物語的シミュレーションについて 何故人は物語を求めるのか

 「まどマギとヴェーバー 奇跡の日常性について」という記事で昔、「物語的想像力によるシミュレーション」という造語を使った。今後は「物語的シミュレーション」と呼ぶこととし、この語の意味をより詳細にすることで物語の持つ効用を明らかにするとともに、そもそも物語とは何かについても少し考えてみたい。

 「物語的シミュレーション」とは通常用いられる語であるシミュレーションを念頭に置いた語である。では、その違いとは何か。『三省堂大辞林(第3版)』によると、シミュレーションとは「物理的あるいは抽象的なシステムをモデルで表現し、そのモデルを使って実験を行うこと。実際に模型を作って行う物理的シミュレーションと、数学的モデルをコンピューター上で扱う論理的シミュレーションがある。模擬実験。」とある。要するに以下のように言い換えても良いと思う。シミュレーションとは、特定の挙動とステータス(あるいは物理構造)を予め設定されたアクターたちが、①彼らに影響を与える環境下に置かれたり、②アクター同士で相互作用することを通じ、どのように挙動やステータス(あるいは物理構造)が変化するかを確認することで、何らかの含意を引き出すこと。ここで重要なのは、挙動とステータス(または物理構造)、環境が与える影響はシミュレーション開始前に定まっている(または設定されている)ことである。物理的シミュレーションの場合は物理法則に規定されるし、論理的シミュレーションの場合は設定時の定義に規定される。

 このような整理の上で、物語的シミュレーションはどのように説明されるか。登場人物(むろん人でなくても良い)たちがアクターであることにはまず間違いない。物語とは、特定状況下に置かれた様々な意志を持った登場人物たちが相互に作用し、出来事が展開していく様を記録した一連の記述のことと言ってよいだろう。問題となるのは、「物語世界を統御する法則とは何か」である。「物語とはフィクションに他ならないのだから何でもアリ」だという考えもあるだろう。しかし、それは様々なありかたで存在する物語のうち、ほんの一握りの物語が持つ法則でしかない。

 大谷翔平藤井聡太の登場はこの問題を明らかにするのに役に立つ。彼らは「フィクションで出そうとしても非現実的すぎて却下されただろう」とか「現実がフィクションを超えたキャラだ」などと言われる。フィクションとは実はそんなに自由ではない。現実で出てきた人物または起こった出来事は、それが実際に起こったというそれ自体によって、強度が担保される。映画などで見る「これは実話である」といった前書きは手軽に強度を調達するための、意地悪な言い方をすればズルいやり口だといえる。フィクションは説得力を必要とする。主人公は何故特別に強いのか。実は特別な血筋を引いているから。特異な過去や生活があったから。ある事情や出来事で特別な能力を持つことになったから。フィクションで説得力を持って大谷や藤井を出すことが難しいのは、こういった理由付けが困難だからだ。

 確かこれらのエクスキューズを必要としないジャンルは存在する。しかし、理由付けを放棄した瞬間に、その作品は「なんでもアリ系ファンタジー」に分類されてしまう。現実世界が物理法則に支配されているように、物語世界も説得力、すなわち理解可能な因果連関の要請に従わなくてはならない。

 「物語世界を統御する法則」とは理解可能な因果連関である。「このキャラクターはこういう性格や過去があるので、ここではこのように動かないとおかしい」とか「この作品の世界観はこういうものなので、そうなっては世界観を壊すことになる」のように、キャラクターにも世界観にも一貫性が求められる。スクールランブルの作者は出すキャラクターを掴むために、生活リズムや家族構成、部屋の間取り等々詳細なパーソナル情報を徹底的に設定したという。そうすることを通じてキャラクターを深く理解し、自然に動き出すようにした。また、作品の世界観の出来は、コンセプトや作者が書きたいことがはっきりしているかにかかっている。それらが考えつくされたとき、作品は矛盾のない(あるいは矛盾が問題とならない)説得力を持ったものとなる。

 物語は作者の恣意に左右されてはならない。そして同時に、作者自身の内面を突き詰めることを通じ整然とした一つの体系を作ることが要求される(合議制で作られる物語やN次創作についてはこれが当てはまらない点があり、検討の価値があるが今回は保留する)。つまり、まずは現実世界の法則に準拠することが求められ、それから離脱する場合は現実法則に代わる何らかの一貫した法則に従うことが要求される。

