ブルーハーツの月の爆撃機の解釈について あるいは、政治と文学について

歌いだしの歌詞について、何人かの人と議論をしたことがある。僕の解釈と他の人との解釈が違っていることがずっと気になっていた。まずその部分の歌詞は以下の通り。

 

ここから一歩も通さない

理屈も法律も通さない

誰の声も届かない

友達も恋人も入れない

 

他の人の解釈は、これは内面の話をしているのだという。たしかに、それが素直な読解なのだと思う。でも僕は、これ以降の歌詞(後掲)との兼ね合わせから、どうしようもない強力な力によって線引きされた、暴力的な分断や断絶のことを表現しているように思った。典型的な例としては、国境に引き裂かれた人々が挙げられるだろう。二つの解釈について、今までは理屈では他の人の解釈の方が正しいと思いつつ、何か割り切れないものがあったのだけれども、その決着がついたので、その新しい解釈を書こうと思う。

とりあえず、歌詞の全文を書いておく。

 

ここから一歩も通さない
理屈も法律も通さない
誰の声も届かない
友達も恋人も入れない
手掛かりになるのは薄い月明り
あれは伝説の爆撃機
この街もそろそろ危ないぜ
どんな風に逃げようか
すべては幻と笑おうか
手掛かりになるのは薄い月明り
僕は今コクピットの中にいて
白い月の真ん中の黒い影
錆びついたコクピットの中にいる
白い月の真ん中の黒い影
いつでもまっすぐ歩けるか
湖にドボンかもしれないぜ
誰かに相談してみても
僕らの行く道は変わらない
手掛かりになるのは薄い月明り

 

一読して不思議に思うのは、この歌詞の主語、すなわち語り手が、混乱している点である。この「僕」は、爆撃する側であるとともに、爆撃される側でもある。舞台では今まさに空爆がなされようとしている。片方は爆撃機から街を見下ろし、もう片方は爆撃機を見上げ、街からの脱出を思案している。これから始まる破壊という蕩尽に、その密やかな予期に、隊列の仲間たちが興奮する中、ひんやりとしたコックピットでどこか孤独を感じている「僕」は、恐慌状態にある街の中で、ふっと爆撃機を見つめて、思いを致している「僕」だったのかもしれない。空爆前の異様な興奮や狂騒が、どちらの集団にも広がる中で、二人の「僕」はどこか冷めている。どこか遠くから今の状況を見ているところがある。二人とも、彼らのお仲間からは内面的に孤独である。この孤独がゆえに、この二人は、分かり合えたかもしれない。しかし、それは叶わないことだ。何故なら、二人は敵同士だからだ。更には爆撃機は、敵の顔すらも見えなくさせてしまうからだ。

こうして、内面的に仲間たちから分断されている二人は、物理的暴力によって分断される。国家や制度によって分断される。この分断はもう、どうしようもない。「誰かに相談してみても僕らの行く道は変わらない」とあるように、コミュニケーションの掛け違いや工夫を凝らすことで解決されるような、生易しい問題ではないからだ。どうしようもなく、分かり合えたかもしれない二人は、街を焼く者と逃げ惑う者とに分断される。皮肉なことに、何度も繰り返される「手掛かりになるのは薄い月明り」という一節は、灯火管制で真っ暗になった街を焼く「僕」にとっても、湖に落ちることに怯えながら暗闇を逃げ惑う「僕」にとっても、つまりどちらにも当てはまる。僕たちは分断されて、薄明かりだけを頼りに、どうしたって行き先を変えることの出来ない道を、行かなくてはならない。薄い月明かりとは、唯一残された二人をつなぐ共通点のことである。「彼らの中にはもう一人の僕がいるのかもしれない」という想像力こそが、二人をつなぐかすかな糸であり、二人に共有される手がかりとしての薄い月明かりなのである。

 

まとめよう。この作品は、空爆直前の異様な一瞬を切り取り、孤独な二人の「僕」に焦点を当てて、どうしようもない分断をスケッチしたものだ。所属集団からの孤立とその孤立に基づく(場合によっては所属集団を越えた)連帯とは、文学である。さらにそれを引き裂く圧倒的な強制力とは、政治である。そして、その圧倒的な強制力を前にして、かろうじて残った最後の弱弱しい希望、すなわち想像力としての月明かり。しかし、いつだってそこから連帯は再びはじまるというのもまた事実である。これによって、何故「月」と「爆撃機」を曲のタイトルにしたのかがはっきりした。爆撃機のすさまじい即物的強制力が片方にはあり、もう片方の月には即物的な強さの代わりに、すべての存在に遍く降り注ぐ、弱弱しくも決して絶えることのない光がある。

この作品は、政治と文学という、古典的なテーマを、独特の切り口で表現した、卓抜なものであると思う。国境の内と外とで人間の扱いが違うこと、つまり前述の分断は、今日のヨーロッパに殺到する難民や、それこそシリア爆撃を連想させる。この作品が普遍的だからなのか、それとも、世界はちっとも変わっていないからなのか。最後に、今になって気づいたことだが、「爆撃機」を持つことが出来るのは、西欧であり、近代国家であり、資本の力を手にしている者である。ここまではいい。そして、「月」とは、西欧や近代国家や資本と本質的に相容れない、イスラム教の象徴のひとつなのであった。あまりにも出来過ぎているように思った。

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