間の真の平安のために統治のあり方を示して見せたメルエムと対比されていることは明らかである。もはやこれ以上何も言う必要はあるまい。さらに、人類の存亡をかけた戦いの傷跡が癒えきらないまま始まる新編は、選挙編であり、そこで繰り広げられる個々人の個人的事情や思惑に大きく引きずられた茶番はキメラアント編との対になっていることは自明であろう。

 ここで、キメラアント編では統治の問題が提出されていた事にも言及しなくてはならない。蟻の王を頂点とし、受け継がれる能力としても後天的に投入されるリソースとしても王ただ一人に集中している点、王の能力が卓越しており意思決定においてもすべて王が下す点は、近代以前のある種の統治形態の理念型を思わせる。一方で、作中の人間社会は近代社会そのものである。試験により選抜され、選挙で意思決定者を選択する。リソースは誰かに極端に集中するわけでなく、分散されている。分散されているがゆえにネテロが死んでも替えが効き、集中しているがゆえに王という頭がつぶれると致命傷となったのである。人間側は正しく蟻の脆弱性をついたということになる。王の正確無比な判断能力に比べ、人間たちの合議体はあまりに鈍重で迷走し酷く間違うことがあると、選挙編や東ゴルトーという国の存在そのものによって示される。実はもう一つ加えるべき観点がある。メルエムとは人工知能としても側面もあったという解釈である。ここでの人工知能とは「人間をはるかに上回る高速学習能力があり、人間以上の知性がある」程度のものとしたい。瞬く間にルールと戦術を学習し、トッププロを撃破するメルエムから、将棋ソフト等の台頭を連想しないことは難しい。また、この知性がボードゲームだけに用いられるとは考えられない。思うに、統治とは「すべてのものにとって何が大切で何が大切でないかの究極的な意思決定をすること」だろう。また、ヴェーバーによると「理想的な官僚とは憤怒も不公平もなくさらに憎しみも激情もなく愛も熱狂もなくひたすら義務に従う人間のこと」という。最高の知性を持ち、人間中心のバイアスもなく、すべてを持つため何にも執着せず極度に公平な統治を行いうる主体がメルエムだった(例えば、以前のブログでしたマタイによる福音書5章43節から48節を参照)。キメラアントの出現は、近代型の統治様式に対して、前近代の統治とポスト近代(AI時代?)の統治による挟み撃ちでその自明性に揺さぶりをかけるものだったとも言えるのだ。

 まとめよう。キメラアントとは、メルエムとは何だったのか。それは当初災厄として現れた。しかし、少なくとも彼と相対した文武における人間の代表者たちにとっては、彼は福音であった。「このためになら死んだっていい」という身を滅ぼすほどの想いは、並び立つ者のない高みへと彼らを到達させた。彼らはすでに人ならざる領域に半歩踏み入れている。もはや彼らと同等の、彼らを満足させるような強度を与えられる相対者は人ならざる者以外ありえない。そしてその強度に生身の身体は耐えられない。彼らは求道者であった。信仰者であった。来る保証のない福音を待ちながらひたすら勤めていつまでも救済を待っている。あまりに多くを望んだ。それは身を焼き滅ぼすほどの幸福(神の玉座に近づき過ぎて焼かれたイカロス!)。彼らには二つの選択肢しかない。報われず緩やかに心が死んでいくのを待つか、それとも身を焦がし尽くす強度に焼かれてその肉体を滅ぼすか。道を極めて人ならざる者になったとき(それは真に自分の中に信仰を獲得したときに他ならない)、すでにその者は半分死んでいる。完成への燃え上がる想いは、死への衝動に限りなく近い。彼らは身を滅ぼすべくして滅ぼした。彼らはそれを望んでいたのだから。