 物語的シミュレーションに戻ろう。物語的シミュレーションの物理的/論理的シミュレーションとの大きな違いは、従うべき法則を自身で作り出さなければならないこと、そして作品全体へのその法則への適用を自身で行わなければならないことである。これらが上手くいったとき、はじめてその物語的シミュレーションの出力結果は説得力を持ったものとなる。要するに、ご都合主義の匂いのしない物語展開であるとき、はじめて読者はその物語を説得力がある物語だと考えるのである。

 具体的な例の検討に移ろう。すべての物語はシミュレーションの側面を持つ(作者が時々いう「何々の問題を考えてみたいと思ったのでこの作品を書いた」という発言が好例)が、最単純モデルともいえる作品群があるため、その一つを使いたい。我々の住む世界と同じ条件を持った過去や現在を舞台にした作品である。舞台が過去なら『ジパング』や『戦国自衛隊』、現在なら『サンクチュアリ』、『デスノート』、『寄生獣』などがある。作品世界が現実に存在する/した世界に準拠しているためその設定や説明をする必要が少なく(この点が多くのSFと異なる)、現実と異なる点がただ1点であるところが特徴である。「異なるただ1点がどのように世界や人に影響を与えるのか」、「そこから何が見えてくるのか」が作品の肝となる(余談だが『ドラえもん』は22世紀の設定を無視して1話完結レベルで見れば、まさしく「ひみつ道具という特異点を通して平凡な日常がどのように変化して見えるか」という思考実験である)。先ほどあげた最単純モデルの中で、僕は『寄生獣』を使おうと思う。というのは、作者が本作品をシミュレーションであることに自覚的であり、かつシミュレーションとしてよくできているからである。

 物語冒頭で寄生生物が飛来する。「何故飛来したのか」は最後まで語られることはなかった。これはシミュレーションであり、その必要がないからだ。そして、この作品は①自己学習する知性が発展していくシミュレーションであるとともに、②「人間と同等以上の知性と戦闘力を持った生物が人間を主な捕食対象としてきた際に人間はどう考え行動するか」、「どのような倫理的問題が暴露されるか」を同時にシミュレートした点が優れている。

 ①について、もともとは大きな差異がなかった個体たちの個体差が大きくなっていく様が書かれている。第一に育った環境ではっきりと場合分けされており、それに応じて寄生生物の特徴が異なっていくことが示されている。頭に寄生した個体、腕に寄生した個体、顎に寄生した個体、犬に寄生した個体、群生する個体がそれぞれ出てきた。第二に、環境だけでなくたまたま積み重なった経験等諸条件により次第に個体差が出てくる点も描写されている。当初は自己保存が最大の目的であった個体たちが、おそらくは学習対象である人間の影響を受け(再び余談だが、知的生命体が学習するにつれ人間に似ていくことを正当化するロジックとして、「学習対象やベースとなっているのが人間であるから」というパターンは『ハンターハンター』のキメラアント編でも用いられた)、その個体独自の目的・理由(それは自己の生存を放棄する理由にもなりうる)を獲得していく様も描かれている。個人的な話だがここから、僕は下記のような含意を得ることが出来た。豊饒な含意を引き出すことが可能であると思う。「学習には新規情報の投入が必要であり、情報を得るためには①外界への働きかけと②働きかけによる結果を得るための感覚器が必要となる。つまり、人間同等の知性・感性を得るためには人間同等の出力と感覚器が必要となる。さらに言えば、人間を上回る出力と感覚器を持つことが出来れば、人間の知性と感性を上回ることが可能になりうる。すなわち、知性や感性を規定するものは必ずしも脳とは限らない」。

 ②については、一般に寄生獣のテーマと考えられておりあらゆる場所で言及されているため、新しく書こうとは思わない。重要なことはたった一つの特異点が現実世界に導入されることにより様々な箇所で変化が生じ、変化は相互に影響し合い意識されなかった問題が明らかになること。例えば、ミギーのセリフ「シンイチ・・・『悪魔』というのを本で調べたが・・・一番それに近い生物は、やはり人間だと思うぞ」。あるいは広川市長による演説「人間1種の繁栄よりも生物全体を考える、そうしてこそ万物の霊長だ。正義のためとほざく貴様ら人間、これ以上の正義がどこにあるか。人間に寄生し、生物全体のバランスを保つ役割を担う我々から比べれば人間どもこそ地球を蝕む寄生虫!…いや、寄生獣か」。そして田村玲子の「だが・・・・・我々はか弱い。それのみでは生きてゆけないただの細胞体だ。だからあまりいじめるな。そして出た結論はこうだ。あわせて1つ。寄生生物と人間は1つの家族だ。我々は人間の「子供」なのだ」。

