キッズリターン考察「まだ始まっちゃいない」まあちゃんからシンジへの励ましと「まだ終わっちゃいない」北野武からまあちゃんへの励まし

キッズリターンのラストシーンに対する解釈は、北野武自身が言うように、意見が分かれている。①最後のセリフを素直に受け取り希望を見出すもの。とはいえ②現実には彼らは「終わっちゃっている」と理解するもの。①はナイーブ過ぎるが、②あまりに希望がない。第三の解釈もある。③全身に入れ墨を入れ破門され腕の腱を切られたまあちゃんは「終わって」いて、ボクシングを挫折したに過ぎないシンジは始まってすらない、というものだ。ラストの二人乗りのシーンがそれを象徴する。前を向き自分で自転車を漕ぐシンジと、横に向いて足をぶらつかせているだけのまあちゃん。こう解釈するとラストのセリフ「まだ始まっちゃいねえよ」は違った意味を帯びてくる。まあちゃんはこういったのだ。(お前は)まだ始まっちゃいねえよ、と。主体性がなく誰かに寄りかからずには生きていけないシンジが、昔のようにまたまあちゃんに甘ったれたとき、まあちゃんは「大丈夫だ、なんとかなる」とシンジの背中を押したのだ。まあちゃんとシンジは再び一緒になったけれども、運命において人生において二人は完全に分かたれてしまった。ひょっとすると、②よりも一層残酷かもしれない。それでも、この③が最もしっくりくる解釈だった。でも少しだけ違うらしいと気づいた。それについて書く。

 僕はこの作品の主人公はまあちゃんだと思っている。まあちゃんが物語の中心にいて、その周りをシンジ含めたいろんな人々がまあちゃんとの親しさに対応して近くや遠くを群像劇風に回っているように見えている。物語を切り拓いていったのは、いつもまあちゃんだった。まあちゃん(とシンジ)は学校のお荷物で、他に友達はいないし先生からは「いつ辞めてもいい」「学校はボランティアじゃないんだ」と心ない言葉を投げかけられる。誰もまあちゃんを認めてくれない。お前なんかハンパで何者にもなれないクズだ。陰に陽にそのような態度を周りからとられ続けている。そんなとき、多くの人はつぶれてしまう。何度も「お前には価値がない」と言われ続ければ、自分ですらもそれを信じてしまう。そして、本当にそうなってしまう。それでもまあちゃんは負けなかった。チクショー、バカヤロー、俺だって俺だってすげえんだ。すげえ奴になれるんだ。学校を飛び出して、何者かになろうとした。ボクシングを始めた。でも、才能は残酷だった。後から始めたシンジがまあちゃんをすぐに追い抜いてしまう。どうしたって届かないし追いつけない。それでもまあちゃんはくじけない。「また<新しい何か>を探すわ」。<新しい何か>をまあちゃんは見つける。僕はここに育ちや環境の残酷さを感じる。あこがれるモデルの貧しさを感じる。まあちゃんが身近で理解可能な成功のモデルはヤクザだった。

 ところでキッズリターンは群像劇の側面を持つ。冴えないヒロシは測りの会社に行っていつの間にか憧れのサチコを射止めていた。漫才師になったまあちゃんの同級生たちはやっぱり売れていない。ヒロシはタクシーの運ちゃんに転職して食えないから無理を続けていたらあっけなく死んでしまった。ラスト近くではあの漫才コンビが今まさに売れ始めようとしている。そしてちゃっかりまあちゃんがしばいたあのときの不良が二人のマネージャーにおさまっている。まあちゃんとシンジは成功をつかんだと思ったらあっという間に落ちぶれてしまった。自分がないシンジは悪い先輩に流されてボクサーとしてのキャリアを台無しにした。まあちゃんは、もっと哀しい。自信のなさや経験のなさ、実績のなさ故に切ないほどに焦がれた成功は、それをつかみかけたとき、まさに恋焦がれたがためにするりと手からすべり落ちて、もう二度と元には戻らなかった。みんなを見返そうと、自分自身を見返そうとしたまあちゃんは、本当のところでは自分を信じ切れていなかった。わずかな成功を手にしただけで、舞い上がり自分を見失い、何もかもをダメにしてしまった。持たざる者の哀しさだ。持つものは成功を得たとしても舞い上がったり自分を見失ったりはしない。この哀しさが本作の白眉だと思う。現実にはありふれた光景だけれども、物語では僕の見る限りあまり扱われたことのないテーマだ。きっと芸能界ではそれが日常茶飯事で、ビートたけしは一瞬の栄光を手にした後落ちぶれていく人々をたくさん見てきたのだろう。でもその視線は冷たく突き放すようなものではない。あらん限りの共感と同情をもってまあちゃんに寄り添っている。シンジは何も変わってはいない。まあちゃんに甘ったれていて、相変わらず主体性がないままだ。まあちゃんは変わった。成功をつかみかけたときの怖さを肌身に沁みて知った。成功と失敗の経験と実績は今後の糧になるはずだった。でも、何もかもを台無しにしてしまったから、きっと次のチャンスはもうまあちゃんには訪れない。

 作中でまあちゃん憧れのヤクザが「若いころはなんでもやってみるのがいい」と言う。一方、北野武はどこかでそんな発言は無責任だと言っていた。取り返しがつかないことだってあるのだ、と。まあちゃんは「終わって」いるのだろうか。学歴もなく頭も良くなく全身入れ墨でヤクザに破門され腕の腱を切られたまあちゃんは限りなく「終わっている」状態に近い。でもそうじゃない。何故ヒロシは事故で死んだか。取り返しのつかなくなった人を出すためだ。「本当に終わる」役割はヒロシだ。まあちゃんじゃない。また、僕はこの群像劇に無常観を見出している。いいときも悪いときも永遠には続かない。生きている限りは。そういう世界観がこの作品にはある。

 まとめよう。「(お前は)まだ始まってすらいない」というまあちゃんの空元気は、シンジを励まそうとするものだ。その実まあちゃんは心の中で自分自身に対して深い絶望感を持っている。人生をあきらめようとしている。そんなまあちゃんを北野武ははげまそうとしている。この作品全体に通底する世界観そのものを通して。そういう意味で、まあちゃんがこの作品世界の主人公であり、①希望でも②絶望でも③希望と絶望でもなく、この作品は④深い絶望を一度通したそれでも人生をあきらめないという希望というか、信念または生き方を描いたものなのだと思う。

(2019/12/16追記)

 僕にはどうもまあちゃん(ともしかしたらシンジ)がこの後、お笑いの道に進むのではないかという気がする。オープニングでかつてのクラスメイトが売れ始めている描写が主人公たちの登場よりも先に出てくることは単なる思い付きではないと思う。もともとの彼らはセンスがなかった。まあちゃんに大阪にでも勉強へ行けと馬鹿にされた。そして、それを愚直に実行する真摯さがあった。センスがなくても生まれた環境が恵まれなくても、頑張り続けていればいつか日の目を見る瞬間が芸人という仕事には(運が良ければ)ある(かもしれない)という思いが武にはあったのだと思う。

 知力も学歴もなく身体もダメになり、全身入れ墨で破門されたまあちゃんですらも、芸人の世界は受け入れてくれる。それすら強みにできるかもしれない。芸人を目指すにはまだまだ遅すぎる歳でもない。武は芸人という職業の懐の深さをきっと誇りに思っている。「本当にどうしようもなくなったら、芸人の世界においで。芸人はいいぞ」と武はまあちゃんを誘っているように励ましているように思った。

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