まどマギとヴェーバー 奇跡の日常性について

まどマギの感想については、小飼弾さんの『404 Blog Not Found:奇跡も、魔法も、あるんだよ - 作品評 - 魔法少女まどか☆マギカ』で、もう言うべきことはすべて言い尽くされていると感じていたため、何も今まで書いたり話したりしようとは思っていなかった。第一に、この世界には「魔」も「法」も存在するということ、そしてそれは何か。第二に、まどかのセリフ、「希望を抱くのが間違いだなんて言われたら、私、そんなのは違うって、何度でもそう言い返せます」。これが伝えたいがために、全十二話があるのだということ。第三に、救われることはないかもしれないけれど、報われることはあるし、報いることは出来る、ということ。

しかし、最近になって、付け加えることくらいはあるとふと気づいた。言いたいことはただ一点に尽きる。「キュゥべえはまどかの起こした『奇跡』を知らない、あるいは覚えていない。そして、そのことは物語全体の意味と大きく関わる」ということである。

キュゥべえは一貫して、この物語世界の法則を教えてくれる存在だった。視聴者や魔法少女たちと比較して、彼は圧倒的にこの世界について多くを知っているため、この世界の法則の全てを知っているのだ、と誤解してしまいがちである。しかし、彼がまどかの起こした『奇跡』を知らないということは、この世界の法則の最も重要な法則を知らないということである。それは、世界は変わるということ、そして、世界の変え方である。このことを、キュゥべえは知らない。

まどかが一度あの世界の法則を書き換える『奇跡』を起こしたということは、過去や未来においても、どこかの誰かが、奇跡を起こしているかもしれないということを意味する。ゴキブリを一匹見れば五十匹いると思え、というアレである。では、どの程度の頻度において、その奇跡は起きていると考えられるだろうか。

もしキュゥべえがまどかの『奇跡』を覚えているのなら、この世界はめったに変わらないということを意味する。なぜなら、まどかの『奇跡』は、本当にこれまでもこれからも、まず起こりえない事柄であることを意味するからだ。だからキュゥべえは、あの『奇跡』を驚いていた。

しかし、キュゥべえはまどかの『奇跡』を覚えていない。このことは、『奇跡』はそもそも奇跡ではないかもしれないこと、日常的に起きている事柄かもしれないことを意味する。どういうことだろうか。以下長い道のりになるが、そのことについての解釈を行いたい。まず、そのヒントとして、作品の最後に書かれていたメッセージがある。

Don't forget. Always, somewhere, someone is fighting for you. As long as you remember her, you're not alone.

この文における「彼女」と「あなた」は、まどかとほむらという具体的関係で解釈すべきでない。この二人の関係に仮託されているのは、すべての人々と僕たちのつながりである。補助線として、もう一つの言葉を引くことにしたい。予備校講師の表三郎による言葉である。

人間社会がこれまで成し遂げてきたすべての成果は、誰かが、ある日、ある時、どこかで、夢見たものである。

 どこかの誰かが何かの病気を治したいと思いそれを実現したからこの薬がある。どこかの誰かが何かの理不尽に対し戦ったからこの権利がある。このような例は無数にある。先人たちの献身を受け継ぎ、僕たちは後世に何かを残す義務がある。先人からいまだ叶わぬ見果てぬ夢を受け継いだとき、それが後世の人々に受け継がれるとき、僕たちはたとえここではたった一人だとしても、一人ではないと確信できる。

ここで特に重要なのは、社会運動のような例である。社会運動において、よく言われることがある。そんな運動をする必要はない。放って置いてもそのうち差別はなくなる、という類のものだ。奴隷解放宣言から公民権運動までおよそ100年がかかり、かついまだに黒人差別は根強いことから、運動がない限り差別はなくならない、社会は変わらない、と僕は考える。しかし、難しいのは、「その運動によってこの差別がなくなった」という因果関係が必ずしも明確でないことである。「そんな大変な思いをしなくたって、××年後には○○の差別はなくなっている」「だからコミットする必要なんてない」このように言われたとき、僕たちは言葉を失ってしまう。はっきり言えば、特定の意識を集団が持つことにより生じる因果関係を証明することは不可能である。なぜなら、僕たちは二つの世界を同時に生きることができないからだ。つまり、同じ条件を作り出して対照実験をするような、自然科学的な厳密な因果関係の証明は不可能であるということである。

現実の世界におけるこのような因果関係の証明が困難であるという問題に対して、なんとか証明を試みようとしたのが、ヴェーバーだった。彼は特定の社会集団を切り取り、比較し、不十分ながらもなんとか対照実験に近づけることで、その問題を解こうとした。具体的には、物質的条件が同じでも、プロテスタントの集団のみが資本主義を切り開くことができた、ということを示した。それは、生産関係などの物質的条件のみによって社会が変化すると主張したマルクスに対抗しようとしたものである。

