何故「いつも何度でも」はどことなく怖いのか

 ジブリアニメの千と千尋の神隠しの主題歌、いつも何度でもはどことなく怖い。おそらく多くの人がそのように感じているのではないかと思う。本編の内容自体もまた、少し距離を置いて考えると、表層のファンタジックな世界のほんの少し内側には、おどろおどろしい暴力や残忍さが見え隠れする(気がする)。

といって、僕はこの歌の歌詞が本編の作品内容のイメージに引きずられた結果、何か怖いと感じられるようになったとは思っていない。この歌の歌詞の中に、そのように感じさせる部分があるから、怖く感じるのだ。昔にそれが具体的にどこの部分であるのか、決定的な部分を発見したことがあるので、それについて書こうと思う。

とりあえず歌詞は以下の通り。

いつも何度でも 木村弓 - 歌詞タイム

歌詞の「かなしみは数えきれないけれど」や「繰り返すあやまち」、「さよなら」、「死んでいく不思議」、「かなしみ」などといった、漠然とした負のイメージがちりばめられている点が怖いと感じさせると言いたいわけではない。

もちろんこれらの歌詞が響きあって、ある特定の不安にさせる雰囲気を作り出していることは事実である。その中では、「繰り返すあやまちのそのたびひとはただ青い空の青さを知る」が特筆に値する。ここの部分は、人間の愚かな行いによって、すべてが焦土や瓦礫と化した様を表現しているように見える。そして、ただただ茫然と空を仰ぎ見て、人間の本質的な愚かさと青空が象徴する自然だけが、いつの時代も変わらず存在すると感じている様を表現しているように見える。

ここでは、人間存在の強烈な暴力性が暗示されている。しかし、まだ暗示にとどまる。まだふわふわとしていて、決定的ではない。決定的に描かれている部分が他にあるのだ。質的に他の部分と決定的に異なるのは、以下の歌詞である。

「こなごなに砕かれた鏡の上にも新しい景色が映される」

虚心坦懐にこの部分の歌詞を読み返したとき、ぞっとした。僕はここで、この歌詞の作者は、この歌の中に、意図的に破壊的な内容を織り込んだことを確信した。どういうことだろうか。ポイントは二つある。

まず、「砕かれた鏡」という表現が妙だ。「割れた鏡」と書いても良いはずなのに、「砕かれた」とある。この二つの違いは、意思の有無である。「割れた」は自ずから割れたのかもしれないし、誰かが誤って割ってしまったのかもしれない。しかし、「砕かれた」は明らかな意図をもって鏡は割られたことが意味される。

このような割れ物が割れる場面では、ルバイヤートの一節が思い出される。

「昨夜酔うての仕業だったが、石の面に素焼の壺を投げつけた。壺は無言の言葉で言った――お前もそんなにされるのだ!」

ここでは、酔った人間が気紛れに壺をたたきつけたわけだが、おそらくはその壺が割れるときのするどい音にふと我に返ったのだろう。壺の悲鳴あるいは抗議の声ならぬ声により、壺と自身との関係が、自身とそれよりも強大な何か(権力者だったり神だったり)と同じであることを、雷に打たれたように悟る。しかし、割れた壺はもう元には戻らない。そのような歌だと思う。

バイヤートでは、壺が割れたときの音で自身の行為の恐ろしさに気が付き、手を止める。しかし、本作の歌詞では、そのようにはなっていない。

第二のポイントは、「こなごなに砕かれた」の部分である。鏡は「割られた」のではなく、「砕かれた」。それも、「こなごなに」である。割られたあともその行為は中止されることなく、執拗にこなごなにされる。鏡をこなごなにする動作を想像してみてほしい。また、何故わざわざそのような行為をするのかについても、想像してみてほしい。酔って気紛れに、ではないのだ。憎しみと言っても良い強烈で攻撃的な感情に駆られていない限りは、そのような行動をするとは考えがたい。想像するだに背筋が寒くなる。

次に、その行為の憎しみの対象について考えてみたい。鏡とはすぐれて象徴的なモチーフである。鏡とは、我々であって我々でないものである。行為者は自身を攻撃するとともに、自身の虚像を攻撃しているとも言える。色々な解釈がありそうだが、深く立ち入らず、素直に解釈しよう。人間(行為者)が人間(自身あるいは他の人間)を攻撃している、と。

一般に、他者へ向けたすべての攻撃は、自己破壊的な側面を持つ。巡り巡って自分に返ってくる、というだけの話ではない。たとえ他人を傷つけたとしても、拳は痛むし、他人を傷つけたという事実それ自体が自らを苛む。ただ、それが遅いか早いかである。ルバイヤートの作者であるオマル・ハイーヤムほどの賢人なら、作中にあるように即座にその愚かさを悟る。しかし、愚行を避けることは出来ない。まして凡人においては、愚行がその最中に自覚され、中止されることはない。執拗に継続され、すべてがぐちゃぐちゃになったあとになって、ようやくその意味を理解するのである。しかし、愚行を愚行であったと理解する能力がある、という点のみにおいて、希望は残されている。だから、「粉々に砕かれた鏡の上にも新しい景色は映される」のだ。

徹底した破壊という厳然たる現実と、そこからのみ可能なかすかな再生の希望、というテーマは、ジブリアニメに通底したものである。

もののけ姫では、人間を寄せ付けない原生林とそこに暮らす神々への崇敬の念が、徹底的に破壊された。最後にはコダマだけが一匹残り、申し訳程度の自然が蘇る。人間の手の入った里山の誕生である。となりのトトロにおける里山では、荒ぶる神はすっかり忘れ去られている。そこでは人間に都合の良い「優しい」神(?)と自然と人間の調和が描かれている。しかし、そこでの牧歌的な世界もまた、平成狸合戦ぽんぽこでは、破壊し尽くされる。かつて神性を持った獣は、もはや狸という子供騙しをする妖怪に類するものにまで成り下がった。そこには希望はほとんどない。ただ、絶滅はせず生き残ることが出来た。生きている限りは再起の可能性が残っている。この点、ナウシカの状況に良く似ている。明日「の」我が身である。そして人間は里山を切り拓き、その上にコンクリートを流し込み、郊外を生み出した。コンクリートロードだ。耳をすませばの世界だ。人間たちは、その破壊に痛みを感じることなく、狭い私的世界での人生に一喜一憂している。結構元気にやっているのである。しかし、ここにおいては、ファンタジーの源泉はもう、自然にはない。本の中にある。雫の頭の中にある。

こうして、かつての世界は破壊し尽くされ忘れ去られた。それでも新しく立ち起こってくる世界がある。それは希望でもあり絶望でもある。『いつも何度でも』も、この一貫したテーマの中に位置付けられることがわかる。