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役に立たなくて不快な人間はどこに行くのか? 中年童貞とかアメリカ大統領選とかの話

社会 エッセイ

 世の中には、役に立たなくて一緒にいるとそれだけで不愉快にさせられる人間というのが一定数いる。そういう人間は、今の社会では、要らない人間とされている。役に立たないけれど不愉快でない人間や、役に立つけれど不愉快な人間なら、何らかの形で誰かから必要とされることもある。しかし、そのどちらもない人間は、誰からも必要とされない。今の社会では、他人から必要とされなければ、存在価値はないのだ。もう少し具体的に価値について言うと、①役に立つ、②一緒にいて楽しいあるいは安らぐことが出来る、のどちらかの能力を指す。要するに、①生産能力と②対人能力のどちらかが必要ということである。

 きつい社会だと思う。おそらく昔は、こんなことはなかった。生きていくために否応なく助け合わなくてはなかった時代には、無条件に誰かから必要とされた。社会的なしがらみが強い代わりに、自身の価値についての不安は今ほど強くはなかった。あるいは、村落共同体が崩壊しても、その機能を代替する会社共同体が終身雇用・年功序列という形で健在であった頃は、まだそれほどきつくはなかったはずだ。役立たずも終身雇用で守られている間は、生活の金を稼いでくることが出来るという意味で、家族から必要とされた。その事実が家族を拘束したものであったにせよ。

  しかし、もう終身雇用制度はなくなりつつある(らしい)。会社も賢くなった。近年の就職活動での選考は、要するに役立たず、つまりはババを引かないことを最優先にしているように思われる。大人数で仕事をする組織では、構成員の能力の掛け算が全体のパフォーマンスとなる。すべての能力が1.1の人間が必要で、どれか一つが10でも一つでも0の入った人間はいらない。1.1の20乗が必要で、0が一つでも入れば結果は0なのである。これは至極もっともな判断だと思う。人物重視の大学入試もあるいはそういうことなのかもしれない。会社が求める人材をあらかじめ選りすぐっておく、というのは、大学の生き残りを考える上では、賢い選択と言える。もしそのような大学が増えるのならば、中学や高校でもやはり上のような人間を選りすぐっておくのが合理的な選択と言えるかもしれない。40人学級で、一人やっかいな生徒がいれば、その生徒一人のために10人分のリソースを割くのは、ロスでしかないという考え方もあり得る。それが教育の本義とは、かけ離れていようとも。

 こうして、あらゆる組織や集団から、ある特定の人種は排斥される。それは、個々の組織や集団にとっては、最適な選択である。要らない人間はいらない。それどころか彼らは、役に立たないだけはなくて、著しく足を引っ張るのだから。だけれども、そんな人間たちはいったい何処へ行くのだろう。彼らは幽霊ではないのだから、どこかに居場所が必要だ。一つには、創価学会がその受け皿だった(創価学会と会社―戦後日本の都市にあらわれた「二つのムラ」―|タサヤマ|note)。村落共同体から離脱して、都市に出てきた若者たちは、会社共同体に所属し、そこから零れ落ちた者たちは、宗教共同体に拾われた。

 しかし、今の社会下では、宗教共同体はしばらくはその機能を十分に果たすことが出来ないかもしれない。オウムのトラウマがあるからだ。思えばオウムは、排斥された人々の、社会に対する復讐ではないのか。排斥された人々は単に追い出されるだけではなくて、いつか組織を作り、いつか社会に復讐をする。極端な政治思想も、そのような人々を吸収して成長する。正当な評価をフェアに下した結果、役に立たずPCでない人間であると判断され、ぐうの音も出ない人々。アメリカ大統領選では、そういう人々のどす黒い感情が顕在化したものだったと思う。

 社会が壊れないようにするには、どのようにすればよいのだろうか。彼らを価値ある存在にするには、どのようにすればよいのか。創価学会では、無能な人間でも役に立たせるノウハウを持っていた。賑やかし要員や票田、あるいは誰にでもできる雑用などである。つまりは、役に立たない人間を金や価値に換えるシステムが必要なのである。これは、露悪的な言い方をすればゴミの山を黄金に変える魔法である。そして実は、そのような業は、珍しいものでなく、ありふれたものである。ある種の人材派遣、宗教、暴力団などの犯罪組織、夜職などなど無数に挙げられる。ここでも、「正しさ」は、これらの存在を許さない。また同じ問いに戻る。それでは、彼らはどこに行けばよいのか。僕にはわからない。

