『君の名は。』の考察 日本神話(イザナギとイザナミ)を手掛かりに心中ものとして読み解く

 昨日初めて『君の名は。』を観た。この作品はハッピーエンドではない。ラストで二人が出会った場所はたぶん彼岸だった。そのように解釈したのは、二つの違和感からである。①みんなが助かり、二人が最後に出会えるという新海らしからぬご都合主義的展開。僕の知る限りの新海の作品は、理想に焦がれつつも現実には達成されない不可能性の周りをうろうろし、反芻するものだった。そのような過去の作品との落差がありすぎる。②何故瀧は御神体からタダで帰ってこれたのか。半身を置いていかねば帰れないはずの場所に瀧は行ったはずなのに、何故何も失わずに帰ってこれたのか。あるいは、瀧が何を捧げたのならそれは何か。

 ②について、瀧が失ったのは二人が持っていた記憶または二人が共有した過去であろう。作中でこれが失われ、再びよみがえるシーンが二度の国産みで暗示されている。一度目の国産みは火口で二人が出会うシーン。イザナギイザナミのように、二人でぐるりと円を描き最後に出会ったとき、それは完成される。すなわち、記憶または過去の喪失された世界線の誕生である。二度目の国産みはラストシーンで二人が出会うところ。ここでも二人は電車の中で互いに顔を見てから、大きな円を描いて後に出会っている。これにより再び世界線が生まれた。今回は二人の記憶が蘇った世界線である。ここまでならハッピーエンドで済む。しかし、そうはならない。

 瀧は御神体で口噛み酒を飲んでしまった。これは黄泉戸喫である。すなわち、イザナギは黄泉の国へ行き死んだイザナミを連れ戻そうとするが、イザナミはすでに黄泉の食べ物を食べてしまった。そのため黄泉の住人になりもうイザナミは帰れない。本作では瀧が口噛み酒を飲むという(新海の嗜好では甘美な)禁忌を犯すことにより、連れ戻そうとした瀧も黄泉の住人になった。

 そして、瀧は二度目の世界線の誕生で記憶を取り戻してしまった。大切なもの=記憶を捨てねば瀧は生きて帰ってこれなかったはずだ。御神体から帰ってきたその時から、その記憶と瀧の命の両立は不可能になっている。にもかかわらず瀧が記憶を取り戻したのは何故か。それは瀧がこの世の人間ではなくなってしまったからである。ラストシーンの世界線は何によって完成したか。二人が振り向いてしまったことによる。振り向くことは禁忌である。禁忌を犯した瀧は記憶を取り戻す。すなわち死ぬ。あるいはこの世界にいられなくなる。そうすることではじめて、二人は再び会うことが出来たのである。

 以上のように考えると、この作品はハッピーエンドというよりは心中ものと捉える方がしっくりくる。不可能性は彼岸へ行くことのみによって乗り越えられる。そのような意味で、巧妙に一般向けにはハッピーエンドと見せかけていい顔をしつつ、その実はいつもの悲恋で終わったと僕は考えている。二人はこの世で再び出会うことはなかった。そして、街の消滅もなくならなかった。または二人の犠牲なくしては街は守られなかった。なにもかも上手くいくご都合主義ではなかったのだ。

 

追記(2018 1/14):具体的にどう解釈したかは定かではないが、鈴木敏夫が『君の名は。』について、「『この世はいいところじゃないけれど、あの世へ行けば幸せになれる』。それをやった映画でしょ。」と発言していたらしい。この点、僕と同じような筋の解釈をしたのではないか、と思う。

君の名は。

君の名は。

  • 発売日: 2017/07/26
  • メディア: Prime Video