機械が人間になるとき、そして、人間が機械になるとき

以前のブログ『機械には代替出来ないこと、すなわち感情労働、あるいは人間を人間たらしめている何物かについて 』で、「人間がセクサロイドを人間であると考えている限りにおいてのみ、セクサロイドは完璧なセクサロイドになりうる」と書いた。これはつまり、セクサロイドを人間であると人間が認識しない限り、セクサロイドは厳密には人間になりえない、ということである。

また、「他人との関わりなくして生きていけないというのは、不要なコストである。よって、他人を必要とせずとも生きていけるようになればいい、という適応の可能性がある」とも書いた。つまり、人間が効用の最大化のみを目的として行動するならば、上のようになるのが当然の帰結であろう、ということである。今回は、暗に設定していた「人間は効用の最大化のみを目的として行動する」という仮定を中心にして、もう少し考えてみたい。

まず確認しておきたいことがある。あらゆる労働を機械が代替するようにさせることが人間の今までの一貫した運動原理であった。これである。ここでの労働とは、他人に効用を提供する営み一般を指す。肉体労働は大半が機械によって代替されるようになった。また、今日においては、ビックデータ云々が話題になっていることからもわかるように、頭脳労働もまた、多くの部分が代替されるようになりつつある。そして、その上でも未だ代替されえないであろう領域は、感情労働なのであった。

ここにおいて、「感情労働が機械によって代替される日が来るのであろうか」という問いが生まれる。これは、「完璧なセクサロイドは可能か」という問いとまったく同じものである。また、これから書くことを先に書いておくと、「人間はモノ(=機械)になりうるか」という問いとも同じものである。どういうことだろうか。

 これを考えるには、機械を人間にしようとする、人工知能の研究の流れを参照する必要がある。後述する著作によると、基本的に、人間に近い機械を作ろうという試みは、人間をベンチマークとして、つまり、究極到達点として、限りなく近づこうとするものである。多くの場合、その営みは、人間に備わった機能を一つ一つ備えていくものと考えられている。歩くロボットアシモや会話するロボットペッパーなどがその好例であろう。これを、本文では単純ベンチマークと呼ぶことにする。一方で、もう一歩踏み込んだ取り組みとして、人間とはそもそも何か、という定義に立ち返った上で、そこから組み立てていこうという試みがなされている。そのような本として、『コミュニケーションするロボットは創れるか―記号創発システムへの構成論的アプローチ 』は大変良書であった。またこれを、本文では定義に立ち返ったベンチマークと呼ぶことにする。

さて、本文では、さらにもう一歩踏み込んで考えてみたい。単純ベンチマークにせよ、定義に立ち返ったベンチマークにせよ、欠けている視点が存在する。それは、究極到達点である人間自体が、すなわち、人間の定義自体が、時代によって変化する、という点である。つまり、「人間が何を人間として認識するか」は、時代によって変化する、ということである。たとえば、かつてアボリジニは、カンガルーなどと同様に、白人の狩りの対象であった。要するに、前述の両ベンチマークは、機械が一方的に人間に向かって漸近していく過程を想定している。それに対し、本文では、機械が人間に近づいていくと同時に、それに刺激されて人間もまた機械に近づいていく、より厳密には人間の持つ人間観が変化していく、と想定している。人間と機械とが、相互に影響を与えつつ、近づいていっているのである。

さて、ではその人間観の変化とは、具体的にはどのようなものだろうか。僕は、人間観の変化が、現在進行形で進んでいるものと考えている。今日において進行中の、その変化とは、他人を機能として一面的にのみ見るまたは扱うようになってきていることである。コンビニの店員を僕たちは最早、一人の人間としては考えていない時がある。その時、彼らは、特定の決まった動作を行う音の出る接客マシンである。聞くところによると、あるスーパーの研修では、特定の行動以外出来るだけしないこと、それ以外の行動をして損害が生じた場合は、本人が責任を取らなくてはならないことが告げられたそうだ。それを教えてくれた彼が感じたことだが、この点で、雇用者もまた、店員を人間として見ていない(ところがある)。何故このように特定の機能としてしか他人を見ない/扱わないのかというと、その方が効率が良いからである。つまり、より提供したり獲得したりできる効用が増すからである。この点で、僕たちは、効用以外を必要としない人間になりつつある、と言っても良い。まとめると、他人とのかかわり方が一面的機能的単純化されればされるほど、僕たちは機械に近づく。そして、何を必要とするか、という意味でも、求めるものが効用のみ、という単純化一面化が進むほど、やはり僕たちは機械に近づく。