 また、メルエムによる彼らへの祝福はいくつかの奇跡を起こした。その祝福を通じて、メルエムは人間そのものへの福音にすら変化しうる可能性を見せていた。その福音とは、やはり身を滅ぼすほどの幸福だったろうか。けれどもそれは果たされなかった。可能性の芽を摘んだのは他でもない人間自身であり、その行為は人間の罪を贖ったキリストの磔刑をも連想させる最も崇高な自己犠牲の形をとり人間すべてを救うものでありながら、同時に共生の可能性や新しい未来のための対話を圧殺する人間の愚かさ、邪悪さ、不寛容さ――あるいは原罪と言ってもいいかもしれない――を象徴するものでもあった。こうして極私的な奇跡と情死とあったかもしれない可能性は、厳然たる組織力を背景とした暴力と対話を拒む不寛容さによって踏みにじられ、人間たちの記憶・記録からすらも抹消される。なかったことにされる。ただ真実を知るのは、その奇跡とあったかもしれない可能性を知るのは、神の目を持つ読者のみ、ということになる。

 まだまだ書きたいことはある。具体的には①見届け人としてのパームの立ち位置及びその意味。②メルエムが初めて経験する死への恐怖または恐怖そのものと、それによる人格の変化はなかったか。別の言い方をすれば死への恐れや恐怖を知らないものに人間はわからないのではないか。③富樫作品でしばしば登場する生物学的な子を残さない異種婚というモチーフ。④苗字を持たない天皇の類似の「The King」という王の名前の問題。または「蟻」の「王」が人間になる経緯の詳細。⑤その性質上一度きりしかありえずどちらかを必ず滅ぼす武における真剣勝負と、何度でも実施可能で互いを高め合うことの出来る文における真剣勝負の比較。武とは暴力にほかならずその本質及び延長線上には核兵器が象徴する暗い側面があり、また人間社会全体を背負うという公への責任が癒着している。一方、文にはただそれ自体が目的であるという純粋さと、求道における「死んでもいい」とはまた別の「相手のためになら死んだっていい」という、敵を称えるとは次元の異なるリスペクト、すなわちエロスが描写されている。ネテロには武人及び人間代表という二重性が、コムギには求道者及び愛する者(であるが故の死)という二重性が付与されている。そして、人間が持ちうるもう一つの「死んだっていい」という気持ち、すなわち怒りと憎しみを体現したのが、本来の主人公たるそしてこれまで人間の明るい側面ばかりを担ってきたゴンだったということ、その構図に今更ながら驚く。まとめると、ネテロは求道及び人類のため、コムギは求道及び愛のため、ゴンは憎しみのために命をかけた。ここには人間の究極的動機に対する洞察がある。(1)求道とはすなわちそれが好きだからまたはそれをしたいから。(2)人類のためとはいいかえると特定集団のため。(3)愛のためとはいいかえると特定個人のため。(4)憎しみのためとはより正確には特定個人への憎しみのため。対事物が動機となるものは(1)のみであり、(2)~(4)は他者に向けられたものである。このように整理した場合、明らかに漏れている動機があることに気づく。特定個人/特定集団への正の動機及び特定個人への負の動機が(2)~(4)となる。よって、特定集団への負の動機が欠けている。すなわち(5)特定集団への憎しみが動機となる場合である(悪意を全世界にばらまきたいジャイロがその位置に来る可能性はあったのかもしれない)。また、このケースはすでに本作において描写済みである。クラピカの幻影旅団への憎しみである。クルタ族を滅ぼした実行犯でなくとも、クラピカにとって幻影旅団員であることは死に値する。つまり、クルタ族を滅ぼした特定個人が対象なのではなく、クルタ族を滅ぼした幻影旅団そのものが対象なのである。キメラアント編中ではそのような動機は描写されなかった。キメラアントにとって人間は食料であり憎しみを持つ相手でも絶滅させるべき相手でもない。また、人間にとっても、危険が去ればよいのであって、キメラアントという種そのものを絶滅させようという動きは最後までなかった。キメラアント編とクルタ族滅亡の件の違いは、根絶やしにされたか否かもあるが、原初の攻撃動機が根本的な差異の原因かと思われる。