 物語とは作者と彼が住む世界の良識との対話で紡ぎだされていく。ここでの良識とは正常な判断能力を指す。例えば、水島新司は『ドカベン』でピッチャーゴロにさせる予定のコマの出来があまりに良いのでホームランにしたという逸話がある。水島は「正常な判断能力を有する読者がこのコマを見た場合、ピッチャーゴロにしたらおかしいと思わないだろうか」という判断をしたのだと思う。寄生獣でも同様の事態が生じている。当初寄生獣は短編のはずだったが、最終的には全10巻の作品となった。その間に世間の環境問題に対する考えが変化し、それに応じて結末も方向修正を行ったという。このことは物語とは作者だけのものではないこと、そしてそのこと自体が作者の意図せざる結果を、すなわちシミュレーションとしては最も望ましい出力結果を、産み出す可能性を持っているのである。

 ここまでで物語のシミュレーションとしての効用について検討した。しかし、物語の効用はこれがすべてではない。僕が知りたいのは、「人は何故物語を必要とするのか」だ。以下は今後の宿題である。どんな効用があるから人はそれを求めるのか。思うに、少なくとも他に①自分は体験していない/体験できない事柄を仮想体験できる効用、②世界を説明するための言語を獲得する効用、の2つがある。前者は例えばハリーポッターのようなファンタジーラノベ異世界もの一般、ある種のBLがあるだろう。ニュアンスとしては、主人公か誰かに感情移入し、登場人物と一緒になって体験するものを想定している。その点RPGやギャルゲーのようなゲームもここに含まれるだろう。後者は物語すべてが持つ普遍的な効用かもしれない。僕たちは特定のキャラや世界に憧れ夢中になる。そのとき僕たちは、自分はどう生きるべきかを作中に見ているのかもしれない。また、どのように世界を理解し説明すればいいかの語彙や文法を探しているのかもしれない。子どもが『クレヨンしんちゃん』にハマるとき、その子は今まで周りの大人たちが見せてきた世界以外のものを発見し、新しい語彙を格闘しようと夢中になっているのだと思う。あるいはジャンプや司馬遼太郎の読者はそこに生きる指針を見出し、また別の人は『GTO』や『ジョジョ』で自分や世界の問題を整除する語彙と文法を身につけるのだろう。あるいは『NANA』や『下妻物語』で自分の帰属先や対外的なコミュニケーションフォーマットを見つけ、それを摂取し構築していくのだろう。前者と後者の違いは、現実と切断されているか否かである。現実と切断された物語体験それ自体が目的となるもの。そして、現実を生きるための世界認識方法を獲得するための手段となるもの。これらについても検討してみたい。

 また、 物語を「現実と切断された物語体験それ自体が目的となるもの」と理解するならば、生きることそれ自体との違いはほとんどなくなる。物語とは意味の連なりである。ところで人は退屈を恐れる。退屈とは意味が生じないことだと思う。人は意味の連なりという意味での物語を実体験にせよそうでないにせよ求めている。何故求めているのか。それがまず不思議だ。そして、ここでいう物語は大雑把に①本人の体験、②他者の体験、③完全なフィクションの3つに分けられると思う。神話や民話はここでは考えないこととする。これらはどこが違ってどこが同じなのかも検討したい。

 最後に、スポーツが良質な物語を産む良質な装置であることについてもいつかきちんと書きたい。別にスポーツでなくても良いのだが、2者(以上)が相反する利害をめぐって争うとき、妥協という選択肢がないとき、いわゆる筋書きのないドラマは産まれてくる。それは両者が死力を尽くすからであり、互いが互いの裏をかきあらゆる手を使おうとするからである。あらゆる想定しうるシナリオの上を行こうと互いに試みた結果、誰も想像も創造もすることのできない意図せざる結果が不意に生じる。そのような意味で、スポーツには弁証法的な物語自動生成装置が埋め込まれている。これが人がスポーツを欲する理由だと思う。