映画『ボヘミアン・ラプソディ』の弁証法的解釈 3度生まれたフレディ

映画ラストの『ボヘミアン・ラプソディ』を歌うシーンでほろほろと泣いた。フレディの人生は始まったばかりなのに、もう彼は長くはないのだ。はたと映画の序盤でフレディが「ハッピーバースデートゥーミー」と歌っていたことを思い出す。ザンジバルゾロアスター教徒の両親から生まれ、ファルナーク・バルサラとしてインドで育った過去はなく、18歳でロンドンでフレディ・マーキュリーとして彼は生まれたのだ、と。

フレディは3度生まれた。生物学的に両親から、クイーンのボーカルとして自ら、そして最後に「本当の家族」に囲まれながら、「本当の自分」として。この映画は楽曲『ボヘミアン・ラプソディ』の一つの解釈であり、同時にフレディが「本当の自分」になるまでの物語でもある。

そして、極めて弁証法的な展開をする映画でもあった。彼を取り巻く人々の変遷、その関係性の変遷が物語の肝である。それが弁証法的に展開していく。解釈に入る前に、まず作中の図式を整理したい。アドラーによると人生には3つの課題があるという。「仕事の課題」、「交友の課題」、「愛の課題」だ。作中でメイが「クイーンのメンバーは皆、はぐれものばかりで部屋の隅で膝を抱えて暮らす奴らの寄せ集めだ」と言っていた。事実彼らにメンバー以外の友達は出てこない。少なくともフレディには、音楽しかない。クイーンしかない。つまり、彼にとってクイーンのメンバーが仕事仲間であり、ほぼ唯一の友人でもある。すなわち、本作では「仕事の課題」と「交友の課題」は同じ問題として扱われる。次に、「愛の課題」はどうだろうか。一つにはパートナーの問題があり、もう一つには家族との問題がある。これら3つの問題(仕事と交友、パートナー、家族)はフレディが「本当の自分」に生まれ変わることにより統合され、高次に解決される。それをこれから見ていく。

まず、「仕事と交友の課題」について。クイーン結成からソロデビューまで、フレディはクイーンのメインであり、「ヒステリーの担当は僕だけでいい」と言い放つ立ち位置だった。仕事として友人関係としてフレディは他のメンバーより優位にあり、わがままを通してきた。そしてとうとう、ギャラや名義の果てしない調整に疲れ果て、ソロデビューを独断するに至る。「仕事と交友」の相手が単なる取り巻きに変わる。彼らはフレディを真に思うことはなく、正面からぶつかる能力も心意気もない。後述するジムとの出会いとメアリーの警告により、フレディは自分を取り戻す。そして、メンバーに謝罪する。友として仕事仲間としての真価を理解したとも伝える。ただの元鞘ではない。今度はメンバーとフレディとの関係は対等である。今後の作品名義は誰が作ろうとも「クイーン」であり、ギャラも均分になった。弁証法の正反合でいうならば、正=「ヒステリーの女王」としてのクイーン、反=取り巻きに囲まれたソロ活動、合=対等な関係としてのクイーン、となる。

次に、「愛の課題」のパートナーについて。当初フレディのパートナーはメアリーだった。しかし、次第にフレディは自分のセクシュアリティに気づいていく。そのきっかけを作ったのがポールだった。フレディはゲイの世界へと入っていく。いつも隣にはポールがいた。ポールが新しいパートナーになった。しかし、ポールはフレディを真に思うことはない。クイーンのメンバーやメアリーとの関係を断とうとする。それにフレディは気づかない。ポールとは肉体のつながりはあっても、真に通じ合ってはいないのだ。フレディは壊れていく。それを救ったのはメアリーだった。メアリーとは肉体での関係はもうなくなっても、心では通じ合っていた。フレディはポールとの関係を断つ。そしてジムのことを思い出す。毅然とフレディをはねのけたジムとは、本当のパートナーになれるかもしれない。ジムは言った。「本当の自分になれたときにまた会おう」。ここからフレディの再生が始まった。最後にはパートナーとなったジムを両親に紹介するまでになった。ここでも、正=メアリーとの精神のつながり、反=ポールとの肉体のつながり、合=ジムとの精神と肉体のつながり、という図式になる。通俗的には肉体ではなく精神のつながりが、いわゆる「プラトニック・ラブ」が、強調されるのに対し、精神のつながりをまず否定して肉体のつながりが置かれ、それすら超える点がこの作品の特色である。

最後に、「愛の課題」の家族について。フレディは生まれ育った家族を否認して、メアリーと家族を作ろうとし、クイーンのメンバーのことも家族と呼んだ。しかし、すでに上述したように、一度メアリーともメンバーとも関係は切れてしまう。弁証法での<正>は生まれの家族であり、<反>はメアリーとクイーンのメンバーである。そして、フレディの再生により<合>に行き着く。生まれの家族とメアリーとクイーンのメンバーに再び帰ってくる。しかし、決して元鞘ではない。さらにはそこにジムが加わる。これがフレディの「本当の家族」だ。「本当の家族」を見つけたとき、フレディは「本当の自分」に生まれ変わることが出来た。

この作品のテーマは「家族」と「アイデンティティ」である。フレディをフレディたらしめるのは、決して取り巻きではなく、ファンですらない。家族だ。家族が拡張され再定義される。それに伴い、フレディ自身も再定義される。まとめよう。まず①生まれの家族が象徴する伝統的規範がある。②それを否認しそれから逸脱し、クイーンとしてのフレディが生まれる。③逸脱は次第に加速し、破滅的享楽へ至る。最後に④伝統と逸脱は高次で統合され、家族と自己の再定義がなされる。即ち「本当の自分」に生まれ変わる。

本当の最後に、これはフレディの物語であってフレディの物語ではない。作中の重要ないくつかの点において、史実と異なるからだ。作品のテーマが「家族」と「アイデンティティ」であることと、本作の監督のセクシュアリティとは無関係ではないだろう。フレディの人生に仮託して語られた、監督の物語である。それは冒涜的なことかもしれない。あるいは、フレディという伝説は語られることによって解釈されることによって仮託されることによって再び生まれ変わったともいえるかもしれない。死後語られ解釈され仮託されて再度蘇ったキリストのように。「処女懐胎」したメアリーがどしゃぶりの中駆け付け、「父=子」であるフレディに再生のきっかけとなる言葉を告げるシーンは、何かキリスト教的な意味があるのだろうか。それは僕にはわからない。

ボヘミアン・ラプソディ (字幕版)

ボヘミアン・ラプソディ (字幕版)

  • 発売日: 2019/04/17
  • メディア: Prime Video