物質的条件のみによって世界が変わるわけではないこと。見えないものは存在しないというわけではないこと。わかりやすい因果関係とわかりにくい因果関係があるということ。ヴェーバーによって明らかにされたこれらの事柄を、まどマギはもう一つの方法によって示そうとした。そう僕は考える。それは、物語という装置によって。すなわち、物語的想像力によるシミュレーションによって。その証明の正しさは、ヴェーバーの場合は方法論的手続きの正しさ厳密さによって担保されるのに対し、まどマギの場合はストーリーの確からしさ、必然性、自然さによって担保される。実感として、ご都合主義の匂いがしないとき、その物語の示したかったことの正しさは、担保される。

一見すると、作中の『奇跡』は、まどかによって起こされたように思われる。しかし、その『奇跡』は、ほむらがなした先の見えない積み立てによってなされたことを忘れてはならない。僕はここで、ウルトラマンティガTake me higherという曲の歌詞の一節を思い出す。

争いごとのない 明日を探してる誰もが 待ち望んでる 僕らが出来ることを続けてゆくよ優しくなれればいい絶やさずいたい

 ここでようやく、副題の「奇跡の日常性について」の意味がはっきりする。僕たちの日常におけるさまざまな選択や行動が、不断に、少しずつ、世界を変え続けている。そして僕たちは、自分たちの振る舞いの帰結を、知ることができない。これは良い帰結だけとは限らない。たとえばオゾン層の破壊は、地球の温暖化は、どこまで僕たちの行動によるものなのか、厳密には計量しがたい。僕たちは、因果関係が明確にはわからない種の事柄については、ただただ信じ、ただただ続けていくことしかできない。これは、祈ることであり、信じることであり、つまるところ"faith"である。ここでの"faith"とは、原因帰属が不明であるにもかかわらず、特定のスタンスを一貫して取り続けることである。

 今日のわれわれにとって、このことは容易ではない。実は、容易ではなくなってしまったのだ。科学の未発達だったかつてにおいては、この世界の現象の原因帰属の大半は、不明であった。ほんの2,300年前までは、欧米ですらも、馬の糞や腐った肉や脂が病気を治すと考えられていた。このようなときには、報われないとしても信じ続けること、一貫して行動を続けることは、さほど難しくない。それしか方法がないからだ。それが当たり前であり、日常であるからだ。しかし、科学の発展によって因果関係を明確にし、運命を自身の手にしようとしてきた結果、多くの原因帰属が可能になった。そのようなとき、僕たちは、かつてのような粘り強い"faith"を持ち続けるのは困難になる。実現の見込みのない、どのように転ぶかわからない事柄に対して、割に合わないと考える人が多くなる。

このような社会状況で思い起こされるのは、第一に、頑健な信仰や信念を依然として持ち続けている宗教勢力や政治勢力の強さである。社会を変えるために必要なのは、数であるとは限らないことを、彼らは良く知っている。ぶれることなく一貫して続けることが、山を動かすこともあることを彼らは知っている。むしろ、社会の大半の人々が状況によってくるくると態度を変えるようになればなるほど、けっしてぶれないことの意味が重くなってくる。影響力が強まってくる。

第二に、因果関係が明白である領域が増したといっても、いまだ明白でない領域は多く存在するということである。われわれは、ときにこの事実に耐えられない。原因帰属が不明な事柄に、つまりは複雑な因果が絡み合う領域に、簡単なストーリーを当てはめ、無理やりに理解しようとしたり、改革をしようとしたりする。多くの場合、その結果は惨憺たるものになる。教育などが良い例である。ある特定の教育がそれを受けた者にどのように影響するか。それは、多くの場合計りがたい。試験に合格したか、成績が向上したか、のような明確に計りうる指標は存在するけれども、それだけが教育の目的だということにはならない。10年、20年経ってようやく実を結ぶ教育効果、本人ですらも気づいていない教育効果、というものもあるのだ。

運命を自分のものにしたい。そのため原因帰属を明確につかみたい。これは人間の本質に根ざした欲望である。その点は否定できない。しかし、事実としていまだに原因帰属が不明な事柄が存在すること、そのような事柄に対しては安易な原因帰属をしてはならないこと。そして、そのような場合、信じるしかないこと。このようなことを忘れてはならないと思う。

 まとめよう。作中での「まどかの起こした『奇跡』」に仮託されている事柄は二つに要約される。第一に、『奇跡』すなわち世界を書き換える営みは、日常的に絶えず起きているということ。そして、第二に、その『奇跡』は、まどかのみによってなされているのではなく、われわれが常に行ってきていることであること。キュゥべえは、冷厳なリアリストとして描かれているように見える。しかし、その実は、本当のリアリストではない。真のリアリストとは、この世界が変わりうるということですらも念頭に置いている者、つまりは原因帰属が明確でない事柄の存在を理解しそれに対する対処法を知っている者のことである。

 最後に、原因帰属が全て明白になった社会はありえるか、あるいは、そのような社会はどのような社会かという問題が生じてきた。これについては、またいつか考えてみたい。