機械には代替出来ないこと、すなわち感情労働、あるいは人間を人間たらしめている何物かについて

機械が決して代替出来ない人間の営みの領域があるのではないか。あるとすればそれはどのようなものか、について考えたい。

一般に、近代以降の歴史は、機械が人間の仕事を代替していく過程、その範囲を拡大していく過程であった。労働は、伝統的には肉体労働と頭脳労働とに分けられる。まずは肉体労働の領域を機械が代替するようになり、今日では頭脳労働の一部をも代替するようになりつつある。

現代においては、肉体労働にも感情労働にも分類されない、第三の労働の区分が存在する。感情労働という。手元にある有斐閣社会学の教科書によると、「職務内容を遂行するために適切な感情状態や感情表現を作り出す必要があり、自らに感情管理をほどこさなければならない労働」と感情労働は定義されている。社会学者A・R・ホックシールドによる1970年代アメリカでのフライト・アテンダントの調査研究が著名である。

思えば、感情労働の登場は必然であった。一般に、機械による労働の代替で浮いた人員は、未だ機械によっては代替不可能な領域へ投下される。その有力な一つが接客業、つまり感情労働の領域である。フライト・アテンダントの例で言えば、航空業界の競争の激化を背景にした、顧客満足度の向上や競合他社との差別化を図る戦略の一つが、接客サービスの充実であった。これからも、機械による代替によって浮いた労働力は、未だ機械により代替されえない領域に投下され続けるであろう。これは感情労働が、未来の労働の現場において、一層大きなウェイトを占めるであろうことを示している。

僕は感情労働が機械によって代替されえないことを面白く思う。なぜなら、この事実は人間そのものの根幹に関わる事柄であるからだ。どう根幹に関わるのかを説明するために、まず思考実験をしてみたい。身体的には人間と全く同一の、セクサロイドが存在したとする。この存在とセックスしたとして、容姿の全く同じ生身の人間とセックスした場合と同様の満足感が得られるとは思えない。この<生身の人間とセックスしたときの満足感>から<セクサロイドとセックスしたときの満足感>を引いたとき残るなにものか=Xが、人間を人間たらしめているものである。寂しさを感じるということ、他人を必要とするということ、コミュニケーションを必要とするということ、社会的性格、などと言い換えてもかまわない。

ここで一つの反論がありうる。残余の部分Xもまた、機械の性能が良くなるにつれて代替可能になるのではないか。例えば、人間は人肌に触れると、オキシトシンが分泌されるという。そのような部分まで再現できれば、完璧なセクサロイドを作ることは可能なのではないか。

突き詰めて考えるならば、これは機械の性能の問題ではない。人間の認識の問題である。究極的には、人間が相手を機械だと思っている状態では、造りの完璧なセクサロイドであったとしても、身体や脳の反応は異なってくる。よって、人間がセクサロイドを人間であると考えている限りにおいてのみ、セクサロイドは完璧なセクサロイドになりうる。

また、もう一つの考え方もある。人間を人間たらしめているものXを、人間が適応の過程で失っていく場合である。他人との関わりなくして生きていけないというのは、不要なコストである。よって、他人を必要とせずとも生きていけるようになればいい、という適応の可能性がある。

この場合はどう考えられるだろうか。人間を人間たらしめているものXは、人間を人間たらしめていることそれ自体を根拠に、人間がXでなくなるということはありえない、と言うことはできない。しかし、Xという前提を人間が失ったとき、人間は人間ではなくなる。なぜならXとは、人間は社会的動物であるという最も根本的な人間の要件の一つであるからだ。最も根本的な人間の要件は他に、寿命があることが挙げられよう。このような要件を欠いた人間が生まれてくるということは、大半の社会的前提が覆されることを意味する。寿命がなくなった人間が存在する社会を考えてみると想像しやすいだろう。

以上から、Xを人間が失うことを想定した場合、労働というレベルどころではない規模の広範囲の社会が変化してしまうので、まずはそこから考えなくてはならないということがわかる。Xとは、ある種の臨界点だったのだ。臨界点以降の世界について思考実験してみても面白いけれども、今のところここまでしか、考えようとは思わない。

続編:機械が人間になるとき、そして、人間が機械になるとき - killminstionsの日記

 

明晰さと機能美

明晰な文体にフェティッシュな魅力を感じる。

余計な箇所をギリギリまで削ぎ落としたセンテンスが、段落が、相互に関連しあう構成を繰り返し読む。それはとても楽しい。味わい深い。そのような文章を書く作業も、調子がいいときにはやはり楽しい。

文章を磨く営みは、彫琢という言葉で言い表される。原義は「宝石などを、加工研磨すること」だそうだ。それなら、僕の持っている文章を書くイメージと少し異なる。頭の中にある像を石の中から彫り出してくる。これが一番しっくりくる。少し彫ってはじっと見て、ちょっと右の方を彫りすぎたかな、と次は左側を彫る。彫っていくうちに頭の中のイメージがより鮮明になっていく。そして少しずつ変化していく。当初のイメージとは違ったものが出来上がることもあろう。

対象が作られていく過程で、スクリーンに映ったぼやけた像は次第にはっきりしたものになっていく。各所から発した光が焦点を結ぶ。そして、焦点が逆照射して個々の要素の位置付けをする。ここでは焦点は一つとは限らない。焦点とは、機能であったり解釈であったりする。

話は飛ぶが、銃や飛行機や建築などの機能美というものが、いまいちピンとこなかった。なんとなくはわかる。けれども、美という体感的なものとしては、感じ取ることが出来なかったのだ。最近、それがようやく腑に落ちた。なんのことはない。明晰な文章を味わうのと同じく、対象に関する読解力を要したから、わからなかったのだ。