 少し話は逸れるが、ベーシックインカムはこのような問題を、半分劇的に解決し、半分劇的に悪化させるだろう。すなわち、経済面での問題は劇的に解決する。しかし、実存としての問題は、さらに悪化させることになるだろう。というのは、ベーシックインカムによって、雇用はさらに流動化し、生活のために雇用を守る必要性は完全に失われるからだ。そのような社会では、本当に価値を生む人間以外は、一切雇われることがない。職場は金銭を発生させる場所であるとともに、その人間の実存を守る場所でもあったが、後者を職場に頼っていた人々は、すべて放逐される。ボランティアやプライベートな人間関係により、その穴を埋めることが可能なソーシャル強者は、一握りだろう。そのような意味で、一層きつい世の中になるだろう。

 最後に、今のような社会は、近代になって始まったわけではないことを、過去の事例を用いて指摘し、そして過去の事例との比較から近代特有の問題を摘示して終わりたい。古代ローマにおいて、エジプトが属州となった後の時代のことである。それまでのローマでは、イタリア半島にいた無数の中小自営農民が社会の中核であった。彼らが自身の財産でもって武装し、戦うことで国は保たれていた。しかし、エジプトが属州となると、そこから大量の安価な食料が流入した。結果、中小自営農民は破産し、土地を失い、無産市民に没落していった。彼らにはもはや市場価値を提供する能力はないのだから、当然の結果である。だからと言って放っておくと、彼らは暴れて国家が乱れるので、ここで有名なパンとサーカスが提供される。エジプトを支配することでたんまり貯まった、貴族たちのポケットマネーで。こうして、社会は安定を保つことに成功した。だが、この方法は今の社会では参考に出来ない部分がある。サーカスに当たる闘技場では、奴隷たちが戦う前に、余興が行われた。無産市民たちの席に、貴族たちの召使が、大きなパンを投げ込むのである。そのパンを彼らが必死になって取り合うのを見世物とし、前座としたのだ。こうして、無産市民たちは、パンとサーカスを見るに値する代償を生み出し、支払ったのである。

 しかし、今のわれわれの社会には、個人としての尊厳、つまりは人権という概念がある。あるいは、無理やりにでも存在価値を生み出すような強力な機構やしがらみが存在しない。そのような存在たちを許すことが出来ない。こう言い換えてもいい。かつての神の位置にある人権概念が、今日の強制力を持ったしがらみとなっているのだが、そろそろそのしがらみは現実の状態を抑え込むことが困難になってきた。このことは、難民を保護すべきであるにも関わらず、難民を無条件に受け入れることが出来ないジレンマとも同じ構造である。宗教のような国家を超越する強力なしがらみが存在すれば、受け入れざるを得ない。また、尊厳や人権を重視しないなら、保護すべきであるとは誰も考えはしない。たとえゲットーの誹りを受けようとも、一時的に難民を特定の島に閉じ込める代わりに保護をする、というような妥協案が模索されている。これに対しても反発は強い。しかし、誰も上手な折り合い方を見つけられないでいる。

 一つだけ、ヒントはある。結論から言うと、ソシャゲは現代のパンとサーカスである。ソシャゲは少数の課金者と大多数の非課金者からなる。そして、課金者の課金によってのみソシャゲは運営が可能となるわけだが、課金者は非課金者に対する優越を理由として課金を行う。非課金者は賑やかし要因であり、パンを追う無産市民なのである。これは、尊厳を(一見すると)傷つけない、より洗練されたパンとサーカスだ。具体的技術としては、かつてのパンとサーカスと異なり、貴族と無産市民は顔を合わせない。そのため、露骨な搾取・被搾取の関係が隠蔽される。現実感がないのだ。ソシャゲに限らず、無料で使用できるサービスには、このような仕掛けがたくさんあるのだろう。もちろん、それらはまた別の意味・形での問題を孕んでいる。