キメラアント編での人間及びキメラアントの攻撃動機は生存のためであり、それ以上を基本的に望まない(一部快楽殺人等はあれども)。要するに互いに理解可能な動機に基づくもので、「立場は違えどわかる」動機だった。一方、クルタ族滅亡の件は、そういうわけにいかず、「ただ欲しかったから」程度の理由で皆殺しにされたため、される側にとって到底承服できるものでない。ここらへんが差異の原因だと思う。以上から、種そのものを絶やそうとする絶滅戦争の動機は、その種との共存がどうあっても不可能な場合か、被害を受けた側にとってその攻撃が了解または承服可能な理由に基づくものでなかった場合に生じるのかもしれない。これら二つについて、前者の共存不可能な場合は合理的な動機である。一方、後者の場合、下手人以外の同属性のものまでもを滅ぼそうとすることは不合理である。しかし、その不合理さはその前にぶつけられた不合理があること(本作では「高々欲しかったから程度の理由で何故我が一族は苦しみぬいた末根絶やしにされなければならなかったのか」)を忘れてはならない。過去の不合理な行いに対する応酬として生じた不合理なのだ。ところで、完全に蛇足ながら備忘のため、命をかける理由としてもう一つあるかもしれないものを書いておく。(6)それが義務だから。これもカウントしてよいのか検討中である。これは大変な難問だと思われる。ネテロは上記(1)及び(2)のため死んだが、(6)ハンター協会会長という職責のため死んだとも解釈可能であり、選抜された討伐隊もまた職務としてハンターの義務として戦いに臨んだともいえる。問題は、義務とは煎じ詰めると上述の特定個人または集団のため等の理由に還元されえるのか、それ自体として左記とは別個の理由となりえるのか判断しかねるということにある。あるいは義務とは結局のところ、同調圧力や特定の地位・特権に対する対価、あるいは自己アイデンティティ成立のためのものなのかもしれない。とにかく大問題なので、ここではこれ以上は考えない。⑥アイザック・ネテロの自爆=イサクの燔祭をどう読み解くか。⑦幽遊白書軀はナウシカクシャナからきているという程度しか、富樫と宮崎駿の関係を僕は知らないが、宮崎作品に通底する人間の如何ともしがたい愚かさ・暴力性について、富樫はその系譜を嗣ぐものなのではないか、となんとなく思っていること。⑧本来本編はメルエム、コムギ、ネテロの三者ではなく、ジャイロを加えた四者を中核として進むべき物語だったのかもしれない。彼は⑤で言及したように、本編になかった(5)特定集団=人間への憎しみを動機として行動しうる人間である。ジャイロの回想「ヒトとは 父親のこと 否 ヒトとは人間だ 人間(ヒト)に迷惑を掛けるな オレは 人間じゃなかったんだ」。諒解不可能な仕打ちによる耐えがたい悲しみにより、父親への憎しみから飛躍し、人間存在そのものへの憎しみを持つに至ったように思われる。上述のとおり「オレは人間じゃなかったんだ」と過去回想において自己認識しており、さらにキメラアントの襲来で完全に人間でなくなった。このことはメルエムが人間となることと対になっている。また、メルエムがもたらそうとした福音とも対となり、人間に災厄をもたらすものになるはずだったのではないか(メルエムには母しかおらず、ジャイロは父子家庭であった。そして、ジャイロは飯場で育った大工(というほどおそらく高級ではないが)の息子(=キリストと同じ生い立ち)だったことも考察の価値があるのかもしれない)、という疑いがある。などがあるが、今後の宿題としたい。

補足:キメラアント編を読み解くためにキリスト教を持ち出したことについて、突飛に思う向きもあるかもしれないが、作中で複数の徴表が見いだせることを下記に示しておく。まずコムギに抱きかかえられ最期を迎えるシーンは、死んで十字架から降ろされたキリストを抱くマリアがモチーフになっているという指摘について。そして、下記ツイートについて。

  ここからわかるのは、メルエムこそがキリストであったということである。メルエム=キリストは、人間の代表者によりキリストを僭称するかのような振る舞いを通じて殺され、福音は人間に遍くもたらされることはなく、そして世界は救われたのである。