両者ともに、余計なものをそぎ落とす過程で、個々の要素が複数の機能を併せ持つことを要請される。その結果、必然的に個々の要素は有機的関連を持つことになる。それぞれの部分が、他の部分や全体との関連でどのような役割を果たしているのか理解できなければ、対象を味わうことは出来ない。対象を味わうとは、個々の要素の多義性を楽しむことであり、複雑に絡み合った要素のネットワークを読み解くことである。それにより多様な解釈を試みることである。また、制作の過程を感じ取ることであり、他の可能性を検討することでもある。

この文章を書く過程で、作品を制作することと道具を製作することの違いが(本当ははっきりと分けられはしないが)、そして、書くことはその二つを兼ねているということが、うっすら見えてきた。それについてはまたいつか。

 

復讐について 東方アレンジ『GRIMOIRE×ALICE(こなぐすり)』を題材にして

物語の題材としての「復讐」は、それなりにポピュラーなものである。思いつく限り挙げてみて、ハムレット忠臣蔵ハンターハンターのクラピカ編、恩讐の彼方にモンテ・クリスト伯などがあろう。

僕の知る最も優れた復讐をテーマにした物語について書きたい。東方Projectの二次創作作品の『GRIMOIRE×ALICE』である。

 

曲:https://www.youtube.com/watch?v=OM2SejPDVvs

歌詞:http://www43.atpages.jp/toholyrics/mobile/menu.php?songnum=491

 

まず、歌詞のストーリーをざっと自分なりの解釈で説明しよう。以下、「」内は歌詞の引用。

歌いだしで「さぁ、遊んであげるわよ! 究極の魔法でね!」と啖呵を切った後、「絡み合うもつれた螺旋がえがいた二人の交わる運命はあの日から二度戦う未来が在る事判っていたから」と、相手との数奇な運命を辿る。

そして、「闇に咲いた深紅の月 心の中問いかけた『どうして?』」と、前段で復讐のきっかけとなる惨劇が暗示され、後段では<何故私にこのような悲劇が降りかかるのか?>という、決して答えられることのない根源的な問いが投げかけられる。

「この体渦巻く想いを隠して生きてく事なんて出来ない」と、過去に囚われた、あまりの不条理に崩れ落ちそうになる身体。「巡る星のあかりを辿り あなただけは逃がさない」という悲しくも凛々しい決意をもって、生きる意味を見出し、かろうじてその身体を支えている。

―――――「目覚めたら全てが終われば…儚い夢など見たくないこれ以上」

 

「教えて? Grimoire 全て壊す力を」

今や彼女にとって復讐の成就は、世界の全てを滅ぼすことと等価ですらある。

 

きらめけ Grimoire 憎しみその身を焦がす」

「解き放て Grimoire 哀しみこの身を濡らす」

 

 

さて、「ここに記されたのは…」から始まるラストの口上。

ここで今までの美しい歌い方とうってかわって、決然とした口調で宣告が下る。「私はもう決してあなたを…ゆるせない」。そして、「煌めく星達のあかりを辿り あなただけを逃がさない」と決意の言葉が、再びあの美しい歌唱でもって繰り返される。それは愛の言葉にも似て甘く歌い上げるようである…

―――――「紡ぎ出す言葉は甘く溶けて」

ここでハッとした。何故前後で歌い方を変えているのか。この曲を歌うこと自身が、Grimoireの発動条件だからではないのか。歌いだしの語りは詠唱開始の宣言であり、歌中の語りは詠唱が完了し、発動を宣言するものである。

折り目正しく、美しく、この曲を歌い上げること。形式が正しければ正しいほど、歌が美しければ美しいほど、復讐の相手をより苦しめて殺すことができる。自身でも制御しがたいほどの感情を、形式に則ることによりかろうじて我が物としているのである。怒りと悲しみというワレモノを、言葉と形式という布で幾重にも幾重にも、それこそ赤子を慈しむようにくるみ、そして憎悪を護り育てていく。そうしなければその憎悪は暴発し、どこかでしぼんでしまうだろうから。感情は意志により一貫性を付与される。

この曲の核は、抑制の効いた優しい歌唱と歌われる内容の激しさとの異様な乖離である。あまりに強い負の情動は、時に愛を語るような優しさをもって表出されるという逆説が巧みに表現されている。

 

 

 

ところで、今日において、強度のある物語は、功利主義の外側をテーマにしていることが多いように思う。そのこと自体については後日詳述するとして、本題に引き付けて書くならば、以下のようになろう。

<復讐は何も生まない、力の応酬は更なる悲劇を生む>という言い古された言葉。この命題に拠って立つ復讐の物語は退屈だ。わかりきった優等生的回答しか期待できない。この曲の素晴らしさは、喪ったものにたいする悲しみと怒りを、正面から書いていることである。もうどうしようもない事柄にグズグズと拘泥し続けること、それは一つの倫理である。

何も生まないことが何であろう。更なる犠牲が何であろう。既に喪ったものと、これから喪うかもしれないものを同列に扱うこと、それらを量的に同じ数として扱うこと、それ自体が最も愚かしい。

歌詞を読むと、悲願を果たし復讐という生きる意味を失った今、あるいは仇とともに、彼女は死のうとしているのではないか、という疑念が湧く。また、生きていくとして、分別くさい功利主義を拒絶して独我的に突き進んだ結果と、彼女はこれから向きあう。また新たな意味づけをしなくてはならなくなるのだろう。それが定型的な贖罪なのか、それともまた他の何かなのか、それは誰にも今はわからない。

ただ一つ言えること。ラストの「さよなら… Grimoire 二度会うことはない 動き出す最後の LAST SPELL 見つめて…」の、最後の声にこもった感情は、放出の虚脱だけでは決してない。