人間関係の構築の仕方が変わると、人間観も変わる。またその逆も成り立つ。つまり、両者は鶏と卵の関係にある。商店街などでの人間的関係を含んだ取引から、スーパーマーケットでの金銭と商品の交換のみに主眼を置いた取引に移行したのは、その方がより効率的であり、気が楽だからだ。こうして、戦後のスーパーマーケットの導入から、ゆっくりとそれが定着し、そのような関係の取り結び方も定着していった。重要なのは、その変化が、着実にではあるがゆっくりと進んできたということである。特定の環境や技術の変化に対し、それによって社会が変化するのは常により多くの時間がかかる。もしたった一人が時代の先を行く感覚を持っていたとしても、回りの人々からの視線や態度により、多くの場合引き戻される。これが社会が変化するのに時間がかかる理由の一つであろう。引き戻しの例としては、アイドルや架空のキャラクターへの過剰なコミットメントに対しての、周りの反応によって、またはそのような反応を想定することによって、コミットメントの度合いが弱くなる、というものがあろう。アイドルは恋愛もしないしうんこもしない。それは、アイドルはファンを喜ばせるコンテンツであって人間ではないと認識されているからに他ならない。そして、そのファンは、人間的でない関係をアイドルと取り結び(あるいは取り結んだと仮想し)、それで満足する。僕は、アイドルという現象の少なくとも一部は、人間を人間として扱わなくなっていく過程の今日における最前線であると考えている。そのようなあり方について、どのような立場をとろうとも自由である。しかし、もし人間を人間として扱うべきであるという立場に立つのならば、いちいち現実に引き戻すような発言により、社会の大勢がそのような方向に向かわないようにする必要があると思う。

「人間は効用の最大化のみを目的として行動する」という仮定を前提とする限り、何故他人と関わるのか、それは、他人からしか得られない効用が存在するから、という答えになる。ならば、機械によりすべての効用供給の代替(構ってくれたり、子どもを作ったりするのもここには含まれる!)が実現されると、最早他人と関わる必要は存在しない。むしろ、他人は、自身と同様に自己利益のみを考える存在であるため、機械と異なりコントロール不能な、リスクでしかない。よって、ここで想像される世界は、一人の人間とそれを取り巻く機械たちという組が無数に存在し、互いに全く関わることのない島宇宙である。こうなると、機械が最小化され、脳に電極が埋め込まれ永遠に眠り続け生き続け永遠に幸福である状態、そして、それで何の問題があるのだろう、と人々が考える社会まで、後一歩である。

ここでは、効用に対し、尊厳が対置されている。尊厳は、承認欲求とも誇りとも伝統ともアイデンティティとも言い換えていい。幸福のために人間はどれだけ尊厳を手放すのか、このような古典的な問いは、未だに有効である。

アリストテレスの定義「人間とは社会的動物である」。これを自分なりにここの文脈で読み替えると、人間とは、他人を必要とする動物である、となる。そして、他人を必要としなくなった、すなわち他人と関係を結ばなくなった、つまりは社会性を喪失した、そのような動物は、最早人間ではない。これが人間の終わりであろう。機械と人間とが近づいていって、最終的に交わる点、それが人間の終わりに当たる瞬間である。機械が人間になるときとは、表題にある通り、人間が機械になるときでもあったのだ。

理屈の通りに進めば、人間は早晩、人間であることをやめる。しかし、少なくとも僕にとっては、これは直観に反する。そう簡単に人間を人間がやめるとは思えない。電極を脳に刺して眠り続けて良しとする存在に「成り下がる」ことを簡単に受け入れるとは思わない。理念型と直観による予想とのズレを考察することにより、また何か見えてきそうだけれども、今回はここまでにする。